No.60「記憶の解凍」
「凍りつくまでの数秒の間、解凍された数百年後にカルチャーショックを受けている自分を想像してたよ〜」
「生きた人間の冷凍保存は日本で初めてじゃないかしら」
名無隊の部屋ではティアが遠い目をして虚ろに微笑んでいる。その横で愛花も項垂れていた。
「凍りついてた時は意識があったの?」
「全く」
アルの疑問に女子二人の声が重なる。そして針裏は核心に迫る質問を投げかけた。
「てかなんでまた凍らせられたんスか?」
「好きな人いるのかとか他愛のない話しを振ったんです。なのに突然……ねぇティア?」
「うん。でも雪子ちゃんにとっては恋愛話はタブーだったのかも。その瓶の中にある水を見れば分かると思うけど、雪女は恋心の熱で体が溶けちゃうから」
「ふうん、雪女ってそうなんだ。初めて知ったわ。東北地方とか新潟に伝わる話だってイメージされやすいけど結構広範囲で伝承されてるし、あたしの出身の愛媛でも雪の夜は『外に出るなユキンバが来るぞ』って先生も言ってたわ」
「ユキンバ……ヤマンバみたいな響きが怖いね。雪子ちゃんはスノーエンジェルって感じなのに」
「あんた、よく凍らせてきた相手を褒められるわね……」
「北の地で天使見つけたり! みたいな」
解凍直後も通常運転なティアの、冗談か本気なのかも判断がつかない言動と元気そうな姿は、凍てついていた皆の心を溶かしだしていた。
「さあて、これで一件落着。お先にこんな極寒な地で過ごすという拷問から解放させてもらうっスよ」
「何寝言をほざいてらっしゃるんですか? これからですよ」
右京の黒いオーラを無視し退室しようとする針裏。しかしそれを許すはずもなく、足で通路を塞がれる。
「えぇ〜、東京にそろそろ戻らないと島村の健太君が大変かなぁって!」
「貴方がいるからこそ大変そうに見えるんですけど」
「なになに、右京君って目が悪いの? 目が悪い人用に眼鏡型制御装置を開発中なんスけど、どう? 使用者第一号なんていう称号」
「結構です」
「八雲君にも断られちゃったんスよねぇ。丁重にお断りさせていただきますってさ。ねぇねぇティアちゃん、お兄さん酷くない?」
「妥当な判断だと思います」
「兄妹そろってつれないなぁ……」
彼の不気味な薄ら笑みは見ている者を不快にさせる。どこか信用してはいけないような胡散臭さが要因なのか、腕には一目を置かれているが、幹部からの信頼はかなり薄い。
「あんなところやこんなところも見た仲だっていうのに、冷たいよ」
「誤解を招くような発言はやめてください」
綺麗に上がった口角、柔らかく閉じたまぶた。完璧なまでの左右対称の笑顔は決して平和なものではなく、不穏さを孕んでいる事を読み取り彼女の兄である八雲を重ね合わせた。しかし読み取ったのではなく、むしろ読み取らされていたのかもしれない。その結論に辿り着くまでのコンマ数秒後、針裏は口笛を鳴らす。
「御祈祷家怖ぁーい。……そういえば御祈祷家ってさ、御祈祷神社の神主を代々継いでるんスよね? 大昔から退魔に携わってきたらしいのに、どうして仁さんは殺られちゃったんすか。しかも局長だった人が簡単に殺されちゃうなんて変っスよね?」
ティアの脳裏にあの日の光景がフラッシュバックする。しかしそれを周りに勘付かれないよう笑顔で繕いつつ、人の心をかき乱すという悪趣味極まりない娯楽を楽しんでいる彼を視界に捉えた。その紫の目は決して笑ってはいない。
「何を仰りたいのですか」
「いやぁね、不自然だと思わない? 神社は四隅に水晶を埋めるか、塩を盛って結界を張っている。まあこれだけじゃ強力な人外には弱いかもしれないっスけど、君の実家ではもっと専門的で強力な結界が張ってある。それにあんなに大きくて管理の行き届いた、しかも退魔業も生業としている神社にどうして人外なんて入り込むんスかねぇ?」
「誰かが意図して起こしたとでも言いたげに聞こえますね」
「違うって言い切れる? もしかして君はあまりのショックに何かを忘れているのかもしれない。信じたくないという思いから記憶が歪んでいるのかもしれない」
針裏の言葉が耳元で聞こえた。全身に悪寒が走り、鳥肌が立つ。視界の端には彼の横顔が見える。先ほどまで目の前にいたのに。
「君は、なんも忘れていないなんて言い切れるの?」
その言葉がやっと脳に浸透してきた時、足元に人肌くらいの生温かさを感じる。それが何なのかを認知しようとし下を見た。赤黒く不気味に光り粘り気のある液体が、徐々に床を侵食している。不快な鉄臭さに口呼吸に切り替えた。
「人の記憶なんて、とても曖昧なものだ」
背後からも消えた針裏の姿を捜すが、背後の足元には一人の袈裟を着た男性が横たわっていた。人外の相談によく神社に出入りしていた、近くのお寺の僧侶だ。脇腹は深く抉られており、脈打つ心臓のように一定のリズムを刻みながら血が溢れ出ている。
「静流さん……?」
この人物の名前が自然と口から零れ出る。どうしていままでこの人の事を忘れていたのだろうか。両親が亡くなった時に葬式で会ってから、ティアを支え続けてくれていたというのに。
「これは君が殺したんじゃないの?」
「わ、私は殺してません!」
「どうやってそれを証明する? 記憶にないからだって? 恩人の事も忘れてしまっていたティアちゃんが、そんな事を言ったところで説得力がないよ」
――そうだ。……なんで忘れていたんだろう。
息が乱れ始める中、声の主が目前まで迫ってくる。しかし冷ややかに微笑む針裏の背後で何かが揺れ、視線はそちらに釘付けになった。暗闇に目を凝らせばその姿がぼんやりと浮いてくる。それがなんなのかを認知した時、ティアは反射的に息を飲む。
木製の十字架に磔にされた、名無隊の五人だ。その下には元実子隊の六人や零や神無、学校で知り合った人達の骸が転がっている。
「な、なんで……どうして……」
この光景を否定してほしくて彼の胸ぐらに掴みかかる。縋るようなその仕草の後、ティアは膝から崩れ落ちた。畳み掛けるように彼はこう告げる。
「君が殺したんだ」
息をする事すらも忘れ、頭の中の混乱は胸を苦しめた。途切れ途切れの思考と呼吸。しかし背後から大きな影が伸びてくる。人外の気配に反射的に抜刀し背後に迫る影を斬った。
「うおお、危ねえって!」
「…………信、太……ごめん」
先程までの風景から一変、そこは見慣れない部屋の一室のようだった。
「もーう、ティアったらお目覚め早々物騒よ! アル子ちゃんったらビックリしたんだから」
信太の後ろにはアルがいる。他にも夜斗や佐久兎、右京や針裏、弘和もいる。刀を抜く直前まで見ていたのは夢だったのだろうか。肩で息をするティアの体には汗が張り付いている。悪い夢でうなされていたのだ。
――さっきは確かに人外の気配が……。
部屋の中を隅から隅まで鋭い目つきで見回した。その様子に全員が首を傾げている。その時、針裏の手元に目が行く。大きな瓶の中から人外の気配を感じたのだ。
「それ……? いや、もっと別の不純物混じりな感じだったはず」
既に感じ取れなくなった事から気のせいだと結論づけるが、先程まで夢に出てきて散々に心をかき乱して行った張本人がいる。夢は夢だと自分に言い聞かせ、何事もなかったかのようにティアは寝ていたベッドに腰を下ろした。
「どうしたんだよ、顔真っ青だぞ」
夜斗の問いかけに乾いた笑い声を漏らした。
「悪趣味すぎる、夢だった」
とは言ったものの、正直ただの悪夢だったとは思えないでいた。
「どうして侵入できたのか……」
今まで思い出す事すらも躊躇われる事が多かった。だが清算した気でもいた。目を背けていた部分が浮き彫りになり、忘れるはずもない事を今までも記憶の奥底で眠っていた。思い出した事も、忘れていた事も、何かしらと無関係だとは思えない。
――いやいや、むしろこれは人外による幻覚かも? なら、この世界で私が死んでしまえば術が解けて現実に戻るかもしれない。
ならばと切っ先を自分へ向け、一つ息をついた後に胸元を刺そうと振りかぶる。しかしそれは慌てて近くにいた夜斗と佐久兎が止めた。
「な、ななな、何やってるのティア! 死んじゃうよ!」
「まだ寝ぼけてんじゃねえのか?!」
取り上げられた刀を見て、ある事に気づく。
「私生身だったら死んじゃうじゃん?! な、何やってんだろ……れ、冷静じゃないなぁ、あはははは……」
パニックになっているティアの声に、隣で眠っていた愛花も目を覚ます。
「何よ……騒がしいわねぇ」
寝惚け眼をこする彼女が一番初めに目をしたのは、顔面蒼白のティア、そんな彼女の刀を握る夜斗、それと佐久兎が二人の間で冷や汗をかいている姿だった。この状況から導き出した答えは一つ。
「夜斗……その刀を今すぐ捨てなさい。じゃなきゃ撃つわよ」
「多分誤解だ。いや絶対に誤解だ。てか命の天秤がティアに傾きすぎだ」
「当たり前でしょ。あんたみたいな万年不機嫌野郎なんか、雪山で雪だるまになってその中で一生冬眠してりゃいいのよ」
「万年不機嫌野郎って久々に聞いたな。てかそれ冬眠じゃなくて永眠の間違いだろ」
「ああ、バレた?」
「バレた? じゃねえよ!」
「いいから観念なさい!」
「はーい、高二のお二人さんは落ち着きましょうね!」
アルの制止にお互いに舌打ちをする。目覚めてすぐに悪態をつけるのだから、愛花の調子は良さそうだ。
「とりあえず落ち着こうかと言いたいところだけど、針裏さんは雪女をこれからどうするんですか?」
「どうって、封印のお札も貼ったし本部の封印庫行きじゃないスかねぇ? 目立って悪事を働いてるわけでもないし、封印を解くんなら過去の罪を洗い出すところから始めるんじゃ? 唯一確認できた罪と言えば、あの二人を凍らせちゃったやつっスかね。殺意があったかどうかもまた裁量に関わるだろうけど」
「裁判……か」
「あるぇえ〜、なーんでそんな残念そうな顔するんすか? もしかして天君みたいに隊員として迎え入れたいなぁとか?」
図星だったようで、右京は分かり易くギクリと不自然な動作をした。
「戦力になるかなって思ったんですよ」
「戦力ねぇ。まあならなくはないだろうけど、一体それじゃどんな隊になっちゃうんスか? 人外だらけの右京隊にするつもり〜?」
「そういうのもありかなって思ってます」
「研究者の僕から言わせてもうと、近くに人外がいる事による副作用みたいなものがないとは言い切れないんスけどね。必要以上に仲良くなってもらっちゃ困るし、あんまり人外に気を許すと零崎優みたいに寝首かかれちゃうよ?」
「零崎隊長の悪口は許しませんよ?」
「いくら僕だって死人の悪口は言えないっスよ」
静かな怒りが、ある言葉によって火を吹く。針裏の胸ぐらに掴みかかる右京を見て、その場の空気が凍る。
「……なんか文句でもあるんスか?」
無言のまま睨み合う中、針裏が嘲笑を浮かべた。しかし右京は何も言い返せないまま、眉一つ動かさずに彼の白衣をひねり上げている。すると、青い血管が浮かび上がる右京の手にティアがそっと手を置いた。
「……零崎さんは、強かった」
彼女はたったその一言だけを発し、おもむろに手を下ろした。すると右京も力なく腕を退ける。
「こんな安い挑発に乗るようじゃ、人外との適切な距離を取れないだろうって証明をしたかったんスよ」
「ご心配なく。精神面のバランスは上手くとっているつもりです」
「それはどうかな。案外八雲君タイプより、どっちかに傾いた思想を持っている君や実子ちゃんの方が危ういよ」
針裏は名無隊や弘和の方へ振り返り、「それに」とこう続けた。
「君達はまだまだ未熟だ。何もかもが脆い。前よりは強くなった、前よりは絆が深まったなんて思っているのかもしれないけど、上には上があるんスよ。満足してる暇なんてないんじゃない?」
――上には上……。
ある一節を復唱する心の声がティアには聞こえてきた。誰の声かは判ったが、どういう意味でそう口にしたのか意図も分からなかった。
「なんか燃えてきた! よっしゃあ東京に帰ったら夜斗と戦う!」
「そうだな。未熟で脆いなら、まだまだ成長の余地があるって事だ。……よし、手始めに信太を叩きのめす!」
予想に反した反応が返ってきた針裏は、不満気に苦い笑顔で息をつく。その様子に夜斗の口角が上がった。それを佐久兎が横目で見ており、負けず嫌いさも良いところだと心の中で称賛した。




