No.12「夏の海で見た幻」
花火を持ってきて良かった。
皆が笑顔になってくれて良かった。
時々、皆は酷く辛そうな顔をする。だから少しの間だけでもそれを忘れてくれればいいとティアは思ったのだ。
花火で照らし出される皆の笑顔はとてもホッとする。大好きな人達と笑って一緒にいられる事が、当たり前だとは思わないからだ。大切な人を亡くした経験があるのなら、今の環境がどれだけ尊いかを分かってくれるだろう。
「私、スイカとってくるね!」
「あたしも行こうか?」
「大丈夫、一人で運べるよ」
「転ばないように気をつけてね」
「うん!」
愛花のその言葉に大きく頷く。振り返りざま、夜斗と天が楽しそうに花火選びをしているのが見えた。火花の色や出方が違うため、点火する度に天は驚き、飛び跳ねて喜びを表現していた。
「そういえば天はスイカ食べた事あるのかな?」
――美味しいって笑ってくれる天を思い浮かべて、一人で笑っている私は不審者かもしれない。
自重しなければと思うが、辺りの暗さにかこつけて周りの目もはばからずに破顔していた。
砂浜にヒールが埋まる。いつもは感じない感触だった。そんな違いも楽しみながら、判子を押すように足跡を残していく。もうすぐで昼食をとった海の家だ。おばさんは親しみやすく、とっても良い人だった。
そんな事を思い返していた時だ。背筋に冷たい風が当たり、厭な空気がティアを包んだ。やけに五感が鋭くなる感覚にとらわれ、まるで今までとは全く違う空間にいるようだった。非現実的な状況に戸惑う。この雰囲気は、黄泉のそれに酷似していた。
「……ティア」
誰かが彼女の名を呼んだ。誰かなんてすぐに分かる。しかしそれをすぐに肯定できなかったのは、存在してはいけない者だったからだ。
――すぐ後ろに人の気配を感じる。振り返ってもいいのかな。もしも今いるのがいつもいる世界ではなくて、天と出会った時と同じく黄泉にいるのだとしたら……きっと、背後にいるのは人外。
無視するべきかと悩んでいた。しかし、もう一つの気配が現れる。
「どうしたんだ、ティア?」
「そうよ、どうしたの」
――やはり、この声は父と母のものだ。
そう確信するが、自分の耳からの情報を鵜呑みにするのは危険だろうと警戒心を強めた。父と母がいるはずがない。そう頭では分かっていながらも、その声の主を確かめようと恐る恐る振り返ってしまう。
「…………な、なんで」
そこには予想通り父と母が立っていた。声が震え、二人から目を離せなくなる。
――誰だろう、私の目の前にいるのは。
今まで一度も視えなかった両親の幽霊が、今更視えたとでもいうのだろうか。しかし微かに人外の気配もする。これを感動の再会だと言うのなら、あまりにも馬鹿げている。
死者は二度と息を吹き返す事はない。幸せな日々にも、もう二度と帰る事はできないのだ。つまりこれは人外。
大切にすべきは今ある幸せ。きっと死者だって、自分の死を、今を生きる人に引きずって欲しくはないのだから。
「……もう、ティアったらそんなにはしゃいじゃ駄目よ。せっかく着物を着付けてもらったばかりなのに崩れてしまうわよ」
優しく微笑む母。風景が一転し、幼い頃に住んでいた家に自分達がいる事に気づく。あり得ない出来事に視線を落とすと、自分の体が小さくなっている事にも気づいた。母の言う通り、ティアは着物を着ていた。
「ほら、神社に着いたわよ」
次に母の声が聞こえてきた時、目の前には大きな鳥居が構えていた。物理的法則を無視した世界に、これは現実ではないのだと悟る。しかしそんな気持ちも空気に溶け出し、次第に今ある状況に順応しようという本能が働く。自分の自我が薄れていくような気がした。
「ティアももう七歳なんだなぁ。七五三来るまで実感がわかなかったよ……」
「もう、来年からどうやって実感する気なんですか? ってちょっと、泣かないでよ七五三で……。ふふふ、困ったお父様ね」
感極まって泣き出す父を見てら母は困ったように笑った。仲が良くいつも笑顔で、いつも優しく、ティアが尊敬する人達だった。
「後からお兄ちゃんが来るから、それまで待ってましょう!」
その言葉通り、神社のある一室で待っていた時の事だった。遠くから近くへ、慌ただしい複数の足音が聞こえてきた。その内の一つが扉の前で止まり、荒々しく障子を左右に開いた。
「兄さん! お逃げください、人外がこちらに迫ってきております!!」
鬼気迫る表情でそう告げるのは、実家の家業を継いだ父の弟、御祈祷祝さんだ。以前に会った時とは比べ物にならないくらいに険しい顔で、そして父も今までに見た事がない位に真剣な表情をした。
「フィナ、ティアを連れて逃げてくれ」
何故だかもう二度と父に会えなくなるような気がして、ティアは父にしがみつく。禍々しい妖気を発する何かが、こちらに近づいて来るのを感じ取ったのだ。
「お父様、嫌です。一緒に、一緒に逃げよう……?」
「大丈夫だよ、お母様と先に逃げていてくれ。これはお父様の仕事なんだ。人外がこちらに向かってくる。ほら、早く!」
ティアが駄々を捏ねていると、諭すように父が語りかけた。人外とは、よく目にしている化物の事だ。何故この神社内にいるのか。人外ならば、結界の張られている神社の敷地内にいるだけで弱るはずなのに。神社の四隅に埋められた水晶が結界になっていて、入ってこれるはずもないのに。
彼女は幼いながらに、この状況の不可解な点を導き出していた。
「フィ、フィナさん……!」
切羽詰まった声に振り返ると、フィナの様子が豹変していた。喉元を手でおさえ、もがき苦しみながら倒れ込んでしまう。
「フィナ! ……っ祝、今すぐ祓いの呪を唱えろ!」
「は、はい!」
父が凄い剣幕でそう叫んだ。叔父は母の前に立ち、指で印を作りながら何かを唱え始める。唸っていた母は余計呻き声をあげ床に這いつくばっていた。父の「祓いの呪」という言葉で、母に何かが憑いてしまったのだと察する。
「ティア、早く逃げるんだ!」
「お、お父様……、お母様……? に、逃げましょう……。は、早く! 早く一緒に逃げようよ……!」
「うあ、うぁああああ、ああっ……ぐ……」
フィナが呻きながら立ち上がる。荒い息を立て、鋭い眼光を部屋中に張り巡らせていた。
「いけません! もうこの程度じゃ祓えません!」
「……なんという事だ」
ティアの父、御祈祷仁が複雑な表情をした。悲痛に歪めた顔には、絶望によく似た感情が映し出されている。
「兄さん、もう手遅れです!」
手遅れ。この言葉の先には、更なる不吉な言葉がある気がした。そのティアの予感は的中し、いつの間にか父の手には銃が握られている。
「お父様、何を……」
父の涙を見れば訊くまでもない。しかし母はその時一時的に正気を取り戻し、父の次にとるべき行動を促した。
「……仁、さん。早……く、早くしないと、完全に体を乗っ取られてしまう……! 私の自我のある内に、早くっ…!!」
悲痛な叫び。すがるような目で、自由の利かなくなった体を抑えつけようと必死に自分の体を抱きしめている。片目は人間のもの。もう片方は白目が黒に変化していた。人外に干渉された時に起こる拒絶反応だ。
「でもフィナ、俺は……」
銃を持った手がカタカタと震えていた。体と心が行動を拒絶している。公私混同をしてしまっている。どちらを優先すべきなのかは、もちろん仁は解っていた。けれど引き金が引けないのは、銃口を向けた相手が最愛の人物だったからだ。
――私がわがままなんか言ったからこんな事になったんだ。最初に逃げろと言われた時に逃げていれば、母は…………。
「兄さん、撃ってください!」
フィナの体が黒い妖気に包まれている。爪は鋭く伸び、白い肌には青白い血管が浮き上がり、頭からは角が生えてきた。憑いている人外は恐らく鬼だ。
人が堕ちる瞬間を目の当たりにして、ティアの体は恐怖に支配されていた。体が震え、奥歯が音を立てる。呼吸が苦しくてままならない。声を出す事は愚か、逃げる事すらできなかった。
母がこちらへ向かって来る。空気が震えるのが分かった。耳も肌もピリピリと痛む。なんだろうか、この感覚は。
そう、それは今の彼女なら何かが解る。
殺意だ。
ティアを庇うように父が前に立ちふさがった。両腕を広げ守ろうとしてくれたが、父の着物の袖の間から、母が手を振り下ろすのが見えた。
「ひっ……」
鋭利な刃物が空を切り裂くような音と、湿り気のある肉を捌く音がする。次の瞬間目にしたのは、バランスを崩し倒れる父だった。持っていた銃は入口付近まで吹っ飛び、硬い物を弾く音が遠くで鳴る。
頬の辺りに生温かさを感じ手を当ててみると、まだ温もりがあり、少々粘り気のある感触を指先に覚えた。
それは見なくても分かった。目の前で倒れている父からは、赤い液体が絶え間無く流れ出しているのだから。
どんどん血だまりは大きくなる。
――何故かそれを、私はただただ眺めていた。鮮やかな真紅の液体は、生命が生きていた証拠だった。紅は、ヒトの罪の色だと思った。
「お父様……? お父様、お父様ぁっ……! やだ、嫌です……。嫌だよ、お父様……起きてください……。目を覚ましてっ……!」
「……兄、さん」
人外に堕ちたフィナを挟んで向こう側にいる叔父は、尚も身動きを取れずにいた。ポロポロとこぼれる涙は、父の頬を伝いスーツに染み込んでいった。放心状態で涙を流し続けていた、その時の事だ。
「――――父さん、母さん、ティア……?」
戸惑うように、この状況を把握しかねている声。叔父である祝の隣には兄、八雲がいた。そしてそれに気づいた母が、ゆっくりと合流したばかりの我が子の方へと体を向けた。
「ティアちゃん、今の内に逃げて!」
――逃げる? ……逃げてどうするの? 今この場で逃げのびたって、私の大好きな父と母はもう、いない。
ティアは生きる事を望まなかった。それを悟ってか、憑かれた母は彼女に興味をなくした。そして八雲へと狙いを定めた人外は、夫の血に染まった自身手を一舐めする。恍惚とした表情を浮かべるのが横顔で見て取れた。
とても悍ましい光景。八雲も恐怖したのか、父が持っていた銃を拾い上げ、涙を流しながら銃口を母に向ける。
「母さん……」
親殺し。彼はその罪の重さを解っている。
今までの家族団欒を思い出して涙を流していた。父と同様に、手が震えている。
大切な人を手にかけるのは、どれほどの覚悟が必要なのだろう。
ティアの耳には、「誰か、助けて」というか細い声が聞こえた。しかし直後に、それを否定する声も頭に流れ込んでくる。
――誰かじゃない。僕がその誰かにならないと、いけないんだ。
悲しい決意。強い思い。あの声の主は、紛れもなく兄のものだった。
「……ごめんなさい」
その意味を理解した時には、止める間も無く掠れた声が聞こえ、乾いた音が緋色の秋空に響いた。
その日は、秋雨が降った。
空もさめざめと泣いていた。
父を殺したのは母。
母に父を殺させたのは人外だ。
そして母を殺したのは、息子だった。
その後、当時十二歳だった八雲と、七歳だったティアは由緒正しい御祈祷家、つまり父方の実家に引き取られた。叔父は既婚者で、九歳の一人息子がいた。叔父もその奥さんも、実の子と変わりなく二人をよくしてくれた。
しかしそれは罪の意識からそうさせるのだと、ティアは読っていた。
それから数ヶ月後。中学生になった八雲は学校とどこかを往するようになり、家には深夜に帰ってくるのが常。そんなの生活が三年程続き、自然と兄妹は疎遠になっていった。八雲が高校に入学し一人暮らしを始めてからは、ティアが高校に入学してからも一度も会えてはいなかった。
そして神社の管理をしている御祈祷家は、人外対策局と深く繋がりがあったようだ。父、仁はそこの組織に所属していたらしく、局長だったという事を中学生の時に知った。兄も叔父の息子も、中学生から所属していたらしかった。
ティアの中では、叔父達の優しさも、親の死も、兄との微妙な距離感も、何もできなかった自分の無力さに対しての嫌悪も、何もかもを奪った人外も、幸せだと感じられた日々への執着心も、同級生や教師からの気遣いという名の干渉も、全てが重苦しく感じられ、やがて密かにわだかまりへと変化していった。
誰かに負の感情を向けられれば、そのまま自分の中に入ってくる。何をどう、なんでそう思っているのかが手に取るように解った。だからこそ、どうすればどう思われるのかも嫌でも自然と分かってくる。
闇を抱えている人が近くにいると、その思いが強ければ強いほどに伝わってくる。
少しでも軽く、楽にしてあげられないかと思う程に、自分自身を責めている人を救いたいと思う程に、その人に必要以上の感情移入をしてしまう。結果的には、他人の過去を自分の能力で追体験してしまうのだ。
他人の過去を知る事ができるこの能力を、過去視という。一秒前の感情や心の声も、耳を塞いだとしても、掌をすり抜けて聞こえてくる。
能力が強すぎる故に力をコントロールできないせいで、人の過去を体験してしまうのだ。能力を上手く許容できずに暴走させてしまい、ティアはその人自身として、その人の今までの人生で起こった辛い出来事を、短時間で経験してしまうような副作用を起こす。
それは、とても辛かった。
本当に体験した人ではないティアは、罪を背負う事も寄り添う事も許されない。どんなにその人が辛かったのか、今もどれ程辛いかが解るのに、どうにもしてあげられなかった。
そして一度体験したら、その人の感情も記憶も全て自分の中に残る。学校にいても、街中にいても、人々の黒い心の本音が鳴り止む事もなかった。何百を超える人の闇を抱えるのも、だんだんと限界が近づいてくる。
トラウマの無い人間の方が少ない。そして悲劇に酔いしれ、いつまでも闇を抱えたままの人が溢れかえっていた。酔っている年月が長いほど、負の感情は餌になり闇は肥大していく。
ヒトの思いは、酷く重かった。
その頃からだ。ティアが自分の存在に疑問を持つようになったのは。
自分に対する価値は何にも見出せなかった。空虚な彼女の心は伽藍堂で、人に必要とされようと必死になっていた。そんな空っぽな彼女に、親が亡くなっているという事だけで周りの大人に気を遣われてしまう。だから心配をかけないように、精一杯努めて明るく振舞った。
――笑っていれば、いつかいい事あるよ。
そんな事をおまじないのように何度も繰り返し口にし、日々を過ごしてきた。そのおかげか、いつも周りには友達がいてくれた。私を頼り、必要としてくれる人が沢山できた。けれど、どんなに友達がいても心の穴は埋まらなかった。
孤独。それはきっと、どんだけ周りに人がいても感じてしまうものだった。
孤独は怖い。人の温もりを知ってしまえば、きっとどんな人間だってそう思うだろう。
人は独りでなんか生きてはいけない。一人で社会を成立させる事ができないからだ。社会というのは、良い意味で非力で寂しがりやの人間の助け合い制度だと思う。
人を人たらしめる感情を持つためには孤独であってはならない。
孤独は人の心を殺すからだ。
孤独を避ける為に温もりを求める割に、人は人との繋がりを怖がったりする。
人が自分から離れていかないか、傷つき傷つけられたりしないかと不安なのだ。
人はよく信じるという言葉を美化する。けれどそれは、やはり人との繋がりへの恐怖故でしかなくて。私は、裏切りへの恐れの表れだと思う。
人の汚い部分をちらほら目にするようになる年齢から、段々と小動物の様にビクビクしながら人の顔色を窺い、精一杯空気を読み、人との関係を構築していく。
人を必要とし、自分も必要とされる事を要するのが、自己肯定感に繋がるのだと思う。その集団の中でも、人を信じられない人々は結局孤独なのだ。
そして社会に意味のないものは淘汰される。だからきっと、必要のないものは社会から仲間外れにされていて、誰かに依存をしながら暮らしている。
存在しているだけで意味があるのなら、無意味に存在するものはないのだろうか。
存在そのものが存在理由として人に与えられているのは、なんだか残酷で親切だと思った。
ならばそもそも、存在理由なんて要らないではないか。
無駄ものだらけ。きっと全てが必要ないんだ。
ただのエゴで人は理想を押し付けて、さも当たり前かのように平気で人を犠牲とする。
助け合う姿は美しい。
そう錯覚させるのは、ただの防衛本能。
私は繋がりという信頼を求める人達を、弱いと思っていた。
しかし、傷つき傷つけ信頼し、そして裏切られ続けても孤独し合う姿を観て、私はそんな人達を強いと思った。
社会を見て、それを誰かが依存と言って、
世界を見て、他の誰かが信頼と言った。
生じた矛盾。
私が間違っているのだろうか。
誰かが間違っているのだろうか。
きっとどちらも正しくて、きっとどちらも間違っている。




