偽りと幻影
肌に大気が悍ましい悪意を持ってまとわりつく。
そんな感覚を覚えるほど、暑く、そしてじっとりと湿った空気。
どろりと滴る緑色の膿汁──そんな感覚さえ覚える濃密な草いきれが鼻腔の奥にわだかまって、呼吸も躊躇われるほど。
そんな重苦しい空気を裂いて──牙が唸った。
無数に屹立するその牙は、一本一本が私の掌よりも長大。当然、その牙を備えた顎、いや頭部も、冗談のように巨大なものだった。
純白の羽毛に包まれたその頭の奥、紅く光る眼球は、純粋な殺意のみというある種の美しさが凝縮された宝石のよう。
僅かな間合いで牙の襲撃から身をかわした私は、身近を通り過ぎた死の風音に慄然としながらも、相手の勇壮な姿に感嘆の想いもまた抱いていた。
何と言っても、馴染み深く、しかもそれでいながら、これまでは博物館や映画なんかでしか御目にかかれなかった相手がここにいるのだ。いやまあ、正確には、そいつの姿を模した守護獣、だけれど。
そいつの名を、私はこう覚えている──ティラノサウルス・レックス、と。
GHOOOOOOAAA!!
淀んだ空気を震わせるほどの咆哮が樹海に響き渡る。暴君龍の名にふさわしい獰猛さに満ち溢れた巨体を唸らせ、その守護獣は再び私に向かって大地を揺るがせて突進してきた。
危ういところで飛び退りながら、左手の魔剣・不知火が守護獣の鼻面を斬り裂く。白い羽毛が血に染まって視界を覆わんばかりに舞い散った。
……が。
「ああもう、めんどくさ!」
私は毒づく。私の視線の先には、深手を負わせたはずの守護獣の姿。だが、その傷は見る間に塞がり、回復していく。
もう、先程から何度もだ。幾度斬りつけ、突き刺し、撃ち砕いても蘇る。こいつは、回復能力のある敵なのだ。
いや、回復、というのとも、ちょっと違うかもしれないが。
「メイア、テュロン、まだ!?」
私は振り返りもせず呼びかける。
私の背後では、名を呼ばれた二人が鬱蒼と茂った大樹海をかき分け、あるものを探してくれているはずだった。
「も、もうすぐだよ、ご主人さま!」
「時間を稼いでくださいませ!」
二人の応答に肩をすくめ、私は改めて剣を構え直す。アンジェとキュリエナ、ラフィーネさんも私に並んで守護獣に対峙していた。
「ま、たまにはこういう相手と戦うのも面白いわね」
やや息を荒げながら、それでもキュリエナがにやりと笑う。この子もたいがい怖い子だな。
「とりあえず時間を稼がないといけないです……ねっ!」
ラフィーネさんが炎の翼を広げ、火球を撃ち出す。守護獣に叩きつけられた炎塊は瞬時に羽毛に燃え広がり、その巨体を包み込んで凄惨な炎柱と化さしめた。とどめとばかりにキュリエナが魔法鞭を振りかざし、敵を寸断する光輪を放たんとした、けれどその時。
紅蓮地獄の中から、恐竜の王の名を冠された相手は、総身を炎に飲み込ませたまま、無造作に再突進を開始していた。
「……ッ!」
「あっ……!?」
間が悪かった。
その瞬間、半歩踏み出して攻撃態勢に入る寸前だったキュリエナ、そして魔法を撃ち終わった直後で隙のあったラフィーネさんの二人が、共に守護獣の攻撃圏内にあったのだ。
ヤバい、と私が蒼褪め、二人を救いに飛び出そうとした刹那。
「キュリエナさん!」
「ラフィーネ!」
──二人の、お互いの名を呼ぶ声が響き、二人分の鮮血が宙を染めた。
キュリエナは、ラフィーネさんを。
ラフィーネさんは、キュリエナを。
それぞれ、庇おうとして、……そしてお互いに、守護獣の牙に掛けられ、弾き飛ばされていたのだ。
「くっ!」
「ううっ!」
キュリエナもラフィーネさんもさすがに只者ではない、咄嗟に身を捻り、なんとか致命の一撃は回避したようだったが、泥濘の中にうずくまったまま二人は動けない。
「アンジェ! 二人を!」
私は叫びながら、守護獣の注意を引くべく走り出し、その太い獣脚に剣を叩きつける。
力を溜めている間もない今、その巨大で頑健な脚そのものの切断はかなうまい、……だが、指の一本程度なら!
ずん、と鈍い音が響き、禍々しい鈎爪の付いた守護獣の足指が一本、天に踊った。
炎に全身を包まれても動じない化け物だ、指の一本程度で怯みはすまい。
だが、邪魔な獲物がいる、という程度の認識をさせることには成功したようだった。相手は紅玉のような瞳を狂乱の色に滾らせ、キュリエナとラフィーネさんに向かおうとしていた巨大な咢を一瞬、こちらへ向けた。
──結果的には、達成したわけだ。
時間稼ぎ、という目的は。
「テュロン姉さま、そこだよ! その大きな岩の影に!」
「承知! ですわーっ!!」
メイアとテュロンの声が耳に届き、私は思わず微笑んだ。
同時、大地を撃ち砕き天を崩壊させるような大音響が轟く。おそらく、テュロンが、その大きな岩ごと、「目的のもの」を叩き潰したのだろう。
その瞬間、私の目の前の太古の遺物、巨大な肉食竜の帝王は、苦しげに呻き声をあげ、のたうち回りながら光と化し、消えていった。
後には、ころん、と大きめの聖遺物の宝石が転がり落ちたが、それを拾う心のゆとりもなく、私はアンジェの走った方向へ顔を向ける。
「アンジェ、二人は!?」
「はい、ご主人さま、もう大丈夫です」
光芒剣をかざしたアンジェが、キュリエナとラフィーネさんの傷の治療に当たっていた。
アンジェの放つ穏やかな光に包まれ、二人はぺたんと座り込んでいる。だが意識ははっきりしているようで、泥にまみれた顔に、やれやれ、と言ったふうに苦笑を浮かべていた。
ふう、と私は安堵の吐息を突く。そこへ、メイアとテュロンも戻ってきた。
「お疲れさま、メイア、テュロン。助かったわ」
「時間かかっちゃってごめんね、ご主人さま。あいつの力の『波』は、この場所に紛れ込んじゃってなかなか見えづらかったんだ」
メイアの申し訳なさそうな言葉に私は微笑み、彼女の頭を撫でた。
……今回のこの敵は、目の前で暴れる巨大な姿が本体そのものではなかったのだ。
攻撃を仕掛けてくる巨体とは別の、小さな個体が別に存在し、その小型の敵を討たないことには、いくら大型の敵を傷つけても再生してしまう。そんな面倒な相手だったのだ。
なので、私たちは、特別な『眼』を備えるメイアに敵の本体の探査を頼み、またその相手を倒すためにテュロンをつけた。そして私を含む残りの4人で大型の守護獣の相手をしていた、というわけだった。
「……ユーゼルクたちの資料には感謝ね。最初からこの相手についての情報がなかったら、相当苦戦を強いられていたでしょう」
「ユーゼルク様たちも、この階層は何度も撤退し、再挑戦を余儀なくさせられたとか。それでも、最終的にはこの守護獣の仕掛けを見破っていたのはさすがですね」
キュリエナとラフィーネさんの治療を終えたアンジェが傍に歩み寄って私に同意する。
今回の敵に関しては……というより、ここまでの階層に関して、私たちはユーゼルクの好意で譲られた資料を基にして登攀を行っていた。
下の階層ならば、多くの人々が登っていることもあり、地図も情報も豊富。しかし、上の階層へ登ってくるに従って、当然ながらどんどん情報は少なくなっていき、ユーゼルクの与えてくれた資料が大きな頼りになる、という状況になっていった。
「けれど、それもここで終わりね、ついに。……ここからは、私たちだけで道を切り開いて行かないと」
「はい、ご主人さま。でもきっと、できます。ご主人さまならば」
アンジェが力強く頷いた。
そう、ここは、ユーゼルクたちがたどり着いた中では最上階なのだ。
ついにここまで、私たちはやってきた。
ここまではユーゼルクの資料に助けてもらえたが、ここから先は彼らでさえも足を踏み入れていない領域。新たな階層がどんな地形なのか、どんな環境なのか、そしてどんな守護獣がいるのかは、ほぼ誰も知らない。
けれど、アンジェの今の言葉じゃないけれど、何とかなるんじゃないかな、なんて気が、私もしていた。アンジェの言うように、私の力が優れているからというわけではなくて……。
私は、ちらりと、声が聞こえてくる方向に視線を向けた。
キュリエナとラフィーネさんが言い合いながらやってくる方向に。
「……だから、なんであんなことしたのよ」
「それはこちらの言葉ですー! だいたい私、空飛べるんですから、あんな攻撃くらい躱せましたしー!」
「私だって、身のこなしには自信があるわ。あなたに庇ってもらう必要なんてなかったの。それなのに、勝手に飛び出してきて勝手に怪我して」
目を尖らせるキュリエナに、ラフィーネさんも、むすー、と膨れっ面になる。
「だって、しょうがないじゃないですか。つい体が動いちゃったんですから! キュリエナさんだって余計なことして一人で怪我してたじゃないですか!」
「わ、私だって無意識のうちにだったんだから仕方ないじゃない!」
くすくす、と笑いながら、私は二人に近づき、その肩を叩く。
「キュリエナ、それにラフィーネさん。……二人して、傍から聞いてると、すごーく恥ずか可愛らしい会話してるの、気づいてます?」
うっ、と二人して言葉に詰まる。ラフィーネさんはその仮面に隠された顔を真紅の髪と同じような色に染め、キュリエナは気まずそうに視線を逸らした。
うん。
つまり、キュリエナもラフィーネさんも、お互いのことが心配で、つい反射的にお互いを庇ってしまった、ってことなんだよね。
ふふ。なんか、可愛いな。
私は微笑ましい気持ちになると同時に、安心もしていた。
キュリエナと、ラフィーネさん。
二人の関係については、ちょっと心配していたから。
──キュリエナが、ラフィーネさんのお姉さんである黒の聖務官を殺そうとしたこと。
あのことで、二人の心情は少しこじれていたように思う。いや、今でも、わだかまりがまったく無くなったわけでは、多分ないんだろう。気持ちの奥底に残っているもやもやは、そう簡単には消えるものではない。
それでも、二人は、二人とも、お互いを庇った。意識するより前に、お互いの危機を救おうとしたのだ。理屈ではない。体がそれを求めていた。
言葉よりも、その反応がすべてを物語っていると思う。多分、彼女たち自身も自分で自分を意外に思っているんだろうけど。
人間なんだし、お互いに対して、色々と思うところがあるのは、ある意味、当たり前のことなのだろう。それぞれに過去もあるし、考え方も感性も違う。
けれど、危ういときに、お互いを救いたいと願うその気持ちだけは本物だと。
それがわかれば、あとは乗り越えられるんじゃないかな、って。
私はそう感じていた。
私が何か行動して二人の仲を取り持つ必要があるのではないか、なんて思っていたけど、それは取り越し苦労というか、自惚れだったのかもね。
うん、だから。
こういう仲間たちがいてくれるから、私はこの先も大丈夫じゃないかな、なんて、思えたのだ。
「そ、それにしても」
と、きまり悪そうなキュリエナが話題を逸らすように、こほんと咳払いする。
「こういう戦いも、なかなかいい刺激だったわ。私、ちょっと興奮しちゃった、うふふ」
何か意味ありげに私を流し眼で見るキュリエナ。そういえば、さっきも、面白い戦いとか言ってたな。けど、彼女はヘンタイではあっても戦闘狂ってわけではないし、ちょっと妙な発言だなとは思ってたんだけど……刺激とか興奮とか、なんのことだろう。
「だって、あんなに大きな……」
うん、大きな相手だった。
「ラツキを相手に命のやり取りができるなんてね」
「はい!?」
私!?
私を相手って……と、そこまで一瞬仰天して、すぐに思い当たる。
あ、そうか。
ユーゼルクの資料にあったっけ。あの巨大な守護獣は、本体が別に存在すること以外にももう一つの特徴があるのだった。
それは、姿が一定していないこと。
──正確には、相手が認識する姿が一定ではないこと、だった。
あの守護獣は、自分と対峙する者の精神に働きかけ、その者が最も強大な生物であると考えている姿を映し出す、という能力を備えていたのだ。
私にとっては、それがティラノサウルスの姿だった。
でも、この世界にも恐竜が存在したのかどうかはわからないし、存在したとしても、私の元の世界ほどには古生物学が発達しているわけでもないだろう。だから、恐竜なんてものを知っているのは私くらいで、ティラノサウルスの姿として敵を認識したのは私だけだったか。
でも、ということは。
「キュリエナ……あなた、私の姿であの守護獣を認識してたの!?」
体長10mの私って、どんだけ特殊性癖なのよ。
呆れて彼女の顔を見つめるが、キュリエナはくすくすと面白そうに笑うのみ。
「だって、私の知る限り、一番恐ろしくて強い生き物はあなただもの、ラツキ。幻影とはわかっていても、あなたの姿と戦って、鞭で叩いたり斬ったりを思う存分できるっていうのは、結構感じちゃうものがあったわ」
やっぱヘンタイだこの子。と思ってたら、もじもじしながらみんなも口を開いた。
「えっと、すみませんラツキさん、私も実はラツキさんの姿に見えてました」
「あの……私もです、ご主人さま」
「私もですわ。ご主人さまはまさにそういう存在ですもの」
「うん、僕もだよ。みんなそうだったんだね!」
……うわあ。
私は唇がひくひくと痙攣するのを覚えた。みんなして私をティラノサウルス並みの猛獣みたいな目で見てたのか。
「でも、だったらラツキはあの守護獣、どういうふうに見えてたの?」
「そうですわね。ご主人さま自身が強いと思う相手の姿、興味がございますわ」
「……えっ」
今度は私が棒を飲み込んだような表情になり、眼を泳がせた。
だ、だって、てぃらのさうるす、なんて言えるわけないし……。まあ言っても理解されないだろうが、それ以前の問題で、下手なこと言っちゃうと私の正体バレにつながりかねないし、それは私の死を招くのだから。
しかし、みんなは、ただ純粋に興味深げな眼差しで私を見つめてくる。悪意がまったくない分、余計に困る……。
私は升ほどの冷や汗をかきながら、ようやく適当に答えを捻り出した。
「え、えーと。……く、くも。蜘蛛だったわ」
ぽかん、としたみんな顔が痛い。せめて獅子とか虎とか言うべきだっただろうか……。
「くも? くもって蜘蛛のくもですの? 不快ではございましょうが、強いという認識になるのでしょうか……?」
「怖いあまりに強いって思っちゃったのかしら? ラツキともあろう人が、蜘蛛なんかが怖いんだ。うふふっ、可愛らしいこと」
「だ、大丈夫です、ご主人さま。私も蜘蛛怖いです! だから大丈夫です!」
首を捻る声に、揶揄する声に、フォローしてくれる声。うう、どれも辛いよう。
私は苦虫を噛み潰したような顔になって背中を向けた。
「そ、そんなことはもうどうでもいいじゃない。さ、次の階層に行って記録を残してから、今日はもう帰るわよ」
くすくす、とみんなの笑いさざめく声。
それを背中に聞きながら、私は重い気分になっていた。
笑われることが、からかわれることが、ではない。それはみんなの親愛の証しだもの。
……でも。その親愛の証しを示してもらっているという、そのことについて、私は苦しい感情が込みあがってくるのを押さえられないでいたのだ。
──だって、私は、そんな大切なみんなに、嘘をついているのだから。
この間の、璃梨の騒動があってから……いや、もっとずっと前から、私の心の奥底にどんよりとわだかまった重たい塊がある。
愛する少女たちに対し、偽りに偽りを重ねて生きているという今の私の在り方。
今のティラノサウルスのことにしてもそうだけど、ほんの少しの、どうでもいいと言えばどうでもいい嘘かもしれない。でも、一つの嘘が次の嘘を呼び、その偽りが積み重なって、……いつか私はその重みに潰されてしまうような気さえ、する。
考えすぎだろうか。繊細に過ぎるのだろうか。
大切なのは、今のみんなを愛し、今のみんなを幸せにし、今のみんなと真摯に向き合って生きていくこと。それが出来てさえいれば、多少の隠し事くらいは些事。
……そんなふうに、無理にでも自分に言い聞かせて、これまでは過ごしてきた。
でも、この間の璃梨のことは、些事と言ってしまっていいものではない気がする。
私の愛し方、私の生き方の根本に、あの子はいる。
それは、今のみんなへの愛につながっている。
けれど私は、あの子のことをみんなに語れない。隠さなければならない。生きるために。
……なんて、矛盾。
生きるために、私の生き方を変えた子のことを偽り、今を生きるために必要なアンジェたちを騙さなければならないなんて。
これから、一生──と考えて、めまいがするような感覚に襲われる。
私はこれから一生、アンジェたちに、嘘と偽りを塗り固めて向き合っていかなければならないのだろうか。
私はそんな自分に、耐えられるの、だろうか……。
……はあ。
こんなふうに色々とうじうじ考えちゃうから、キュリエナに、私の愛し方は重い、とか言われちゃうんだろうなあ。
けどさ。やっぱ、愛する子たちに嘘つき続けるのって、辛いよ……。
みんなに気付かれないよう重い息を胸中で吐き出しながら、私は天移門の上に登った。
全員の準備ができたのを確認してから、転移を開始する。
繁茂した大樹海の景色が急激に薄れていき、周囲の空間が青白く変容していく。
もう見慣れた感覚。……けれど。
見慣れてはいない要素が、ただ一つ、あった。
キュリエナとラフィーネさんが、息を飲み、言葉を失い、眼を見開いて、「それ」をまじまじと見つめている。
当然か。この二人にとっては、初めてのはずだ。私とアンジェは三回目、テュロンとメイアにとっては二回目だけれど、それでさえ驚愕が抑えられないのだから。
──あの、幻の美女に遭遇するのは。
黄金に波打つ髪と、深く澄んで輝く瞳。白磁器のような滑らかな肌に、魅惑的な曲線を描く艶めいた唇。穏やかで気品ある物腰と、落ち着いた佇まい。星の海を切り取って形にしたように煌めくドレスを身に纏って、「彼女」はそこにいた。
転移空間に浮かび揺蕩っている、アンジェに酷似した、けれどアンジェよりも年上に見える美女。その神秘的な美しさと状況の異様さとが相まって、まるで夢の中にいるような感覚に襲われる。
「彼女」は、私とアンジェが初めて『塔』に入った時、そしてあの聖花の摘み手の競争で、砂嵐に巻き込まれかけた時に、私たちの間に現れていた。
けれど、今回は、「彼女」を以前に見た時とは異なっていた。
優雅な唇を開き──「彼女」の声が、響いたのだった。
『……もうすぐですね。……お待ちしています……あなたたちを』
その声はやはりアンジェにとても似ていたためか、私は、初めて彼女の声を聞いたということに、かなり遅れて気が付いたのだった。
「……あれが……話には聞いていたけど、あれが、そうなのね。まったく、ラツキと一緒にいると、ほんとに退屈しないわ」
『塔』の外に出た後、キュリエナがまだ驚きの色を顔に残しまま、それでも楽しそうに笑む。
あの幻の美女のことは、彼女たちにも、話としては伝えてあったけれど、やはり実際に見ればそのインパクトは相当のものだろう。
ましてや今回は、彼女は声を発した。私たちを誘うように。
ただの幻ではなく、まるで、私たちに対して何らかの意思を有しているように見えた。
「職業柄、登攀者の方々とは数え切れないほどお会いしています。ですが、あのような幻を見たという話は、私のみならずどの記録にも残っていないと思います。ユーゼルクさんたちの資料にも記載されていないですよね。……しかし、あれは……いえ、あの人は……」
ラフィーネさんも仮面の奥の眉を顰めているであろう困惑の表情を浮かべながら言う。
その視線は、アンジェの方にまっすぐ向いていた。
「……ほんと、聞いていた以上にアンジェさんにそっくりでしたねえ。ということは、やはり……」
こくん、とテュロンが頷き、その言葉を引き取った。
「少なくともあのお姿は、聖王アンジェリカ陛下のものである可能性が高い、と考えるのが、輝ける知性の導きですわね。聖王陛下御自身に直接何らかの形で関係するものなのか、それとも他者がそのお姿を利用しているだけなのかはまだ分からないとしましても」
アンジェは戸惑ったように考え込み、何も言わなかった。
聖王アンジェリカはアンジェの先祖であり、また唯一、『塔』の百階層までを制覇した女性で、十階層にある『聖王の樹』など、『塔』とはゆかりが深い。さらに、生命力を活性化させる能力を秘めたアンジェの剣、光芒剣の元々の所有者でもある。
かつて、帝国の皇太子殿下も、帝国に伝わっている聖王の肖像画は、私たちのアンジェにそっくりだとも言っていたが……。
姿かたちの酷似という点からも、また、『塔』の中にのみ出現するという点からも、確かにあの女性の姿は聖王のものであると考えるのが自然なのだろうか。
もちろん、千年も前の人間である聖王の姿が、何故私たちの前に……私たちの前だけに現れるのか、あれはただの幻影なのかそれとも何らかの実体を伴っているのか、などは全く見当もつかない。
私の推測では、聖王は多分私と同じ異世界転移者なのだろうと思っているけど、だから私の前に現れている、という可能性もあるのかなあ。
あるいは、テュロンの言うように、関係ない他人がその姿だけを利用してる、ということだってありうるわけよね。
──聖王アンジェリカ、か。
思えば、聖王の目に見えないながらも巨大な影響力は、私がこの世界に来てからずっと感じていた。何かにつけて聖王、聖王、という話題が出ていたものね。それほどまでに偉大な人ではあるのだろうけど。
でも、ただの歴史上の人物、と言うだけでは、どうやら済まないみたいだ。……「彼女」が私たちに向かってはっきり語り掛けてきた、という以上は。
うーん。
聖王アンジェリカについては、いろいろと調べてみる必要はあるのかもしれないわね。




