No.72「夜斗の一日:前編」
怒涛の日勤明けの微睡みから目を覚ました黒髪の少年は、起きてまずは時計に目を向ける。
デジタル時計には05:24と表示されていた。二度寝しようと布団に顔をうずめるが、二度寝を受け付けない彼の性質上、それはかなわなかった。
「…………チッ」
寝る事は諦め、着替えてから別室の他の五人を起こさないよう細心の注意を払いながらリビングへと向かう。
いくら早起きだとしても、隊のメンバーはやはり誰も起きてはいない。万が一起きていたとしても、自室で六時くらいまでは何かしらで時間を潰すだろう。
しかし夜斗はそうしなかった。理由が無いわけではないが、なんとなくで片付けてしまえばそれで収まってしまう些細な理由からだ。
今日は十二月二十三日。現代では馴染み深くなった言葉、『リア充』。明日はそんな人種にとっては特にビッグイベントでもある、クリスマスイヴだ。
イヴイヴである今日から浮ついた雰囲気を醸し出している人と、殺気立っている人々が、日常を過ごす人に混じり今日と明日限定で街中を闊歩している事だろう。
前者にとって理由を尋ねるのは些かナンセンスであり、後者に尋ねるのは些か酷である。
年頃な彼も気にするイベントであり、更に好意を抱く異性がいるとなれば尚更関心をひく。しかしそれを表立って誰かに知らせようとは思わない。むしろ誰にも気づいてほしくはない。
だからだろうか。至極自然に日常通りの行動をとる。
そんな彼が手にしたのは、タブレットよりも薄いガラス板のような物だ。右下に取り付けられたステンレス製のボタンに触れると、朝五時に配信されたばかりの電子ニュースペーパーが映し出される。
これは隊部屋毎に一つずつ支給されているもので、通信情報専門部の報道課が毎日朝と夕方に配信するものだ。その内容は世間に出回るニュースに加え、組織色が強い人外系の記事も多い。
どこでどのような人外が出没したのか。人外が起こした事件内容やその顛末。
ここまでは、犯罪者と置き換えてみればまだ一般的と呼べるかもしれない。組織での動きや、オープンした施設の宣伝も一般的な物と置き換えると常識の範囲内だ。
けれども逸脱しているものもある。
これは退魔師としての常識であり、一般には通じない。
戦いにおいて役立ちそうな知識や小技。倫理的にどうなのかと最近議論されていたが、人外を面白おかしく説明した記事もある。その他にも隊員インタビューも載っていた。総合して人気を博している記事はこちらの方だ。
そして目を瞑りたくなるのは、追悼文が書かれていたり、殉職者の顔写真や名前、年齢や所属が書かれているページだ。
大きな任務があった後にはどうしてもそのスペースが大きくなる。二ページに及ぶ事もあるそれには、外国人のものも並んでいた。
行方不明者もここに載っている。
重い気持ちになりかけて朝刊の一ページ目に戻る。ネーミングセンスの無い開発者の針裏が、安直に『ガラスペーパー』と名付けた端末を所定の位置に置こうとするが、疑問符が自然と浮かぶ見出しがあった。
「幸運のケセランパサラン……?」
聞きなれない横文字をロボットのようなイントネーションで読み上げながら、その記事を拡大する。
文字よりも先に写真から情報を得ようとするのは、なるべく朝の低血圧時の頭痛を悪化させたくないからだ。
だが、そこにあるのは瓶の中に入った白い綿毛のようなものだけ。全く要領を得ない写真から視線を移し説明書きを読むと、『↑上、ケセランパサラン』としか記されていなかった。
「……いや、これがケセランパサランだってのは分かったよ」
仕方がなく渋々文を読み始める。この白いフワフワの物体は一体なんなのか。その疑問には律儀にも一行目に乗っていた。
「んあーと、江戸時代から幸せを運ぶと謂れている、小さな妖力を持つ妖怪……? 未確認生物としても扱われており、その正体は動物性、鉱物生、植物性の三種類があるとされている」
一番に抱いた感想はといえば、「全く分からん」という全然疑問符が晴れないものだった。こうなっては読み進めるしかない。
「動物の毛であったり、アザミの綿毛や雪虫だと言われている。一般的に発見されるものもアザミのものだ。しかし、時たま見つかるどれにも属さない物体が発見される。その存在は定かではないが、本当にケセランパサランという生物はいるのかもしれない」
読み終えてしばらく沈黙する。
「…………なんだこの意味深な最後。どうせ都市伝説だろ。アザミのは見た事あるけど」
とは口に出したものの、考えを改める。
――今までありえない事だらけだったよな。天邪鬼だの大蛤だのサトリだの鬼だのキメラだのドッペルゲンガーだの雪女だのなんだのってよ。
「霊でさえちょっと前までは半信半疑で、完璧フィクション上の生き物だと思ってたんだぞ。それをすんなり受け入れてきたじゃねぇか。まあそりゃそうだろ。制御装置つけてるせいで見えてんだからな。いやそうなんだけど!」
ケセランパサランとの違いはなんなのだろうかと頭を悩ませる。
「今更ながら思い返せば、俺結構ピュアに無条件で信じてね!? なのになんだってこれは嘘臭く感じるんだ。……やっぱ見てないからか?」
自分の目で見た事しか信じない現実主義な夜斗は、どうもこのケセランパサランを受け入れる事ができなかった。
阿呆らしいやとガラスペーパーをテレビ台の上へ起き、そのままリモコンを取って電源をつけた。
その間にソファに深く腰掛け、テレビの真正面を陣取る。普段からこの位置が空いていれば躊躇なく座るのだが、誰もいないリビングというのは新鮮だった。
自室ができてからは各々が個々の部屋にこもるかと思っていたのだが、案外そうでもない。むしろ積極的にリビングに出てくるし、佐久兎に限っては以前からひきもり気質である。それが少し和らいだくらいで、その他はなんら変わりが無いように見えた。
けれど、それは違った。見落としている事がある。
それは、夜斗の時間の活用法が変わった事だ。
基地から寮に帰ってきてからの、勉強に費やす時間が減ったのだ。
だからこそそう感じているだけで、佐久兎がリビングにいる時間が長いのではなく、自分がリビングにいる時間及び彼との滞在時間が被っているに他ならない。その事に気がつき、自分が怠けていた事を悔いた。
「ただでさえ任務で授業出れてねえのに……」
欠課日数で留年する事は特別処置としてないが、最低限の成績が取れなければまんまと留年してしまう。
そんな事になれば組織の一員としても格好がつかないし、仕事という悪魔の甘い囁きで学生の本分を疎かにしていい理由にはならない。
すぐさま自室に戻り、白い紙にマジックペンを走らせる。そして画鋲で壁に貼り付けた。
『成績落ちたら、死ぬ』とだけ書かれている。眠気に日本語が難解になるが、死ぬ気で勉強しろという意味だ。けれども、これではさながら自殺予告のようだ。誰にも見られる事はないだろうと高を括り、自分だけが意味を理解できればいいと思い修正もしなかった。
そしてそれからすぐに教科書を開き、勉強に取り掛かった。
*
「もう午後なのに起きないね〜。夜斗ってば生きてるのかな?」
「昨日の任務は霊が多かったから、疲れてても仕方ないだろー」
「まあだったらいいんだけどさ、生活リズムの狂いはこういう些細なものがきっかけなのよ……! このまま夜斗ちゃんが昼夜逆転なんて事になったら、お母さんってばどうしましょう!」
「アル……よくそんな元気あるよな……。泥のように眠ってるんだよ、きっと。それか泥になって床汚してるかさ」
「泥のように眠っても泥にはならないよ、信太」
面倒くさいテンションのアルを前に、同じくハードな任務が明けたばかりの信太は珍しく白目を剥き気味でクッションを抱いていた。そのまま横に倒れ、冷静に突っ込む佐久兎の膝に寝転がる。
「えー、ティア見てきてよぉ。お母さんったら腰痛みたいで動けないのぉ」
それを聞きつけた愛花がすかさずアルの腰にチョップをかます。悲鳴を上げてから態勢を固め、激痛に耐えた。
「あんたねぇ、いくらなんでも病み上がりのティアに行かせる事ないじゃない! どうせなら腰骨折ってあげるわよ。そうすれば手で這いやすくなるでしょ」
「そ、それは、どういう根拠で這いやすくなるって言ってるんだろうなぁ……?」
顔を引きつらせ、恐怖半分、もう半分は好奇心で尋ねてみる。しかし返ってきた答えはその予想を遥かに超える物だった。
「下半身が重みになるなら切断しようと思って」
「いやぁあぁあああっ、腰痛は時間が経てば治るものだから! 不治の病じゃないから! そんな事したら絶対一生涯こんな身よりもないボクは苦労するから! やっと一人で食べていける職を見つけたのにぃ!」
冗談よ、と付け加える愛花の横でティアがすくっと立ち上がる。
「あはは、元気だね。それじゃあ私はいってきます!」
「あんたは病み上がりでしょうがぁああっ! 傷口開いたらどうすんのよ!」
「あはは、大丈夫だよ! 歩いたり走ったりいろいろもうしてるし!」
「なんですってぇ!? まだ走っちゃ駄目なんじゃないの!」
「大丈夫大丈夫、皆は任務で疲れてるでしょ? 私はお留守番してたから元気だしさ!」
返事をしながらリビングを出て行き、夜斗の部屋へと向かう。扉をノックするが返事はない。もう一度戸を叩くが、やはり応答はなかった。
「夜斗、入るよー?」
心配になり声をかけ、扉を静かに開ける。彼は机に突っ伏しているが、既に着替えていて勉強をしていた形跡がある。寝かせておこうと思ったのだが、今日は特に冷える日だ。風邪をひかないようにと、自分のカーディガンを脱いで夜斗の肩にかけた。
「お疲れ様……」
言葉を残して部屋を後にしようとするが、彼に背を向けた途端に腕を掴まれた。
驚いて振り返ると、机に頭を預けたままこちらを向いた夜斗が寝ぼけ眼をこすり、ぼうっとしている。
「ティア……?」
いつもの険しい顔ではなく、面影は残しながらもどこか無防備で甘ったるい。幼い子供のような表情に、天を見ているようだった。思わず破顔してしまう。
「ん……何笑ってんの?」
やっと体を起こした彼は、まだまだ眠そうだった。なんでもないよと伝えると、更に怪訝そうな顔をする。
「あ、そうそう。もう午後だよ」
「な……は、はぁ!?」
絶句した後にスマホで時間を確認すると、確かに十三時を過ぎている。やってしまったと落胆し溜息を吐き出すと、彼女は対照的に息を吸った。
「溜息つくと幸せが逃げるんだよ。なのでいただきました!」
「返せ」
胸を張って言うティアの両頬を、親指と人差し指を使ってつねる。
「ふぁっふぁっふぁ! 返ひまふぇーん」
夜斗のせいで口が満足に動かせず、喋りづらそうにするティアに思わず吹き出してしまう。
「ふら! なんれふぁらうの!」
「ははっ、何言ってっか分かんねぇ!」
やっと手を離すと、ティアがハリセンボンのように頬を膨らませた。
「夜斗のせいです!」
「悪りぃ悪りぃ。……あ、そうだ。今日予定があったんだった。行ってくるわ」
「いってらっしゃい息抜きしてらっしゃい!」
「おう。これ、さんきゅな」
カーディガンを自分の肩から彼女の肩へかけ、途中、ポケットへ財布やスマホをしまった。
出入り口付近のクローゼットから黒色のダッフルコートをかっさらい、羽織った。ティアは彼の背中に手を振りながら見送る。静かにパタンとドアが閉まってから、買ってきたマフラーを思い出す。コートにもやはり似合いそうだが、問題は彼の気持ちだなと思いながら、ティアは今まで彼が座っていた椅子に腰を下ろした。
「ん?」
目線の少し上に白いものが目に入った。
「『成績落ちたら、死ぬ』……!? な、なにこれ、自殺企図……? あ、ああ、死ぬ気で勉強しろ的なやつかな。かなぁ!?」
ティアの心配を、夜斗は知る由もなかった。




