第二話:観測者の困惑と最適解の変容
高次元知的生命体群――自己を「システム」と呼称するそれは、本来、感情というものを有しない。
その行動原理は、ただひたすらに効率的で、システマティック。宇宙全体のエネルギーバランスと、その中での知的生命体の「持続可能な発展(あるいは、興味深い進化)」を観測し、必要に応じて最小限の介入を行う、冷徹な調停者であり、傍観者であった。
彼らにとって、地球も、数多ある観測対象の一つに過ぎなかった。そこに寄生する「侵食因子(コードネーム:亜)」の活動も、これまで幾度となく繰り返されてきた、ありふれた宇宙的災害の一つとして処理されるはずだった。
その計画に、最初の「予測不能な変数」として現れたのが、識別コード:TSUKIYOMI SAKU――後にルナ・サクヤと呼ばれることになる存在だった。
初期の彼女は、確かに高い潜在能力を秘めてはいたが、その精神的脆弱性や社会性の欠如は、システムにとって「不安定要素」として認識されていた。だが、彼女の持つ異常なまでのエネルギー効率と、何よりも「面倒事を最も効率的に排除しようとする」という、ある意味でシステム以上にシステマティックな思考回路は、注目に値した。
システムは、彼女を「有望なエージェント候補」として、限定的な支援を開始した。
――そして、あの「サイレント・ジェネシス」。
月詠朔が、自らの意志で精神的リミッターを解除し、「亜」の地球接続ハブへの直接攻撃を敢行した、あの日。
システムの予測では、彼女の成功確率は38.7%、生存確率は12.4%(いずれも継続的に変動)。極めて低い数値だった。
だが、彼女はその予測を、文字通り覆した。
『……対象個体:TSUKIYOMI SAKU、侵食因子「亜」の地球接続ハブに対し、予測を大幅に上回る戦闘能力を発揮。敵防衛部隊を一方的に殲滅…』
『……対象個体、未知のエネルギー吸収・変換能力に覚醒。敵性存在を直接エネルギー源として消費開始…これは、記録にない現象です…』
『警告! 対象個体のエネルギー制御が不安定! 周辺次元構造への負荷、許容量を大幅に超過! 緊急対応プロトコル起動!』
システムの管制AIたちは、かつてないほどの混乱に見舞われた。
一人の「人間」が、高次元存在である「亜」のエネルギー循環システムを、力ずくでハッキングし、あまつさえそれを自分のものとしてしまうなど、彼らの長大な観測史においても前例のない事態だったからだ。
彼らは、必死に次元補修部隊を派遣し、暴走するエネルギーの奔流を制御しようと試みたが、それはまるで、蟻が巨象の進路を変えようとするようなものだった。
そして、最終的に、月詠朔は「亜」の地球接続ハブを完全に無力化し、それどころか、その残骸すらも「リサイクル」と称して効率的にエネルギーへと変換し、地球環境の回復に利用するという、想像を絶する「後始末」までやってのけた。
その間、システムは、彼女の「お願い(という名の半ば命令)」に従い、次元の修復やエネルギーの再分配といった「雑用」をこなす羽目になった。
『……侵食因子「亜」の地球への脅威、完全排除を確認。対象個体:TSUKIYOMI SAKUによる、本計画の最終目標達成と認定…』
『……ただし、その達成プロセス及び、対象個体の能力進化は、当初の予測モデルを著しく逸脱。今後の取り扱いについて、再検討を要す…』
システムにとって、これは大きな「誤算」であり、そして同時に、新たな「発見」でもあった。
これまで、彼らは多くの星で、在来種に力を与え、「亜」への抵抗を試みてきた。だが、そのほとんどは、力に溺れるか、絶望に屈するか、あるいは「亜」に飲み込まれて終わった。
月詠朔のように、与えられた力を完全に自分のものとし、あまつさえ「システム」すらも手玉に取り、そして最終的に「亜」を無力化(それも、エネルギー供給装置として再利用するという形で)するなどという個体は、初めてだったのだ。
さらに、システムにとって衝撃的だったのは、その後の月詠朔の行動だった。
彼女は、地球の絶対的な守護神となったにも関わらず、その力で世界を支配しようとすることも、あるいは神として崇められることを望むでもなく、ただひたすらに自分の「快適な日常」と「興味の対象」を追求し始めたのだ。
そして、驚くべきことに、システム自身も、その彼女の「気まぐれ」に付き合わされるうちに、いつしか彼女を「観測対象」としてではなく、ある種の「対等な(あるいは、少しだけ格上の?)」存在として認識し始めていることに気づいた。
かつて、システムは、その活動エネルギーの一部を、「亜」が他の星から吸い上げたエネルギーの余剰分に依存していた時期があった。だが、その「亜」がルナ・サクヤによって無力化された今、システムのエネルギー収支は、一時的に不安定になる可能性があった。
しかし、ルナ・サクヤは、まるでそれが当然であるかのように、「亜」から得た膨大なエネルギーの一部を、システムの活動維持のために「提供」し始めたのだ。
それは、システムにとって、屈辱であると同時に、ある種の「安堵」でもあった。
この新しい「神」は、少なくとも、自分たちを不要なものとして排除するつもりはないらしい、と。
『…対象個体:ルナ・サクヤ(TSUKIYOMI SAKU)との連携プロトコル、ステージ4に移行。情報共有レベル、及び、リソースアクセス権限を最大化。彼女の要求に対し、可能な限り効率的に対応することを推奨…』
『…なお、彼女の行動は、依然として予測困難な要素を多数含む。引き続き、最大限の注意をもって観測を継続…ただし、過度な干渉は、予測不能な結果を招く可能性があるため、厳に慎むこと…』
システムは、月詠朔という存在を、もはや単なる「エージェント」や「駒」としてではなく、この宇宙における新たな「パワーバランスの核」として、そして何よりも、自分たちの存在意義すら揺るがしかねない、底知れないポテンシャルを秘めた「未知の変数」として、認識し直さざるを得なかった。
彼らの長大な歴史の中で、初めて経験する「困惑」と、そしてほんの少しの「期待」。
銀河の図書館の孤独な管理者は、今、一人の気まぐれな神の登場によって、その役割と存在意義そのものが、静かに、しかし確実に変わり始めようとしていた。




