No.59「雪女融解現象」
「んあー、ねっむい……さっむい……」
眠気はあるものの、夜中になっても寝付けずに寮の外に出る弘和。コートも着ずに出てきたのは少々無謀だった。ガタガタと体を震わせ、すぐに唇は紫色になって手がかじかんでくる。容赦のない氷点下の気温が体の芯まで到達し、血液さえも凍りそうな夜だった。午前中は散々名無隊を馬鹿にしてきたが、太陽の無い夜は特に冷え込む。
「本部変な人多すぎ。てかギスギスしてるって噂は本当だったんだな……。俺、北海道で良かったかも」
同意してくれる声があれば寒さも和らぎそうなものだが、どうやら期待できそうにもない。返答が無い事くらい百も承知だった呟きを、密かに独り言に認定する。
静けさばかりが夜の闇を喰らう銀世界で、少年は白い吐息を澄んだ空気に交えた。浅い溜息とも呼吸ともとれないそれは、やがて風にさらわれていく。確かにあった吐息は、数秒もあれば朽ちていく。しかしまるで最初から無であったと主張しているように、悠然と景色はあり続けた。
「人間みたいだ。存在を記憶する人がいなければ、自分の存在さえも否定されかねない。俺は今までここにいたんだって言ったって、証明してくれるものがなきゃ嘘だって言われても仕方がない」
「――だから、人は人と時間を共有する」
たったその一言で、結論の出ない滞った思考が整然と並び始めてきた気がした。驚きに声の方を振り返ると、そこには赤髪で長身の少年が立っていた。達観したような目に映る月に向けられる視線は、まるで自分よりも下にあるものを見下しているようだ。月さえも踏みつける事を厭わなさそうな彼に、弘和は一つの疑問を投げかける。
「ねぇ、光と闇だったらどちらが強いと思う?」
すると問いかけられた少年は微笑を浮かべた。目は決して笑ってはいないが、口元を歪めたのが横目に見えた。
「強さはどちらも均等であるべきだよ。相手が弱れば自分の存在も弱まり、相手が存在しなければ自分の存在も消えてしまう。それでもあえて選べっていうのならそうだなぁ……」
月に淡くかかっていた雲の切れ間から、月明かりがすうっと地に白線を引いた。地には冷たい月花が咲いている。雪が溶けて凝固した氷の粒にさす一筋の光は、太陽に似たあたたかさもあるはずだった。しかし月は否定され続ける。まるで悪者かのように、影の存在として存在している。
「闇、かな」
「どうしてそう思うの?」
「ただの例え話だよ。光の存在を証明するためには闇が必要で、闇を闇だと認知するためには光が必要。なんとなく、闇の方が光を呑み込んでいくような気がしたんだ」
それはきっと彼の心の風景なのだろう。
「じゃあ、自分自身はどちらだと思ってる?」
「うーん、それは……どうだと思う?」
月光に照らされた彼の顔はどこか寂しそうだった。しかし揺らぎない意思を瞳に宿し、月をも呑み込んでしまいそうなくらいの存在感だった。彼自身答える事はなかったが、代わりに弘和へ問い返した。連想させられるのは月と太陽どちらでもなく、彼はきっと――
「闇、です」
そう口にした時、先ほどまでの月光が厚い雲に覆われてしまった。弘和の答えを肯定しているように。暗闇で闇がほくそ笑んだ。
*
「初めして、実盛左京です。よろしくね〜!」
アイドルのように笑顔と愛想を振りまき、両手を振っている。変装のつもりなのか、知名度が名無隊よりはない彼は黒縁のメガネしかかけていない。
「右京さん何やってんだろう……。二十歳越えてるのに、流石に中学生には見えないよなぁ」
「えーそう? この格好ちょっと気に入ったんだけどなぁ。私服の高校だったから、中学校卒業以来久しぶりに制服を着たよ」
「おわっ?! う、右京さんオレの隣ぃ?!」
「よろしくね、信太信太君。俺は、左京。よろしくね」
「あ、はい。サキョウ……ウキョウではなく、サキョウ……左京左京左京左京左京」
壊れたロボットのように何度も繰り返し、信太は名前を覚えようとする。
「……で、あそこにいるのが雪子ちゃんか。普通に学校来てるんだね」
「はい。でもなんかめちゃくちゃこっち見てません?」
「うん、ものすごく視線を感じるよ」
二人の会話に四人がチラリと雪子を見やると、謎のキラキラオーラを一直線に右京へ注いでいた。頬が紅潮し、昨日見た時よりも黒目がちで心なしか瞳孔が開いている。好意むき出しでとても分かり易い。
「一時間目始まる前にちゃんと着替えておいてくださいね。体育の西條先生から、職員会議で最近遅れてくる生徒が多いという報告がありました。今度から遅れてきた生徒には反省文を書かせるとの事です」
担任の言葉に不満を漏らす生徒達。しかし朝のホームルームが終わった途端に慌てて着替え出した。
その日の体育はテニスだった。夜斗やアル、佐久兎や弘和は、息抜き程度に和気藹々と楽しむ姿を想像したのだが、信太と右京はまるで違った。しかも右京に限っては、ラケットではなく木刀を使ってラリーをしているではないか。
「取れなかった方が放課後に何か奢るって事で!」
「ええぇ、絶対左京さんの方が金持ってるのに」
「じゃあ何を賭けたい? 命懸けで命賭けてみるとか?」
「……笑えないですって」
転校生の自由奔放ぶりに、先生もクラスメイトも、退魔師の彼らさえも翻弄されている。右京がラインギリギリを狙いスマッシュを打った時、勝敗は決まり見事に勝利を勝ち取った。しかし体育教師は黙っていない。
「おい左京! テニスの時はテニス用ラケットを使ってするものであって、木刀なんて物を振り回していたら危ないだろう!」
「えー、こっちの方がしっくりくるんですよぉ」
「ああ、先ほどから見ていたら高確率でボールの軸を捉えてコントロールも細かくできているようだな。転校前の学校ではテニス部か剣道部だったのか?」
「いいえ、中学の頃は茶道部でした。高校では帰宅部でしたが」
「高校?」
「……えーと、予定って事です!」
口が滑り気味の右京は、何かに酷く動揺しているようだった。その根源を探る傍観者の四人は、一つの人物へと辿り着く。やはり雪子だ。
「ゆっ、雪子ちゃん?!」
そして熱い視線が逸れた時、彼女は突然体育館を飛び出して行った。呼び止めるクラスメイトも唖然としている。だが右京はとっさに腰を曲げ、
「痛たたたたたっ……!」
と、腹痛をアピールし出す。それは迫真の演技だった。顔面蒼白で脂汗を流し、歩くたびによろけている。
「せ、先生、お腹痛いんで保健室行ってきます」
「だ、大丈夫か? おーい誰かついてってやれ!」
ここぞとばかりに手を上げる退魔師の五人。どうにか体育館から抜け出す理由が欲しかったのだ。この機を逃す訳にはいかない。五人も付き添いは要らないだろうと指摘を受ける前に、そそくさとこの場を後にする。案外呼び止める声も聞こえず、代わりに聞こえてきたのは素っ頓狂な声だった。
「なんなんだあいつら……」
姿の見えなくなった二人を手分けして探す事になり、夜斗と信太組、アル、佐久兎、弘和組の二手に分かれていた。
「どっちに行ったんだ」
「右京さぁあああんっ!」
夜斗の疑問に応えられる者などおらず、信太はただ馬鹿でかい大声で名前を呼んでいる。
「うるっせぇよ! バレるだろうが。犬みたいに吠えりゃ飼い主が来るわけじゃねえんだぞ」
「呼べばきそうじゃん!」
「短絡的すぎるだろ……」
「全くさ、通信情報専門部の人がいれば楽なんだけどな」
「北海道支部はただでさえ普段から人手不足なんだろ。なのにこんなに事件が多発してんだ。昼間といえど、人外の反応がないかパソコンの前で睨めっこだろうよ」
「……それなんだけどさ、この前訓練場で他の退魔師達が話してるのを聞いたんだ。人外対策局で人員を募ってるのは、各都道府県に支部を置く事が目的だとかなんだとか。支部の人手不足を補って、充実させるとか聞いた。ただの噂だと思うけど」
「各都道府県にって四十七必要になるじゃねえか。これから四十四も作るのかよ。せいぜい地方ごとに区切るとかじゃねえの? 何十年単位での最終目的がそれって言われればまあ頷けなくもないけど、流石に段階は踏むだろ」
「なんか言ってる事が超真面目」
「いや、お前の頭の中がすっからかんなだけだ」
「なにぃ?!」
信太の声は突如鳴り響いた爆発音によってかき消された。音源の方角へ勢いよく振り返り、二人は顔を見合わせ頷き合った。駆ける足音の他には何も聞こえず、先程の音が嘘のように静寂が包んでいる。辿り着いた先は使われていない美術準備室だった。
「右京さ……ん?」
勢い任せに入っていくと足元で水飛沫が跳ねた。冷たさに下を見れば教室中が水浸しになっている事にやっと気がつく。その先で右京、アル、佐久兎、弘和がただ呆然と立ち尽くしていた。徐々に騒がしさが近づいてくる。衝撃音から正気を取り戻したばかりの教師達が、恐怖に顔を引きつらせながら恐る恐る廊下を歩いて来たのだ。
「どういう事なの……?」
教師が漏らした呟きには慌てた様子の男性が走ってきて、退魔師達に答えさせる事を許されなかった。遅れて合流したのは教頭だ。
「教頭先生、今さっき爆発音が!」
「せ、先生方、授業に戻ってください。これについては後ほど説明します」
訝しげに去って行く数人の教師達を見送ると、教頭が眼鏡の奥から鋭い眼光を六人に向けてきた。
「……これはどういう事ですか? もちろん説明していただけるんでしょうね」
「はい、説明させていただきます。しかし今はまだ危険性が高いので、教頭先生も退避してください」
「生徒達は避難させた方が……」
「いいえ。ここ周辺の教室は授業に使われていないようですし、混乱を招きかねないので避難はさせないでください」
「ですが、こちらとしては生徒達の身の安全を守らなくてはいけません。何かがあってからでは遅い。現にその何かは起こった! 責められるのはこっちなんですよ!」
教頭の言葉に右京は苦渋の色を浮かべた。
「これで解決なんです。後はここを浄化しなくてはいけないくて、支部からの応援が必要なんです。しかしその間、現場の保存のために一般の方は離れていてもらわないといけなくて……」
歯切れの悪い説明に、教頭と同じく状況を理解できていない夜斗と信太は首を傾げる。そこにふくよかな校長もやっと到着し、間に立ってなだめ教頭を連れて行ってくれた。ここから二人への説明が始まる。
「さっきのは雪子ちゃんが爆発した音。だから教室も水浸しになっているんだ」
「ば、爆発ぅ?!」
右京の言葉に信太が絶句する。すると得意気に弘和は解説をした。
「雪女は恋をすると溶けちゃうんだ。それで今回は右京さんに猛烈に好意を抱いてしまって、沸騰した結果破裂した。だからこの水は雪子ちゃん」
「何それめっちゃホラーなんだけど」
「淡い恋心は溶けるように、熱烈な想いは沸騰するように。氷を人肌で温めて溶かすのか、灼熱の炎の中に投入するのかくらいに違うんスね〜!」
神出鬼没な針裏の突然の登場は毎度の事だが、結論部分をもっていかれ弘和は不服そうに渋面を作った。
「とりあえずその水、この瓶の中に入れてくれないっスか? ここに放置してて再生したら危ないし、支部に持ち帰ろうかなって」
「どうやって水なんか集めるんですか?」
「モップとか雑巾でいいんじゃないスか? 君なら掃除用具がどこにあるとか分かるでしょ。持ってきて」
――こんな胡散臭い奴に指図されるのはなんか癪。
とは思いつつも、弘和は素直に従う事にした。皆で教室中の水を集める中、傍観し口を出すだけの針裏を尻目に六人は十分程度で作業を終わらせる。
「そんじゃあ支部に帰ろっかぁ。ティアちゃんと桃井ちゃんも復活した事っスしね」
「ほ、本当ですか?!」
声を上げる夜斗を笑う針裏。彼の言葉に六人の顔には安堵の表情が浮かぶ。
「当たり前でしょ。必要だったのは溶かす為の時間だけだったんスよ。どうやら雪女は、律儀に氷の中の時間を止めておいてくれたみたいだしねぇ?」




