バビロニアの動乱
話はイスラエル王国がアッシリアに降伏し、ダマスコが包囲をされながらも持ちこたえていた時期に遡る。
イスラエル王国サマリアにて。
「ルサ様がビアインリの勢力回復の戦いを始めるそうだ。
俺はビアインリに戻って王に従って戦うが、お前はどうする?」
路地裏で娼婦のような女に、胡散臭げな男が話しかけていた。
彼等はビアインリ王国、アッシリアが言うところのウラルトゥの工作員。
女の方は都市国家サマルでバグマシュティと名乗って、王子を篭絡した事がある人物だ。
男は同じようにサマルに潜り込んで、商業等で工作の実務を担った者である。
この地には、他にもウラルトゥの工作員が逃げ込んでいた。
ウラルトゥは、一時はアッシリアを圧倒する勢力を持っていたものの、ティグラト・ピレセル3世即位で状況が変わってしまう。
全盛期を作り上げたサルドゥリ2世が戦場でティグラト・ピレセル3世に敗れ、その後も敗退を重ねて南部及び東部領を奪われてしまった。
サルドゥリ2世は戦死したが、その前に王子ルサを首都から脱出させている。
その王子が即位してルサ1世となり、残された領土を統治している。
ルサ1世は武力を使わずに全国を巡幸して回って、総督や将軍たちの離反を食い止めた。
ルサ1世の悩みは、南方のアッシリアではなく、北方の遊牧民スキタイである。
ティグラト・ピレセル3世は現在、イスラエルやダマスコという南方に目を向けていて、ウラルトゥの事は放置している。
故に、相手が弱ったならば猛攻をかけてくるスキタイが喫緊の課題であった。
ルサ1世は、アッシリアが介入して来ない内に、北方に打って出て領土を再拡大し、スキタイの侵入を防ごうとしている。
かつてサマルでウラルトゥの為の工作活動をしていた者にも、その情報がもたらされていた。
「帰りたいなら帰りなよ。
だが、その前にやって貰いたい事がある」
「なんだ?」
「私をバビロニアに、奴隷として売って欲しい」
「なんだと?
それはどういう事だ?」
「あんたも帰国に際して路銀が必要だろう?
私を売ってその銀を得れば良いのさ」
「お前もビアインリに戻れば良いだろう?
確かに路銀は無いが、ここまで反アッシリアで戦って来た同志だ。
お前を故郷に戻すくらいの事はするさ。
仲間たちだっている」
「有難いねえ。
でも、私はまだ反アッシリアを止めてはいない。
今度はバビロニアで使える奴を篭絡するのさ。
私にはそれしか無いから……」
「……分かった。
お前の意思を尊重する」
「感謝する。
バビロニアでも争乱が起これば、アッシリアの目は南を向いたままさ。
ルサ様は安心して戦う事が出来るだろうね」
「お前、そこまで考えていたのか。
篭絡要員の女にしておくには惜しい……」
「私はこれでも、サマルの王妃になって、留守中は政治をしていた身だよ。
篭絡工作以外は無能で、何も出来なかったけど、多少は世の中の事も知ったって事さ」
「そうだったな。
何もするな、と本国から指示されていたが、お前はお前なりに成長したんだな。
最早何も言うまい。
お前の望み通りにし、我々はビアインリに帰る」
こうしてバグマシュティは、奴隷としてバビロニアに売られていった。
バグマシュティは
(私に残された時間は少ない)
と思っている。
(女を武器にして来た私だ。
その色香が加齢と共に無くなって来ているのは、自分が一番分かる。
年増の色気とか言うが、限度がある。
化粧をせずとも、瑞々しい若い肌に男は惹かれるのさ。
こういう稼業をしていると、化粧は上手くなる一方、身がボロボロになるのも早い。
だから、まだ色香をもって篭絡出来る今しかない。
私は、私が追放したヤバ様に負けたくない。
あの方は知らないだろうね。
私はあの方を、ヤバ様を尊敬しているのさ。
色香では勝ち、男を手玉に取る事では私が上でも、あの方はそんな事とか関係なく上に登っていった。
眩しいし、羨ましいし、尊敬するよ。
王妃の真似事なんかしたから、余計にあの方の凄さが分かった。
だからこそ、ヤバ様の悔しがる顔が見たい。
あの方に屈辱を味わわせてやりたい。
誰にも分からないだろうねえ、あの方が大好きで、尊敬しているからこそ、滅茶苦茶にしてやりたいって思うこの度し難い感情はさ)
そして、彼女が売られてからバビロニアに争乱が起こるまで、2年と掛からなかった。
紀元前732年、バビロニア第8王朝(E王朝)ナブー・ナディン・ゼリ王はクーデターによって殺害される。
その後、ナブー・シュマ・ウキンという、地方総督だった者が王位に就いた。
そして僅か1ヶ月後、カルデア人の部族長ナブー・ムキン・ゼリがクーデターを起こし、王位を奪う。
歴史はナブー・ムキン・ゼリの即位をもって、第8王朝(E王朝)の終焉、第9王朝の始まりとする。
(ナブー・シュマ・ウキンは長くは持たなかった。
まあ、親アッシリアの王を倒せただけで満足しよう。
次の王も、反アッシリアだし、ナブー・シュマ・ウキンより更に強硬的だ。
結果として、かえって良かったかもしれないね)
今度はカルデア人に奴隷として奪われたバグマシュティは、そう思っていた。
彼女は、洗脳したり人格を変えるような事は出来ない。
彼女は、相手の欲望や恨みを増幅させたり、不安を解消する形で思考誘導したり、褒めて欲しい所を上手く褒めて相手を増長させたりする技術に長けていた。
その分、人間観察の達人と言えた。
自分が売られ、そこで取り入り、野心を膨らませて王位簒奪させた男は死んだが、その後によりアッシリアに対して攻撃的な者が王となったのだから、目的は果たせたようなものだ。
(さあ、ヤバ様。
私にお付き合い願いますよ。
貴女たちの目を、絶対に北には向けさせません)
ヤバはアラブの女王ザビベとの交渉を終え、王都カルフに戻って来ていた。
アラブの女王ザビベは交渉上手で、半独立的な立場を維持し、通商においても多くのアッシリアの庇護を勝ち取った。
代わりにヤバは、ザビベ経由でシナイ半島の諸部族の服属を受け、多数の貢ぎ物を得る事が出来た。
また、アラブのラクダ部隊は、アッシリアの補給部隊として協力する取り決めもされる。
アッシリア人第一主義の時代からしたら、戦闘部隊ではなく補給部隊であっても、非アッシリア人を大量に使う事は大きな変化と言える。
だが、このラクダによる補給部隊を得た事で、以降のアッシリア軍は砂漠を越えた遠征も可能な、恐るべき軍隊となった。
外交的・軍事的にヤバは大成果を挙げ、ザビベはハラブの商人との関係を深める等の得をしている。
ヤバは
(こういう相手とは、利害を共有すべきね。
利害が一致している間は絶対に裏切らないし、熱心な協力者になってくれるのだから)
と相当に譲歩した事も肯定的に捉えていた。
アッシリアの譲歩……といっても、それは強圧的に振舞わないだけで、経済的な利益はアッシリアも受ける事になるのだから、何の問題もない。
この辺は、誇りだの「神から与えられた使命」だの言う男性では出来なかった判断だろう。
そうして帰国したヤバは、2つの衝撃を受ける。
義娘でヤバに懐いているバニトゥが出産して、家族が増えていた。
そして、対バビロニア工作を担当していたバニトゥが出産・育児に入っている間に、バビロニアで政変が頻発し、情報が整理出来ない状態で混乱していた事であった。
「私がこのような事で役に立てず、申し訳ございません」
謝るバニトゥに、
「今まで留守の私に代わって王妃の役割までなさって来たのです。
私からは感謝の言葉しかありません。
子を産むのは、女にしか出来ない事です。
子育てで仕事が出来ないと嘆く事はありませんよ。
今度は私が貴女を助ける番です」
と言って、ヤバが彼女の仕事を引き継ぐ事にした。
「現在までに入っている情報をまとめると……バビロニア事情は複雑怪奇ですね」
「そんな事は分かっている。
お前を呼んだのは、説明を聞く為ではなく、策を聞く為だ」
ヤバとティグラト・ピレセル3世が私的空間で話し合っている。
如何にヤバが活躍しようが、基本的なアッシリアの男尊女卑体質は変わっていない。
ヤバもアッシリアの意識を変革するのではなく、女性でも活躍出来る場を増やすという現実路線な為、公的な場で女性が弁舌を振るう事はこの先も無いだろう。
ティグラト・ピレセル3世は事態を把握しているが、それでも解説する。
カルデア人の部族長ナブー・ムキン・ゼリがバビロニア王となったが、そもそもカルデア人が一枚岩ではない。
ビト・ヤキン、ビト・ダックリ、ビト・アムカーニ、ビト・アディニ、そしてビト・シルッティという5大部族で構成されていて、それぞれが独自の首長を持った小国家のようになっている。
ナブー・ムキン・ゼリはビト・アムカーニの出自だ。
カルデア人最大部族はビト・ヤキン、2番目はビト・ダックリだが、この2つがビト・アムカーニの王に反発しているかと言うと、そうではない。
反アッシリアでは意見一致していて、自分たちの不利にならない限り、協力はしないが邪魔もしないという姿勢である。
バビロニアはカルデア人以外に、アムル人、カッシート人、アラム人という民族で構成されていた。
アラム人は、ヤバが都市国家サマルに住んでいた時期から交流があるアラム人と同一種族、同一言語の民であるものの、商業アラム人とバビロニア・アラム人では随分と性格が違う。
商業アラム人は広域に活動し、アッシリアともそれなりに良好な関係を築いていたが、バビロニア・アラム人は農耕や牧畜、軍事活動という地域密着な生活をしていて、愛郷心が強い。
バビロニア・アラム人はカルデア人とはしばしば対立するが、アッシリアとの戦争になれば、カルデア人と手を組む可能性が高い。
バビロニア古王国の主役アムル人、中王国の主役カッシート人は、今は民族としてのアイデンティティを失って、都市住民となっているのだが、彼等は「自分たちの都市・神殿さえ守ってもらえたら、アッシリアの支配も受け入れる」という姿勢である。
バビロニアはこうした民族毎の事情、民族内でも部族毎の事情で、工作するには実に面倒臭い状況なのである。
メソポタミア世界の3大勢力の一角ながら、強国と言えない事情がこれである。
これを理解した上で、ティグラト・ピレセル3世は
「どうしようか?」
と王妃に問うていたのだ。
ヤバはかねてより温めていた案を示す。
「いっそ、我が王がバビロニア王を兼任しませんか?
間接統治するには、どこを立てても収まりがつかないですし、属州にする、つまり征服してしまうと
『バビロニアを傷つける者は必ず滅びる』
という畏れに引っ掛かりますから。
だったら、バビロニア王国を残したまま、その王を兼任したらどうでしょうか?」
女性ながら、思いっきり政治判断に関わる提案であった。
ティグラト・ピレセル3世は攻略の為の策を聞いたのだが、返って来たのは意外な意見である。
「考えさせてくれ。
余にはまだ、それが良策かどうかの判断が出来ん。
あと、忘れるな。
お前は女だ。
女が政治に口を出す事を、この国は嫌っている。
今の考えは、余以外の前では決して口にするな」
「はいはい、分かってまーす!」
ヤバの軽口が戻って来ている。
妻のこの感じを見たティグラト・ピレセル3世は
(こいつが調子良い時に出した策は、最初は反発を覚えるが、後々役に立っていた事が多い。
きっと今回も、それがより良い策なのだろうな)
と感じていたのだった。
おまけ:その後のウラルトゥ王国
この回で登場したルサ1世は、アッシリアのサルゴン2世と戦って負け、自殺に追い込まれます。
サルゴン2世の死後、ウラルトゥは反撃に転じ、ルサ1世の孫のルサ2世の時には二度目の全盛期を迎えます。
しかしルサ2世の子の代から記録が混乱し、アッシリアの属国と化していたようです。
それでもウラルトゥは実はアッシリアより長続きし、ルサ3世の時はアッシリアを滅ぼしたメディア王国の属国となっていました。
ルサ3世の子のルサ4世の代で、スキタイ人を含んだ勢力の攻撃を受けて滅亡したのではないか? とされます。
ウラルトゥは、スキタイの脅威を最後まで克服出来なかったわけです。
そしてこの地域は、アケメネス朝ペルシャのアルメニア属州となり、系統が違うアルメニア人の歴史の中でウラルトゥは存在した事すら忘れ去られました。
19時にも更新します。




