襲来と正体
まさに、剛腕一閃。
空を裂くがごとき一撃が暴風を共として唸った。
急所も何も、あったものではない。当たれば終わり。そんな一撃だ。
その一撃が、今しも空を舞って襲い掛かろうとした守護獣を叩き潰し、一瞬で光へと変えた。
……うん、やっぱさすがね、皇太子殿下の棒術は。
殿下は見事に守護獣を叩き落とした後も、しばし油断せずに周囲に目を配り残心していた。しかしやがて問題なしと判断したようで、再び歩みを始める。
私たちは人数制限に引っかからないぎりぎり程度の距離を取って、離れた位置から殿下を見守っている。今のところ、皇太子殿下の一階層踏破に向けての進捗は順調で、特に問題は見受けられない。
殿下が持ち込んで来た武器は巨大な狼牙棒。一方、一階層に現れる守護獣は、羽の生えた猫の外見を有するもの。
小型ですばしこい敵を相手に、狼牙棒では小回りが利かないのではないかとちょっと心配したが、杞憂だったようで何よりね。
同じく一階層に挑んでいる他の登攀者たちが、時々そんな皇太子の姿を見て、ぎょっとしながら通り過ぎていった。
この世界ではメディアが発達しているわけではないので、あの特徴的な熊さん顔を見ても、別に帝国の皇太子だとわかったわけではないだろう。多分、あれほどの腕前を持つ登攀者が何故一階層なんかにいるのか、という驚きじゃないかな。
もっとも、これは本当に皇太子の素性を知っているらしい人たちも時々いた。慌てて平伏したり、片膝を付いて頭を下げたりしてたけど、まあ帝国出身の登攀者なら皇太子の顔を知っている人がいてもおかしくないか。
そのたびに皇太子殿下はちょっと困った顔して、軽くその人たちの肩を叩いて激励したり、頭に手を触れて祝福を与えたりしていた。殿下も大変ね。
もちろん、私たちもただぼーっとそれを眺めていただけではない。
一応、殿下に誰かが近づくたびに警戒の目を厳しくし、毎回、瞬時に飛び出していけるように武器に手を掛けて、臨戦態勢に入っていた。
今回の目的は、殿下の護衛と監視だけではないのだから。
そう。──アンジェの風魔法で音を、光魔法で姿を、それぞれ隠しながらの「狩り」。
『登攀者殺し』を狩りたてるための、隠密行だ。
だが、本当に『登攀者殺し』が現れるかどうかはわからない。
現れたとしても、仮にそいつを逃がしてしまったら同じ罠は張りづらくなるし、だいたいまともに戦って倒せるかどうかだって確定的な話ではない。
だからこそ、協力者は多い方がいいのだけれど……。
「ご主人さま、ユーゼルクさんたち、まだ会えないね」
メイアが小声で、少し不安そうに私を見上げた。
あまり大きな声を出しちゃうと、アンジェの隠密魔法の効果を越えて、外に漏れ聞こえてしまう。メイアもそれはわかっているし、だからこそなるべく話さえしないようにしながら、私たちは歩いていたのだけど。
だが、メイアの不安もわかる。
歩き出してから、半日を優に過ぎているんだもの。
ユーゼルクたちは私たちより先に塔に入っているはずだし、私たちは出発する前に少し休憩を取っている。さらに、自分が『登攀者殺し』に対する囮だということを承知している皇太子殿下は、ちょくちょく休みを挟みつつ、ゆっくり歩いてくれている。
……それなのに、まだユーゼルクたちとは合流できていない。
彼らは、よっぽど離れた場所に転移してしまったのだろうか。
でも、仲間たちに無用な動揺を与えることは慎まないと。
私は、自分自身の不安を押し隠すように、あまり気にしていないふりをして見せた。
「ま、来ていないものは仕方ないわ。永遠に逢えないわけじゃないし、そのうちひょっこり出てくるでしょ。それまでは、私たちだけでしっかり、殿下をお守りしましょう」
「ですね。……あら、また帝国の人でしょうか」
やはり小声で頷きながらラフィーネさんが顔を向けたのは、木陰から現れた登攀者がまた一人、殿下に対して片膝を付き、深々と頭を下げたためだ。
もう何度目よって感じのことではあるが、私たちはそれぞれ一応武器に手を掛け、警戒する。『登攀者殺し』の正体はわかってないんだし。
皇太子殿下だって、もちろん無警戒なわけはない。
狼牙棒を油断なくいつでも打ち込める体勢を保ちながら、慎重にその登攀者に近づいて行く。
こちらに背を向け、頭を深く垂れたその登攀者の顔はわからないが、比較的大柄で、ややくすんだ金色の髪の持ち主の男性だった。
天使族の男性らしいが、ユーゼルクほど鮮やかな髪の色でもないし、彼ほどには逞しい体つきでもない。また、フォン=モウンほど輝きのない髪色でもないし、彼ほどには貧弱な体つきでもない。雰囲気からしても、私たちの知らない人か。
その登攀者は、自らの剣を剣帯ごと外して背後に置き、きちんと礼を尽くしている。あれならすぐに襲い掛かるってこともできないだろう。
殿下は、ゆっくりとその登攀者に近づくと、一言、二言、会話を交わし、彼の肩に触れて激励の言葉を掛けたようだった。
登攀者の方も、感激した様子で、皇太子殿下の手に自分の手を重ねる──
だが、そのときに。
まさにその瞬間に、異変は起きたのだ。
皇太子の身体が、びくん、と何かに撃たれたように痙攣し。
その表情がみるみる強張ったかと見るや。
がくがく、と操り人形の糸が切れたかのような不自然な挙動を見せながら、がっくりと地面に膝を付き、そして……。
そして、地面に顔を埋めたのだ。
「なっ……!?」
『登攀者殺しによって殺されたと思われる遺体は、ほとんどがうつぶせになっていた』
──その事実が頭をよぎる。考えるまでもない、あのまま放置されれば、皇太子はまともに呼吸できず、窒息してしまう。
『登攀者殺し』の殺し方とは──これか!
傍らの天使族の男性は悠然と立ち上がり、苦しげにもがく皇太子の姿を冷静に見つめているのみだ。
あいつが、『登攀者殺し』の正体なのか。
皇太子は何をされたのか。ただ少し顔を上げれば呼吸できるのに、それをしない……いや、できないのは何故なのか。
だが、思い惑う暇はない。私はアンジェに叱咤した。もはや隠形とか言ってはいられない。
「アンジェ、風を! 殿下の体を起こすのよ!」
「は、はい、ご主人さま! 風の乙女たちよ……!」
光芒剣を煌めかせて詠唱に入ったアンジェに、しかし、こちらでも異様な出来事が起きた。
キュリエナが魔法鞭を引き抜くや否や、その鞭をアンジェに向かって峻烈に振るったのだ。
「きゃっ!?」
驚愕したアンジェの魔法は完成できずに中断される。
キュリエナ、何を……!?
と、私も瞠目しかけたが、彼女の鞭が通り過ぎた後にばらばらと地面に落ちたものを見てはっと気づく。
それは、苦無。
鋭い光を放つ数本の苦無が、大地にばら撒かれていたのだ。
キュリエナは、アンジェに向かって投げられたこの苦無を、鞭を振るってすべて叩き落としてくれたのか。
だが、だとすれば、この苦無の持ち主は……?
「ほっほっほ。わしの五月雨打ちをことごとく叩き落すか。さすがに、わしの背と脇腹に、今でも消えぬ傷を残した女子よの、キュリエナ」
「私の任務を初めて失敗させて、組にいられなくさせたあなたに言われたくないわね、何のつもりなの──バートリー!」
キュリエナの凛とした叱声が響き渡る。
その言葉通り。
長い白髯をなびかせ、のんきそうにひょこひょこと、けれどその眼だけは鋭く輝かせて現れた老人。
それは、ユーゼルクの仲間、バートリーだった。
「ど、どうしたというのです、バートリーさん!? 塔の中での登攀者同士の争いは聖殿法によって禁じられて……い、いえ、それよりも、それ以上近づいてこられると、制限距離が!」
ラフィーネさんが動転した様子で叫ぶ。いろんなことが一度に起きてパニック状態のようだ。
と言うか、私自身も何が何だかわからない。何故バートリーが、味方のはずのこの老人が、アンジェに攻撃を仕掛けたのか。それによって皇太子は……そ、そうだ、皇太子!
慌てて皇太子の方を見ると、彼の身体はまだもがいてはいたものの、その動きは弱々しく、今にも絶えようとしているところだった。
「ほっほっほ。その通り、わしがこのまま近づけば、塔の裁きにあって皆死ぬのう。それも重畳。この老骨一つでお主たちを止められるならの」
「ふざけないで。老いぼれて冗談の感覚まで錆びついたのかしら!? ラツキ! こっちは引き受けるわ! 後をお願い!」
叫びを残して、キュリエナがバートリーに向かい、雌豹のように飛び出していく。キュリエナ一人で彼を食い止めるつもりか。
走りながら旋風のように撃ち出すキュリエナの鞭は目にも止まらない神速。だが、鈎爪の付いた手甲を嵌めたバートリーは、紙一重、いやそれ以下のギリギリの見切りで捌き、弾いていく。
キュリエナの攻撃はかわされているが、バートリーの表情は、普段の飄々とした好々爺然としたものではなく、鬼気迫る緊迫したもの。彼も、キュリエナの攻撃を避けるのに必死なのだ。
さっきの会話の断片からしても、おそらく二人の力量は互角というところだろうか。
ただ気になるのは、バートリーがまるでおのれの命を最初から度外視しているかのようなことを言っていた部分だ。
老人のその異様なまでの覚悟に、キュリエナが巻き込まれ、引きずられないかと案じられたが、しかし今は一秒でも早く皇太子を助けないと。
……だが。
傍らの茂みから、鈍色の暴嵐のような刃風が一陣巻き起こり、私たちに向かって叩きつけられたのはその瞬間だった。
すでに抜き合わせていた陽炎で、とっさに私がその刃を受ける。受けて、そして再び愕然とした。
「……ルーフェン!? あなたまで!」
私と鍔競り合いを演じていたのは、狼人族の妖剣士、ルーフェンだった。
ユーゼルクの仲間が、バートリーに続き、またしても私たちを遮ったのだ。
刃と刃の軋む音は、まるでルーフェンの振るう妖刀・羅刹が、私の血を求めて唸り声を上げているかのようだ。
「メイア! 彼を視て! 何か悪い力の波は感じない!?」
悲鳴のような私の声に、けれどメイアも蒼白になりながら首を振る。
「な、何も視えないよ、ご主人さま! いつもの通りのルーフェンさんだよ!」
メイアの浄眼に何も異常が見えないというのなら、彼らが催眠とか洗脳に掛かっているという可能性は消えたということか。
……最悪だ。
つまりバートリーもルーフェンも、正気の上で私たちに襲い掛かってきているってこと。
──もう、何がどうなってるのよ。
私は歯噛みをしながら強引に陽炎を打ち上げ、僅かにできた隙に蹴りを叩きこんだ。左手の不知火で斬りつけることもできたのだが、さすがに彼を全力で殺傷するなんてことは躊躇われた。そういう意味でも、私の……私たちの反撃は制限されてしまう。
ルーフェンもそう簡単に私の一撃を喰らいはせず、微かな身捌きでそれをかわすが、その一瞬で私は間合いを取ることに成功した。
「早く行って、みんな! とにかく殿下を!」
私はルーフェンを自分が引き止めるつもりでアンジェたちに叫んだ。
一人ずつ分断されていく。愚策かもしれないがそれしか手の打ちようがない。
ルーフェンの背後に見える皇太子殿下の姿は、もうほとんど動かなくなりかけている。距離にすればそう遠くないが、この妖剣士を切り抜けて近づくのは至難の業だ。
……ああ、だが、もちろん。
もちろん、そうなるわけだ。
バートリーとルーフェンが、理由は知らないが私たちに戦いを挑んできているというのなら。
もちろん、彼もそうなのだろうというのは予想しなければならないことだった。
──ロッグロックの。
岩人族の巨人の、見上げるばかりに巨大な体躯が、のっそりと木陰から姿を現し、皇太子殿下の元へ向かおうとしたアンジェたちの前に立ちはだかったのだった。
彼の小さな目には哀しみが宿っているように見えた。だがそれと同時に、一歩も引かないという厳しい決意も。
大きく手を広げたロッグロックの巌のような巨体は、それだけで巨大な城砦が突如として目の前に築城されたようなもの。
危急の場合とはいえ、アンジェたちもさすがに足を止めざるを得ない。
──いや。
足を止めずにそのままの勢いで突っ込んでいった子が約一名。というか一層勢いを増して、まるで小さな栗色の砲弾のように、それはロッグロックの巨体に炸裂した。
空気がびりびりと震えるような凄まじい衝撃が、離れた場所にいる私にさえ伝わったような感覚。
当然、そんな無茶なことをするのは一人しかいない。
……テュロンの拳が、ロッグロックの拳と空中で激突していた。
縦ロールを激しく揺らめかせ、不敵に笑みを浮かべながら。
巨大なロッグロックと小柄で痩身のテュロン。その拳の大きさは比較にもならない。ロッグロックの拳一つでテュロンの頭ほどもあるだろう。
だが、既に額から二本の角を生やし、瞳孔を蛇のように細めて地龍族の真態を現したテュロンの細腕は、ロッグロックの大地をも叩き割るような剛拳に真正面からぶつかり、互角の威力をもって相手を食い止めていたのだ。
世界で最剛を並び称される地龍族と岩人族の二人が、今その怪力を競わんとしていた。
「あえて事情はお尋ねしませんわ。伺ったところで、お互いに譲ることはできないのでしょう。ならば、この拳で語るのみですわ!」
私にはなかなかできないこのすっぱりした割り切り方が、まさにテュロンの真骨頂。
それでも斧ではなく拳を使っているところは、テュロンもやはり気遣いをしているのだろう。……いや、彼女のことだから、純粋に力比べがしたいだけかもだが。
二人はいったん間合いを取ったが、すぐにロッグロックが、はるか上空から降り注ぐ隕石のような勢いでその剛腕を振り下ろす。
一方、舌なめずりさえしているように見えながら、テュロンは左手を上段に構えてそれを受け止めた。 いや、僅かに湾曲の角度をつけた腕で、相手の重撃を流したのだ。
相手の勢いを逆に利用しつつ、テュロンはロッグロックの腕を抱え込むと、ぐるんと回転しながら、ロッグロックの巨大な体を鋭く烈しくブン投げた。
が、相手も無論、ただの独活の大木ではない。空中で器用に態勢を整えると、ロッグロックは見事に着地した。あの巨大な体で猫みたいに身軽。さすがの腕前というべきか。
だが、今の投げの目的はロッグロックを倒すことではなく、みんなからロッグロックを引き離すこと。
テュロンはそれに成功したとみて、僅かに私を振り返り、頷いた。
だが。
もう、私たちはあまりにも時間を奪われ過ぎてしまっていた。
今から皇太子殿下の元へアンジェたちが駆け付け、あの謎の男を退けて殿下を救うのは、まともな方法では既に無理だと言っていい。
それに、仮にうまくいっても、『私たちが救った』ということになると……。
私は再び妖刀をうならせたルーフェンを陽炎で捌きながら、とっさに叫ぶ。
「ラフィーネさん! おっきな炎を、空に!」
「そ、空!? は、はいっ!」
意味が分からないであろう混乱した表情を浮かべながら、それでもラフィーネさんは巨大な火炎球を空中へ向かって撃ち放つ。
そこへ。
「喰らいなさいルーフェン! あーっと手が滑ったー!」
我ながら棒読み丸出しの私の声とともに、不知火が投げ打たれたのだ。
私のように両刀を使う場合、そのうちの一刀を相手に投げ打つ「飛龍剣」の技は比較的ポピュラーだ。
だから、私が剣を投げたこと自体は別におかしくない。おかしくないんだよ?
ただ、偶然たまたま手が滑って、とんでもない方向に剣が飛んで行ってしまい、それが偶然たまたま、ラフィーネさんの撃った火球に当たっただけだ。
ちなみに、私の不知火には魔法反射能力が付与されている。これも偶然。
で、反射されたラフィーネさんの火球はさらにさらに偶然、皇太子殿下の伏せている地面のすぐ近くに叩き落とされ、炸裂した。
その爆発の勢いで皇太子殿下も吹き飛ばされ、うつ伏せの姿勢が変わったのもやっぱり偶然だ。
いやあ、偶然って恐ろしいですね。
「ごほっ、ごほごほっ! う、うう……はあ、はあ……」
殿下が咳込み、唸りながら、それでも声を発する。姿勢が変わったことで、殿下は呼吸を取り戻せたのだ。ぎりぎり一杯だったが、辛うじて、間に合ったようだ。
「……拙者と斬り合いながら、皇太子を救うか。今更ながらに恐ろしい女よ、ラツキ」
「何言ってるの。今のはただの偶然よ」
ルーフェンの言葉に私は白々しく答える。
「ふん。本来拙者を狙うはずの剣が逸れて、その結果皇太子が救われた。すべて拙者との戦いの中での「偶然」であるから、お主が皇太子を故意に救ったわけではない。従って、『単独で一階層を踏破する』という皇太子の即位条件には反していない、というわけか」
「あら、よく考えるとそうなるのね。世の中って不思議なことが多いわね」
「ふっ……よく言うわ」
ルーフェンは私のわざとらしい言葉に苦笑を浮かべた。
……まあ正直、今の一撃は何も魔法反射を使わずとも、私自身が直接フレイムオーラかフリーズオーラをブッパすればできたんだけどね。
私がそれを躊躇したのは、あまり多くの人たちの前で、自分の力を過剰に見せびらかしたくなかったからだ。そう言うと、自分の命と皇太子殿下の命を天秤にかけたということになっちゃうけど、まあ結果的にどっちも助かったので良しとしてもらいたい。
とはいえ。
殿下は一応今は死を免れたというだけであって、危地そのものを脱したわけではない。傍らにはあの謎の男がいまだに立ち、さして動揺も見せずに僅かに肩をすくめているだけだ。
息も絶え絶えの今の状態では皇太子殿下は戦えまい。あの男は、いつでも殿下の命を奪えるのだ。
もう一度、今の連携を使って、直接あの男を狙撃するか?
いや、さすがに二度目は通じないだろうな。っていうか、不知火放り投げちゃったし。
実は私の剣たちは呼べば飛んで戻って来るんだけど、それを見せていいものかどうか。
この後はどうすればいいの。うう、私は頭脳担当じゃないんだってば。頭悪いの自覚してるし。
私が次の策を懸命に追い求め、無い知恵を巡らせて頭をぐるぐるさせているうち、しかし。
突然、頭だけではなく、天地がぐるぐるし始めた。
「え……?」
思わずがくんと片膝を付きそうになり、すかさず斬りつけて来るルーフェンの一閃を危ういところで跳ね返す。
見ると、私だけではない。バートリーと鋭く渡り合っているキュリエナも、ロッグロックと激戦を繰り広げているテュロンも、そしてアンジェたちも、みなふらつき始めている。
これは……!?
「吟遊詩人の「詩」は、術式が完成するまでに時間がかかるのが難点。ですが、このような乱戦の場では使い勝手のいいものです」
静かに霧の中から声が聞こえた。エレインの知的な美しい声が。低く、しかし確かな調べに乗って。
霧。
そうだ、いつから霧なんて掛かっていた?
いつの間にか、気が付いたら周囲を霧が覆っている。
「やっぱりあなたたち……仲いいんじゃない……」
よろめきながら、私は精いっぱいの強がりで皮肉を言ってみる。本人たちがそう言われるのを嫌がっていると知ってるから。
私たちの平衡感覚を奪ったのは、エレインの「詩」。そしてそれが完成するまで、霧で姿を隠していたのは、水使いの魔法行使者。すなわち──
「……ねえ、エレイン、それに、ミカエラ」
ミカエラが、あの勝気な顔を泣きそうに歪めながら、霧の中からゆっくりと歩み出てきた。
ユーゼルク以外は、これで全員か。
彼の仲間がすべて、敵に回ったということだ。
だが、ユーゼルク自身はどうしたのか。ここで彼までも本格的に敵対されたらかなりまずいが、なぜかユーゼルクだけは姿が見えない。
「……ラツキ、私だって、どうしたらいいかわかんないのよ! でも、こうするしかないんだもの!」
悲痛に、叩きつけるように絶叫するミカエラの声が木霊する。
言ってること矛盾してるよミカエラ。
でも、それだけ彼女の頭の中もぐちゃぐちゃになってて、それでも、どうしても私たちと戦わなきゃいけないと。そういう結論を、苦しみながら出さざるを得なかったと。
……それだけは伝わった。
そしてその理由は多分、この場にいない、たった一人のためだろうということも。
その時。
皇太子殿下の傍らに立っていたあの男が、ゆっくりと振り向いた。
霧の向こうのその顔は霞んで良く見えない。
だが、その男の声は、よく響いた。やはり聞いたことのない声……いや、どこかで聞いたことがあるはずなのに、それが不思議に変調したような感覚を覚える、そんな声だった。
「ミカエラたちには、君たちを足止めしておいてくれと、僕が頼んだんだよ、ラツキ。──皇太子の息が止まるまでね。君たちが来ることは知っていたから。でも、あんな手で皇太子を救うとは、さすがだね。ちょっと意表を突かれてしまったよ」
一歩一歩。
その男が霧の中を近づいてくる。
まともに立てなくなっている私たちに、しかしルーフェンやミカエラたちはそれ以上攻撃をしてこず、少し距離を取りながら、その男の反応を見定めているようだった。
「ま、皇太子はいつでもやれる。それより僕は、君とゆっくり話をしたかった。本当の姿になった僕と君とでね」
霧が薄れ、その男が十分に近づいたことで、彼の素顔が次第に明らかに見えてくる。
見たことのない顔。
でも、どこかで見たことがあるような顔。
「……あなたは……誰なの……? あなたが『登攀者殺し』なのね……!?」
私はよろめきながら、その男の、脳裏のいずこかに引っ掛かっている面影を必死に思い出そうとしていた。
出てきそうな答えは二つ。いや、一つだ。そしてそれは、認めたくない一つだった。
その男は、少し悲しげに微笑む。
寂しそうな翳りのあるその笑顔が、私の答えを決定的にした。
「──ああ、そうだ。僕が『登攀者殺し』。
そして、わかってくれているはずだろう、ラツキ? 僕だよ。僕が──あいつとは違う、『本当のユーゼルク』。でも、君にはこう名乗っていたね……フォン=モウン、と」




