巫女
翌日からは時雨が言ったとおり、徒歩での移動が始まった。
駅の近くは商店や市街地であったものの、歩を進めるにつれ次第にのどかな景色へと変わっていった。
少し離れたところには大きな湖が覗いている。
蝶子は気になっていたことを時雨に聞いた。
「……ところで、今日の宿はどうするんです?」
そうだな、と時雨は少し考えてから口を開いた。
「どこか泊まるところがなければ、野宿だな」
と彼は平然と言ってのけた。
わかっていたことだが、蝶子はぎりぎりまで野宿は避けたかった。
「私、考えたのですけど。このへんはまだ探せば民家があります。そこに泊めてもらうというのはどうでしょう。少し早めに探しはじめれば、泊めてくれるお宅も見つかると思うの」
時雨もその考えには同意のようで、うんと頷いてみせた。
「できるだけ体力は温存しておきたいからな。あそこの湖で漁をしている人影が見える。声をかけてみようか」
そうして四人は湖に向かった。
湖にたどり着くと、ちょうど一人の男が漁を終えて岸に上がってくるのが見えた。
「あの、すみません」
時雨が声をかけて宿泊の交渉を始めた。
よく日に焼けた肌で四十過ぎほどの、人のよさそうな顔をした男だった。
男は時雨の話を聞きながら残り三人の顔ぶれをちらりと見た。
彼は最初戸惑っていたが、やがて了承したようだ。
時雨が三人の方を向き、腕で大きく丸を作ってみせた。
「へえ、東京から来たのか……こんな遠い、何もないところまで、またどうして?」
彼は名を嘉兵衛と言った。
都会からやってきた四人を、嘉兵衛は不思議そうに眺めた。
時雨もまさか鬼を追ってきたとは言えず、
「実は弘西山のふもとに私の親戚が住んでいまして。彼に会うためにやってきました」
と嘘をついた。
「確かにあのへんはマタギが住んでるって話には聞くな。なあんもないし不便なところだから行ったことはねえけども」
そういうと嘉兵衛は急に声をひそめた。
「でも、あそこに行くなら気をつけたほうがええ。鬼が出るっちゅう噂のある、深い山だ」
四人はどきりとしたが、とっさに蝶子が話をそらした。
「嘉兵衛さん、ご家族はいらっしゃるんですか?」
その質問に彼はああ、と頷いた。
「嫁と娘が一人……娘は今年十になる」
嘉兵衛はためらいがちに笑った。
「早く会いたいわ。名前はなんていうんです?」
蝶子はたたみかけるように質問をする。
嘉兵衛は頭をぽりぽりとかきながら、照れくさそうに答えた。
「鶴、っていうんだ」
「まあ!とっても優雅な名前ですね」
こうして他愛ないおしゃべりを繰り返しているうちに、一行は嘉兵衛の家へとたどり着いた。
話によるとどうやら嘉兵衛の本業は農家で、農閑期や手の空いたときに湖で漁をするといった具合らしい。
茅葺屋根の木造二階建ての家は、田舎を感じさせる作りだ。
「ちょっとここで待っていてくれ。先に嫁に話しておかないとびっくりするだろうから」
と外に四人を残し一旦嘉兵衛は一人で家に入った。
しばらくすると彼は中からひょっこり顔を出し、手招いた。
「いらっしゃい」
だいたいの話を聞いたであろう奥さんが、家の中で出迎えてくれた。
部屋の真ん中には囲炉裏があり、昔ながらの風情と生活感にあふれていた。
「鶴はどうした?」
嘉兵衛が奥さんに尋ねた。
「今日は秋ちゃんのところに遊びに行ってるよ。もうそろそろ帰ってくると思うけど」
奥さんの答えにそうか、と言ったそのとき、ちょうどただいま、という子供の声がした。
鶴が帰ってきたのだ。
見知らぬ客人を見比べるようにしたあと、母親の元に近づいた鶴は誰?と尋ねた。
「お客様よ。今日はうちに泊まることになったから、鶴もごあいさつして」
母親に促され、鶴はにかみながら
「こんにちは」
と小さな声で挨拶をした。
蝶子はそれを見てほほえましく思いながら、
「こんにちは。今日はお邪魔するけど、よろしくね」
と挨拶を返した。
その晩。
男三人は居間で雑魚寝、蝶子は二階にある鶴の部屋で寝させてもらうことになった。
鶴は蝶子にすっかり気を許したのか、布団の中でこんな話を始めた。
「あのね、私巫女なんだよ」
「巫女?」
蝶子は突然の話に思わず聞き返した。
「そう、お父ちゃんとお母ちゃんに言われたの。鶴は巫女だから、ちゃんと神様にお仕えするんだよって」
「へえ、なんだかかっこいいわね。このあたりの風習なのかしら」
地方にはそういうものがいまだに残っているのかと、蝶子は感心しながら答えた。
「フウシュウ?」
聞きなれない言葉に今度は鶴が聞き返した。
「そう。ええと……その土地独特の決まり、というか」
蝶子は子供にも分かるような言い方を頭の中で必死に探した。
「ふうん、他のところではやってないの?」
「少なくとも東京では聞いたことがないわね」
それを聞いた鶴はにっこりと笑ってこういった。
「東京、行ってみたいな」
蝶子もそれに笑顔で答えた。
「そうね、お父様が許してくれたらうちにいらっしゃいよ。歓迎するわ」
二人の少女が眠りについてしばらくした頃。
ぎしぎしと廊下の板がきしみ、何者かが部屋に近づいてくる音がした。
蝶子は長旅の疲れですっかり深い眠りについており、目を覚まさない。
そろりと鶴の部屋の襖が開く。
侵入者は蝶子の枕元に近づくと、静かに布団をはがした。
その寒さと自分に触れるものの刺激で、蝶子はようやくぼんやりと覚醒した。
はっと気付いたときには両手足を縄で縛られた状態になっていた。
声をあげようとすると強く口元を押さえつけられ、布を強引につめられた。
「んー!」
もはやくぐもった声しか出せない蝶子は遊郭に売られたときの恐怖を再び思い出していた。
どうやら侵入者は二人らしい。
二人で少女を担ぐと、部屋から運び出そうとした。
しかし蝶子はあらん限りの力を振り絞り、暴れた。
すると階段にさしかかったところで一人が手を滑らせ、その反動でもう一人も蝶子を手放したのだ。
少女は手足を縛られた状態のまま急な階段を激しく転がり落ちた。
「うっ……!」
少女の全身に強い痛みが走る。
しかし今はそれに構っている余裕はない。
誰かに助けを求めなければ。
その一心で蝶子は立ち上がろうと懸命にもがいた。
しかし、二人の賊がそれを黙って見ているはずもなく、慌てて駆け下りてくる。
また追いつかれる。
蝶子が絶望しかけたそのとき――。




