No.70「四ノ宮の死後、針裏のその後」
「おい卜部、いつまでサボってるんだ」
その声に舌打ちをし仮眠室のベッドから起き上がると、更に人外対策局研究所の所長の怒号が響く。
「聞こえてるぞ! 早く来い」
中村所長が部屋から出て行き扉が閉まった時、悪口をこれでもかというくらいつらつらと吐き出した。
「地獄耳。クソジジイ。ガリガリギョロ目。無能な年食い野郎。頭ん中も制御装置の部品詰まってんじゃないんスかねぇ。それも、錆びだらけの」
徹夜続きだったために体がひどく怠い。頭痛に耐えながらしわくちゃになった白衣を伸ばし、裸足のままスリッパを履いた。入浴を何日怠っているのかも気にせず、伸びたヒゲを指の先で弄び仮眠室を出た。
「あーあ。無能な上司を持つとたーいへん」
角を曲がったところで、その無能な上司に出くわす。
「…………ゲ」
「無能な上司とは、誰の事だ」
「まさか待っててくださるなんて夢にも思ってなかったもんで、つい」
「減らず口叩く前に手を動かせ」
「手を動かす必要性を感じないんスよ。何度も言ってるけど、人外を相手にするのに人間の常識だけでどうにかなるとは思えない」
中村へと向ける視線が厳しくなる。針裏の表情はいつもと変わった様子は見せないが、口調には真剣さという険を帯びた。
「武器だって常に持ち歩くのは重いだけだ。戦う時だって普段着のままやスーツは動きづらい。制御装置に武器や服を戦闘体生成と同じ要領で入れる事ができるはずです。どんなに難しくても、できないはずはない」
聞く耳を持たずに背中を向け去って行く中村の肩を掴み、勢いよく振り向かせる。
「僕を制御装置開発に携わらせてください! 必ず結果を残してみせます。通信機能やGPS、様々な機能をつける事で利便性が増し、複数の端末の持ち歩きを無くす事で退魔師の負担が軽減します。素材を一度見直す事で強度を上げ、軽量化を図る事もできるはずです。今のままでは死亡率七〇パーセントを切る事は絶対にできません」
以前の針裏を知っていれば、今の彼は真反対の姿勢だった。頑なな態度に、しかし中村は聞き入れようとはしなかった。
「……ここは実力主義の組織だ。けれども例外なく下積みから始まる。俺に噛み付いている暇があるのなら、下積みから地道にやってみろ。まあ、お前みたいな適当にチャラチャラ生きてきた奴は何もなし得ずに死んでいくんだろうがな。今まで天才だなんだって囃し立てられていたんだろうが、ここじゃ底辺同然だ。所長の俺を……いや、副局長としての俺も地べたに引きずり下ろしてみろ」
憎らしい程の嫌味な顔で鼻を鳴らし今度こそ去って行く。廊下の隅に取り残された針裏は、中村が曲がり角で見えなくなった事を確認し、横にある壁を拳の側面で力一杯殴った。
「クソッ……! あんの老害ジジイ」
噛み締めるギリリッという音が奥歯から漏れる。そんな彼を見守る影が二つあった。その二人が研究所から出て基地へ向かう途中、その一人である女子はおもむろに話し始めた。
「卜部針裏さんでしたっけ、あの人。あんなに熱くなるタイプには見えませんけどね……」
「あいつにゃ復讐って目的があるんだよ」
「ふ、復讐、ですか……?」
「何も憎しみこもってるもんじゃねえぞ。制御装置をより良いものにしようとしてくれてるんだ。今までのコンタクト方法とは一八〇度異なるせいで、あんな風に目の上のタンコブ扱いされてるけどな。こっちの常識がないおかげで何もかもが異物そのものだ」
「今までとは異なるコンタクト方法?」
「人外視点からのアプローチだそうだ。最新技術とかもこの腕時計みたいな制御装置の中に入れる気なんだぜ? 聞いた話じゃ実現すれば結構すげーもんさ。一発で所長に昇格すんじゃねえかってくらいのな」
「そんなにすごいのなら、何故あんなのにも頭ごなしに否定ばかりされているんでしょう……」
「そりゃあ所長の座を下ろされて、針裏が所長になる可能性を恐れてんだろ。後の要因はきっと老人の食わず嫌いだよ。変化が怖いんだ。いるだろ? 目新しいものには片っ端から突っかかるジジイババア共が。新しいものに見境なく飛びつくのもどうかと思うけどよ、これは必要な進化だ」
そう確信している横顔は、彼への信頼にも見えた。
「栞、お前が正退魔師になる来年までには、あの変人の若手が研究所のトップになってるといいな」
まだ幼い自分の娘が大きくなった姿を思い浮かべ、今年高校を卒業する現役女子高生の織原 栞の頭を撫でる。
「私、情報管理部所属希望ですもん。制御装置あまり使わないし……でも、制御装置が変わればその部署もパワーアップするかもですね! 事件内容の保存と管理以外にも、通信やもっともっと情報に特化したところとか! ……あと龍崎隊長、それセクハラです」
「はっはっはっ! 若者の未来は明るいなぁ!」
「聞いてますかぁ!?」
両の頬を膨らませて抗議する織原だが、龍崎は意に介した様子もなく手をヒラヒラと振りながら悠長に先を歩いている。
「もうっ!」
そう口にした時、一月前に亡くなったはずの四ノ宮が横を通り過ぎて行った気がした。
「――――え? 圭、さん」
驚きに目を見開き瞬きをするが、龍崎の元へ駆けていく後ろ姿は訓練生としての時期が被り、同じ隊長の元で学び、そして一足早く正退魔師として働きだした彼で間違いない。
けれど。彼はもう、生きてはいない。
信じきれずに目をこすると、隊長の隣に立っていたのは白衣の男だった。見間違いだった事に肩を落とすが、何故四ノ宮と白衣の男の姿が重なったのかを考えた。しかしそれは思考するまでもなく、その横顔で悟る。
「髪型、少し似てるかも……。てぇっ、ドロップキックかましてるぅ!? 隊長大丈夫ですか!?」
今まで研究室にこもりきりだったとは思えない華麗な体捌きで、龍崎の頭めがけて足を蹴り上げる。
「痛えッ!」
「話が違うじゃないっスか! 全ッ然制御装置に触らせてくれないんスけどあのクソジジイ老害めぇえぇええっ!」
「俺に言うなよ! それはお前の力量不足だろうが! あと、女の子の前で奇襲なんざモテねぇぞお前!」
「正々堂々と後ろから襲ってやったんスよ!」
「後ろからは正々堂々とは言わねえだろ!」
馬乗りになり胸ぐらをつかんで龍崎の頭を揺らす。そんな針裏の視界に入った慌てる織原に気づき、舌打ちをしながら離れた。
「ったく、荒いんだよお前の自己主張は。栞がビビってんじゃねえか」
「い、いえ。ただ……ヒゲと服のシワは酷いのに、白衣だけは白くて綺麗ですね。不釣り合いだなぁって思って」
さらりと失礼な事を言う織原だが、針裏は誇ったようにクセのある笑顔を浮かべた。
「この白衣、綺麗っしょ。貰ったんスよ。親友にね」
刺々しい雰囲気や人を見下しているような態度しか見た事がなかったのだが、想像もつかないほどの優しい笑顔が何故か悲しさを呼び起こさせる。涙で滲んだ視界には、彼の隣に今は亡き親友の姿が映ったような気がした。
「……ええ、とても綺麗ですね。真っ白です」
頬に伝う雫を見て、龍崎が心配そうに覗き込んでくる。
「は、腹でも下したか?」
「隊長、女の子になんて事言うんですか! もう知りません。嫌いです」
ムードが台無しだと怒りそっぽを向いた先には針裏がいた。先程の雰囲気はどこへやら、気遣いなど微塵も感じさせない怪訝そうな顔で口をへの字に曲げている。
「……針裏さんは知っていますか? 白がもたらす心理学的効果は、正しく潔白であろうという気持ちにさせてくれるんです。それを贈ってくれた人は、清く正しく潔白であれというメッセージも込めて送ったんじゃないでしょうか」
「……へぇ、そんな意図もあったんスかねぇ?」
「貴方って、不潔で犯罪もノリでこなしちゃいそうですもんね」
「ははは。呼吸するように毒も吐くっスね。否定はしないけど」
自覚はあるのかと口にしたくなったが、それよりも強く印象に残った事があった。
――笑い方、圭さんに似てるなぁ。
そう思うとまた自然と涙が溢れる。この一年、沢山の事を彼からも学んだ。亡くなった妹の代わりだとしても、いつも優しく接してくれた。代わりでもよかった。兄を亡くしたばかりの織原にとっても、兄のような存在である四ノ宮を心から慕っていたのだ。
「……サラッとだけど、聞いた事がある。妹くらいの人が同じく龍崎さんのとこで一緒に働いってるって。素直な良い子なんだって四ノ宮が話してた。きっと、あんたの事だったんスね」
自分の前だけで兄として振舞ってくれていたのではなく、他の人の前でも自分の事を話してくれていた事が嬉しかった。
「その時、祭りの話をしてたんス。突然妹の話が出たのは、毎年妹と行ってたから、寂しかったんだと思う。けどあんたの話が出てきたって事は、妹と重ねてたんだろうねぇ。四ノ宮は」
負担ではないだろうかと心配していた事を、聞けずに永遠の別れをしてしまった分、どっと感情が押し寄せる。
「圭さっ……圭さんっ……圭さんッ!!」
嗚咽の合間に、約一年間兄として慕った彼の名を呼ぶ。どうしようもなく声をあげて感情を吐露する頃には、龍崎が頭を撫でて泣き止むまでひたすら待っていてくれた。鼻をすする音だけになった時、やっと針裏もまだいてくれていた事に気がついた。
――彼なら、誰が泣こうが無関係だと過ぎ去って行きそうなのに。
しかしそうしなかった訳は、次に語られる。
「僕は四ノ宮にはなれないから。あんたの為にあいつの代わりをしてやる必要も無い。あいつだってきっと、誰かの代わりをしてたわけじゃないっスよ。あいつはあいつのままで、誰かの代わりじゃなくて四ノ宮自身としてあんたと接していたはずだ」
針裏は空を見上げたまま、気遣うつもりではなくただ本当だけを告げた。
「あんたはどうなんだ。四ノ宮は兄の代わりだったんスか? それとも、四ノ宮圭っていう兄だったんスか?」
呆気にとられる織原は、やがて穏やかな表情で目を閉じる。瞼を閉じれば、その裏側には彼の顔が思い浮かんだ。
「……後者です。いつだって、私にとってはいつでも優しくて頼りになる、とても真っ直ぐな圭さんでした」
「だあよねぇ。あいつってさ、弱いくせにいつでも四ノ宮だった」
その答えを聞き、針裏の白衣には一粒の雫が滑り落ちてった。
「ははっ。清いもんも染み込まないや」
背を向けているから分からないはずなのに、龍崎がタバコを燻らせながら口を挟んでくる。
「お前の涙が汚いんじゃねえか?」
「酷ぉーい。こうなったら四ノ宮家の墓石に貰った撥水剤吹きかけてきてやる」
「何その八つ当たりに見せかけた優しさ。汚れなくて墓も綺麗だな」
「おまけに花も持ってくっスよ?」
「おまけじゃなくてそっちが本命だろ」
「僕の本命にはベタに薔薇百本でプロポーズ」
「そういう本命じゃねえ!」
呼吸の合っている二人を見て、織原は四ノ宮と龍崎とが会話をしていた一ヶ月前までの日常風景を思い出した。
そして今目の前にあるのは、針裏と龍崎が売り言葉に買い言葉でヒートアップする口喧嘩まがいの風景だ。
死者を忘れるわけではない。
だが、少し記憶の中に沈んでもらわなければ、新しい環境は受け入れ難いものだ。
時の流れと共に感情も風化していくのは、きっと残された人が生きやすいように。
時の流れの中でも取り残されるものがあるのは、同じ環境に身を置いた誰かが行き詰まった時の助けになるように。
「ふふっ。やっぱり、親友って自然と似てくるんですかね」
いつまでも自分の中にあるものはきっと、信念めいたただの譲れないエゴで、時と共に移り変わる心の景色は成長に必要な変化だ。
――そんな『当たり前』という敵に立ち向かおうとするが、私達はいつも負ける。
私みたいな子供に何が分かるのかと問われれば、何も分からないと正直に答えるしかないが、貴方には何が見えますかと心の景色を言葉で表現してもらおうとしても、答えは返ってこない。
抽象的で複雑怪奇。他人なんてそんなものだ。言葉幾つかで理解されてしまうほど、人一人の歩んできた人生は単純ではない。
だから私は、海底に沈んでしまった沈没船を掘り起こし、金銀財宝だけを持ち出して満足するような人達にはならない。
宝石のように輝かしい功績の裏には血の滲むような努力がある。
ロケットのペンダント中にある家族写真という幸せな一面の他にも色々な面があり、それ全てが組み合わさり一人の立体として存在している。
羅針盤が狂おうと、知識で真の方角を指し示せる人だっている。
物に価値を見出すより、もっと価値のある姿のない物を、私は見ていきたいと思った――
「栞、置いてくぞー!」
「あっ、待ってください隊長! じゃあ針裏さん、また」
「はいはいじゃーね」
針裏は既に背を見せ、肩越しに手を振っていた。織原は気ままな彼へ、吐息混じりに感謝した。
「ありがとうございました」
届きはしないだろうと高を括っていたのだが、どうやら彼へと通じてしまっていたようで。
「この貸しはちゃーんと返してね〜?」
冗談か本気なのかも判らない口調で、猫背のままスリッパを引きずっている。四ノ宮が彼に構う理由がよく理解できた。
「圭さんの世話焼き」
そんな彼を、彼の全てを、栞も、針裏も、龍崎も、彼の周りの人だって。
きっとすごく、大好きだった。




