十一月四日
有栖川の邸宅には電話がある。
鬼同士のやりとりでは使者に書簡を持たせるなど、昔ながらのやりとりが未だに好まれている。
だが人間社会ではこのところ科学技術の発展が目覚ましい。
電話というものは離れたところにいる人物と、直接詳細な意思確認や情報のやりとりができる便利な道具だ。
有栖川は電話機自体には興味がなかったが、情報というものがいかに大事かということを知っている。
単純に中央の人間と話すのに、わざわざ出向く必要もなく大変便利ということもあり、1年ほど前から導入したのだった。
その電話機が朝から鳴っている。
鬼は夜行性だが、人間は昼間活動する。
電話を置いてからというもの、有栖川は寝ているところをしばしば叩き起こされる羽目になるのだが、これは少し想定外だった。
火燐と翠蓮が有栖川の邸宅に奉公に上がるのも、もちろん夜中だ。
つまり日中電話に出られるのは有栖川一人である。
乱れた着物姿で寝所から出てくる彼は、明らかに不機嫌そうだった。
有栖川は金属製の受話器を持ち上げ、耳に当てる。
「はい。ーーああ、あなたでしたか」
この鬼の党首は他人の扱いというものを心得ていた。
普段は尊大な態度をとる有栖川だが、気位の高い上客には温和な表情を作ってみせる。
それが「商売」をうまくいかせる秘訣だからだ。
ただし相手がつけあがるようにへりくだることは決してしない。
にこやかなのはあくまで表面上である。
「ええ。すべて順調です。心配しなくても大丈夫ですよ」
有栖川は穏やかな物言いで相手の質問に答えた。
「予定どおり暗殺は今日、実行します。以前も伝えた通り、その仕込みはかなり前に済んでいますから」
彼は物騒なことをさらりと伝えた。
「若者をひとり、我々の傀儡にしています。鬼は血を吸うものと思われているかもしれませんが、逆に血を与えることで人を操ることができるんですよ。それは本人ですら気付かないのですから、他人が気づきようがありません」
そして続けてこう言った。
「確か名は中岡艮一という、今19歳の青年ですね。右翼との交流も少なからずあるようですし、適当な人物かと」
有栖川は軽やかな声で伝えると、ふと視線を鋭くした。
「それで、弘西山の開発の話は今どのような状況で?……白紙ですか。ありがとうございます。あなたのおかげで我々も安心して眠れますね。もし、その言葉に相違があれば、そのときはどうなるか、おわかりですよね?はは。それでは、明日の新聞を楽しみにしていてください」
鬼の党首はそう言って電話を切ると、はあと息を吐いた。
「人間をあやすという行為は実にくだらんな……」
眠気を思い出した彼はふわ、とあくびをすると、髪をくしゃりとかきあげる。
そしてくるりと踵を返し、のろのろと寝所へ帰っていった。
その日の朝、中岡は自宅の洗面所で髭を剃っていた。
剃刀で肌をなぞるとじょりじょりと音がし、少し伸びた髭が短く刈り取られてゆく。
最後に水で洗い流し、手拭いで水分を拭き取る。
顔を上げ眼鏡をかけると、鏡には暗い目をした青年が映っていた。
今日彼は駅の仕事も休みを取った。
六畳一間の居室に戻ると、机の上には短刀が置かれている。
昨夜箪笥にしまっておいたそれを取り出したのは、他ならぬ彼自身である。
この数ヶ月というもの、何かに取り憑かれたかのように彼は原を殺すことばかり考えていた。
実は以前にも数回暗殺を試みていたが、いまひとつ踏ん切りがつかず、未遂に終わっている。
だが、今回こそは絶対に実行するという強い決意が心の中に断固としてあるのだ。
机の前に座ると、中岡は精神を統一するかのごとく静かに瞳を閉じる。
頭の中で、原を殺害する現場を何度も想像する。
(あの男は首相として不適格だ。なのにいまだに一国の頭の座にしがみついている。このままでは政治は何も変わらない。俺が、この国を変えるのだ)
彼は自分の正義を執行するための、最終確認をしていた。
部屋に夕陽が差し込む時間になると、彼は懐に短刀を隠し、家を出た。
行き先は東京駅だ。
明日京都に向かうため、本日夜に東京駅から汽車に乗ることは調べてある。
赤レンガの優雅な西洋建築物が見えると、丸の内側へと迷うことなく進んでいく。
改札口付近にたどり着いた中岡は、太い柱を背にしてもたれかかった。
そして、その時がくるのをひたすら待っていた。
「やあ。こんばんは」
夜の帳がおりてきた頃、東京駅の駅長室に顔を出した原は、親しげに挨拶をした。
流石に一国の元首にふさわしい、仕立てのよい洋風のスーツを着ている。
原のあとに続き、付き添いの役人や警護の人間もぞろぞろと入ってくる。
「これは原殿。お待ちしておりました」
駅長の高橋は原の顔を見て机から立ち上がると、握手をした。
「駅長、今日も頼みますね」
原は高橋の目を見てにっこり笑う。
「もちろんです。いつもご利用ありがとうございます」
高橋もにこやかに答えた。
彼らは他愛もない会話を続けながら、駅長室を出る。
汽車に乗るため、原たちは丸の内側の改札へと歩いてゆく。
蝶子たちが乗った汽車がやっと東京駅に着いたのが、この時である。
汽車を降りてきた三人は、急いで丸の内改札側へと向かっていた。
「時雨殿。原首相なら私も新聞で見たことがありますけど、問題はどこからどのように襲うかがわかっていないことではないでしょうか」
蝶子は小走りしながら時雨に疑問を投げかけた。
「それは俺も懸念しているところだ。鬼の気配ならわかるんだが、今全くそれを感じない」
隼人も時雨に問いかける。
「ということは攻撃をしかけてくるまでわからないと」
時雨は渋い顔をしてうなずいた。
隼人はこの鬼の血を引く青年にいつしか反感を抱いていた。
それは、嫉妬からくるものなのかもしれない。
蝶子と彼の距離が近くなるのを感じるたび、隼人の心は乱された。
(この人は鬼のくせに、財閥の坊ちゃんとして育てられてきた。もし本当にお嬢さんに求婚してきたら、旦那様も最初は渋ったとしても、最終的には了承するだろう。その点、俺はどうだ。ただの下男だ。お嬢さん本人への告白さえうやむやにされてしまった。可能性など万に一つもない……)
今まではお嬢さんの一番近くにいられるならと、使用人という身分も甘んじて受け入れてきた。
しかし、時雨が現れたことで、劣等感に苛まれることが多くなった。
隼人は沈んだ気持ちになる。
もし、自分が良家の子息だったらまた違ったのだろうか。
ついそんなことばかり考えてしまう。
(もし……一条殿さえ現れなければ……いなければ……)
最近はそんなどす黒い感情が湧くことも増えてきた。
(いっそ死んでくれたら……いや、回復力が強いし多分無理だ。俺が、殺すしかないのか……この、鬼斬りで)
隼人は走りながら刀に手をかけた。
ゆっくりと、ほんの少しだけ刀を鞘から出す。
白銀の刃がちらりと光った。
ふと蝶子が振り返り、隼人の方を見た。
「隼人、どうかした?」
我に帰った青年は慌てて刀を鞘に押し込んだ。
「いえ、なんでもありません」
瞳を泳がせる隼人を蝶子は不思議そうに眺めたが、すぐ前に向き直った。




