No.33「三年前」
――――三年前。
ちらほらと雪の降る日の帰り道、通りすがりの公園。なにやら野次馬が騒がしく、物々しい雰囲気だった。黄色いテープに立ち入り禁止と書かれた規制線で公園を囲み、その前に一般人は何人たりとも侵入させまいと警察が立っている。
そのテープを潜り、慌ただしく出入りするのは恐らく鑑識。中でその人達と共に何かを見ながらずっと話しているのは、刑事だろうか。
「ちょっと、すみません」
殺人現場だ。そう直感し、非日常的な出来事に不謹慎ながらも高揚感を覚えた。人垣をかき分けて最前列まで出るが、ブルーシートに囲まれていて遺体は見えなかった。中学生男子の身長はまだまだ小柄で、大人の背は追い越せない。
見たくない。でも見たい。そんな怖いもの見たさだったが、見られない事に安堵しつつも落胆する自分もいた。
「その通り、不謹慎です」
心を見透かしたかのようなその言葉に、思わず振り返ってしまう。何者かと身構えていたが、その声の主は自分よりも頭一つと半分くらい小さな女の子がいた。
その制服は私立の小学校のものだ。紺色地に、赤い線の入ったセーラー服。頭には白いベレー帽、そしてパステルパープル、またはラベンダー色とも呼ばれる色のランドセルを背負っていた。
帽子の側面には金色の糸で小さく施されたイニシャルの刺繍があり、紺色の大きなリボンが帽子の中心で風に揺れている。
「……なんだ、身長も小さければ歳も下か」
小学生に不謹慎だと非難された事が悔しくて、つい見下した態度をとってしまう。
「それがどうかしましたか。去勢はって見下すなんて、年上のくせに情けないですね」
随分と可愛いらしくない子供だ。表情も口調も小学生だとは思えない程に大人びていた。何かを憂いているような、そんなアンニュイな雰囲気を子供が醸し出せるものだろうか。
「なにさ、このブ……」
どうしようもなくなりただの理不尽な罵倒を浴びせようとするが、ブサイクと言いかけてやめてしまう。見れば見るほどに綺麗だ。すぐに気付かなかった事を、男として恥じるべき程に。
「気をつけて。無闇にこういうところに来ると目をつけられますから。事件に巻き込まれたら元も子もありません」
突然の忠告に頭が追いつかない。それがやっと脳に浸透してきた時、やっとその疑問を口にする事ができた。
「それってどういう……」
はずだったが、訊きかけていたところに邪魔が入る。
「あ、やっと見つけた! もーう、急にいなくなるから探したんだよ」
「ごめんごめん! 帽子が飛ばされちゃって」
この少女の友達が駆け寄ってきた瞬間に、年相応の雰囲気に一変する。口調も優しく、ずば抜けて綺麗な容姿以外はどこにでもいる小学生だ。今は綺麗というより可愛らしいという表現が適切だ。どっちにしろ、西洋の人形のように、可愛くて綺麗で精巧に作り上げられたのではないかと思わせるような顔立ちだった。
初めに見た時、既に帽子はかぶっていた。という事は、帽子を拾った後なのだろうか。それとも、自分もこの現場を見るための口実が必要だっただけかもしれない。そうであれば、自分と変わらずにただの野次馬である。なのに、自分を棚に上げて非難された事は正直腹立たしかった。
「お前、自分だって不謹慎じゃんか。何しにここに来たんだよ」
「……ティア。ティア・ルルーシェ。私はただ、帽子を拾いに来ただけ」
横文字を並べられ、またも一瞬理解できなかったが、これは自己紹介だ。日本人離れした容姿にその名前を納得した。しかし怒りを露わにする人間に対し、律儀に名前を名乗る事については納得ができなかった。何故なら、このまま別れてしまえばお互いの事を知らずに、今日のいざこざはここで終わっていたからだ。拍子抜けして返事に数秒間が空いてしまう。
「俺は、零崎零」
「よろしく」
「は? よろしくって……」
今日限りの知り合いではなくなるという事だろうか。態度の悪い人間と仲良くなろうとする、とにかく不思議な人物だった。
「二人共、初めましてなの?」
「うん。……じゃあまたね、零さん」
はたから見ればただの別れ際の言葉だろうが、二人にとっては意味深な「またね」という言葉が零の心に引っかかった。美人とお近づきになるのは悪い気がしない。しかし連絡先を交換していない自分達が、どうやって再会するというのだろう。
そんな疑問を残したまま、二人はそこで別れた。興が削がれた零は帰路に着く。珍しく雪の降る東京の空を見上げ、私立中学の制服に身を包み、人垣をかき分ける際に乱れたマフラーを歩きながら首に巻き直した。
帰り道の途中にあるスーパーの前を通りかかると、ちょうど中から出てきた人とぶつかりそうになった。零は自分の不注意を棚に上げ、どんな間抜けな面構えをしているのかと相手の顔を見るべく顔を上げた。
「……兄貴」
「ああ、零! ちょうど食料品を買いに来ていたんだ。今日は鍋だぞ〜!」
零の兄は両手にスーパー袋を下げ、顔の横まで持ち上げてから笑顔を浮かべる。大真面目で人当たりが良い彼には、好青年という言葉がぴったりだった。
二人の両親は三年前に離婚し、この兄弟を引き取った父は海外に単身赴任中。そんな父に代わり零の兄兼保護者をしているのだが、二年前に連絡がつかなくなったきり、仕送りも途絶えてしまった。
それから零の兄、零崎優は、通っていた大学を中退し、仕事をし始めた。しかしやっとサラリーマンのスーツ姿も板についてきた頃、特に最近は帰宅時間が日付変更後なのだ。単純に忙しいのかとも思ったのだが、疲労度が尋常ではない。零は、肉体労働系の仕事も黙って掛け持ちして働いているのではないかと、疑い始めていた。
優は1LDKのアパートの一室に着くやいなや、ヒーターをつけ早速調理に取り掛かる。そんな背中を見て、零は申し訳なさと自分の無力さに歯を食いしばった。
「ねぇ、俺やっぱ新聞配達のバイトするよ」
優は目をパチクリさせた後、
「どうしたの急に」
と、包丁を持ったまま振り返る。
「だってさ、なんか最近帰り遅い事多いし。仕事、本当は掛け持ちとかしてるんじゃないの。やっぱ生活苦しいんでしょ。だったら俺、バイトするよ……」
けれど、優は優しい笑みを浮かべて首を横に振る。それから零の頭をぽんぽんと撫でた。しかし、中学生の彼は思春期ならではの恥ずかしさで照れ臭くなり、顔を真っ赤にしたまま悪態をつく。
「いっ、いつまでガキ扱いするのさ!」
「ははは、ごめんごめん。掛け持ちなんてしていないし、あまり気を回さなくていいよ。お兄ちゃんは大丈夫だからね!」
力こぶを叩いて得意顔をする兄に「あっそ!」と言い残し、零はコタツに潜った。なんだかコタツがカメの甲羅に見えてきて、笑いが込み上げてくる。「何笑ってんだよ」と顔を出す零には、また笑いながら謝った。しかし彼の表情は暗くなり、ポツリと呟くように問うてきた。
「父さん、まだ見つからないのかな。俺達、本当は捨てられたの……? それとももう、死んじゃってるのかな」
零が不安そうな顔を見せるのは兄の前でだけだった。反抗期気味だった過去を反省し、沢山迷惑をかけた兄にだけは優しくなったのだ。
「――――零、」
弟の名を呼び、何かを言いかけたところでコンロにかけていたやかんが悲鳴を上げた。
「うわわわわ」
慌てて火を止めると、情けない音が萎んでいく。ふうと息を吐きながら、隣の部屋の人の迷惑にならなかったかと頭を悩ませた。それも束の間の事、ポットにできあがったばかりの熱湯を注ぎ、再び野菜を刻み始める。
その頃には兄が何かを言おうとしていた事など忘れ、零はテレビの電源を付けてニュースを見始めた。画面には学校帰りに遭遇した事件現場が映し出され、事件の内容を淡々と読み上げる男性の声にただ耳を傾けた。
「ここ、今日行った」
何気ない報告のつもりだった。ただの日常的な会話の一つになるはずの、そんな軽さで零はそう口にした。だが優の反応は違った。突然包丁をまな板の上に投げ出し、力強く弟の肩を揺すぶった。
「何も、何も見なかったか?!」
あまりの剣幕に呆気にとられ、口を魚のようにパクパクとさせた。普段見ない兄の動揺ぶりをヘラヘラと笑い飛ばし、どうしたのかと質問を質問で返した。
「……いや、何もなかったのならそれでいい。けど感心しないなぁ。こういうところには面白半分で行くものじゃないでしょ」
一変し、咎める口調は優しくいつもの兄に戻る。
「だって帰り道の途中だったし、殺人事件なんてそうそうないじゃん? なんか非日常感があってワクワクするし」
「不謹慎だよ、零」
咎める兄の言葉から、今日会った可愛いのに可愛げのない少女を思い出す。
「何さ、二人して」
ぼそりと呟くが、もう一人の存在を知らない優は疑問符を頭上に浮かべるだけだった。
*
その夜も、優は静かに家を出て行った。動きやすい私服の上にコートを羽織り、腕時計をじっと注視していたのだ。時計なんて見ても、得られる情報は時刻くらいなものだと思うのだが、熱心に彼は何かを見ていた。
暗闇の中に照らし出される兄の顔を、ただ気づかれないように見ているしかなかった。一体何の目的のために、どこへ向かっているのかは全く想像がつかない。仕事でなければなんなのだろう。やはり、寝る間も惜しんで働いていてもおかしくはない。この可能性は、本人が否定してもゼロにして潰せるものではなかった。
――でも、今更追いかけても遅いかな。すれ違いで帰ってきて俺がいなかったら心配させちゃうだろうし。……全く、俺に黙って何してんの。頑張りすぎて体壊したら、マジ許さない。
冷静な判断をし、その日は布団の中で眠った。
次の日の朝もいつも通りだった。零が起きるよりも早く優が朝食を作って待っていたが、いつ寝ているのかと切実な疑問が浮かんだ。
しかし爽やかな笑顔は健在で、ただ弟の食べる姿をニコニコと眺めている。親と兄、両方の目が一度に向けられている気分の零は、ただそれから早く解放されようと黙々と食べた。
「ごちそうさま!」
零がそう言うと、優は更に笑みを深めた。嬉しさというよりも幸福感に満ちたその表情は、この日常に心から有り難みを感じているのだと物語っている。
そんな兄が大好きで、零も自然と笑みをこぼす。相変わらず思春期特有の気恥ずかしさもあるが、兄の笑顔は世界で一番優しかった。今ではたった一人の寄り添ってくれる家族で、かけがえのない兄という存在は零にとってはとてつもなく大きな存在だったのだ。
食器を下げてリュックを背負う。そのままいってきますと言えば、兄のいってらっしゃいという声が返ってくる。手を振られるが、それには手を上げ返し玄関の扉を開けた。後ろで静かに閉まる音がし、気持ちを静かに切り替える。
そこには家の外での零崎零の面影がある。冷ややかな眼差しを兄以外に向け、ほぼ悪態をついてまわる反抗期真っ只中の中学生に豹変した。どちらかというとこれが本来の彼の姿だ。兄の前での良き弟としての姿は、見る事ができる人がとても限られる、トップシークレット級のものだった。
「寒っ……」
マフラーに顔をうずめながら、刺すような寒さに耐える。意地でもコートを着ない、そんな同じ学校の男子間のブームは謎極まりないものだったが、なんとなくダサい奴だと思われたくなくて御多分に洩れずに彼もそうしていた。
――あいつら……馬鹿なの?
自分も馬鹿の内に含まれる事は知りながら、こんなブームを起こした発端の男子生徒を内心毒づいた。




