ヤバへの最後の挑戦
ティグラト・ピレセル3世統治下のアッシリアは、メソポタミア世界の大部分を支配下に置いた。
まだウラルトゥやエジプトが独立勢力として残っているし、イスラエルやユダ王国という「属国」も残っている為、彼の代を「最盛期」とは呼ばない。
しかし、後に訪れる最盛期への道は、彼の代でほぼ基礎固めがなされていた。
アッシリアの統治システムは、これ以降大きな変革はなされない。
この時期から、歴史は「アッシリア帝国」と呼ぶようになる。
バビロニア遠征を終え、自身がバビロニア王となる二重王権を確立させたティグラト・ピレセル3世は、遠征を控えて内政を充実させるフェーズに突入した。
とえいえ歴史を見るに、彼に残された時間は短かった。
紀元前729年にバビロニア王となった彼は、紀元前727年にはこの世を去る。
紀元前745年に王位を継いでから、統治18年となる。
これは、その最晩年に起きた事件の話だ。
バビロニア征服の偉業に沸く王都カルフに、一人の工作員が入り込んだ。
ウラルトゥから都市国家サマルに送られた要員篭絡工作員バグマシュティである。
彼女は反アッシリア工作をする為にバビロニアに奴隷として売られ、首尾よく親アッシリアの王を倒すクーデター煽動に成功するも、その1ヶ月後に別のクーデターが発生し、カルデア人に略奪されてしまった。
カルデア人も反アッシリアだから良いかと大人しくしていたが、ティグラト・ピレセル3世の親征によりバビロニア全土がアッシリアの傘下に入る。
バグマシュティは、彼女を買ったカルデア人が身の安全を図る為、アッシリアに献上されたのだ。
(これは中々の運命の巡り合わせね)
バグマシュティはそう思った。
彼女はウラルトゥの為に働く工作員である。
今まではアッシリアの外に居て、アッシリアを弱体化させる工作を行っていた。
だが今度は、その懐に潜り込める。
彼女は暗い野望を胸に秘めて、有能な女奴隷を演じていった。
バグマシュティ……それは本名ではない。
本名はもっと素朴な女性名であった。
彼女はウラルトゥの北辺に生まれた。
幼い時に遊牧民スキタイの襲撃を受け、両親が死に、彼女も拉致される。
逃げ延びた兄が警備隊に通報した事で、ウラルトゥ軍がスキタイを撃破、彼女は救出された。
その後、時の国王サルドゥリ2世がまず兄を自身の警備兵に抜擢。
続いて彼女を工作員に登用する。
この2人の活躍により、スキタイ襲撃時は赤子だった為、上手く隠されて生き延びた弟が両親の居た土地に戻り家を再興した。
バグマシュティの任務というのは、中々の苦行なのだが、それでも彼女はサルドゥリ2世に感謝し、絶対の忠誠を誓っている。
聞けば、先のアッシリアとの戦争で、兄はサルドゥリ2世を守って戦死したが、もう子供が居て後を継いでいる。
弟にも子が居て、幸せに暮らしているという。
その一方、彼女は子を産めない。
産めない体質なのか、要員篭絡工作の為に薬を飲み過ぎたせいかは分からないが、これまでに妊娠した事が無い。
(私などはどうでも良い。
兄と弟が父母の血筋を残してくれた。
国王には感謝してもし切れない)
このような稼業に身を置いている為、彼女は既に一般的な幸せを求めなくなっている。
その上で、自分は子を産めないようだと悟ると、より一層任務に忠実になった。
そんな彼女だが、任務の最中に出会った一人の女性に対し、異常な執着を抱くに至る。
現アッシリア王妃ヤバだ。
元は都市国家サマルの王太子妃候補で、才女と周囲の評価も高かったた少女である。
最初、バグマシュティは彼女を嫌悪した。
遊牧民の襲うような地で農民の娘として生まれ、両親と死に別れ、王の為に女を切り売りする稼業で生きる自分に対し、何不自由ない環境で生まれ育ち、書類(粘土板)仕事をするだけで「才女」なんておだてられるヤバ。
この女に世間の厳しさってやつを教えてやりたい。
当時の王太子クラムワを篭絡し、周囲を親ウラルトゥ派で固め、婚約破棄を突き付けて国外追放にした時は、それは気持ちが良かった。
しかし、その感情は変わっていく。
ヤバは机上の仕事でチヤホヤされるだけの青白いエリートではなかった。
カルフ総督夫人になると、自らの才覚で男尊女卑のアッシリアの中でも頭角を現し、時には自ら動いて事態をひっくり返す。
バグマシュティが尊敬するサルドゥリ2世すら、ヤバを認識して警戒しているようだ。
感情は嫌悪から屈辱・嫉妬に変わる。
その後、サマル王妃となったバグマシュティは、戦争に参加して留守のクラムワに代わって国政を担当した。
同じ仕事をして初めて、バグマシュティはヤバの実力を思い知った。
女性でも、こんな生産的な仕事が出来るのか!?
この頃、自分の妊娠しない体質に薄々気づき始めたバグマシュティは
(自分は生産的な事が出来ない。
自分はただかき回し、壊す事しか出来ない)
と認識する。
ヤバへの思いは、羨望・尊敬へと変わった。
だが、その羨望・尊敬は歪んだ形のものである。
世の中にこんな素晴らしい女性が居たのか!
私なんかには到底出来ない事を出来る素晴らしい女性がこの世にいるなんて!
だから、私はあの女性に勝ちたい。
同じやり方では勝てないのは思い知った。
でも、どんな手段でも良い、あの女性に勝ってみたい。
この感情に、数年前からは殺意が入り込んでいた。
原因は、かつて篭絡したサマルの王太子クラムワの死である。
バグマシュティにとってクラムワとは、任務における攻略対象に過ぎなかった。
ちょっと煽てれば調子に乗り、泣いてみせれば慌てて機嫌を取ろうとする。
頭は悪くないが、地に足が着いた考えをせず、すぐに流されてしまう。
ヤバはクラムワを「馬鹿王子」と呼んでいたが、バグマシュティも内心同じ評価をしていた。
しかし、思い返せばクラムワは、とにかくバグマシュティに一途だった。
他の女性に目をくれる事もなく、ただひたすらバグマシュティを愛していた。
やがて反アッシリア同盟が崩壊し、クラムワとバグマシュティはサマルを追放される。
次に出会った時、男女はそれぞれ変わった姿をしていた。
馬鹿と思っていた男は、戦い続けてその甘さが削ぎ落とされていた。
クラムワは、神殿娼婦となってイスラエル王国での工作活動をしていたバグマシュティに気づく。
しかし咎める事はなく、事情は知らないが、それでも今はバグマシュティとして自分を愛して欲しいと求めた。
その日、彼等は利用し、利用される関係ではなく、アッシリアと戦う同志となったのだ。
しかしクラムワは、アッシリアとの戦いで殺される。
恐ろしい兵器によって、この世に存在した痕跡すら残さずに消滅させられた。
その残酷な最期を伝え聞き、バグマシュティは自分でも意外な事に、涙を流していた。
(この私が、演技ではないのに涙を流すなんて……)
この時彼女は、自分も心のどこかでクラムワを愛していた事に、やっと気づいた。
そして、クラムワをこの世から消滅させた超兵器、それを開発したのがヤバだと彼女は直感した。
他に考え付く人間はいない。
憶測に基づくものだが、当たっているから女の直感は侮れない。
こうしてバグマシュティは、実行犯であるティグラト・ピレセル3世よりも、そんな兵器をこの世に作り出したヤバに対し、深い殺意を抱くに至る。
歪んだ敬意と、愛した男を消し去った事への殺意、その入り混じった情念がバグマシュティを動かしていた。
彼女は半年余りで、王妃付き奴隷に入り込む事に成功する。
アッシリアにもサルドゥリ2世が送り込んだ工作員がいた。
その者は、かつてアッシリアを牛耳り、国王以上の権勢を誇った最高司令官シャムシ・イルの下に送られていた。
シャムシ・イルの死後、その家に仕えていた者たちには厳重な監視が付けられていたが、あれから十年以上の月日が流れていた為、もう敵意は無いものと判断されている。
実際、バグマシュティが王宮付きにしてくれるよう頼んだ「元」ウラルトゥの工作員も、アッシリアに対する政治工作は行っていない。
ウラルトゥへの忠誠心が強い者は、発見されたら殺される事を承知の上で、サルドゥリ2世に替わって王位に就いたルサ1世の元に逃げて行った。
アッシリアに残った者は、もうここで生きていくと決めた者ばかりである。
バグマシュティは隙を見て、そういった「元」工作員の内、王宮に仕える者に繋ぎを入れた。
「貴女の境遇、同じ立場だった者として、よく分かります。
いや、貴女は味方に騙され、バビロニアに奴隷として売られたんでしょう?
私よりずっと苦労をしているんですね……。
喜んで宮内長官に紹介します。
元は敵地、それでも私たちは頑張って生きていきましょうね」
そう手を取って涙する、「元」工作員に対し
(私はあんたとは違うよ。
私はここで、生きていくつもりはない)
そう心の中で呟いていた。
バグマシュティは内心の殺意を悟らせないよう、必死に働く。
王宮の者は、よく働く奴隷が来たものだと喜んでいた。
後宮に男性は入れない。
ここに入れるのは女性か宦官だけである。
働き者のバビロニア人奴隷が、後宮の王妃付きになるまでそう時間はかからなかった。
そして運命の日が訪れる。
ティグラト・ピレセル3世は、この年も王権の更新のアキトゥ祭をバビロンで行っていた。
ヤバも王妃として参加している。
マルドゥーク神像の手を握る事で、バビロニア王プルとしての王権が更新された後、参加者を招いての新年の宴が催された。
男尊女卑のアッシリアの気風から、王妃と言えども男女同じ席は許されない。
ヤバ主催の女性だけの「ハレムの宴」が開かれる。
そこには、挨拶に来たアラブの女王ザビベも招かれていた。
ヤバの宴会は、彼女の発案による変わった料理も楽しめる為、むしろ参加希望者が多い。
その宴の中、バグマシュティがついに行動を開始する。
この日を待っていた。
彼女は王妃に出す料理の中に、人に見られぬよう毒を混入する。
そして素知らぬ顔で料理を運んでいった。
ヤバは全く気付いていない。
(勝った!)
バグマシュティは内心叫んでいる。
ヤバは毒料理に口をつけようとしていた。
おまけ:
帝国とは
・多数の民族や周辺の属国を従える
・君主を中心とした巨大な官僚機構が整備されている
・強大な軍隊とそれによる広大な領域を持つ
・一代限りではない永続する仕組みを持つ
国とするなら、ティグラト・ピレセル3世でこれらは全てクリアされました。
これまでのアッシリアは、王が必ずしも力を持たず貴族に負けていたり、征服はしても持続的な統治は出来なかったり、統治機構は未発達だったり、征服地や周辺民族は統治せずに貢ぎ物や略奪によって富を奪うだけだったりと、帝国というには物足りなかったわけなので。
19時にも更新します。
次話が最終話です。




