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異世界くじと神々の塔  作者: 天樹
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幻夢と戦慄


 この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば


 ……なんて歌を詠んだ藤原道長が、確か私のいた世界の元の時代から見て、だいたい千年くらい前の人だったと思う。平安時代ね。

 そう考えると、千年前、って、すごい昔なんだなぁ。

 と、私は、千年前の人である聖王アンジェリカのことを調べながら考えていた。


 聖王アンジェリカ。

 アンジェのご先祖様にして、この世界の偉人。……そして、多分だけど、私と同じ異世界転移者。

 今まではその程度の認識だったけど、これまでとはまた異なった角度から彼女のことを調べる必要性に、私たちは迫られていた。

 ──聖王と思われる美女の幻影が、『塔』の中で、明確に私たちに対して語りかけてきた、という事実によって。


 それに、もう一つ。

 『塔』への登攀に関してのこともある。

 ユーゼルクたちが進んできた階層にまで私たちは到達してしまった。これまではユーゼルクのくれた資料を頼りにし、それによってかなり順調に登ってこられたのだけど、それももうここまで。ここより上の階層については、もはや情報がない。ユーゼルクたちより上に至った者はいないのだから。

 ……たった一人を除いては、ね。

 そのたった一人というのが、聖王アンジェリカだ。

 ということは、聖王について調べることで、何かしら、『塔』の上層階についての手がかりなどを掴めるかもしれない。そう私たちは考え、聖王の史料を再検討していた。


 聖王に関しては、当時に書かれた『聖王七書』などの歴史書がまず重要な史料になる。それ以外にも、後世の研究書なども、もちろん多いようだけど。

 私たちのメンバーは結構知識人が多い。アンジェやテュロン、そしてラフィーネさんなんかも当然、そういった史書の類を相当読み込んでいる。さらに、助っ人として、イェンデ伯爵夫人の養女、そしてアンジェの友人でもあるリアンディートを、この屋敷に呼んで、調査を手伝ってもらっていた。

 でも。


「うにゅー……いざ史書を読み返してみると、意外に少ないんですねえ、『塔』に関する記述は。もっとも、私たちの持っている本を読む限りでは、ということにはなりますが」


 ラフィーネさんが豚のぬいぐるみを押しつぶしたようなだらしな可愛い声を出し、本の山の中から困惑した顔を覗かせた。

 今私たちの目の前にあるのは、だいたいラフィーネさんと、リアンディートが借りてきてくれた伯爵夫人の、それぞれの私物の本。

 まだ印刷技術が十分ではないこの世界では、魔法による印字や製版は行われているものの、当然コスト面ではかなり高価になってしまう。そのため、本を所有している、という人間自体、かなり限られてしまうのだった。

 アンジェやテュロンも、以前は相当の蔵書家だったそうなのだけれど、奴隷になってしまった時に、そういった私物などは当然失ってしまっている。


「改めて読むと、確かにそうですね。ちょっと意外です。もちろん『塔』に関する言及もあることはありますが、その内容はほとんど抽象的で、漠然。あまり具体性を持った内容ではありませんね」

「ええ、聖王陛下の政治的および軍事的面での業績などはかなり具体性のある詳述であるのに比べると、その差異が際立ちますわね。もちろん、『塔』の中と世俗では、その傍証者の多寡に差があるということも大きな要因ではあるのでしょうが、それにしても、やや意図的に内容が隠蔽されているのではないかという疑念もぬぐえませんわ」


 リアンディートの言葉に、テュロンも顎に手を当て、考え込むように頷く。

 ふーん、そういうものなのか。私もさっき、ちらっと史書を読んでみようとしたけど、数行でギブアップしていた。

 ……だって、難しいんだもん。私がこの世界の文字を読めるのは識字スキルの効果によるものだが、それはあくまで日常会話レベルのもの。難しい古文の読解には適さないのだ。

 まあ上級の識字スキルを購入してくればいいだけではあるんだけど、さっきまで読めなかったものが急に読めるようになるってのも、無理がありすぎるものね。


 もっとも、手持無沙汰にみんなの研究を眺めているのは私だけではない。

 めんどくさいのが嫌いなキュリエナが参加するはずもなく、自室に引き上げてお気楽に寝ちゃってるし、メイアも私と同様に難しい文章は読めないので、一緒に一般的読み物である『聖王世説』を読んで時間を潰している。

 ……が、そのメイアが、ふと顔を上げた。


「ねえ、姉さまたち。……聖王さまって、どこから来て、そして最後はどうなったの?」

「はい?」


 きょとんとした顔で振り向いたテュロンたちがまじまじとメイアを見つめた。メイアは可愛らしく首を傾げ、軽く手に持った本を掲げながら、なおも尋ねる。


「僕、ずっと聖王さまのお話読んでたんだけど、最初と最後が書いてないんだ。このご本、変なのかな?」

「ああ、そのことですの」


 テュロンたちは納得したような表情を浮かべ、山と積まれた本に一瞥を向けてから言葉を続けた。


「聖王陛下の御生誕及び御隠れに関しましては、諸説があって定まっていないのですわ、メイア」


 へえ……そう言えば。

 私が適当に読んだ範囲でも、聖王の事業についていろいろと述べられてはいたが、彼女の出自来歴や、あるいはその行く末がどうなったか、ということに関しては、『塔』に関する事績と同様、やはりぼやかされていたのだった。

 出自に関しても、光の中から生まれたとか、『塔』の中から忽然と現れたとか。

 まあ、昔の偉人につきものの、異常誕生譚という奴なのだろう。というか、そもそも彼女が異世界転生者だとしたら、そりゃ生まれなんかわかってるはずはないわよね。別の世界から来たんだもの。

 そしてその死についても、曰く、王位を譲った後飄然と姿を消し、その行方を知る者はいないとも。また曰く、再び『塔』の中へと戻っていったとも。

 どちらにせよ、千年も昔のひとのことだ。詳しいことなどは亡失しても仕方がないのだろう。

 

「そうなんだ。聖王さまってすごい人なのに、そのお墓とか、亡くなったときのことなんかもわかってないのって、なんか可哀想だね」

「メイアは優しい子ですわね。ですがその代わりに、『塔』の百階層を踏破したお祭りである聖王祭があるわけですわ。そこで祈りを捧げれば、気持ちは聖王陛下には届きましょう」


 そう言えば聖王祭ってそういうお祭りだったっけ。

 この世界にももちろん生誕を祝い死を悼む風習はあるけれど、私がこの世界に来てからそろそろ一年に近くなっても、聖王に関してはそういった記念日を聞いたことがなかった。それは、聖王の生年も没年も明確ではないからだったのか。


「……まあ、なんにせよ、私たちの持ってる本だけでは、これ以上詳しいことはわからないみたいですねえ。聖殿図書館にならもちろんもっと多くの本があります。っていうか、ありすぎてどんなのがあるか私もわかってないんですが、……みなさんで手分けして調べるとして、行ってみます?」


 肩をすくめながら本を片付け始めたラフィーネさんの提案に、テュロンとリアンディートは頷き、それぞれ座から立ち上がった。

 ……その時。


 椅子を蹴立てて、私は跳ねるように飛び出していた。

 アンジェの元へ。

 ──立ち上がろうとして大きくよろけ、倒れ込みそうになったアンジェの細く小さな肩を、私は危うく支えていた。


「あ……も、申し訳ありません、ご主人さま」

「大丈夫、アンジェ? どうしたの?」

「いえ、ただ足がもつれただけで、たいしたことでは……」


 もたれかかった私の顔を見上げて、風にそよぐ花のようにしっとりとした微笑みを浮かべるアンジェ。

 だが、その美しい目に力がなく、麗しい顔からは血の気が薄れていることに私はその時気づいた。

 体調を崩していたのだろうか。いつからだったのか。気づいてあげられなかったなんて。私は動揺しながら、アンジェの髪を撫でた。


「たいしたことないようには見えないわね。少し休んでなさい、アンジェ」

「でも、調べ物が」

「今すぐじゃなくてもいいし、あなたの他にも人はいるわ。今は休みなさい」


 私の言葉に、テュロンも同意してくれる。


「私とラフィーネ様、リアンディート様で図書館に行ってまいりますわ。ご主人さまはメイアとアンジェを見ていてくださいませ。……アンジェにとっては、やはり衝撃だったのだろうと思われますわ、あの幻のことは」


 そっか。

 そう言えば、と私は思い出す。

 この間、聖王と思われるあの幻影に出会った時、アンジェだけは貝のように黙したまま、言葉を発しなかった。

 いや、それ以降、今日までも、ずっと黙り込んで、何かを考え込むように、塞ぎがちだった。

 あの幻影との邂逅が、アンジェにとっては相当精神を揺さぶられたのだろう。聖王という偉大な歴史上の人物が自分の先祖であることさえ、このごろようやく受け入れられるようになったばかりなのに、その相手とみられる幻が直接語り掛けてきたのだし。


「じゃあテュロン、ラフィーネさん、リアンディート。悪いけど、図書館の方はお願いね」

「はい、お任せくださいませ」


 アンジェにそれ以上口を挟ませず、私は強引に三人を送り出した。

 あの三人なら、もし何か手掛かりがあるとすればそれを探し出してくれるだろう。

 もっとも、そもそも、聖王がたどり着いた『塔』の上層階についての情報が『もしあれば』の話でしかないけれどね。もし、どこにもなんの記載もないのだとすれば……ないものは探しようがない。


「じゃあ僕、アンジェ姉さまのお部屋を整えてくるよ」


 メイアがとことことアンジェの部屋に走っていく。いい子。

 アンジェと二人きりで私は居間に取り残された。しきりに申し訳なさそうにするアンジェに構わず私は彼女を抱き上げ、ソファに寝かせる。


「あなたは頑張りすぎるわ、アンジェ。これからは、具合が悪くなったらすぐに言ってね」

「はい……申し訳ありません、ご主人さま」


 アンジェはソファに身を埋めながら、疲れたように吐息をついた。

 長い黄金の髪が一筋、はらりと揺れて彼女の白皙の美貌に落ち掛かる。私は彼女の傍らで、その髪をそっと払ってあげながら、改めてこの愛しい少女の優艶なかんばせに見惚れる。

 うーん。少しずつ疲労がたまってたのかな。何も無理に急いで上に登る必要はないのだし、みんなにもゆっくり休養を取ってもらおうかな。

 ……そう考えていると、アンジェが、柔らかな朱唇をそっと開いた。


「ご主人さま」

「ん? なあに?」


 アンジェの黄金の瞳が微かに震えていることを見て取って、私はちょっと不審に思いながら尋ねる。

 が、アンジェは柳眉をしかめ、言いかけようとした言葉を飲み込んだ。

 そのまま、彼女は幾度か何かを口にしようとして、けれど躊躇って目を逸らす。そんな不自然な仕草を繰り返した。


「……アンジェ?」


 どうしたんだろう。

 戸惑っている私の顔をまっすぐ見上げ、アンジェは泣き出しそうに一瞬口を歪めた。

 きゅっと瞼を閉じたアンジェは、けれど次の瞬間、意を決したように、力強くその目を開いた。

 そして、ゆっくりと、硬い声を絞り出す。

 


「私……私、ご主人さまに、嫌われたくはありません。ご主人さまに嫌われてしまったら、私、多分壊れてしまいます」

「え……? ど、どうしたのよ、急に。私がアンジェを嫌いになることなんて、あるわけがないでしょう」



 え、どこからそんな話が出てくるの?

 アンジェの話の切り出し方の意味がよくわからずに、私は驚きと、そして軽い恐れさえ抱く。

 だがアンジェはそんな私に構わず、心を決めた表情で、言葉を紡いだ。


「それでも。……それでも、私、申し上げます。怖いですけれど、……とても怖いですけれど」


 アンジェは、押し止めようとする私の手をそっと抑えて、よろよろと起き上がり、私を見つめた。輝く極星のような黄金の瞳が私を射抜く。



「ご主人さま。……『塔』に登ることを、おやめになってはいただけませんか?」



 瞬間、空気がまるで氷のように凝結したかのようだった。

 よく意味が分からず、私は目を見開き、穴のあくほどにアンジェを見つめる。

 彼女の玉貌には真摯で一途な色のみが浮かんでおり、冗談や一時の戯れなどではないことが伝わってくる。もちろん、真面目なアンジェが冗談を言うようなことは、もともとあまりないけれど、そうとでも思いたいような、それは発言だった。


「ど……どういう意味? だって……」

「はい、わかっています。ご主人さまがこの街へおいでになったのも、そして私たちをお買いになったのも、仲間を増やし装備を整えてこられたのも、すべては『塔』へ登るため。『塔』に登ることは、ご主人さまが今ここにいらっしゃる、その根本になっていることは」

「……そうよ。それなら……」

「ですが」


 アンジェは引き下がらない。彼女の得意な、鋭く突き出す刺突剣(レイピア)のように鋭利な視線と語調が私を追い立てる。


「それでも私は、申し上げます。このままではいけませんか? ここで終わりではいけませんか? 既にご主人さまは功成り名を遂げていらっしゃいます。……いえ、ご主人さまはそういった栄耀栄華をお求めではありませんでしたね。でしたら、私たちのために。私たちみんなの幸せのために。そうお考えになってはいただけませんか?」

「待って、待ってちょうだい、アンジェ。……あなたらしくないわ、滅茶苦茶よ」


 私は両手を上げてアンジェを押し止めるようにしながら、ようやく彼女の舌鋒を塞ぐ。


「みんなのため、って。……今更言うまでもないけど、例えばテュロンは『塔』の謎を知りたいがために私たちのところへ来てくれたのよ。登るのをやめるのはあの子への裏切りにもなるわ。それに、ラフィーネさんは私たちの登攀の監視役として一緒にいてくれるんだし、キュリエナだって、『塔』に登る事に協力するっていう契約で私に雇われてるのよ。登ることをやめたら、それこそみんなバラバラになっちゃうわ」


 言いながら、私は自分自身でも改めて気づき直していた。

 私たちは、本当に、『塔』を中心に結びついているんだな、と。

 もちろん、愛し合ってるから一緒にいる、そのことも事実。でも、同じくらい強い動機付けが、『塔』の存在だった。

 でも、そんなことは、私がわざわざ注釈するまでもない。私より頭が良くて周りが良く見えているアンジェなら、当然わかっているはずなのに。

 そして何よりも。


「……それにね、アンジェ。何よりも──私自身が『塔』に登りたいのよ。たった今あなたが言ってくれたようにね。あなたがそれを一番よくわかってくれてると思ってた。ううん、わかってくれてるはずよね。それなのに、そんなことを言い出したのには、何か理由があるんでしょう? まずそれから聞かせてほしいな」

「……はい……」


 ゆっくりと諭すように言った私の声に、アンジェは唇を噛んで頷いた。そして、顔を上げ、続ける。


「……この間の戦いの時のこと、ですが」

「この間の……あの、本体が別だった守護獣?」

「はい。あの時、キュリエナとラフィーネ様は傷を負われましたね。その治療に当たったのが私だったので、わかるんです。……ただの偶然でした。お二人が助かったのは」


 私は目を見開き、息を飲んだ。

 そこまでの……そこまでの窮地だったのか、あれは。


「ほんの少し、傷の場所がずれていれば、あるいはほんの少し深ければ。その時は、私の治癒も間に合いませんでした。幸運な偶然。……ですが、今後もその偶然は続くのでしょうか。いつまでも、続くものでしょうか」


 アンジェの真珠の歯は堅く食い縛られていた。それは彼女の強い動揺と恐怖を示すものだった。

 

「……わかったわ。あなたはみんなが傷つくのが怖いのね。でも、それは今更の話よ。『塔』に登るときからある程度の危険は覚悟しているはず。もちろん、だからと言って危険性を軽視するつもりはないし、みんなとも相談して、今後はもっと注意深く、そしてお互いに援護し合って……」

「それが危険なんだって、私、この間知ったんです」

「え?」

「この間の戦いは、キュリエナもラフィーネ様も、それぞれ単独であれば回避できた攻撃でした。ですが、あの時お二方はお互いを庇いあい、その結果お互いに傷を負ったんです。……私、その時初めて知りました。──愛と信頼があるがゆえに危険を招くことがあると。愛はお互いを守るだけではないことがあり得ると」


 私は返す言葉を持たなかった。

 あの時……。そう、確かに、二人はお互いを庇いあったせいで、本来回避できる攻撃を食らってしまった。

 私はそれを、二人の間に信頼と絆が育まれていたあかしだ、と単純に喜んでもいたのだけど、でも。

 アンジェの言う通り、それは諸刃の剣。お互いを想いあうが故に……お互いを束縛し行動の自由を奪う枷となる可能性だって、あったのだ。


「……でも、アンジェ。それは極論で……もちろん潜在的にそういう危険が伴うということは理解しておかないといけないわ、でも……」

「それでも、私は嫌なんです。みんなが傷ついてしまうことが、……ご主人さまが、危険な目に遭ってしまうことが。……ご主人さまの命に危険が迫ってしまうようなことが」


 アンジェの瞳は潤み始めていた。そして、その視線の先が見つめているものが、もう私にはわかっていた。

 ──アンジェはかつて、私が死にかけた様子を目の前で目撃している。

 他の誰も見たことがない、私の死の寸前の姿。

 それは私に課せられた、正体を知られてはならない、という禁忌が破られかけた、その結果だったのだけれど。アンジェにとっては、それは予想すらできない突然の衝撃であり、今もなお、彼女の心の奥底に強くじっとりとこびりついて離れない恐ろしい悪夢であったのだと、私は知る。

 あの時の記憶と衝撃が、この間のキュリエナとラフィーネさんの大怪我という出来事をきっかけに、再びフラッシュバックしてしまったのか。それゆえに、『死』への強い恐怖が、彼女をこんな行動に駆り立てたのか。


「アンジェ……ごめんね、あなたがそんな不安に思ってるなんて、気づいてあげられなかった。でも、あの時とは違う。今はみんながいるのよ。

 確かに、みんながお互いを大切に思いすぎて、逆に危ない目に遭うこともあるかもしれない。でも、それ以上に、お互いを助け合い支え合って危険を乗り越えていくことだってできると思うの。だから、ね、アンジェ……」


 私はアンジェの小さな震える肩にそっと手を掛け、一言一言、噛んで含めるように言い聞かせる。

 だが、アンジェは泣き笑いのような表情を浮かべた。

 そっと、首を振る。


「それだけじゃないんです、ご主人さま。皆さんは、……ご主人さまたちは、あの時、多分ご覧にならなかったのでしょう。でも、私には見えました。私だけには、見えたんです」


 何を、言っているのだろう。私は怪訝な思いでアンジェの口許を見つめる。

 彼女は、言葉を続けた。喉の奥に詰まったものを必死で押し出すように。


「私には、見えたんです。……聖王陛下のあの幻が現れた時に。

 ──『塔』の中で、ご主人さまが……亡くなられる幻影、が。……そして」


 アンジェは嗚咽をこらえるような言葉を、ほろりと零した。



「──そして、私自身が、ご主人さまの御命を奪うという幻影が」



 言葉という無形の存在が、まるで悍ましい実体をもってどんよりとした影を部屋の中に落としたかのようだった。

 真昼のはずの部屋に漆黒の夜の帳が落ちたような錯覚に囚われる。

 戦慄するような畏怖が嘲笑と共に私の臓腑を鷲掴む。

 冗談、と笑い飛ばすことも、悪い夢、と慰めることも、できただろう。

 けれど、そのどちらも、私にはできなかった。それほどまでに真摯で、間違いのない現実を見定めてしまったような、絶望に近い確信が、アンジェの眼差しの中にあったから。

 それでも私はあえて、しわがれた笑みを浮かべる。


「アンジェ、気にしすぎよ。落ち着いて、冷静に考えて。あなたが私を殺すはずなんてないでしょう。そんなものはただの幻影。きっと、あなたが、ラフィーネさんたちの怪我で動揺していたから見てしまった幻に過ぎないわ」

「ですが、ご主人さま。私は、以前にも一度、見たんです。他の誰にも見えなかった幻を、聖王陛下の導きで。覚えていらっしゃいますか、私が初めて光芒剣を使った時のことを。あれは、聖王陛下の幻影に教えていただいたものでした」


 私は思い出す。

 あの、聖花の摘み手の競争の時、光芒剣の顕現のさせ方を知っていたアンジェは、確かに幻の女性にそれを教わったと言っていた。

 そしてその幻の女性、つまりおそらく聖王の幻影は、その時まで誰にも言っていなかったはずの、私の力を──魔法斬断の能力を知っていたのだ……。


「……ですから、今度も本当かもしれません。ご主人さま。どうか、『塔』に登ることを、思いとどまってはいただけませんか。こともあろうに、私が……この私がご主人さまの御命を奪ってしまうなんて、そんなこと……考えたくもないんです。私、怖い。怖くてたまらない……!」


 かたかたと、哀れなほどに、アンジェの華奢な体は震え続けていた。

 荒れ狂う嵐の中の、一輪の小さな花のように。

 私は、そんなアンジェを、ただ抱きしめることしかできなかった。

 アンジェは魔法行使者だけれど、予言や予知の力があるわけではない。

 だから、そんな悪夢のような光景が起こるということに何の保証もない。

 ない、けれど。

 でも、アンジェの震えは私の身体も震わせていた。

 明確に言葉にもできない、形にもならない、それでいて避けられない不吉な運命が、じっと私の命を刈り取ろうと、昏い眼窩の中から見据えているような感覚に襲われて。


「大丈夫よ、アンジェ。私はあなたを一人になんかしない。私だって、あなたと離れてはいられない。だから、私は死なないわ」


 何の理屈にもなっていない言葉。それでも口にせずにはいられない言葉。

 そんな言葉に、私もアンジェも、ただ頼りなく縋り付きながら、必死で不安に抗い続けるだけだった。

 そうだ。そんなこと、起きるわけがない。起きるわけが。

 ……ない。



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