追憶と約束
『らーちゃん』
『……え?』
『羅槻ちゃんだから、らーちゃん。佐保さんって呼ぶより、らーちゃんの方がいいな。えへへ、だめ?』
『だめっていうか……だめじゃない、けど。でも、あたしの名前をそんなふうに呼んだ人、初めて』
『じゃあ、らーちゃんね。あたし、らーちゃんの名前好き。可愛くて』
──なんか、懐かしい夢を、見た。
微睡みと目覚めの間に魂を遊ばせながら、私はしばらく、追憶の中にいた。
……らーちゃん、か。
後にも先にも、私をそんな可愛い呼び方してくれたのは、あの子だけだったな。
それも、私の名前が好き、と来た。こんなキラキラネームなのにね。私自身、恥ずかしくて、あんまり好きじゃなかったのに。
でも、あの子がそう言ってくれた時から、私は私の名前を、それほど苦にはしなくなっていったような気は、する。
そう──あの子に逢えた、その時から。
ふう、と、懐かしさと切なさの入り混じった吐息をついて、私はベッドの中で伸びをし、起き上がった。
朝の爽やかな光が目に眩しい。朝陽はいい。夕焼けはあまり好きじゃないけど。
今朝の私は、ベッドの中で珍しく一人。
いつもはだいたい誰かと一緒に寝るのだけれど、……っていうか寝る以外のこともしているのだけど、たまにはこんな朝も悪くない。あくまで、たまには、だけどね。
誰もいない隣が少し広く寒く感じないこともないけれど、でも、時折は、こんなこともあっていい。のんびりと孤独を楽しむ、という、とてつもない贅沢。
というのも、昨夜は遅くまで、クソ電飾の世界に行って、『ショッピング』をしていたから。
結構コピーしたスキルがたまってきたので、ポイントに変えて、ついでに何か新しく買えるスキルで良さそうなものがないか、選んでいたのだった。
多少時間が掛かるだろうと考えていたので、今夜は私一人で寝るね、とみんなには言っておいたというわけ。
ふわあ、とあくびを噛み殺しながら私は着替え、居間へと向かう。さっき、夢うつつの間に聖殿の鐘の音を聞いた気がするから、ちょうど朝食には間に合うくらいの時間かな。
「みんな、おは……」
おはよう、と言いながら扉を開けかけて、けれどその扉の向こうでは。
なんか、言い争いのさなかだった。いや、別に険悪な雰囲気というわけではなく、むしろみんな、にやにやと笑いながら何かを言いあって遊んでる、という感じだったけど。
「いえ、私はそうは思いません。そういうお方ではありません」
「よくわかんないけど、僕もそうじゃないと思うよ」
「アンジェもメイアも真面目ねえ。でも、実際そうだと思うわよ。ねえ?」
「そうですわねえ。我が輝ける知性の導きに従って客観的な判断をすれば、その結論に落ち着かざるを得ないかもしれませんわ」
「まあいいじゃないですか。それでもラツキさんはラツキさんですよ。そういう残念な人っていう部分も含めて、いいんじゃないですか」
……何の話だか知らないが、なんとなく私がサカナにされていたんだろうなというのはわかる。しかし、残念な人、とはなんということを。その言葉、残念聖務官のラフィーネさんだけには言われたくないんですが。
「……おはよう、みんな。えっと。何の話してたのかしら、ねえ?」
私が戸を開けながらジト目で声を掛けると、みんなは私に気付き、ちょっと気まずそうな苦笑を浮かべて目を逸らし、一瞬黙り込む。
が、すぐに、キュリエナが唇の端を擡げ、小首を傾げてからかうような視線を送りながら、言った。
「あー、うん。ラツキって、ね。……下半身に人格と節操ないわよねって話」
「ごほっごほっがほっ!!」
いきなり言葉でぶん殴られて、私は背を丸めて咳込んだ。朝っぱらから何言いだすんだ、この子は!
「……久しぶりに正面からケンカ売ってきたわねキュリエナ。高額査定で買い取ってあげるから表に出なさい!」
怒気を噴き出しながら彼女の胸ぐらをつかんで睨みつけた私だったが、キュリエナは面白がっているような瞳の光を崩さない。
「自覚なかったの、ラツキ? 5人の恋人侍らせて喜んでる時点で、何言っても説得力ないわよ?」
「うぐっ……!」
私は怯み、眼を泳がせた。そ、それを言われると確かにそうなんだけど。でもでも、別に私は最初から女の子一杯集めたいとか思ってたわけじゃないし、流れでそうなっちゃっただけなんだもの。いや、みんなに、その……、「手を出した」責任は責任でちゃんと取るつもりだけど。
「お待ちください、ご主人さまは何も、肉欲や淫らな衝動に突き動かされていたわけではありません。それはご主人さまが聖都にいらした最初からお側にいる私が一番よく知っています」
おお、アンジェが助け舟を出してくれた。ほんとにこの子は私の天使だ。
……でも、真面目な口調で肉欲とか淫らな衝動とか言われちゃうのはその、なんというか、結構ダメージ来るんですが。つまり、一般的にはそう見えるってことだよね……。
「でもねえ。ここにいる5人だけならともかく、ラツキ、他にもどこかに女の子囲ってるんじゃないの?」
「し、失礼なこと言わないでよね! 何よ、そのわけのわかんない言いがかりは!」
腰に手を当ててちょっとあきれた様子でなおも言うキュリエナに、さすがに私もムッとする。勝手な想像で適当なこと言われたらちょっと怒るぞ。
と思ったら、今度はラフィーネさんが口を挟んできた。懐疑的な声音で。
「じゃあラツキさん、昨夜はどこに行ってたんです?」
……えっ?
ゆ、ゆうべ? ゆうべは、あのクソ電飾の世界に行ってて……。
「昨夜、私、聖殿に出す書類の内容のことで打ち合わせしようと思って、ラツキさんのお部屋に行ったんですよ。まあ、あわよくばそこでそのまま押し倒されてしまおうという目論見があったのは否定しませんが」
おいこら聖職者。
というツッコミをしたくなるが、え、私の部屋に来たの、ラフィーネさん……!?
「でも、ラツキさん、いませんでしたよね。お風呂かお手洗かと思って少し探しましたし、お部屋でちょっと待ってもみたんですが、結局昨夜はお留守のままでした。いつの間に、そしてどこへいらしてたんです、ラツキさん?」
うぐ。まずい。私の正体を知られてはいけないってのは大前提。まさか、他の世界行ってましたよなんて言えないし。
私はへどもどしながら、何とか言葉を探す。
「え、えっと。ちょっと外に散歩に。いい夜だったから、つい雰囲気に誘われて」
「昨夜は夜半に雨が降ったようでしたが」
「あ、雨の中の散歩ってのも、風情があっていいものよ?」
冷や汗が背中を伝い、明らかに態度がおかしくなるのを自覚する。が、みんなにはその私の態度が別のことを隠していると受け取られたようで、白い視線が集中した。
そして、──とどめのもう一声が。
「それならもうひとつお尋ねしますが、……リリさん、ってどなたなんです?」
直に頭をぶん殴られたような衝撃が襲い、私は、完全に混乱した。
リリ……って……璃梨、のこと、なの?
どうしてみんなが、璃梨の名前を知ってるの……!?
「時々ですけど、寝言でそのかたに呼びかけてますよ、ラツキさん。私だけじゃなく、他の皆さんも聞いたことあるそうです。だから今朝、こんな話になってたんですよ」
「ええ、昨夜はそのリリって子のところに、お忍びで行ってたんじゃない? って、ね」
思わず私は無意識に半歩下がってしまった。
し、しまった。そんなことがあったのか。
うう、みんなからの無言の圧力が凄いんですけど。
ど、どう答えたらいいんだ。
「昔の……」と言いかけて、慌てて口をつぐむ。なぜなら、私には「過去の記憶がないはず」だからだ。私は自分が得た超人的な力を『秘法』によって得たものとし、その代償として記憶を失っているということにしている。それはみんなも知っているので、「昔の」という言い訳はできないのだ。
「まあまあ、ご主人さま。それほどお気になさらずに。別に私たちも、ご主人さまが他にいいお人を作っているから許せない、と言っているわけではございません。そういう、仕方のないお方なのだということで」
「だから違うんだってばー!」
私はじたばたしながら抵抗する。なだめるような生暖かいテュロンのその言葉、逆に傷つくんだけど。
そんな私の腕に、アンジェがそっと触れてくれた。見上げる彼女の眼差しは今の陽射しのように暖かく真摯で、そこにはひとかけらの疑念もなかった。
「ご主人さま、私は信じています。皆さんもちょっとふざけているだけですから、ご主人さまもお気になさらないでくださいね」
「あ、ありがとう、アンジェ」
アンジェの強い信頼のにじむ言葉に、みんなも肩をすくめてお互いを見合わせる。もちろん、みんなも事を荒立てたいわけではない。なので、アンジェにそこまできっぱりと言われてしまえば、それ以上私を追及することを、とりあえずひとまずはやめてくれたようだった。
とはいえ、困ったな。私が他に女の子を作ってる、なんていう疑惑が、みんなから去ったわけではないみたいだし……。
『いつもありがと、らーちゃん』
『プリント届けるくらい、なんてことないけど。……どうなの?』
『うん、今日はいつもより気分いいよ。それに、らーちゃんに会えたから、もっと気分良くなったな、えへへっ』
『じゃあ、あたしが毎日来たら、もっと良くなる?』
『ほんとに? ……ほんとに毎日来てくれる?』
「……ご主人さま……ご主人さま?」
「え!? あ、ああ、ごめんアンジェ、何?」
「いえ、危ないかなと思いまして……何かお考え事でしたか?」
隣を歩きながら不思議そうに尋ねるアンジェに、私は曖昧に笑ってごまかす。
みんなの視線から逃げるようにアンジェを連れて買い物に出てきたのだけど、うん、聖都の人ごみの中をボーっとしながら歩くのは確かに危ないわよね。
でも、昨夜あんな夢を見て、それにみんなに問い詰められたからか、なんか、妙にあの子のこと、考えちゃうな。
もちろん、忘れたことなんてないんだけど、今日は特に、だ。
彼女の面影も浮かんできて、脳裏を離れない。
白い、透き通るような肌と、長い黒髪、深いまなざし。少しやつれてはいるけれど、それがかえって、今にもどこかへ消えてしまいそうな、儚くも艶めいた美しさを彼女に与えていたっけ。
そう、ちょうど街角を曲がってあそこから歩いてくる子のように……って、え!?
「り、璃梨!?」
思わず悲鳴のように呼びかけて、私はその少女の元へ小走りに駆け寄ってしまった。
が、すぐに気づく。
似ている、けど、別人だ。
璃梨より少し年上だし、眼もとはあの子より少しきつめだ。ほっそりしてるけど、病んでいる様子もない。
確か、雪霊族。そういう、透明感のある白い肌と黒い髪の美しい種族があるんだっけ。
あまりにもあの子のことを意識していたから、少し似ている程度の他人を見間違えちゃったのか。
「あ、ご、ごめんなさい……」
「え、ラ、ラツキさんですか!? 聖花の摘み手の!? ど、どうして私のことご存じなんですか!?」
「ふぇ!?」
お互いに目を白黒させている私とその少女。え、なんなの? 何がどうなってるの?
「あ、あの、あなたは……」
「わ、私、リリアティナって言います、新人の登攀者です! 友達はみんなリリって呼んでくれます! 私、ラツキさんに憧れてました!こんなところでお会いできるなんて!」
うわあ。なんだそれ。なんだその偶然!
口角を痙攣させ、言葉が出ない私に構わず、リリアティナと名乗ったその少女は私の手を感極まったように握りしめ、嬉しそうにぴょんぴょんと跳ねている。
そんなにも喜んでくれるのは光栄だけど、でも。
私は背中の産毛がちりちりと焦げ付くようなヤバい気配を思いっきり感じていた。
大気が凝縮され、圧縮され、圧潰していくような凄まじい重圧がゆっくりと、しかし確実に迫ってくる。
「……ごぉしゅぅじぃんさま……!」
ひいい。
大地の底、冥府の果てから響き渡るようなその超重力ボイスはやめてくれませんかアンジェリカさん!?
「……その方がリリさんなんですね。……本当にそういう方がいらしたんですね。私、ご主人さまを信じていました。信じていましたのに……!」
「待っ……アン……ち……ごか……」
待ってアンジェ違うの誤解よ、と言いたいけど、唇が痙攣し舌がもつれて、私の言葉はしどろもどろ。
その私を射すくめるようなまなざしで見つめるアンジェの黄金の髪が、まるで炎のように揺らめく。爆発寸前のエネルギーの塊が膨れ上がっていくようだ。
「ご主人さまの……ご主人さまの……」
アンジェの握り拳がわなわなと震える。私は全身に慄きを感じながら、蛇に睨まれた蛙のように身動きもできない。
このまま、「バカーっ!!」とか「アホーっ!!」とか「おたんこなすーっ!」とか、「あんぽんたーんっ!」とか、なんかの罵声が飛んでくるのかと身を固くしたが、アンジェの声はそのまま止まってしまった。
ん? と思っておそるおそる顔を上げてみると、アンジェもなんか困ってるっぽい。
ああ、そっか。優しいアンジェは、これまで誰かに悪口とか言った経験、ないんだな。だから、うまく悪口が言えないんだ。
不意に、きっと結ばれていたアンジェの唇がふにゃりと歪み、私を見据えていた大きな金色の瞳が溢れるほどに潤む。
「うう……うわああああん!」
子供みたいな泣き声を上げると、アンジェはくるりと身を翻してそのまま風のように走り去ってしまった。待ってアンジェ、と呼ぶ私の声さえ追いつかないほどに。
慌てて追いかけようとして、けれど足がもつれた。
びったーん! と、派手に私は顔面からすっ転ぶ。
だ、大丈夫ですか、と心配そうに声を掛けてくる少女の声を遠くに聞きながら、私は赤くなった鼻を押さえて唸っていた。
『らーちゃんって、ほっとくと転んじゃいそう』
『あたし、そんな運動神経悪くないけど』
『知ってる。えへへ、あたし、らーちゃんと友達になる前から、らーちゃんの走るとこ見てたもん。でも、らーちゃんって、一人にしとくと転んじゃう気がする』
『何それ。意味わかんない』
『わかんなくてもいいよ。でもね、らーちゃんが転びそうになったら、あたしが支えてあげたいなって』
「……だからなんで一緒に出掛けたあなたたちが別々に、しかもどっちも泣きながら帰ってくるのよ」
呆れたように見下ろすキュリエナの声。
その言葉通り、私は半泣きになりながら屋敷に帰ってきた。聞くと、アンジェも泣きながら帰ってきて自分の部屋に閉じこもり、驚いたみんなが呼びかけても返事もないという。
「だって……誤解……違うのに……えうー」
ぺたんとみんなの中央に力なく座り込んで、私はえぐえぐとべそをかきながら、意味のない単語を切れ切れに零す。なんかもう主人の威厳もリーダーの権威もあったもんじゃないけど、仕方ない。
「ご主人さま、アンジェ姉さまを怒らせたんでしょう。姉さま、普段はとっても優しいけど、怒らせるとすっごい怖いんだよ」
メイアが、困った子だ、と言いたいような目線で私を見ている。うう、アンジェを怒らせると怖いってことくらい、私が一番よく知ってるよ。でも、今回はほんとに誤解だもん。
「あのアンジェがそこまで怒ることなどはそうそうあるものではございませんわ。ましてやご主人さま相手に。すなわち、我が輝ける知性の導きにより、解答が導き出されます。……他の女の子に手を出そうとなさいましたわね、ご主人さま?」
「ちっがーう! いやほんとに違うから!」
テュロンの指摘にじたばたしながら必死で頭を振る私。
なんか、ほんとに胸の奥がツンと突き刺されるように痛くなってくる。
涙は寂しがり屋なので、一人ではいたがらない。たいてい友達を連れてくるものだ。涙が泪を、悲しさが哀しさを、仲間にしてやってくる。
目の奥で必死に堪える私の涙は熱く、切なかった。
──信じてもらえない、という悲しさ。
大切な、愛している仲間たちに、恋人たちに、私はここまで信じて貰えていなかったのだろうか、という苦しさだった。
その時、キュリエナが再びニヤニヤしながら口を開いた。
「ラツキ。もういい加減に認めちゃったら? あなた、嘘をついてるわよね」
「な、何がよ? 言っておくけど、ほんとに私、他の女の子になんか……」
「そっちじゃないわ。……あなた、過去の記憶がないっていうの、嘘でしょう?」
……心臓が悲鳴を上げ、息が止まりそうになる。
私の嘘。記憶がないという偽り。
それを……看破された?
私の正体が見抜かれた? まさか。でも、もし仮にそうならば、私は今ここで死ぬことになる。こともあろうに、愛する者の手に掛かって死ぬことに。そんな……そんな馬鹿な。
蒼白になっているであろう私の顔を、けれどキュリエナは面白そうに見つめるだけ。彼女は、自分の言葉が私を殺しうるということを、当然ながら夢にも知らないのだから。
彼女の口が次に開かれたとき、その時が……その時が、私の最期の時になるのか。
だが。彼女はこう言った。
「正確には、全部忘れたわけじゃないんでしょう? ……その、リリっていう子のこと。それだけは、覚えているんでしょ」
「え……?」
ぽかん、と口を開ける。
そんな私の様子が面白いようで、みんなはくすくすと笑っている。
「ラツキ。あなたみたいに不器用な人が、……そして、変なとこで真面目な人が、私たちみんなに隠れて、こっそり他の女の子と付き合うなんてこと、できるわけないわよね。そのくらいはみんな、最初から分かってたのよ。まあ、──恥ずかしい言葉を使えば、信じてた、とも言うわね」
「な……」
キュリエナのからかうような笑顔と対照的に、私は二の句が継げずに間抜けな顔を晒したままだ。
今度は腰に手を当てて、ラフィーネさんが言う。
「ですけど、です。ラツキさんが、夢の中で、そのリリさんと言う方のお名前を時折呼ぶのは本当ですよ。……それを聞いた時の私たちの気持ちがわかりますか? ついさっきまで、私の耳元で愛をささやいてくれたのと同じ口で、他の女性の名前を呼ぶんですよ、夢とは言え。それも、この仲間内ならまだ我慢できますが、全然知らない人の名前です。これはちょっと、カチンと来ても仕方なくないですか?」
「あ、あう……」
私は亀みたいに首をすくめて縮こまる。
うう。そ、それは確かに、私が悪い、かも……。
確かにそれは、みんなの気持ちを、知らないうちにとはいえ、傷つけていたかも、しれない……。
「だから、ちょっとここらで、ラツキさんにお仕置きしておこうかって。それで、みんなでラツキさんをからかってたんですよ。でも、ちょっとお薬が効きすぎちゃいましたかね。ごめんなさい」
てへぺろ、と舌を出すラフィーネさん。私はからかわれていたと知って、怒るというよりもむしろ安堵した。私はみんなに、この愛する子たちに、まだ見放されてはいなかったんだ。
メイアも傍らで目を丸くする。
「そうだったの? 僕、ほんとにみんながご主人さまのこと疑ってるのかと思って、悲しかったよ」
「まあ、別に打ち合わせしたとかいうわけではありませんでしたから。その場のノリというか雰囲気で何となくみんな口を合わせたので……それでも真面目なアンジェさんには通じなかったみたいですが」
少女たちが、くすくす、と笑いあう。
私はほっとするあまり、なんだか別の涙が出そうになって、慌てて目をこすった。
「あのね、みんな、……璃梨……リリっていうのは……」
「いいえ、おっしゃる必要はございませんわ」
おずおずと説明しようとした私を、けれどテュロンがそっと首を振って止める。
「ご主人さまが夢の中でその御方のお名前をお呼びになる際は、ほとんど涙を浮かべておいででした。ですから、それ以上はおっしゃらないで。その御方は、もう、今は……いらっしゃらない、御方なのですわよね?」
私は無言でこくりと頷いた。
そうだ。
あの子は。
璃梨は。
もう……いない。
「正直、妬ましくはございます。でも同時に、羨ましくも思いますわ、その御方が。──ご主人さまに、そこまで想われているその御方が。ご主人さまは失くされた記憶の中で、それでもその御方の思い出だけは、手放さなかったのですわね。けれど、私たちに気を使ってくださって、その御方のことも含めてすべて忘れた、ということにしていてくださったのでしょう?」
「……それが、ご主人さまなのですね。一人の大切な御方をいつまでも忘れずに抱き続けて、そしてそんな大切な御方のことを私たちのために秘密にしておいてくださるのが」
テュロンの言葉に和したのは、アンジェの声だった。
振り返った私たちの目の先に、戸口に立つ彼女がいた。
その目はまだ少し赤かったけど、態度には落ち着きが戻っているようだった。
「申し訳ありませんでした、ご主人さま。少し取り乱してしまって。……落ち着いてよく考えてみれば、今、みなさんが言った通り。ご主人さまは隠れてそんなことをなさる御方ではありませんでした。それなのに、私、自分が恥ずかしいです」
「ううん、いいのよ、アンジェ。私も、悪かったわ。ちょっと誤解されるようなことをしていたんだしね」
私は自分もまだかすかに睫毛に引っかかっていた涙を払って立ち上がり、アンジェの肩を抱いた。
素直にアンジェは私の腕の中にうずくまる。
「ご主人さま。私も……私も、そうなりたいです。その御方のように。今は無理かもしれませんが、いつかはその御方のように。ご主人さまの心の中の大事な部分を占める存在に、なりたいです」
「もう、とっくにそうなってるわ。アンジェ。それに、テュロンも、キュリエナも、メイアも、ラフィーネさんも。リリは私にとって、確かに大切な子だった。でも、あなたたちもやっぱり、私の宝物なのよ」
私の言葉に、アンジェも、そしてみんなも。
はにかんだように微笑んだ。
『らーちゃん。あたし、あそこに行ってみたいな』
『あそこ? ……あの塔? もう使われてないっていうけど、あんなとこに?』
『このお部屋の中ばっかりじゃ、いつもおんなじ景色なんだもん。なんだか、息苦しくなっちゃう。あの塔のてっぺんに登れば、きっと素敵だろうなって思うの。遠く遠くの、あたしがまだ行ったことのない、そして……もう行けないところまで、見晴らせると思うの』
『馬鹿なこと言わないの。治れば、どこにだって行けるじゃない。その時は、あたしも一緒に行くから』
『一緒に、行ってくれるの? えへへ、嬉しいなあ。らーちゃんと一緒なら、それが一番嬉しい。……約束して、くれる?』
『ん、指切りね。だからもう静かにして、休みなさいね。いつか一緒に行きましょ、あの塔へ』
小指が。
少し切なく、疼いた。




