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異世界くじと神々の塔  作者: 天樹
81/84

黄昏と慟哭

更新が遅れまして申し訳ありませんでした。






 茜色の煌めきが私の視界を灼く。

 紅に差し込む、美しいはずのその輝きが、しかし自分を咎めているように思えて、私は思わず視線を外し、大地に目を向けた。

 そこには、黒々とした自分自身の孤影が、途方に暮れたように佇んでいた。


「……あれ? さっきの階層では、まだお昼くらいだったよね?」


 幼さの残る可憐な顔をきょとんとさせて、メイアが空を見回す。

赤紫に彩られた雲が浮かぶ空は、今まさに焼け落ちようとする陽の光に鮮やかに染め上げられていた。


 夕方。

 そのように、見える。今がまるで夕刻のように。

 しかし、メイアの言ったように、私たちはつい先ほど、この階層に登ってきたばかり。そしてその時はまだ日が高かったはずだった。


「変ですねえ、私のお腹も、確かにさっきお昼を食べたばかりだと言っています」


 ラフィーネさんがお腹を撫でながら首を傾げる。まあうん、食事に関してはこの人の言うことにだいたい間違いはないだろう。

 腕時計や懐中時計とかあればいいんだろうけど、この世界では、まだそこまで厳密に時刻を測る必要性はあんまりない。聖殿の鳴らす鐘の音も、ほぼ二時間おきというアバウトな一日の区切りを知らせる程度のものでしかないし、一般の生活の基準になるにはそのくらいで十分なのだ。

 なので結局、腹時計と太陽の傾きが時刻を知るよすがになるのだけど……。


「では、つまりこれが……『常に夕方である』というこの環境が、この階層の特色だと考えられるわけですわね。地形や気候ではなく、『時刻』を特徴とする階層は初めてですわ」


 テュロンも、そして他のみんなも、物珍しそうに赤い空に目を馳せた。

 ……夕方。

 なんてこと。よりによって、夕方が続く階層なのか。

 私は他のみんなに気付かれないように、それでも眉をしかめて細く吐息をついた。

 重い感情が胸の奥におりのようにわだかまる。

 ──夕方は、嫌いだ。


 だが、そんな私の表情の移ろいは、たった一人にだけは見られていたかもしれなかった。

 同じように浮かない顔つきをしてじっと私を見つめていた、アンジェにだけは。


 この間、アンジェは、私たちが……私が塔に登ることについて、反対の意を初めて表明していた。

 これまでずっと私を応援してくれていたアンジェ。その彼女の心境に変化をもたらしたのは、私への危惧。──私の死への危惧だった。

 アンジェは、自分が私を手に掛ける幻影を見てしまったのだという。それも、ただの幻ではなく、聖王アンジェリカの見せた幻を。


 一瞬、確かに起きた現実なのではないかという錯覚さえ覚えたと彼女は泣いた。己の手で私を刺したその感触があまりにも生々しく、今でも身体に焼き付いたように残って忘れられないとアンジェは泣いたのだった。

 そしてもっと彼女の純真な心を傷つけたのは、──その幻影の中のアンジェは、笑っていた、ということだった。私を殺めて、その幻の自分は笑っていたのだと。望み焦がれていたその願いがやっと叶ったとでもいうかのように。


「私、怖い。怖いんです、ご主人さま。今まで、いろんな恐ろしい敵と戦ってきました。でも、今の私は、私自身が一番怖い……!」


 震えて立ちすくむアンジェに、私は何度となく語り掛け、励まし、根拠のない自信と強がりをありったけ並べて見せて、ようやく不承不承ながら、『塔』へ引き続き登ることに同意してもらったのだった。

 正直、不安で顔を曇らせたままのアンジェを無理に引き立てていくのは、私にしても気が重い。愛するこの子に対する罪の意識に責め立てられている。

 それでも、自分を叱咤して、私はこの階層にまでやってきた。

 

 ……それなのに。そんな思いでやっとのことたどり着いた階層が、今度はこれか。


「……ご主人さま? どうかなさいまして?」


 そんな私の動揺に気づいたのか、テュロンがふと、小首を傾げて私を見た。

 おっと、危ない危ない。

 せめてほかの皆には、私のこんな感情が伝播しないようにしないと。


「確かに珍しい階層ね。でも、あまり感心してばかりもいられないわ。さあ、先に進みましょう」


 私はこともなげに言うと、率先して歩き出した。




 が、この階層の特色は、決してその『時刻』のみにあるのではなかった。

 

「……面白い道ですわね。この素材、石……ではないのでしょうか?」


 こんこん、とブーツの先端で道を軽く蹴りながら、テュロンが好奇心丸出しの顔つきで路面を眺めた。

石畳の道ならばこの世界でも見るし、また『塔』の中でも石造りの階層がある。けれど、この階層の道はそれとは異なる質感を有し、異なる色合いを放っている。

 ……ほかの皆は良く知らないのだろうけれど、それは、私には、馴染みのある素材だった。


 アスファルト。

 

 この階層の路面は、アスファルトで舗装されていた。まるで、私の元いた世界の街角のように。


 瀝青(アスファルト)に近い材質自体はこの世界にもあるが、それは少量を接着剤や保護材のように塗布して使われるものだ。大量に精製し路面を覆うような使い方は、まだこの世界では見られない。

 そして、道の端に、不気味なほどの一定の感覚で立つ街灯。

 無言のまま私たちを見下ろし、朧な光を夕方の物寂しい風景に投げかけるその街灯の一群は、まるで葬列のように私には思えた。

 その灯りまでもが、ぬくもりのあるこの世界の灯火ではなく、無機的で冷たい前の世界の光のような、そんな印象さえ持ってしまって。

 ……私は微かに目を細めた。

 置いてきたはずの世界。後にしてきたはずの世界が私を追い駆けてきたように感じて。


 考えすぎなのだろうか。でも。

 私は顔を上げ、周囲を見渡す。

 夕暮れの寂しい紅と、街灯の弱々しい光に照らされて、アスファルトの大地に広がるその光景の中には、黒々とした四角いシルエットが冷ややかに聳え立っていた。

 それはただの石塔ではあったが、夕陽の中に立つその沈黙の影は、私にはまるで……

 まるで、都会のビル群のように見えたのだ。

 


 日暮れ時の静寂の中を、歩みゆく私たちの足音だけが硬く木霊する。群れ立つ石塔の中に残響が物悲しく取り残されていく。

 ここには誰もいない。私たち以外には。

 『塔』の下層階から中層階に掛けては、他にも多くの登攀者たちがいた。初めて塔に登った一階層では、夜になると多くの灯が見えて、いろんな人たちが塔に登っているんだな、と感慨にふけったことを覚えている。

 けれど当然、上に登ってくるにつれて、登攀者の数は減っていった。


 これまでは、塔の中でも、時折他の登攀者たちとすれ違い、情報交換や他愛もない世間話に興じるときもあった。話はしなくとも、お互いに遠目で姿を確認し、手を振ってお互いの健闘を祈ったりしたことも多くあった。

 だが、今は誰もいない。私たちしか。私たちの足音と私たちの影しか。

 

 はっきり言って今更だ。でも、そんな今更の想いが改めてこみあげてきたのは、やはりこの階層の環境のためだろう。

 陽が落ちていこうとする、本来ならば僅かひとときのこの時間は、昼でもなく夜でもない曖昧さと、一日の終わりを告げる物悲しさを併せ持つ。

 そんな儚いはずの日暮れが、この階層ではいつまでも続くのだ。

 そして、夕暮れを背景にし、黒々とそそり立つ無数の石塔のシルエットは無機質な非情さを醸し出して、私たちを圧迫してくる。

 静寂の中に物寂しく響く自分たち自身の足音が、自分の背中を追い立ててくる。


 私はもう一度、小さく吐息をついた。

 ……夕方は、嫌いだ。

 ましてや、こんな。

 こんな、前の世界の街中を思い起こさせるような環境での夕方だなんて。


 耳の奥に、あの子の声が小さく届く。


『らーちゃん』


 甘えるように私の名を呼ぶ、あの子の声が。……あの時の思い出が。


『ねえらーちゃん。行きたいな、あたし』

『だめだったら、璃梨りり


 私は答える。

 臥せった璃梨に。

 彼女の命は容赦なく病魔に削られていたけれど、それでもまだ璃梨の容貌は美しく、やつれて血色を失ってなお、その佇まいは清楚だった。

 けれど。


『ちゃんと、良くなってからね。そしたら、どこにでも付き合うから』

『でも、あたし、広い世界を見たい。ううん、世界はもっと広いはずなのに、どうしてあたしの周りはこんなに狭いんだろう。あたし、それが哀しいの……』


 けれど、璃梨の口調は重かった。いつもの、能天気なくらい明るい彼女の声が遠くに感じる。

 彼女の言っている意味は私もわかっていた。

 狭い世界。それは、単に物理的なそれというだけの意味ではない、と。

 璃梨は確かに閉じた世界、閉じた部屋にいることが多かった。彼女の健康状態がそれを強いていたのだから。

 だが、それだけではない。

 

 先日のことだった。

 薄暮の宵闇が部屋を覆いかけた刹那のひとときに、私は──私と璃梨は。

 初めて、互いにそっと触れあった。

 唇を。


 私にとっても彼女にとっても、それは怯えと陶酔と背徳感の中の、けれどとても自然な行為だった。

 いつしか、想いを重ね合って。その気持ちが何なのか、模索しながら。

 やっとたどり着いた、それは私たちにとっての、震えるように尊く清らかな一瞬になるはずだった。


 だが、そのひとときは、脆くも破れて消えた。

 ただ単に、その時、偶然、部屋を他者が訪れたから、と言うだけの巡り合わせによって。

 ……私たちの関係は、そこで周囲に知られるところになった。


 好奇の視線と、親切ごかしの忠告の名を被った余計なお世話がいくつか、私たちに向けられた。

 いや、それだけならまだマシだったか。

 数は多くないが、あからさまに嫌悪の情を宿した態度を示すものも、いなかったわけではなかったのだから。

 その時、私たちは知ったのだ。

 存在そのものが祝福されない恋もありうるということを。

 

 もちろん、善意に満ちた人々だっていた。

 ──善意。

 なんと美しく清らかな言葉だろう。


『あたしたちは気にしないから、大丈夫だよ!』


 ……そんなことを、わざわざ言いに来てくれるような、善意だ。

 目をキラキラさせた、その人たちの善意を、私は疑いはしない。確かにそこには純粋な好意があるのだろう。それ自体は素晴らしいことだ。

 ああ、だけど。

 私たちの気持ちは、誰かの善意や好意に守ってもらわければいけないようなものなのか。お気の毒な私たちは、優しい人たちによっていたわってもらわなければいけない存在なのか。

 私たちが求めていたのは、ただ。

 ただ、放っておいてほしいということだけだったのに。 


『どうして?』


 璃梨は、小さく呟く。目の奥に疲れを見せて。


『どうしてそんなふうに言われるのかな。私たち、そんなに悪いことをしているの、らーちゃん?』

『……璃梨。どうでもいいじゃない。人が何言おうとほっとけばいい』

『そうだけど、でも』


 でも、の後の言葉を、璃梨は形にしなかった。

 消え入るような微かな吐息が、彼女の内側の深い傷からにじみ出てくるようだった。

 もちろん、周囲の人々の、言葉の爪と態度の牙に心をえぐられていたのは私も同じだった。けれど私は、多少なりとも自分に対し、そして自分の傷に対して、見てみぬふりをすることができた。もともと私の私自身への評価は高くなかったから。だから、慣れていた。今更他者に自分の価値を貶められても、まだ耐えることができたのだ。


 でも、璃梨は。

 賢く可愛らしく、いわゆるいい子であった璃梨には、それだけに免疫がなかった。

 他者から腫れ物に触るように扱われる、ということに対しての免疫が。

「普通」の存在ではないのだと決めつけられることへの免疫が。

 璃梨が、広い世界を見たい、と言い出したのは、その頃のことだった。疲れ切った声で。

 私たちはまだ幼く、世間に対して己を貫くことに対する代価を支払う準備もできていなかった……。




 茜色の光が私の視界で渦巻き、アスファルトに響く乾いた足音が私を詰る。

 お前は誰だと。

 「普通」ではないと宣言されたお前は誰だと。

 恋しい少女の一人も守れなかったお前は誰だと。

 地を這うように長く伸びた私の影がまるで他人のように私を見つめる……。


「……ラツキ。私、疲れたんだけど、そろそろ休まない?」


 殿しんがりからのんびりとしたキュリエナの声が届き、私ははっと現実に引き戻された。

 現実。そうか、今の私には、この異世界が現実。この『塔』の中が現実だった。

 私とテュロンの前衛組が先頭を行き、メイアとアンジェがその次、そしてラフィーネさんと、気配察知に優れた間士のキュリエナが殿を守る、というのが私たちの陣形の一つのパターンだ。

 だから、みんなを導く先頭の私の責任は当然重いのだけれど、過去のフラッシュバックに囚われてしまっていて、つい注意が散漫になってしまっていた。いけないいけない。

 こんな状態で守護獣でも出てきたらみんなを危険にさらすところだった。幸いというか、この階層ではあんまり守護獣は出てこないようだけど。


 ……でも、そういえば。

 守護獣のこともだけど、この階層の踏破自体も、ふと気づけば進捗は順調なようだ。

 結局、みんなで色々な史料を探し回ったにも拘らず、聖王の記録からは『塔』の上層階に関する詳しい記述を見出すことはできなかった。

 なので、行き当たりばったりで新しい階層に進まざるを得ず、道に迷ったり引き返したりすることも当然のようにあるはずだ、という覚悟をみんなでしてきていた。

 それなのに、今のところ、特に問題なく進めている。

 さらなる上の階へと私たちを導いてくれる中央天移門の場所を示す光の玉は、順調に近づいてきていた。

 私は昔の記憶に意識を取られてしまい、集中して思考したり、慎重に道を選んだりはできていなかった。それなのに、気づけば無意識のうちに、正しい道のりを選んで進めて来ていたみたいだ。

 それは、偶然……

 なのだろうか。

 ずいぶん都合のいい偶然過ぎるような気もするけれど。なんとなく、何かが……。


「ねーラツキー、私疲れたー、つーかーれーたー」

「あーもう! うるさい!」


 人が真面目に考え込んでいるってのにキュリエナが駄々こねるし!

 と思って睨みつけたら、その私のスカートの裾を申し訳なさそうにメイアが引っ張った。


「あのね、ご主人さま、……僕もちょっと疲れちゃった」

「私の身体にも少々疲労が蓄積いたしましたわ。このまま行軍を続けるのは非効率的であると我が輝ける知性が導き出しておりますわ」

「あと、おなかも空きましたよ、ラツキさん。ごはん食べましょう、ごはん」


 口々にみんなが言い出す。

 ……うーん、考えてみれば、アスファルトの舗装路を歩くっていうのは、この世界の人たちにとってみれば、おそらく初めての経験か。まあ石畳の道はこの世界にもあるけれど、それでも土の地面を歩くことの方がやはり圧倒的に多い。そういった環境に慣れた人たちには、堅い地面から脚に伝わる衝撃は大きいだろうし、疲労も溜まりやすいかもしれない。

 それに、ずっと夕方、というこの環境自体も、私ではなくても、結構精神に来るものがあるかもしれないし。


「仕方ないわね。じゃ、この辺で少し休みましょうか」


 肩をすくめて言った私を見て、みんなはそれぞれの顔を見合わせ、くすりと優しく微笑んだ。

 その表情を見て、私は悟る。

 ……ああ、そっか。

 みんなが休みたいと言い出したのは。

 ──私の、ためか。

 私の挙措がおかしいのを見て取って、それで。

 それで私を休ませてくれようとしていたんだ。

 私は、これまで重たく暗く冷たく湿っていた胸の奥に、ほんのりと光と温もりが宿ったことを感じていた。




「それで、何をそんなにめそめそしてたのよ、ラツキ」

「めそめそって、何よその言い方」


 むっとした私に、キュリエナはニヤニヤと笑みを浮かべながら私を指差す。っていうか人に指を差すんじゃない、相変わらず失礼な子。


「だって実際、ラツキの睫毛、まだ濡れてるじゃない」

「うえっ!?」


 慌てて目尻をぬぐった私に、彼女はケラケラと笑い声で答えた。


「う・そ」

「……よーし分かった。みんな、キュリエナを捕まえてて。お尻が腫れ上がるまでひっぱたいてあげるから」

「やーよ、あははは」


 ふわりと春風が舞うように、キュリエナは私の手をするりと抜け出て笑った。

 むー。相変わらずすばしっこい子。

 が、その時。伸ばした私の手に、そっと触れた指先があった。

 ラフィーネさんだ。


「……でも、ラツキさん。ほんとに、後ろから見ていて、さっきまでのラツキさんは心配でした。背中が、すごく……すごく悲しそうで」


 柔らかな指を愛おしむように絡めながら、ラフィーネさんはそっといたわるような声を私に向ける。

 続いて、テュロンの小さな、けれど頼もしい手がそれに重なった。


「横で歩いておりましても、ご主人さまの息苦しそうな様子、辛そうなお顔つきはとてもよくわかりましたわ。ご主人さまは隠そうとしておいででしたが、それが余計に」

「ご主人さま、何か、あったの? 僕たちが力になれるようなこと?」


 さらにメイアが細い手を重ねる。すべてを見通す彼女のその目は、今はただ私を案じて不安そうに揺れていた。

 私は胸を突かれる思いだった。

 この優しく愛おしい少女たちに、こんなに心配をかけてしまっていたことに。

 唇を噛んでうつむいた私に、キュリエナが艶めいた唇の端を曲げて微笑む。


「ま、人はそれぞれ、他人には話せないこと、話したくないこと、あるわよね。

 でもラツキ、これまではあなた、私たちの内側の問題に、しょっちゅうちょっかい掛けて、しゃしゃり出てきたわよね、お節介なことに。

 だから今度はその仕返しをしてあげるわ。何かあるなら、私たちにしゃべっちゃいなさいよ。聞くだけなら聞いてあげるわ。そしてその後、あなたをイジってあげるから」


 私は思わず吹き出しそうになった。キュリエナの言い方はやっぱり独特で、人を揶揄してからかうようなことばっかり。でも、その言葉の奥に、暖かい感情が流れていることを私は感じていた。本人は絶対認めないだろうけれど。


「……わかったわ」


 私は、素直に言葉にしていた。自分でも意外なくらいに。


「……じゃあ、聞いてくれる? ただの昔話だけど」


 そして私は語り出した。

 ただの昔話。ただの二人の女の子の話。……璃梨と私のことを。




 みんなは黙って私の話を聞いてくれた。

 夕方の朱い光の中に私の声だけが静かにしみこんでいく。

 何度かつっかえ、舌がもつれたりもした。私は璃梨のことを他の誰かに語るのは初めてだったから。

 それでも、彼女たちは真剣に聞き入ってくれたのだった。

 

 私と同じように女性しか愛せない女性だったキュリエナにも、同じような経験はあっただろう。彼女の表情は、やや硬く、そして自分自身の遠い思い出の中に佇んでいるようだった。

 ラフィーネさんは、お姉さんのこと──黒の聖務官のことを考えてでもいただろうか。愛の在り方を周囲に受け入れてもらえなかった、という意味では、黒の聖務官と私の過去は似ている。

 逆に、他者の存在を素直に受け入れられるテュロンやメイア、そしてアンジェには、私の話は厳しかったかもしれない。それでも、三人とも真摯に向き合い、受け入れようとしてくれていた。

 

 「リリ」のことだけは覚えている、ということにしておいたのが、功を奏したというところだろうか。もちろんそれでも、日本という異世界のことを口にすることはできないから、その辺は注意深く誤魔化しながらではあったけど。


「……それで、リリさんは──どうなったの……?」


 メイアが恐る恐ると言った感じで、私に話の続きを促した。

 私は乾いた笑いを小さく漏らして、顔を上げる。

 空が高かった。赤い空が。


「こんな感じの……そうね、ほんとにこんな感じの夕方だったわ。私はいつものように、璃梨のお見舞いに行ったの。でも、その日、その時に、璃梨はいなかった。いなくて、ご家族が必死で探してた。……でも、私にはすぐにわかったわ。璃梨は、『塔』に行ったのよ。広い世界を見たくって」


 ──あの時。

 そう悟って、私は、走った。

 塔へと。璃梨の元へと。ひたすらに。

 もう使われなくなった古びた給水塔。もうすぐ取り壊されることになっており、ほとんど人も寄り付かない場所だった。でもそこは、璃梨の小さな、そして懸命に生きている世界の中で、一番高いところにある建物だったのだ。一番遠くが見える……一番広い世界が見える場所だったのだ。


 紅い日差しが私の網膜を焼いていた。長い影が踊るように私の後ろを跳ねていた。甲高い自分自身の靴音が私の焦燥を嘲笑うかのようだった。

 その途中で私は、ニヤニヤと薄笑いを浮かべながら歩いて行く、人相の良くない一団の男たちとすれ違った。が、もちろん、そんなことはその時の私にはどうでもよかった。私はただ一秒でも早く、あの子の元にたどり着きたかったのだ。

 何か無性に胸騒ぎがして。

 息苦しさと、眩暈にも似た感覚を必死で振り払いながら私は走って。

 そして。



「そして私は、見つけたの。……璃梨の──亡骸を」




 寂として音もなかった。

 ただ沈黙という名の弔歌が流れていた。

 今、この場でも。そして、あの時も、同じように。ただ静寂が支配していた。

 私は、黙ったまま見つめていた。

 璃梨の身体を照らす残照と同じ色の滴りが彼女の身体を染めていくのを。


 ──夕闇が、私からすべてを奪っていった。


 その後のことは、もうどうでもいい。

 璃梨の元へ駆けつける際にすれ違った、あのガラの悪い男たちが彼女を見つけ、邪な意図を抱いて追いかけたということも。

 璃梨がそいつらから逃がれるために必死で塔に登り、そして……足を滑らせたことも。

 後からわかったことだけれど、もうどうでもいい。

 その男たちは、のちに、同様に性質の良くない他のグループと愚かな抗争を起こし、ろくな末路は辿らなかったらしいと噂では聞いた。だが、だからと言って私の気が晴れたわけでもない。

 私は、私の半分を……いや、私自身を失ったのだ。永遠に。

 紅い夕陽の元で。



 

「……そう」


 短くキュリエナが言葉を発する。

 

「夕方……ね。──思い出してみれば、私が初めてラツキに抱かれた日も、見事な夕焼けだったわ。あの時のラツキ、ちょっと情緒不安定に見えたけど……そういうことだったのね」

「そうだったかしらね」


 私はキュリエナの指摘に、枯れた声で笑った。いや、笑おうとした。本当に笑えていたかどうかはわからない。

 璃梨のことは、私の中の一番奥深くにしまい込み、これまで誰にも触れさせたことはなかった。私自身を含めて。

 けれど、今、私は初めて璃梨のことを他者に語った。一言一言に、自分自身が切り裂かれそうになる感覚を覚えながらも、それでも、彼女と私が過ごした日々のことを言葉という形にできた。

 それが良かったのか悪かったのかはわからない。でも、それは、私にとって、一つの区切りになるのかもしれなかった。


「……私にも、わかりました」


 その時、ぽつりとアンジェが呟いた。これまで、ずっと沈黙していたアンジェが。

 彼女の黄金の波打つ髪は夕日に照らされて光輝き、燃え上がるようだった。

 アンジェは煌めく瞳をまっすぐ私に向けて、唇を開いた。


「ご主人さまにはお話したことがありませんでしたけれど、私が初めてご主人さまとお会いした時、思ったことがあります。私を襲った山賊たちをご主人さまが倒してくださった、あの時のことです」


 私がこの世界に来た、あの時のことか。

 私はあの時──。


「私はその時、ご主人さまのお姿を見て、感じたんです。──このお方は、何故泣いているのだろう、って。何故泣きながら戦っているのだろう、って。……こんなにお強い人なのに、なぜ泣くのだろうって」


 ……ああ。

 そうだ、そうだった。

 私はそのアンジェの考えをスキルで読み取ったから、アンジェがそう感じたことを知っている。でも、アンジェはもちろんそんなことを私に話したことはなかった。

 実際には私はその時、泣きながら戦っていたわけではない。

 でも、アンジェにはそう見えたのだ。そう思ってくれたのだ。

 アンジェがそう感じてくれたことが、私がこの子を深く愛するようになったきっかけの一つでもあった……。

 

「嗤いながら他者を蹂躙する人に対しての怒りと悲しみが、ご主人さまの戦われる動機だったのですね」

「……そんなかっこいいものじゃないわ。アンジェは私を買いかぶり過ぎよ」


 面映ゆくなって、私は首を振った。私はちっぽけでくだらない人間だ。自分が、そんな、正義のヒーローみたいな生き様をしているなんて夢にも思ったことはないし、できるわけもない。

 もし私があの時泣いていたとしたら……泣いているように見えたとしたなら。それは、単に自分の中にたまった悔恨と鬱屈を晴らすための、むしろ醜悪な行動に過ぎなかったはずだし、自分でもそれを自覚している。

 けれど、アンジェはふわりと微笑んだ。

 私の大好きな、優しい黄金の微笑。


「はい、もちろんご主人さまは高潔な英雄でも偉大な勇者でもありません。むしろ卑俗な凡人でいらっしゃる。なさっていることはご自身の欲望に塗れていますし、世界や大義のために行動なさっているわけでもない」


 うわ、なんかアンジェの優しい声でそんなふうに言われると結構傷つくんだけど! 確かにその通りなんだけどさ!


「──それでも。いいではありませんか、お認めになっても。ただの凡人でも、理不尽な暴虐に対しての怒りも悲しみもあると。それは格好をつけるようなことではありません。むしろ、凡人だからこそ抱ける感情ではないでしょうか。そして」

 

 アンジェはいったん言葉を切って、細くしなやかな指を伸ばすと、私の髪を撫でた。


「そして、そんなふうに思えるご主人さまだからこそ、──リリ様は、お慕いになったのではありませんか」

「それも、考えすぎだわ、アンジェ。でも」


 私は力なく笑った。

 

「──でも、ありがとう」


 ありがとう。

 その言葉を、私は素直に口にすることができた。

 璃梨を知らないアンジェが勝手に思い込むな、と怒ることもできたのかもしれない。でも、その時の私の心情は、とても素直な、『ありがとう』だった。

 その言葉は、もしかしたら。

 ──私ではなく、私の中の璃梨が、言った言葉かもしれない。

 だって。

 私は、泣いていたから。

 魂の奥底から溢れ出るような涙がとめどなく流れて、止まらなかったのだから。


 その涙は、これまでにも何度も流したような辛く悲しい涙ではなかった。

 けれど、嬉しさや喜びの幸福な涙とも、少し違う。

 理由など、いらないのかもしれなかった。心の一番大切な場所に深く付いた傷に、そっと誰かが触れてくれただけでも、涙は出るのかもしれなかった。

 

 みんなが静かに私に寄り添ってくれていた。

 今までで一番近くにみんながいてくれるように、私には思えた。


 璃梨のことは決して忘れない。

 でも、思い出という名の宝物にすることは、許されるだろうか。

 魂の傷を癒すことを、璃梨は私に許してくれるだろうか。

 

 らーちゃん。私はらーちゃんに、笑っていてほしいな。


 そんな、優しい璃梨の呼びかけを、私は夕暮れの柔らかい風の中に、聞いた気がした。


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