No.22「守らなくてもいいものが欲しい」
それは、悪夢のようだった。
「きっと、大丈夫だよ……」
由紀の励まし。
「ごめんなさい。私を庇ったせいで佐久間さんが……」
由紀の謝罪。
「佐久兎ごめん、本当に……本当にごめんなさい」
由紀の涙。人外が、許せなかった。
「ごめんなさい……」
――許せない。何もできない、無力な自分も。
「……狙いは僕だ。僕といるのは危ないから、由紀は帰って」
佐久間が運ばれた病室には、昼の日差しが差し込んでいる。あっという間にあれから半日と数時間が経っていた。そして由紀に帰ってと言いながら、その病室から出て行ったのは佐久兎だ。
「佐久兎!」
由紀は彼の背中に向けて名を呼んだ。「どこに行くの?」その問いは言葉にならず、彼女の声は萎んでいった。
「これ以上僕のせいで、誰かが危険な目に遭うのは嫌なんだ……」
――こんな非日常にいるのに、世界は相変わらず平常運転。僕の方が取り残されているみたいだ。今日という日常に乗り遅れた僕は、次にいつ来るのかも分からない電車まで、日常という駅のホームで待ちぼうけ。そんなイメージだった。
病院を出ようと出入り口を跨ごうとすると、人影が佐久兎の行く手を阻む。
「現実から目を逸らすなよ、佐久兎」
「し、信太?! なんでここに……」
「オッス。昨日ぶり」
目の前には予想だにしなかった人物がいた。いつもはあまり見ない真剣な表情に、怒りが潜んでいるのは火を見るよりも明らかだ。
「右京さんに聞いたんだよ」
「右京さんに? だって僕達はもう関係な、っ?!」
突然胸ぐらを掴まれる。その手には力がこもっており、佐久兎の着ていたTシャツからはギリギリという音が鳴る。
「関係ないって言おうとしたな?! 何言ってんだよ佐久兎、オレは……オレ達は! 同じ隊の仲間だって以前に、友達だろうが!!」
「友、達……?」
佐久兎が求めていた言葉だった。
佐久兎が求めていた、皆との関係性だった。
「これ、制御装置忘れてったろ! オレ、届けに来ただけだから。……親父さん、早く意識取り戻すといいな」
勢いよく踵を返し、追いかける間も無く信太は病院から出て行ってしまった。走り去るその後ろ姿は、いつもより頼もしく感じられる。忘れていったという表現は、彼なりの心遣いだ。
――どんどんそうやって僕と皆との距離は広がるばかりだ。僕が後退している間に、皆はずっと前進している。僕が足を止め停滞している間にも、皆は歩みを止める事はない。先頭はどんどん遠ざかっていく。
「友達……か」
そう言ってくれて嬉しかった。確かな確証が得られて安心したのだ。単純だが、少し自信がつく。それは心の余裕となって、すぐにでも由紀にとった態度を謝らなければならないと思い、顔を上げた時の事だった。
「佐久兎君を必要としてくれているんだよ。君が去ったという現実から、信太君は目を逸らしているけどね」
「うわぁぁあああああっ?!」
背後から突然声がし、驚いた拍子に尻餅をついてしまう。実に鈍臭い。そんな佐久兎とは対照的に、尻餅をつく彼をひょいと無駄なくスマートに避ける右京。願わくば途中で支えてほしかった。そんな不満は心中に留め、信太へした質問を繰り返す。
「な、なんでここに」
「話があるんだよ。ところで大丈夫?」
相変わらずの隊長の笑顔も懐かしく感じられた。信太に会った事で気が少し楽になり、右京の存在が自分は退魔師なのだと錯覚させる。
「だ、大丈夫です」
「昨日現れた人外の事について、これから少し聞かせてくれるかな? ここじゃ人の目も耳もあるから病院から出たいんだけど、今から出られる?」
「元々その気でしたから……。近くにカフェがあるので、案内します」
「うん、よろしく」
外に出ると目が眩む。しかし、暑いはずなのに何も感じられない。眩しさは感じる。しかし温度については鈍感になっていた。そんな不思議な感覚が佐久兎を襲う。
「今日も暑いね。こうも毎日猛暑続きだとまいっちゃうなぁ」
「そう……ですね」
やはり暑いらしい事を知る。なら何故暑さを感じないのだろう。自分がおかしいのだろうか。本当に悲しい時に涙は出ないと言うし、それと同じ類のものだろうと思う事にした。
「そういえば足は大丈夫?」
「あ……はい。なんとか」
ほとんど生活に支障はなく、昨日の今日で、痛みは伴うが普通に歩けている。傷は深いが小さかったのが幸いした。父、佐久間は内臓を刺された事で重体なのだ。
「あ、ここです……」
「へぇ、レヴェって言うんだ。レトロな感じがいいね」
「ここ四、五年の内にできたお店なんです」
実際に来た事はなかったが、前から気になっていた店でもある。佐久兎には誘える人がいなくて行けなかったが、皮肉なシチュエーションで願いが成就し来店してしまった。
「いらっしゃいませ! 何名様でしょうか?」
「二人で」
「こちらへどうぞ!」
右京にソファに座る事を促されるが、立場も歳も彼の方が上なので、断って佐久兎が椅子に座る。
「メニューをどうぞ。決まりましたら……」
「ごめんね、今決めちゃうから待って。えーと、俺は抹茶ラテをお願いします」
「はい、抹茶ラテですね!」
佐久兎と同い年くらいの女性の店員が、メモ用紙にボールペンでささっと書き込む。
「僕は……ミルクティーで」
新メニューやおすすめが目についたが、いざ口に出そうとするといつも通りのものを頼んでしまう。小心者にしか分からない現象だ。
「かしこまりました! ……ん? あれ?!」
お下げ髪の店員が、まじまじと佐久兎の顔を見てくる。
「あ、あの……?」
「佐久兎さんですよね? 人外対策局の!」
「そ、そうです」
「ティアちゃんがよくここに来ていたんですよ! 実は、うちと同級生なんです」
「そうなんですか……!」
これも何かの縁なのではないかと思う。それにしてもこんな近くに住んでいたなんて世界は狭いものだった。
「あ、えっと失礼しました! 今持ってきますね!」
まだ慣れないのか、店員は忙しなく去って行った。すると右京の目つきが変わる。オフモードから、オンにスイッチが入ったのだろう。
「俺に届いている情報は、昨日の十八時三十分頃に高園家をキメラが破壊。その後その家の住民である佐久兎君が銃を用い応戦するが、左足を負傷。帰宅途中だった隣人の幼馴染、佐々木由紀さんも巻き込まれ、庇った佐久兎君の父、佐久間さんが脇腹を刺された。キメラはその後狙いであった佐久兎君や由紀さんを殺さずに去って行った。……これで合ってる?」
「はい」
佐久兎の面持ちは酷く重苦しい。本人はそれを自覚しながらも、それからどうこう変化させる気はなかった。
「まあここまでは刑事課の人に訊かれた事だよね。じゃあ俺は何を訊きに来たのかというとね、本当に辞めるのかって事とかかな」
タイミングを見てワンクッション入れてくれた事に感謝するが、佐久兎の心情は荒れていた。
「それは……僕のせいで父さんと由紀が危ない目に遭ったし、だから……」
――だから、なんだ。辞めたつもりだったが、人外対策局にすがっているのも事実。本当に辞めるつもりだったのなら、銃を使って応戦なんかしない。ただ逃げればよかっただけだ。辞める事もできなければ、続ける事もできない。なんて中途半端なのだろう。これでは都合の良い事を言うだけの卑怯な奴だ。自分が力を使いたい時だけ使って、そうでなければ目を背ける。こんな事は許されるはずもない。
「何故か隊の皆がキメラに狙われているんだ。佐久兎君と、そしてその前は学校でのキメラの事件。この事件の始まりは、ティアちゃんがあゆみちゃんに殺されかけた時だね」
「みっ、皆も狙われているんですか?!」
「まだ断言はできないし、理由も分からない。しかし相手も集団である事は分かるね。いつどこで、誰が誰をどういう目的でキメラにしたのかは全く分からないから、もちろんそこは調査中なんだけどね。だから一人でいるのは危険だし、また一般人を巻き込むような事がある可能性なんかを冷静に考えれば、今の佐久兎君の置かれた環境は良くない。それにね、佐久兎君が去った夜の事なんだけど、組織関連の物を取りに行ったんだ。制御装置と銃とかをね。そしたら他の皆に佐久兎は戻ってくるからって言われて、そのまま追い返されちゃったんだ」
「皆が、そんな事を……」
――皆は僕を信じてくれていた。どんなにそれがありがたい事なのか、思わず涙が込み上げる。
「それに銃は持ってっちゃったみたいだしね!」
「す、すみません。ついいつもの癖で……」
「まあいいんだよ。銃を使った事だって、まだ君が所属しているから許されているんだ。俺としては戻って来てくれると嬉しいよ。佐久兎君に辞めるきっかけを作ったのは俺だけどね」
「なんで……何故ですか? あの時とは言っている事が真逆じゃないですか!」
「この隊には必要な儀式だったんだよ」
冷静な隊長の一言が佐久兎の怒りをクールダウンさせる。
「儀式?」
「退魔師をやらされているって意識が強いんじゃないかと思って。もちろん、初めはやらざるを得ない状況だったから仕方が無い。けれどこれから先、もっともっと危険な事が増えていくのに、そんな意識じゃ生き残れない。なんとなくで一緒の隊だって思っていちゃいけないんだよ。そんな不安定な関係性で、仲間を信じられずにどう戦いで連携をとっていける? 他の誰かに責任を押し付けているようじゃすぐに壊れてしまう。……今一度、しっかり考え直してほしかったんだ。所属したきっかけではなく、今の自分が人外対策局に所属している意味を。他の人との関係性を。退魔師として命を懸けて戦っていく覚悟があるのかどうかを」
右京はいつも隊員達を見ていた。隊の隊長であるにもかかわらず距離をとっていたのに、誰よりも、本人達よりもその危うさを理解していた。
「僕は……自信がありません。皆より能力も劣っているし、とても弱いです。父や由紀が狙われていたのに、その時は何もできませんでした。そんな人があの中にいたって、何の意味もないです」
そう言い切るが、右京は首を横に振る。
「君は自分を過小評価しすぎだよ。応戦している事実があるじゃないか」
父と同じ事を口にする隊長。思わず当時の事を思い出し、後悔や自責の念が心を内側から突いた。
「でも殺されていたかもしれないのに、その瞬間は何もできなくてっ……!」
「大切な人を失いたくなくて、パニックだったんじゃないのかな」
「……それじゃあ僕が戦う意味がないんです。守れなきゃ……守れなきゃ意味なんてない」
「君は大切なものがあると弱くなるタイプなんだね。自分の力が相手に及ばない事が分かっているからこそ、そうなってしまうんだ。冷静な判断力だと思う。組織行動をするには必要な人材だと思っているよ」
組織にも属せない人間が、一体何を守ろうというのだろう。
「僕みたいに、大切なものがあると弱くなる人は……きっとこう思うんでしょうね」
右京の温かい言葉に、しかし佐久兎は酷く冷たい言葉を返す。自暴自棄、そう言われればそうかもしれない。
「守らなくてもいいものが、欲しいって」
――それでもこれは、僕の現実。
*
結局あの場では答えを出せず終いだった。
「本当に何をやっているんだろう、僕は」
――せっかく戻る理由を用意してくれたのに、踏ん切りがつかなかった。
自分の命を懸けてまで人を救えるかと聞かれたら「いいえ」だ。
自分だけ逃げ出して、今更皆に顔向けができるのかと聞かれても「いいえ」だ。
人外から逃げずに戦う事ができるだろうかという問いにもやはり「いいえ」だ。
こんなのただの足手まといでしかない。
皆の背中を追うのも僕のスタイルだと思っていたが、足を引っ張ってお荷物になるのは違う。
いつ死んでしまうのかも分からない人達といても、もしもの時が辛いだけだ――
「だったら僕は、孤独を選ぶ」




