No.40「椅子取りゲーム」
――自分には姿がない。誰かに認知してもらう事も、あるはずのない名前を呼ばれる事もなかった。話しかけても誰一人相手にはしてくれない。自分には、存在を主張し、思いを届けるための声などないのだから。
人との繋がりを透明人間は心の底から願った。来る日も来る日も願った。街で難なく人と関われる人達を見ては疎外感を覚え、孤独に心を痛めた。
公園では父親と子供が遊んでいる。眼鏡をかけた優しそうな父親は楽しそうに笑っている。何気ない日常のそれが、とても羨ましかった。
「……あの、すみません。最寄り駅はどこですか?」
背後から女性の声がする。驚きに振り返ると、そこには中学生くらい少女がいた。
――誰に話しかけているのだろう?
周りを見回す。けれども自分以外に近くには誰もいなかった。少女を見下ろすと、しっかりと目が合う。挙動不審な透明人間に、彼女は首を傾げた。
「あ、あの、最寄り駅を探しているんですけど……」
「えっと……」
透明人間は目を丸めた。初めて自分の声を聞いたからだ。初めて声という声を出せたからだ。驚きに足元の水溜りを覗いた。そこには自分が映っている。そこには、先ほどの父親の姿が映っている。
訳も分からずに、少し離れたところにいるその父親を見る。男は確かにそこに存在している。しかし、自分もあの男だった。
――どういう事だ……?
「パパ帰ろう。お腹空いた」
子供が手についた砂を払い立ち上がった。父親もそれを了承してこちらへ向かってくる。そしてこちらに気づくと、父親の表情は凍りつく。いつまでも違う方角を見ている透明人間に、少女は怪訝に思ったのかその方角を見た。
「――――え……」
二人の男を見比べ、少女は言葉を失う。次第に恐怖の色を浮かべ、小さく悲鳴を漏らした。それから透明人間は考えた。
――あの男になり替われば、もう孤独とは無縁になれるかもしれない。そうすれば自分の居場所を得る事ができる。
考えてから行動に移すまでは早かった。その男に向かって歩きだし、腰を抜かしている彼に馬乗りになって首を絞める。苦しみに顔を歪め、やがて体は脱力した。その男の子供と女子中学生はそれを目撃し、ガタガタと体を震わせていた。隣で怯えて奥歯を鳴らしいる子供を見た。
すると視線が突然低くなり、体が縮んだ。近くにあった水道の蛇口に、小さく映る自分が見える。
目の前の子供の姿をしているではないか。
混乱にその場を立ち去った。自分は一体何者なのか。目に映った人に姿も声も変化し、定まらない姿が怖くなった。自分は自分ではなく、誰かの姿をした何者でもない。
この出来事は、透明人間が人の姿をして初めて人殺しをした日の事だった。
何者なのかという答えを求め、人を殺し続けた。透明な姿でも、殺す人間の前に会った人間の姿でも、狂ったように答えを求めた。自分が消えてしまうのではないかという恐怖と戦いながら、自分と同じ姿をする人間を殺す事で自分の存在を守ろうとした。
――――これが、ドッペルゲンガーが生まれた理由と、会ってしまうと死んでしまうという事の真相だった。
*
「こんばんは」
誰もいない公園のベンチに腰掛ける少女は、何もない正面の空間にそう言った。それはカメレオンのように空間に溶け込んでいた。
「……今度は私を殺す? それとも、私の姿で誰かを殺す?」
少女は怪しく微笑んだ。挑発するような言葉に容易くのり、風景は姿を表した。足元から形成される人型に、顔のパーツは皆無だった。ただののっぺらぼうが暗闇の中でぼうっと立っている。ティアもおもむろに立ち上がると、それは姿を変えた。足元から、目の前の彼女の容姿を盗んでいく。最近では、完璧に能力のコントロールができるようになっていたのだ。
ティアの目の前にはティアがいる。この世の理に反するこの存在は人外だ。しかしこの場合、どちらが人間か人外かは分からない。
非オリジナルがオリジナルよりもオリジナルらしく振る舞えば、そのオリジナルの座は非オリジナルのものになる。
そしてオリジナルは非オリジナルとして人外認定をされたとしても、おかしくはない。
――私を私だって証明するものは、なんだろう。
ふとそんな疑問が頭に浮かんだ。しかしドッペルゲンガーの問いかけには、毅然と答える。
「お前ハ、私か? 私は、お前カ?」
「私は私、貴方は貴方。私は貴方でも、貴方は私でもない」
これが初めて与えられた、ドッペルゲンガーという存在への答えだった。ここ二ヶ月ずっと追い求めていた、自分の正体だった。
「貴方が何になろうとも、貴方は誰にもなれない。私と貴方は同じ姿でも、偽物は偽物でしかない。他人の人生を横取りする事なんて――椅子取りゲームに勝つ事なんて、偽物なんかにできっこない」
「椅子取リ、ゲーむ……」
「自分が確かに存在していると証明するためには、他人と時間を共有しなければならない。その人がいたって証拠は、人の記憶の中でしか生きられないんだから」
ティアの声は感情がこもらず冷たかった。透明な水のように、清らかでどこまでも澄んでいた。自分の事などどうでもいいというような彼女の目に、しかしドッペルゲンガーは自分の存在の危うさを察し恐怖を感じた。
「……存在すルため二は、独りにナらなイためには、二人モ本人は要ラない」
ドッペルゲンガーは、ティアの姿でナイフを持った。冷たく光る刃を向けるが、彼女はやはり一切動じなかった。ただ人外を見据え、露骨に不快感を顔ににじませる。
「自分二は姿がなイ。見たもノにはなる事がでキる。ダから、人の姿ヲ借りルしかナい」
「私を殺したいなら殺せばいい。けれどどうして人の姿を盗むの? 貴方自身、オリジナルになればいいだけなのに」
驚きの言葉がティアの口から飛び出してきた。しかしドッペルゲンガーは激昂した。
「そんナ事ができタら苦労しナい!! 私なンて、透明人間ダ。私なんテ、誰デもなイ……」
「いいえ、貴方は貴方だよ」
「さッきからお前ハなんなんだ! 本人がそウだって、言っていルんだからそうだロ!!」
「じゃあ少なくとも、貴方は私じゃない。私以外の誰かであって、貴女以外の何者でもない。私は貴方の立場でも、貴方の言った言葉はきっと口にしない。だから、貴方はオリジナルの感情を持っている。貴方は貴方の人生を歩んできたから、オリジナルなんだよ」
「私ガ、オりジナる……?」
ドッペルゲンガーは唖然とした。今まで自分の中にあった考えが、こんな少女にひっくり返されてしまったのだ。不思議な雰囲気をまとった、得体も知れないこんな少女にだ。
「性格という様々な形の名称がその人の名前なんだよ。容姿っていう貴方の記号は、貴方だけのものなんだよ」
ティアに諭され、ドッペルゲンガーの体はみるみる風景と化して行く。指先が透け、足も透けていってしまう。消えてしまうのではないかという恐ろしさに泣き叫ぶ。しかしその容姿も声も、ドッペルゲンガーのものだった。何もない空間からは雫が落ち、それは地面に模様を作っていった。
「見失っちゃだめだよ。貴方は元々、透明人間なんでしょ」
恐怖で錯乱している人外は、持っていた刃物をティアは向かって突き刺そうとする。しかし彼女は狂気と凶器に物ともせず、透明人間を抱きしめた。
「怯えないで。それが貴方の、本当の姿でしょ」
飛んできたナイフは、ティアの頬を掠って地に落ちた。それはカランと音を立て、それきり動く様子は見せない。彼女の腕の中には確かに命が存在している。ティアの服は、透明人間の流す涙で濡れていく。
「……ティアちゃん」
肩に大きな手を置かれる。声でそれが誰なのかは判った。赤いランプが強弱をつけてその場を照らす。目の前でこれを見せつけられた数人の警察官や刑事達は腰を抜かしたり、ただ信じられないといった顔をしている。
「優さん……」
「現着が遅れてごめん。……でもね、こんな無茶な事はしちゃいけないよ。自分を大切にしなくちゃ」
「勝手な事をしてごめんなさい。でも、聞こえたんです。声もなくて、助けを求めるために呼ぶ名前もなくて、誰か助けてとしか言えない声が。酷く悲痛な叫ぶ声が」
それは彼女にしか聞き取れない言葉だった。声は音だけではない。無音の声も、彼女は音として聞く能力を持っていた。
「人外だって、声にならない声は心の中に溢れかえっているんです。無音の声は、何よりも正直です」
*
「ねえ、何で一人で解決したの?」
次の日、零が一年生の教室でティアの肩を揺すっていた。
「あ、あの……頭痛が酷くなりますから大声は……」
「頭痛いなら休みなよね!」
怖い先輩だと言われる零の存在に、同じクラスの一年生は怯えている。しかしそんな人とティアが関わっているのを誰も不思議には思わなかった。学校一の美少女が、不良と仲が良くなるのはなくはない話だからだ。
しかしそうではなく、昔からの知り合いだと最近知った人達は、ティアという存在にミステリアスさを感じていた。
「……だから、なんでそんな危険な真似をしたの? 死にたいの? 殺されたいの? 死体になりたいの?」
何やら物騒な単語の連発に、周りは聞き耳を立てている。
「いや、ここでそのような話は……」
「――――この……変態がぁあぁあぁああああッ!!」
突如現れた何者かに零は飛び蹴りを食らう。自然と空気と声が漏れ、苦しそうに倒れ床に倒れこんだ。
「テメェ……! 俺の妹に手を出すたぁいい度胸だな」
「はあ? 手なんて出してないよ。あんたが今俺に対しては手を出したけどねぇ?!」
「ああ? 野郎になんざ興味ねぇよ!」
「そっちの手を出すじゃねぇよ、ウスラトンカチィイ!」
「誰がウスラトンカチだ、この薄らハゲ!」
「禿げてねぇよ! お前こそ髪キンパにしすぎて禿げてんじゃねぇの?!」
「なんだと?! エンジェルリングがあるくらいにはキューティクルがあるんだぞ……!」
「エンジェルリングー? 学年ナンバーワン問題児に、可愛い可愛いエンジェルリングー? あははははっ! 冗談はよしてよねぇ?!」
両者の間で火花が散っている。目で人を殺せそうなほどにガンをつけ合い、上級生の喧嘩が一年の教室で始まった。怒りを露わにする御祈祷魁と、余裕綽々で嫌味な笑みを浮かべる零崎零。両者、違うジャンルの怖さがあった。
「皆が怯えてます。仲良くしてください」
しかし今は、ヒートアップしすぎて勢い任せの罵り合いに転じていた。
「……これ以上続けるなら、コンクリートの中でにしてください」
「俺、コンクリ詰めにされるの? なんで?」
二人の声が見事にハモる。
「仲良くコンクリ詰めですので、ご心配なく」
「こんな怖い先輩がティアちゃんのお従兄さんだなんて、知りませんでした」
なんだかティアと綾花も似なくていいところが似てきている気がして、零は苦笑を浮かべた。
「何笑ってんだてめぇ、やらしい目で妹を見てんじゃねぇよ! 兄としてそういうのを見るのはなぁ! 親の恋愛くらいに恥ずかしくて見てられねぇんだよ……!」
「知らないよ。だいたいそんなんじゃな……」
「嘘つきは泥棒の始まりだぞ!」
「零先輩は全く全然そんなんじゃないです。とりあえず、ここ一年生の教室なので外に行きましょう。本当に皆が怖がってますから……」
どこにいても気が休まらないティアを見て、綾花は彼女がリフレッシュできる方法を思案するのだった。
*
これで事件は解決。しかし、被害者側の遺族の怒りのやり場は失われた。遺族にしか明かされなかった真犯人の正体を知り、人外対策局へと所属する者もいた。
ドッペルゲンガーは他にも沢山いる。二度とこんな事件が起きないようにと、新たにデータベースへ今回の様々な情報が書き加えられた。
あれから数日後、ティア、綾花、神無、零の元にもスカウトをしに人外対策局員が訪れた。しかしティアと綾花は断り、神無と零は所属する事を決める。
ティアは過去の経験からそれを反対したが、二人は首を横に振った。零は危険さが分かったからこそ兄の身を案じて、神無は探偵社に来る人外で悩む人達のためにその決断をしたのだった。




