【37】扉を閉めて
たったひとつの願い。
あたしが願うべき願い。
それって一体、なんだろう?
じわじわと事態の大変さがわかってきて、あたしは固まった。あたしの手の中にある指輪は、この世界の誰もが欲しがるような強力マジックアイテムだ。ひょっとしたらこの世界を滅ぼすことだってできるかもしれない。
そんなものを、こんな元ギャルに預けていいんだろうか。
いいわけない。
いいわけないけど、でも、この指輪の持ち主は、あたし。
あたしが決めるしか、ないんだ。
あたしが虚無顔で固まっている間に、地面が大きく揺れた。
ランドウがあたしを支えて、山のほうを見る。
あたしも、つられてそっちを見る。
剣竜が跳ね返した火球と、そもそも村から外れていった火球が、山に着弾したのだ。火球はなんとなく、山の一カ所に集まっているようだった。おかげで山が揺らぎ、生えている木々ごと土が剥げ、斜面を滑り落ちてくる。
「あれって、山火事にならないかな……」
あたしは不安になってつぶやいた。
ランドウも、じっとその山の一角を見つめている。
「まさか」
「まさか……?」
あたしが聞き返すのとほとんど同時に、地面の揺れが強まった。ごごごごごご、という地鳴りと共に、あたしの視界はぐらぐら揺らぐ。
「うー……まともに立ってられない……!」
あたしは必死にランドウにしがみつき、どうにか立ち続けることができた。
周囲では村人たちが転び、魔法兵ですらしゃがみこむ。
まともに立っているのは魔族側ならランドウと、リエトくらい。
リエトはランドウと同じところを見つめ、真っ白な無表情で振り返って言う。
「ランドウ。裏をかかれたかもしれないな」
「どういうことだ、リエト。あそこに何かあるのか?」
ランドウの問いに、リエトはぽつりと答えた。
「吸血鬼一族が使っていた、魔界への古い門だ。封印を破れば、今でも使える」
「…………!!」
話を聞いて、ランドウの顔色がさっと変わる。
ランドウは村の周囲をぐるりと見渡した。前後して、彼の視線の先にさらなる魔法兵団の姿が現れる。その数、千を超えるであろう兵士たちの中には、魔法兵団が量産した魔法武器を持っただけの通常の兵士の姿すら見られた。
明らかに、進軍目的だ。
馬車に乗せられた老魔法兵団長が、発作的に笑い出す。
「ふ、ふ、ふはははははは……いかなる高邁な思想を掲げようとも、結局はひとりの女の欲と、支配に負ける……こんな狂った世界など、滅びてしまえばいい……!!」
「あらあら、みっともないですこと。死ぬまで高潔でいると言っていたのに、形無しですわね」
魔法兵たちに支えられ、セラフィーナがころころと笑う。
老魔法兵団長は、その笑いを聞くと歯が折れそうなほどの歯ぎしりをした。その体が、魔法力のない者が見てもわかるほどに発光を始める。
「滅びろ……滅びろ、滅びろ、滅びろ……!! 開け、魔界の門!!」
獣の咆哮じみた叫びと共に、崩れた山肌から真っ黒な煙が噴き上がった。
煙は無数の蛇のように蠢いたかと思うと、互いにからまりあい、一枚の巨大な扉の形を取る。山肌にくっついた扉から、どっ、と風が吹いてくる。
マグマの臭い漂う、魔界の風だ。
この扉が開いたら、魔法兵団は魔界を目指す。
魔族は当然ながら防衛するだろう。
戦争だ。
避けられない。
『願うなら、後悔しないように願いなさい。願うべきときは一瞬。すぐに過ぎ去ってしまうものだから』
指輪が囁く。
あたしは、指輪を押さえて息を詰める。
そのとき、あたしの体からランドウの腕が離れた。
あたしは、はっとしてランドウを見る。
「ランドウ……!」
「リエト。魔王ランドウの頼みだ。――花嫁を守ってくれ」
そう囁いたランドウの目は、あたしじゃなく、魔界の扉を見つめている。
リエトはそんなランドウを振り向き、小さく肩をすくめた。
「頼み事をする態度じゃない、と言いたいところだけど……まあ、ちゃんとお願いできたんだから、聞いてあげる。花嫁、おいで」
「ちょ、ま、ランドウ、何するつもり!?」
あたしはランドウにすがろうとしたけど、すぐにランドウは黒紫色の煙みたいなものに包まれた。その煙に近づくだけで肌がびりびりして、あたしは本能的に躊躇う。ランドウは煙の中で、長い両手を差し伸べた。
「全力を出す。それだけだ」
お腹に響く声で囁いたのち、ぶわっ、とランドウから風が吹き出す。
思わずよろめいてしまうほどの風だったけれど、すかさずリエトがマントであたしを包むようにしてかばってくれた。リエトは強風に髪を乱されながら、大声で言う。
「しっかりつかまっているように!! ランドウは扉を閉める気だ……ここの門は元々自然に開いていたもの。それを根本から消滅させるとなると、大事だぞ!!」
「リエト、手伝ってあげらんないの!?」
「ランドウの魔力の勢いが強すぎる……普段、ランドウとしていきていたら接触できない先祖の力を引っ張り出すため、自我の境界を引きちぎっている……下手に手伝ったら、わたしの魔力とランドウの魔力が混じって、分離できなくなる!!」
「なにそれ!? どゆこと!?」
「あー……つまり!! ランドウがブチギレてるから、巻きこまれるとわたしも怪我する、そういうことだ!!」
「なるほど、理解!!」
あたしたちが怒鳴り合っている間に、ランドウは両手で何かを掴む仕草をした。まるで目の前に巨大な扉があるかのような仕草だった。
開いてしまった両開きの扉を、一枚ずつ両手で掴む。
そして、渾身の力をこめて、引き寄せる。
じわじわと、閉めていく。
ランドウの動きと連動して、今にも開きそうだった山肌にくっついた扉も、がたがたと震えているようだ。新たな石がごろごろと山肌から転がり落ちていく。
魔法兵たちは、いらいらと下っ端をランドウにけしかけようとした。
「おい、何をぼーっと見てる!! 止めろ!!」
「む……無理です、あんな魔力の渦に突っこんだら、俺の魂が吹き飛んじまう!!」
下っ端は尻込みし、誰もランドウに近寄ろうとはしなかった。
今願うべきは、何なんだろうか、と、あたしは迷う。
扉が無事に閉じること? それより、みんなが戦意を喪失すればいいの?
今の状態で指輪の魔法を発動させて、ランドウの体と心はおかしなことにならない?
誰か、正解を教えてほしい。
でも、教えてくれるひとなんか、いないのだ。
あたしは、ものすごい強風の中、指輪をつけた手をもう片方の手で握りしめて、目を閉じ、息を吸う。
「指輪さん……」
「ぎゃっ!!」
「!? な、なに?」
不意にあがった悲鳴。あたしはぎょっとして目を開けた。
黒紫の煙に包まれたランドウのそばで、数人の魔法兵団が倒れ伏している。
ランドウに近づきすぎて、煙に巻かれたようだ。
ランドウもそれに気付いたのだろう、ふと、煙の勢いが弱まる。
真っ黒な影に見えていたランドウの姿が、段々はっきり見えるようになった。
次の瞬間、巨大な獣がランドウに突進する。
獣。鎧を着けた、獣。
――ひと?
ひと、かも、しれない。
鎧を着けた騎士が、頭を下げて、ランドウに突っこんだのか。
筋骨隆々の騎士の手には、槍らしきものが握られている。
その穂先は――ランドウの背中に突き立って。
胸から、赤黒い先端が、顔を出していた。




