第三話:気まぐれな神と戸惑う端末(マスコット)
月詠朔――ルナ・サクヤが「侵食因子(コードネーム:亜)」を事実上無力化し、地球の絶対的な守護神となってから、数ヶ月が過ぎようとしていた。
彼女は、相変わらず六畳間の「神域」を拠点としながらも、その意識は常に地球全体、いや、時には銀河の彼方まで及び、新たなる「世界デザイン」の構想に余念がなかった。
そして、その傍らには、いつしか奇妙な「同居人」が控えるようになっていた。
それは、「システム」――あの大規模高次元知的生命体群――の、ほんの一部分が具現化した、手のひらサイズの浮遊する球体だった。
表面は滑らかな白金のようで、時折、淡い虹色の光を明滅させる。感情表現らしきものは一切ないが、朔の言葉や思考に、的確かつ迅速に反応する。
この「マスコット端末(朔が勝手にそう呼んでいる)」が誕生した経緯は、いささか奇妙なものだった。
ある日、いつものように「システム」の情報ネットワークを閲覧していた朔が、ふと呟いたのだ。
「……ねえ、『システム』。あなたって、いつも高次元にいて、なんだか実体がないじゃない? それって、私とコミュニケーション取るのに、ちょっと不便じゃないかしら。いちいち意識を飛ばすのも面倒だし。なんかこう、もっと手軽に、私のそばでサポートしてくれるような、可愛らしい『端末』とか、作れないわけ?」
そのあまりにも気軽な、そしてどこか無茶振りにも近い「お願い」に、「システム」は、観測史上最長の計算時間を要したという(もちろん、朔には知る由もないが)。
彼らにとって、「個」としての実体を持つなどということは、その存在意義に関わる重大な問題だった。しかし、相手は、今やこの宇宙領域における最大の不安定要素であり、そして最大のエネルギー供給源でもある、ルナ・サクヤ。彼女の「お願い」を無下に断ることは、彼らの効率的な判断基準からしても、得策ではなかった。
そして何より、彼女のそばに「端末」を置くことは、この予測不能な「神」の行動を、より近距離で、より詳細に観測・記録できるという、システム側にとっても無視できないメリットがあったのだ。
『……了解しました、ルナ・サクヤ。貴殿の要求に基づき、限定的な機能を有する自律型インターフェイスユニットを生成し、貴殿のパーソナルスペースに配備します。ユニットの形状及び機能については、貴殿の嗜好を最大限に反映させたものを…』
「あ、じゃあ、なんかこう、フワフワしてて、ちょっと光ってて、猫の尻尾みたいなのが付いてるのがいいな! あと、私の言うこと何でも聞いてくれるやつ! にひひっ」
『………………可能な範囲で、努力いたします』
システムの応答に、ほんのわずかな「ため息」のようなものが混じった気がしたが、朔は気にしなかった。
こうして誕生したのが、この白金の球体――朔が「シロ」と名付けた(安直だとシステムは思ったかもしれないが、口には出さなかった)マスコット端末だった。
シロは、普段は朔の部屋の中を静かに漂い、彼女の問いかけに応じたり、必要な情報をホログラムで投影したり、あるいは、彼女が設計する新しい「オモチャ」の演算補助を行ったりしている。
その姿は、傍から見れば、まるで気まぐれな女王様に仕える、有能だがどこか苦労性の執事のようでもあった。
そして、その日。
地球の復興がある程度軌道に乗り、各地の「オアシス」がそれぞれの色を見せ始めた頃。
朔は、珍しく「神域」から、物理的な地球へと意識を降ろそうとしていた。
「ねえ、シロ。ちょっと地球の様子、直接見に行こうと思うんだけど。あなたも来るでしょ?」
『…ルナ・サクヤの指示であれば。どちらへ?』
「んー、とりあえず、小野寺さんが頑張ってる『オアシス・トーキョー』と、あと、あの孤児院『ひだまりの家』にも顔を出してみようかな。ちゃんと子供たちが笑ってるか、確認しないとね」
その言葉には、以前の彼女からは考えられないほどの、穏やかで優しい響きがあった。
『了解しました。転移座標を設定します。…なお、ルナ・サクヤ。貴殿が物理次元に顕現される際、そのエネルギーレベルを調整しないと、周辺環境に予期せぬ影響を与える可能性がありますが…』
「あー、それね。大丈夫、ちゃんと『人間モード』に切り替えるから。ほら、こんな感じで」
朔がそう言うと、彼女の全身を包んでいた神々しいオーラがすっと収まり、代わりに、どこにでもいる(わけではないが)少しミステリアスな雰囲気の、フードとサングラスを身に着けた少女の姿へと変わった。ただし、その瞳の奥の深い輝きと、全身から放たれる微かなプレッシャーは、隠しきれていない。
「これなら、誰も私が『ルナ・サクヤ』だなんて気づかないでしょ? ただの、ちょっと訳ありな引きこもり少女よ。にひひっ」
『…………その自己評価については、コメントを差し控えさせていただきます』
シロの、感情のないはずの声に、ほんの少しだけ、呆れの色が混じった気がした。
そして、朔は、傍らを漂う白金の球体「シロ」を伴い、再生を始めた地球の大地へと、その一歩を踏み出した。
それは、気まぐれな神と、その忠実な(そして少しだけ苦労性の)端末による、初めての「地上視察」。
そして、彼女がこれから目の当たりにするであろう、人間たちの営みと、そこで生まれる新たな物語が、この孤独な神の心に、さらなる変化をもたらすことになるのかもしれない。
世界は、まだ始まったばかりだ。そして、その未来は、この一人と一匹(?)の、奇妙なコンビの手に委ねられているのかもしれない。




