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No.69「親友の死、不変なもの」

 鳴る時計もないはずなのだが、一秒毎に秒針の振れる音が聞こえてくるようだった。


 四ノ宮が二十五分経っても帰ってこない。順調に行けば往復六分。買い物の時間も含めれば十分くらいで帰ってくるだろう。道に迷っているにしても時間がかかりすぎている。


 携帯電話の電話帳を開けば、実家の次に彼の連絡先が出てくる。この機種を買ってから三年が経つが、初めてプライベートで電話をかけてみる。

 ワンコール、ツーコール、スリーコール。その後も呼び出し音は続いているが出る気配がない。嫌な予感が確かなものに変化しつつある。


 この前龍崎が仕事の合間に顔を見せに来た時、四ノ宮は律儀すぎだという話題になった。電話はツーコルまでに出るのがほとんどで、風呂に入っていようがなんだろうがスリーコール目までには絶対に出るのだと言っていた。


 ――繋がんない。


 彼はとうとう出なかった。

 良くない思考に囚われている間に留守番電話サービスに繋がる。刹那に聞こえてきたのは救急車のサイレンだ。耳鳴りだろうかと疑った。しかし遠かった不吉な音は近づいてきて、そして胸の鼓動に呼応するかのように音を大きくし、そしてまた遠ざかって行った。


 思考するよりも早く体が動いていた。面倒だという理由で運動不足だった事もあり、歩き回った今日一日はクタクタに疲れきっていた。それなのに歩く足は速まるばかりで、救急車の音を追って気づけば全力で駆けていた。


 赤いランプが辺りを照らしている。鮮血のような赤が黒いアスファルトを濡らしている。やっと追いつき、担架に乗っているのは四ノ宮ではないだろうと、信じたくない気持ちで違うだろうと何度も心の中で唱えた。


「免許証ありました! 四ノ宮圭さん、二十五歳です」


「四ノ宮さん聞こえますか! 四ノ宮さん!」


 耳元で名前を呼ぶ救急隊員。どうやら返事はないようだ。軽く肩を叩いたり頬を叩いたりしないのは、あまり動かさない方がいい状態なのだろうか。救急隊員の体が邪魔でよく見えない。


「四ノ宮……」


 野次馬の人垣を掻き分け担架を目指し走る。

 目の前の出来事が信じられなかった。彼とはさっきまで馬鹿話をしていて、これからまだ飲んで語るはずだった。明日は二人共仕事で、依頼があれば顔を合わせるし、なければ会わないだけで互いに職務を全うしているはずだった。


 しかし、それはもう二度と叶わない願いになってしまったのかもしれない。


「四ノ宮! 四ノ宮ッ……!」


 救急隊員の言葉など耳に入ってこなかった。必死にただ彼の名前を呼ぶ。

 すると、やっと返事をした。


「うる……さいなぁ、もう…………。聞こえてるよ」


 途切れ途切れの弱々しい声と共にヒューヒューという音がする。目は視線が定まらずに、寝起きのように薄く瞼を開いている。


「し、四ノ宮! 一体何が……いや、それより応急処置が先だ。僕は医師免許を持っています。搬送先の病院までは――」


「針裏」


 救急隊員に早口で伝えている途中、四ノ宮が針裏の腕を掴んだ。


「もう俺は……こんな体じゃ助かったって人外を殺せない。仇を打つ事だってかなわない。もう、いいんだ」


「何言っての。……っ四ノ宮の人生は、それが全部じゃないだろうが。弱音吐いてるとぶっ殺すぞ……。黙って助けられてろよッ!」


 凄んでいる途中、左腕が無い事に気がつき、覇気がなくなっていく。


「お、前……腕…………」


「初めて……見たよ。針裏の必死な顔。いつも余裕かましてるから、こんな時でも冷静かななんて思ってたんだけど……死にかけてる人間にぶっ殺すぞ、だなんて、あ、はは、縁起でもないなぁ…………」


 話し終えた途端に大量に血を吐いた。血の色から見るに喀血だ。

 ただでさえ一分一秒も惜しいこの状況でこれ以上会話に付き合う事はできない。救急車の中でテキパキと腕を動かしているが、それはほぼ無意識だった。

 頭の中の思考はまとまりきらないほどの動揺や不安で満たされていて、どんな表情でいるのかすらも分からなくなっていた。


 気の利いた言葉の一つでも言おうと人生で初めて試みるが、慣れたものではないからか何も思い浮かばない。手が勝手に動くように口も勝手に動いて何かを言ってくれそうなものなのに、今はただの飾り物でしかなかった。


「来年、夏祭り一緒に――――」


 やっと思いついた言葉を口にしようとした時だ。

 突如救急車が横転する。


 ストレッチャーに固定をしていなかった四ノ宮の体は重力に従順だった。全身のいたるところから血を流している重症の四ノ宮をキャッチし、落ちてくる物や衝撃から守る。


「い、一体何が……」


 なんとか無事だった救急隊員の疑問に答えられる者などいない。地面との摩擦で止まった救急車の後ろのドアを開き、四ノ宮を運び出した。


 立てるはずもない四ノ宮がよろけながら立ち上がる。体に力を入れるだけで出血量が増すのに、立ち続ける行為は今の彼にとっては自殺行為も同然だった。


「寝てろ。もうすぐ新しい救急車が来るはずっスから」


「……そうもいかないよ」


 有無を言わせない声音で止めようと彼の残った腕を掴むが、更にその背後に迫る影があった。

 しかしそれに気づいた時には時すでに遅し。四ノ宮は針裏をとっさに庇い敵へと背を差し出した。


 四ノ宮の背中には四本の赤い線が刻まれていた。針裏は倒れ込む彼を抱きとめ、そのまま一緒に地面に膝をついた。


「し……のみ、や…………?」


 目の前には獣のような化け物がいた。その容姿は長い毛で覆われているが、形は狼とも熊とも言えない生き物が二足で立っている。けれど、破れた袈裟を着ていた。人間の衣服を、身にまとっていたのだ。


「なん、スか? こいつ……」


 絶句し立ち尽くすが、救急隊員は何の事かと首を傾げている。友人の窮地に頭がおかしくなっているのかもしれないと構わなかったが、四ノ宮も反応した。


「それが……人、外だよ。は、はは、自分が死にかけて、やっと……やっとハッキリ見えるなんて、ね。制御装置(リミッター)が壊れてからは薄れていった人外の姿も、こんなに、はっきり見えるよ……」


 自分への皮肉を口にする四ノ宮が吐血した。人間の指よりも長く大きい獣のような爪は内臓を傷つけたようだ。肋骨と思われる白いものが裂けた服と肉の間から見える。てらてらと輝き流れ出る血は肉の間を伝い、衣服を赤黒く染めていく。


 目の前にいる人外は何をするでもなく立ち尽くしているが、その間に逃げる事もできず腰を抜かしたように見上げるしかなかった。


「逃げて針裏……。貴方達も……早く。きっと、こんなにもしっかりと見えるようになったのは、俺の死が近いからだ。助からない、から、置いてって……」


「置いてったらこいつにやられるだけっしょ。怪我人を犠牲(エサ)に逃げろって、随分な事言うっスね。僕に四ノ宮の命を背負わせるつもり?」


「そうじゃない。ここにいたら皆俺みたいに……こんなザマになる。ははっ……。誰だって好んで八つ裂きになんて、なりたくないでしょ」


 弱々しく微笑む彼の目は、針裏を映しているのかも危うい。瞳は時間の流れと共に光を失っていく。四面楚歌な状況に針裏が地団駄を踏んでいた時だ。


 銃声が間髪入れずに三度鳴る。耳を(つんざ)くような雄叫びを上げる人外が、ドスンと重量感のある音ともに地に伏した。その背後からは硝煙を上げる拳銃を片手に持ち、口にはタバコを咥えている男が現れた。


「……ナマぬかすなよ、圭。なに自分(テメェ)だけで全部解決しようとしてんだ。格好つけようとすりゃ必ず転けるようなドジが、死に際まで意地張って墓行きなんて笑えねぇだろうが」


「隊長……」


 声で人物を判断し、首だけを辛うじて傾ける。しかし針裏の胸元で小さく動いただけで、視界にその姿は捉え切れてはいない。


制御装置(リミッター)も無しで……無茶しすぎだ。この馬鹿野郎が」


 無残に食いちぎられた後の腕の切断面を見て、必死に人を守った証である彼の傷跡を見て、龍崎は悲しみを抱えながらも無理やり笑顔を作って分かりづらく四ノ宮を讃えた。


「その人外っていうのは死んだんスか……? だとしてもそれに安心している暇はない。早く病院に運ばないと……!」


「医師免許持ってんなら判んだろ。圭はもう助かんねぇ」


 龍崎には、四ノ宮の体から魂の破片が空に向かって登っていくのが見えていた。


「本人の前で何言ってんスかッ!! まだ判んないっしょ……。お前、部下を見殺しにする気かよ」


 すると龍崎は厳しい目をした。


「いつも死体としか向き合ってこなかったくせに、生きてる奴と馴れ合った瞬間に死から目を逸らそうってか。死んだ後は人形同然に扱ってたのに、死に際には立ち会えねぇのか、お前は」


「違う! まだ生きてんスよ、四ノ宮は生きてる……」


「お前は、医者なのか?」


 医師免許を所得しているのかどうかを問うているわけではない。針裏は一瞬迷ったように眉間にシワを寄せたが、やがて力強く頷いた。


「――――医者だ」






 *






 線香の香りが満たす霊安室に、針裏と龍崎が肩を並べて椅子に座っていた。


「検死お疲れ」


「……僕ちゃんってば、やっぱ医者は向いてないんスかねぇ。やっぱ法医学者目指すべき?」


「さあな。でもどっちにしろお前には何ができるんだ? 何をしようと思う」


「医者として何もできなかった。何も……なーんもできなかったんだ。だからこれからっスよ。これからなんかする。四ノ宮のためには…………もう何もできないっスけどね……」


「誰かのためになんてやめておけ」


 龍崎らしくない冷めた言葉だが、口調は宥めるような優しがある。


「耳触りは良いかもしれないが、実際はその言葉がついた瞬間に恩着せがましく呪詛めくもんさ。自分(テメェ)のためだけになんでもしろ。そのオマケでどっかで誰かのためになりゃいい。案外社会ってのはな、自己満足だけでも成り立つもんさ」


「……そうっスね。僕は掃除なんて嫌いだけど、掃除が好きな四ノ宮みたいなのもいるし」


「ま、そんな感じ。たまには飲みに付き合えよ。今日は俺の奢りだ」


「まあいいっスけど、僕、食べる時は結構な量なんで後でやっぱ無しとかやめてくんさいよ」


「何その冬眠中食ってなかった分食い荒らすみたいな。上等だ」


 帰宅の足で龍崎行きつけの居酒屋に着くと、奥の個室へと通された。


「カウンターでいいんスけど」


「馬鹿。話があんだよ」


 やっぱりかと鼻を鳴らし、大人しくついていく。扉も締め切られ、三畳の空間にテーブルを挟んで男二人が険しい面持ちで座った。


制御装置(リミッター)が壊れてからのなす術がないあの状況は、分かり易くイコールで死に結びつく」


 アイドリングトークもなしに、今はあまり聞きたくないような言葉が連なった。


「退魔師といえども、霊感の弱い奴にはかなりのリスクがつきまとう。霊感があれば霊力という能力的な強弱はあれど、中程度からは制御装置(リミッター)無しで人外に触れる事ができる」


「じゃあ強い霊力が四ノ宮にもあれば、死ななかったかもしれないって事っスか」


「退魔師をやっていれば自然と開花していく能力であるはずのこの霊力は、四ノ宮はかなりの遅咲きだったのかもな。人外から殴られりゃこっちに当たるが、こっちから攻撃してもあっちには当たらないんだ。武器は制御装置(リミッター)がなけりゃ使えねぇしな」


「でもそれって結局、制御装置(リミッター)とかいうあれがもっとしっかりしてりゃよかったんじゃないんスか?」


「まあ……そうだろうな。制御装置(リミッター)が壊れてなきゃ腕一本くらいで済んでただろうよ」


「霊力を強制的に強くしたりはできないんスか」


「霊感を開く事は実際に霊関係の仕事に就く人は修行としてやってたりするが、いきなり強制的に開くのは危険なんだ」


制御装置(リミッター)とかいうそれの機能に付け加えたりは?」


「理論上は可能らしい。だが実装は夢のまた夢レベルの高い技術が必要らしいぞ」


「つまり出来ない訳ではないって事っスか?」


 龍崎は「まあな」と言ったきりで、照明をぼんやりと眺めた。そして間を置き本題を口にする。


「AMSに所属してみないか」


「……やーっぱそういう事か」


 虚を仰ぎ見ながら、最終的に目に入ってきた天井の木目をなんとなく視線でなぞった。


「そのクソオンボロ機械の開発にも携せてくれるなら了解するっスよ。もう二度とこんな事がないようにしなくちゃいけない。四ノ宮の決定的な敗因は、制御装置(リミッター)が壊れたからってのも大きいはずっしょ。僕に任せてくれるなら、せめて死ぬ前までには完璧な物を作り上げてやるよ」


「ははっ、そりゃ助かる。俺の寿命も伸びたわ」


 龍崎は届いたばかりの生ビールを一気に飲み干し、ジョッキをテーブルに叩きつける。その衝撃で跳ねたお通しの枝豆が一つだけ皿からこぼれ落ちた。それをつまみながら針裏の分のビールにも口をつけ始めた。

 酒好きの彼に呆れて壁に背を預けつつ、新たに追加で注文したビールとつまみを待った。

 その間の会話は、やはり明るいものではない。


「泣かないんスね、やっぱ。部下や仲間が死ぬ事は慣れっ子だったり?」


「んな意地悪い事言うなよ。こんなん誰だって慣れたくなんざねぇだろうさ。それより、お前だって一回も泣いてねぇじゃんよ?」


「泣いてたら、なんにも見えなくなっちゃうっしょ」


 問い返してくる彼の瞳から目を逸らし、静かに、しかし力強く再び彼の目を覗き込んだ。


(やみ)の中で見逃してはいけない(ひかり)を、一時の感情のせいで目潰し食らって更に誰かを野垂れ死にさせるなんて、あっちゃあいけないんじゃないっスかねぇ?」


「ああ……同感だな」


 亡くなったばかりの親友を思い、殉職した部下を悼み、二人は心の中で涙を流した。


「さあ、泣いてる暇ねえなぁ? 針裏」


「はいはい、そうっスね。研究室を私物化していたツケが回ってくるっスよ。あー大変」


 そして悲しみに別れを告げる。踏みとどまっている暇はない。足を引きずりながらでも進むべく、感情に蓋をしすべき事だけを機械のようにこなすだけ。

 それが今できる精一杯の事だった。

 悲しんでいる間にも時間は無情に過ぎていく。


「諸行無常のこの世の中で、変わらない物を見つけようともがいてたのは……些か子供じみてたんスかね」


「変わらないものもあるさ。まあ俺は、変化を好む神経の図太さを生憎持ち合わせちゃいないが、変わっていっていいものもあると思うぞ」


「そうでなければ進化は望めない、か。……不変なものといえば、僕ちゃんの腐った性根くらいっスかね」


「いーや、お前の中で不変なものは、お前のその心意気くらいなもんさ」


「何ソレ、本当に褒め言葉?」


 わざとらしく眉根を寄せる針裏に対し、龍崎は制御装置(リミッター)や人外対策局に入るための所属証明証を放って渡した。

 キャッチしながら肩を竦め、いつもの粘着質な笑みを浮かべた。


「あーあ、今日は完璧に口説かれたなぁ」


 針裏の瞳には、口調や表情にはそぐわず浮ついたものは何一つない。確かな意思だけが、沈んだ水底から何者にも負けない強い光として差していた。

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