光芒剣と聖王(前)
『聖王アンジェリカ』。
耳に届く、その言葉。
それは単なる音の無機質な連なりではない。
ある特定の名前として語られたとき、その響きは唯一にして無比の、歴史の中で光り輝く憧憬となる。
この世界に来て一年やそこらの私でさえ、この名に出会わなかった日はほとんどないと言っていい。
まして、この世界に生まれ育ったアンジェたちにとって、『聖王アンジェリカ』の名の大きさ、重さは想像を絶するものがあるだろう。
『塔』の百階層までを踏破し、現在も世界で最も影響力を有する国家である帝国を打ち立てた、この世界の英雄である、その偉大な名は。
──そして、目の前の美女は、確かにそう名乗ったのだ。
自分が、『聖王アンジェリカ』であると。
不思議なことに、私たちは誰一人、そう名乗った人物の真贋を疑いはしなかった。
あまりにも当たり前に、自然なことのように、私たちは受け入れてしまっていたのだ。
目の前の彼女が、『聖王アンジェリカ』であるという事実を。
1000年も前の人物なのに。
その業績も能力も、もう神話伝説の域に達しているような人なのに。
……いや、だからか。
あまりにも荒唐無稽すぎて、逆にそんな虚偽が成立し得ないからか。
変な話だけど、ありえなさすぎるからこそ真実だと。そんなパラドックスが私たちの心中を支配していた。
そして、もう一点。
私たちは、既に幾度も、出会っていたのだ。
目の前の彼女に。
最初は、私とアンジェが初めて塔に入った時。
次は、テュロンとメイアが仲間入りした後の、あの聖花の摘み手の競争の時。
そして、キュリエナとラフィーネさんが合流してから。
私たちのすべてが、最低でも一回以上は『彼女』の姿を見ている。
これも、なんだか不思議な話だ。まるで周到に用意されていたかのように、そして機会を見計らったかのように、私たちの前に、彼女は姿を現している。
不思議なタイミングで、不思議な空間で、不思議な姿で、不思議な力で、現れ続ける。
そんな彼女を何度も見せられていれば、信じたくもなってしまうだろう。
さらに、なにより。
彼女は、そっくりだった。
私たちのアンジェに。
星屑が流れて落ちるような輝く金色の髪と深く澄んだ瞳。
白磁器のように白く透明感のある肌は、滑らかにしっとりと潤いを湛えて涼やか。
しなやかで嫋やかな肢体を純白のドレスに包み、その物腰は気品に溢れ、その佇まいはあくまでも優雅。
……そんなアンジェに、だ。
私の仲間たちは目を見張るほどの美女・美少女が揃っていると、世間のひとたちは言う。
事実、それは間違いではない。ないけれど。
凛として気概にあふれた高貴な獣のようなテュロンの美しさも。
純真無垢で穢れを知らない中性的なメイアの美しさも。
快活で人懐こい態度の中に、強い決意と信念を宿すラフィーネさんの美しさも。
妖艶な誘惑と濃密なまでの色香に満ちた、掴みどころのないキュリエナの美しさも。
やはり、まばゆく輝く光の顕現であるようなアンジェの美には僅かに及ばないと思う。
──そんなアンジェと同じ美を持つものが、目の前にもう一人いる。
それだけで、もう、尋常な事態ではないのだ。
だから。だから、私たちは信じざるを得なかった。
この人はアンジェのまぎれもない先祖だと。その美を伝えた本人だと。
「えっと、あなたは……でも、あなたの、その力の『波』、は……」
夢か幻のような静寂を最初に破ったのは、メイアのおずおずとした声だった。
メイアの右目は深い紺碧の輝きに満ちている。
普段は長い前髪に隠されている彼女の目は、普通の視力では見えないものを、『波』として捉える力を持つ。
そのメイアの目が、『聖王アンジェリカ』に反応している。
いや、メイアだけではなかった。よく見ると、私のアンジェ、そしてラフィーネさんといった魔法行使者も、不可思議なものを見たような表情を浮かべている。現存する聖王、という現状自体が不可思議ではあるが、それとは別の意味で、どこか妙な感覚を抱いているような。
聖王は、そのメイアの問いに、ふわりと優しい笑みを浮かべ、頷いた。
「はい。さすがにあなたの『目』には見えるようですね、私がどのような存在かが。……ええ。私は、もちろん、生者ではありません」
……なんか、サラッと言ってくれる。
そりゃまあ1000年前の人なんだし、生きてるってのも変だけど。え、ってことは、幽霊?
うっすらわかっていたこととはいえ、さすがにみんな、声にならない声を微かに上げ、ぎょっとした顔で僅かに身じろぎしていた。
ここは魔法のある世界だけど、幽霊に関しては今までお目にかかったことはなかったな。そう言ったたぐいのものがあるという話もあまり聞いたことはないし。
私たちの知恵袋であるテュロンや、世故長けたキュリエナ、また魔法行使者のアンジェやラフィーネさんに至るまで、みんなも驚いてるってことは、こっちの世界の常識的にも、生きてない存在が目の前にいる、ってのは普通じゃないわけよね。
そんな私たちの様子を少し楽しそうに眺めながら、聖王は緩やかなドレープのドレスをゆらりと翻し、静かに歩きだした。周囲に広がる花園に目をやりながら、彼女は懐かしそうにつぶやく。
「私の肉体は、この地のどこかに……もうどこかも覚えていませんが、どこかに埋もれて、もう、この花々と一つになっているのでしょう。けれど、私の意思は、ここにまだ残っています。その私の心を、魂を、拡散しないように亡失しないように、魔力の枠で閉じ込めて、今のこの私の姿が出来ています」
えーと。
つまり、なんだ。
魔力でフィールドのようなものを作り、そこに残留思念を入れて疑似的な肉体を維持してるというわけか。思念が残存しているから魔力は途切れず、そして魔力が残っているから魂は拡散しないと。
──それもやっぱりとんでもない話だ。元より、誰にでもできるようなものじゃなく、聖王だからこそできてるってものなんだろうけど。
「もちろん、結構な無理がありますから、『塔』の外には出られません。『塔』の力も借りて実現していることですのでね。それに、この階層以外に現れることも、相当な消耗を伴います」
くるりと振り返って、聖王は笑う。
背後の花々がかすむほどの美しさで。
「……そう、なのですか。そんな大変な思いまでして、一度、あなたは私たちを助けてくださいましたよね。まずは、そのことに対してお礼を言わせてください」
かつて、聖花の摘み手を選ぶ競争の際、私たちは苛烈な砂嵐に巻き込まれた。その危機から私たちを救ってくれたのが、彼女だったのだ。
あの時の姿を思い出し、私は聖王に頭を下げた。
聖王は小鳥のように可憐な小首を傾げ、微笑む。
「気になさらないでください。先ほども申しましたでしょう、私の方こそ、お礼を述べたかったのです、と。だからこそ、あなたたちを助けもしました」
「……光芒剣、ですか」
そう、先程、聖王は、「私の剣を持ってきてくれてありがとう」と言ったのだった。
聖王の剣。それはつまり、アンジェに伝えられた剣──光芒剣のこと以外にありえない。
アンジェはようやく出会いの驚きからやや落ち着いたようで、小さくこくんと頷くと、背中の光翅を展開させた。そこからすらりと剣を取り出す。
眩く美しく光り輝く伝説の剣。……光芒剣。
思えば、アンジェが最初に襲われ、そこから長々と続くレグダー男爵の因縁が始まったのも、この光芒剣をめぐってのことだった。そしてそれが今また、ここで何らかの意味を持っているらしい。
「せ、聖王、陛下。……麗しきご尊顔を拝し奉り、恐悦至極です。私は、ええと……あなたの子孫、ということになると思いますが、畏れ多くも同じお名前を頂いた、アンジェリカと申します。陛下のおっしゃられた剣とは、この光芒剣でよろしいでしょうか」
アンジェは少し声を震わせながら、恭しく片膝を付いて聖王に剣を捧げた。
みんなもハッと我に返ったように膝を付こうとしたが、聖王は笑って手を振る。
「いいのですよ、そんなにかしこまらずとも。今の私はただの命の欠片、存在の残滓にすぎませんし。……ああ、でも、懐かしい、この剣。確かに光芒剣ですね。私の剣……」
聖王は白い手を優雅に差し伸べ、陶然とした表情で光芒剣を受け取る。
あ、幽霊でも物に触れるのね、などと変なことに感心している私をよそに、聖王はしばし、愛おしそうに剣の輝きに見入っていた。
彼女は、やがてほっと溜息をついて、それをアンジェの手に静かに返した。
そのまま、彼女はしばらくアンジェの顔を凝視していたが、ややあってその朱唇が静かに開かれた。
「私の子孫、アンジェリカ。あなたに、お願いがあります。聞いていただけますか?」
「は、はい、もちろんです! 私にできることでしたら、どんなことであろうと」
「……ありがとう」
聖王は即答したアンジェに微笑みかけると、穏やかに切り出した。
「その剣、光芒剣の今の持ち主はあなたですが、──それを、私に返していただくことはできませんか?」
「え……?」
アンジェは一瞬戸惑ったように掌中の光芒剣に視線を落としたが、ほぼ迷うことなくすぐに顔を上げ、頷いた。
「もちろんです、聖王陛下。もともとは陛下の剣を、私が仮にお預かりしていたようなものなのですから。本来の所有者である陛下がお望みとあらば、謹んでお返しいたします」
「まあ、よかった」
パン、と胸の前で軽く両手を打ち合わせ、本当に嬉しそうに、聖王はにこりと破顔する。
童女のような、何とも可愛らしいそんな仕草に、私のアンジェもつられて相好を崩した。
聖王はアンジェより少し年上に見えるけど、そんな幼さを残すような挙措も似合ってしまう。ちょっとズルい。……ズルいけど、綺麗だから、ま、いっか。
美という概念がそのまま形をとったようなアンジェと聖王が二人して見つめ合い、微笑みあっているという今の光景は、何とも尊く、壮麗なものだし。
しかし、そうか。聖王は光芒剣を欲していたのか。
光芒剣を返してしまうというのは、私たちの総合的な戦闘能力的な意味では、ちょっともったいない気もするんだけどね。
でもアンジェ自身の魔力も上がってるし、大きく戦力が減衰するということもないだろう。彼女には、あとで何かいい魔法の杖を新しく買ってあげよう。
そう思って、どちらかと言えば微笑ましく、私たちはその光景を見つめていた。
──聖王が次に口を開く、その瞬間までは。
聖王は、言ったのだった。
これまでと同じように、優しく穏やかなまなざしで、そよ風のような玲瓏の美声で。
「……では、アンジェリカ。──死んでくださいな」
耳に届いたその言葉の意味を私たちが理解するのに、数瞬。
続いて、理解できたその意味を咀嚼するのに、数瞬。
暖かく優しい花園の中で、冷たく硬く凍り付いたような時間が過ぎた。
「……何……を……」
自分のものとは思えないくらい掠れて枯れた声を、自分のものとは思えないくらいぎこちなく、それでも出すことができたのは、私が最初だった。
他の皆は、まだ目を見開いたまま、氷像のように微動だにしない、できない。
多分、私はこの世界の人間ではない異世界転移者だから。だから、聖王アンジェリカに対する畏敬や憧憬の念がほとんどなく、それゆえに与えられた衝撃も、ほかの皆に比べればまだ多少は軽かったから、だろう。
だが、無論平然とできるわけはない。
聖王は今、何と言ったのか。
……アンジェに、死ね、と、言ったのか。
私の愛するこの少女に。
「……あまり、性質の良くないご冗談ですね、聖王陛下……」
苦し紛れに無理やり唇の端を釣り上げて笑おうとしたが、顔の筋肉が痙攣をおこしそうになっただけだった。
そんな私とは対照的に、軽やかに涼やかに、聖王は笑っていた。
「あら、だって」
そう、彼女は不思議そうに言う。
当たり前のことを当たり前に告げただけだとでもいうように。
「だって、アンジェリカはいいと言ってくれましたよ。私に光芒剣を返してくださると」
「そ、それが、どんなつながりがあると……」
聖王は、驚愕に凍り付いたままのアンジェを見やり、小さな肩をすくめた。
「光芒剣の今の持ち主はそちらのアンジェリカです。……単なる剣として使うだけなら誰にでもできますが、光芒剣の真なる力を引き出すには、やはり真なる持ち主である必要があります。そして、剣と所有者は、その魂で深く結びついているのです。ですから」
私たちの混乱を余所に、聖王はあくまで平然とした口調で続ける。
「ですから、真なる持ち主であるアンジェリカに亡くなってもらわなければ、その剣を所有する権利は私に帰ってこないのです。──それゆえに、私は申しました、死んでくださいな、と」
聖王の艶やかな黄金の髪が、薫風になぶられてふわりと揺れた。
その深い輝きを宿す瞳の奥の感情は読み取れない。けれど。
けれど、彼女の言に、少なくとも戯れの響きはなかった。静かに優しく、彼女は心から望んでいるのだ、と思わざるを得ない。──アンジェの死を。
私は乾いた口からひび割れた言葉を絞り出す。
「光芒剣の真なる力って……」
「ええ、生命を活性化させる力。あなた方も、その力の一端は目になさっているはずですね。あの十階層での競争の際、その剣の力は、衰えた大樹に力を与え、満開の花を無数に咲かせました」
そうだった。あの、聖花の摘み手の競争の際、そして光芒剣が初めて発現したあの時、剣は僅か一輪しか花をつけなくなって久しいあの『聖王の樹』に活力を与え、満開にしたのだった。
「確かに、光芒剣にはその力があることは知っています。ですが、剣のその力で、何をなさるおつもりなのです」
「まだおわかりではありませんか? 私が、……『今の状態のこの私』が剣を求めているということから」
聖王は自らのふくよかな胸にほっそりとした手を当て、ほっと吐息をつく。
「この胸に手を当てても、もはや鼓動も温もりも感じなくなって幾星霜です。当然ですね、今の私はかつての存在の残り火。魂の欠片を強引に魔力で繋ぎとめているにすぎません。けれど」
聖王はしなやかな手をアンジェに向かってすらりと差し伸べる。先ほどまでは美しいと感じていた彼女のそんな身のこなしに、今はぞっとするような空恐ろしさを感じ、私も、そしてアンジェたちも背筋を震わせた。
「けれど、その剣の力を使えば、残り火に過ぎなかった私の生命を再び明るく烈しく燃え上がらせることができます。その剣の力をもってすれば、そしてその剣の力のみが」
「では、聖王陛下。あなたは……」
私は、ようやく聖王が何を求め、欲しているのかを察し、愕然として呟いた。
「……蘇ろうと……復活しようというのですか。光芒剣の力を使って」
少し長くなったので分割投稿です。後編は明日(11月24日)21時に更新します。




