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異世界くじと神々の塔  作者: 天樹
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手足の生えた雪玉と森の熊さん再び

「本当に、お姉さま……なのですか!?」


 ラフィーネさんは仮面をしていてさえ分かるような必死の面持ちで、林の中を見渡す。だが、既に夕闇に閉ざされている木立は、その巨人のような陰影を恐ろしく揺らめかせているだけで、その中に人の姿など確認しようもない。

 無論、「黒の聖務官」が「山彦の術」を使って隠形している以上、探しても簡単に見つかるものでもないのだろうし、事実、その呼びかけに答える声はなかった。


「お姉さま、私です、ラフィーネです! お姉さま!」


 周囲を必死で見回しながら、ラフィーネさんはもどかしそうに仮面の飾り紐に手を掛けた。素顔を顕して姉に確認させようと考えたのか。

 だがその瞬間、林の中に厳しい声が木霊した。天の頂から下るような鋭い声が。


『何をする気です、ラフィーネ。仲間内とはいえ、露天において聖務官が仮面を取る気ですか。聖務官としての自覚と修行、稚拙にして未熟と言わせる気ですか』

「お、お姉さま……、申し訳ありません」


 ラフィーネさんはその叱責に慌てて謝罪したが、心なしか、微かに嬉しそうな響きがその声には混じっていた。

 ──ラフィーネ、と。

 はっきり自分の名を呼んで、叱ってもらえたこと。

 それは、ラフィーネさんにとって、亡くなったと信じていたお姉さんからの、とても心に染み入る幸せな贈り物だったのかもしれない。


 ラフィーネさんは、しかしすぐにその笑みを消し、顔を上げて、林を見回しながら、どこへともなく呼びかけた。


「お姉さま、私、お姉さまに言わなければならないことが。お詫びをしなければならないことが。ずっとずっと、謝りたかったことが、私……!」


 彼女の、心の底からの必死な声が哀切に響き渡った。

 かつて、ラフィーネさんは、女性を愛したというお姉さんの生き方を応援してあげられず、認めてあげられず、それが、お姉さんが自ら死を選ぶ遠因を作ったのだと思い込んできた。

 その罪の意識はラフィーネさんの心の中にわだかまって黒く染め上げ、自分自身の愛も──私への愛も、自分で否定してしまうところだったのだ。


「お姉さま、私のしてしまったこと、許してほしいなどとは決して言えません。ですが、それでも私はお姉さまに、ミレア……」


『それ以上、その名を呼ぶのはおやめなさい、ラフィーネ』


 静かな、しかし毅然とした声。

 ミレア……そのあとはなんと続くのだろうか。それがきっとラフィーネさんのお姉さん、すなわち黒の聖務官の本名なのだろうけれど。


『ラフィーネ。あなたたち表の聖務官は国を捨て、種族を捨てて世界の秩序のために生きると誓った身のはず。その証として仮面をつけているはずですね。……しかし私たち、黒の聖務官は、それに加えて、自分自身、個人も捨てたのです。私たち自身の存在さえも。ですから、あなたに名前で呼ばれても、私がそれに応えることはありません。その名で呼ばれる存在自体既におらず、あなたと私の関係もまた、既に捨てたのですから』

「お姉さま! そんな……!」



 わななくような声でラフィーネさんは自分の両肩を抱きしめ、すべての力が砕け散ってしまったかのように両膝から地面にくずおれた。思わず駆け寄り彼女を抱きしめた私は、その腕の中のラフィーネさんが、驚くほどに小さく細く軽く頼りなく感じられ、胸を斬り裂かれるような思いに囚われる。



『……ですが』


 だが、どこからともなく響くその声は、穏やかに、一言一言、愛おしむような、慈しむような温情を籠めながら、続いた。



『ですが、一般論として。そう、あくまでもただの、とりとめもない一般論として、話をするのならば。

私たち黒の聖務官と言えども、やはり聖務官です。そして聖務官である以上、「もしも」、「誰か」が、「本当に愛し合える人に巡り合い」、「その想いを成就し」、そして「幸せになっている」とするのならば、それは心から祝福し、今後も、より一層幸多かれと願うでしょう。……ええ、あくまで、ただの、一般論として、です。特定の個人に対する話ではなく』




 ……なんだこのツンデレシスコン姉め。

 結局はそれが言いたかったんじゃないの。「おめでとう」の一言が。

 まあ、役目柄、はっきり個人を相手にしてはそう言えないんだろうってことはわかるけどさ。まったく、めんどくさい人だ。


 でも同時に、そう言ってくれるということは。祝福してくれるということは。

 ──黒の聖務官は、ラフィーネさんを、その為してしまった過去の過ちを、憤ってなど、いなかったのだということ。

 ラフィーネさんの、身を斬り裂くような悔恨の思いを、ちゃんとわかってくれて……受け入れてくれていたのだということ、なんだ。


 ラフィーネさんも、私に抱きしめられながらそれを悟ったのだろう、顔を上げ、滂沱と流れる涙を滴らせながら、こくん、こくんと、幾度もしっかり頷いていた。

 その涙を指でぬぐってあげながら、私はさらに強く、ラフィーネさんを抱きしめ返す。

 黒の聖務官に、しっかり見てもらえるように。私はこの人を必ず幸せにすると、誓うように。

 



 ──その、時。


 空気を引き裂くような鋭い音が静寂を斬り裂いた。

 いや、実際、その一閃は、大地を引き裂いたのだ。

 ──いらつくような、静かな中に刺々しい怒りを込めた、キュリエナの魔法鞭の一閃は。


「……で? めでたしめでたしで済ませる素敵なおとぎ話ってとこかしら、ラツキ? 忘れないでほしいわね、その女が──黒の聖務官が現れたという事実の意味を。それはつまり……」

「ええ、わかってるわ。……『塔』と『登攀者殺し』に関して……そしておそらくユーゼルクとフォン=モウンとの関係に関して、何か私たちは、知ってはいけない領域に踏み込んだのではないかということね」


 黒の聖務官は、自らの手を汚してでも世界を守るための組織であり、あの『淀み』と『秘法』の関係など、聖殿に関する、一般には決して口外出来ない秘密を知り、それを守護する者たちだ。

 そこから考えると、同じように聖殿に関する秘である「なぜ『塔』は『登攀者殺し』の存在に対して自ら制裁を下さないのか」という謎についても、彼らは知っているのではないだろうか。


 だが、私たちが登攀者殺しに付いて調べ始め、登攀者のみんなに注意喚起をし出したのは少し前からだ。なのに、その時は私たちを放置していておいて、今このタイミングで、黒の聖務官は現れた。──ユーゼルクとフォン=モウンとの謎の関係を知った、まさにそのタイミングでだ。


 ならば。

 ただの想像でしかなく、そしてその傍証は「黒の聖務官が現れたタイミング」という、根拠の弱いただ一点でしかないものの。

 ……それらの謎は相互に関連があるのではないか、と私は考えたのだ。

 単に登攀者殺しを追うというだけでなく、そこからさらにもう一歩だけ、何かの真相に近づいてしまったからこそ、黒の聖務官は今この場に現れたのではないかと。



「ユーゼルクとフォン=モウンについては、さっきも言ったとおり、私はどうでもいいのよ」


 キュリエナは冷え切った口調で雪花が舞い落ちるように言葉を零す。


「でも、『登攀者殺し』に関しては別だわ。──黒の聖務官、あなたたちは、『登攀者殺し』が何なのかを知っている。そうね?」


『ええ』



 キュリエナの断定的な詰問に、黒の聖務官もまた一瞬も躊躇うことなく肯定の返事を返した。

 私たちの間に声にならないどよめきが走る。特に、私の腕の中のラフィーネさんの身体が、彫像のように固くなったのが分かった。……氷の彫像のように、冷たく、硬く。

 黒の聖務官は……知っていた、のか。

 長年にわたって都市伝説と言われ、多くの人々に恐怖を振り撒いてきた『登攀者殺し』の正体について知っていた。

 知っていて──知っているのに──知っていても──知っているから──。


「その正体を、あなたたちは、意図的に隠蔽してきた。そうね?」


 白銀の目に明確な敵意を漲らせたキュリエナの喉の奥から、長く細い呼気が漏れる。

 それに対しても、黒の聖務官の、林の中のどこからともなく聞こえてくる声はあっさりと返事を返す。


『ええ』

「それによって、多くの人命が失われても?」

『ええ』

「死んだ奴は運がなかっただけ……ってわけかしら」

『というよりも、既に「そのもの」が存在する以上、最大に利用すべきではないかという意見ですね。その一方、既に一定の成果を収めた以上、もう処理してもいいのではないかという意見もありましたが』

「処理、ね。殺す側も殺される側も物としてしか見ていないというわけ」


 キュリエナは、ふっと口元を歪めて笑った。喜悦でも快楽でもない、見るものに恐怖を与えるような笑顔。


「……わかったわ。私だって、この手で何人もの人の命を奪ってきた、どす黒い血で汚れた女よ。だから、義憤とか悲哀なんかじゃない。私にそんな資格はないし、そんな感情は私には最初からない。──ただ単純に……」


 ひゅっ、と毒蛇が牙を剥くような、そんな音すら超えて。

 迸った何かが、林の一枝を撃ち砕いていた。

 キュリエナの手から繰り出された、それは魔法鞭の一撃だった。


「単純に、あなたたちが気に喰わないだけよ!」



 砕かれた枝からくるりと体を回転させ、黒い影のような何かが音もなく着地する。

 漆黒の法衣と仮面に身を包み、はらりと垂れた一筋の真紅の髪の房だけが艶めいてその黒い姿を彩っている、それは。

 それは、黒の聖務官だった。


「……これはお見事。私の居場所を見破りましたか」


 さして驚いた様子もなく、黒の聖務官はそのままゆらりと大地に立ち上がる。

 黒の聖務官が自らの居場所を隠す術の使い手ならば、キュリエナとてまた超一流の間士。その凄まじい術と術のぶつかり合いを、私たちは今まさにこの目で見たのだった。

 キュリエナがあえて長々と会話をしていたのは、自分自身の声の反響と、相手の乱反射している「山彦」の声を聞き合わせるため。そして、会話の中に混ぜていた細く長い呼気は、蝙蝠の放つ超音波にも似て、相手の位置を探るためのもの。


 さらに、何よりも。

 何よりも、私たちの中には、彼女がいる。

 メイア。

 力の波を「視る」ことができる彼女には、隠形の術の効果は薄い。事実、メイアは黒の聖務官の実体の存在する方角だけに、無意識に漠然とだが目線を向けていたようだった。キュリエナはそれにいち早く気付き、自らの術技と合わせて、黒の聖務官の潜んでいた正確な位置を割り出したのだ。

 

「ラフィーネ。恨んでくれていいわ」


 言い終わるより早く、キュリエナの魔法鞭が再び唸った。その音速を超える先端から放たれた、弧月を思わせる魔力の刃はまっしぐらに飛翔し──

 そして。


 黒の聖務官の首筋を、根元から、軽々と斬り落とした。



(──キュリエナっ!?)


 言葉にもできず、私は喉の詰まったような思いで悲鳴を上げる。

 キュリエナの憤りはわかる。

 黒の聖務官たちが登攀者殺しの正体を知りながら隠匿し、それによって何人もの無辜の犠牲者が出続けていたということへの憤懣やるかたない気持ちは私にもある。

 が、いきなり黒の聖務官を斬るのはやりすぎだ。それに。

 それに、ここには、ラフィーネさんだっているのに。たった今、ほんの一瞬だけど、お姉さんと心が触れ合えかけたと思えたラフィーネさんが。



 だが、ラフィーネさんは、その光景に対して、少し悲しそうに首を垂れただけだった。

 目の前で姉の首が跳ねられた人間の反応では、それはなかった。

 そればかりか、吐息交じりに、呟いたのだ。


「……お姉さま。私にはわかりません。『登攀者殺し』の正体を知りながら放置しておくことは、塔と聖殿の威信の低下に、ひいては世界の秩序の危殆につながるのではないでしょうか」


 まるでそれは生きている相手に対する言葉のような口調。いや、ラフィーネさんだけではない。相手を倒したはずのキュリエナでさえ、忌々しげに舌を鳴らして鞭を苛立ったように地面に打ち据えたのだ。

 

 と、同時。

 首を跳ねられたはずの黒の聖務官の身体が、とろりと、まるで熱火に掛けられたバターのように蕩け、大地に滴り落ちたのだ。そのまま、地面に溶け込むように、彼女の身体は消え失せる。


「え!?」


 驚愕に目を丸くした私に、ラフィーネさんは淡々と言う。


「『闇の乙女よ、我が偽りを真と為せ』。……お姉さまの得意にしていた闇魔法の一つです。自分自身の影と実体を入れ替える魔法。今キュリエナさんが斬ったのはお姉さまの影で、実体は既に……この夜の闇の中のどこかにまた潜んでしまったのでしょう」


 ラフィーネさんは、すっかり日が落ちて漆黒の帳に包まれた林の中を見回した。そこへ、


『ラフィーネ。あなたの言うことにも一理はあるのです。しかし、『登攀者殺し』に対し、何らかの対抗策を取ることによっても、同様に世界の秩序が乱れる危険性がありました。故に、我らにとってもまた、あのものは、いかに対処すべきか、問題となる存在ではあったのです』


 闇の中、先程よりは遠くから、再び黒の聖務官の声が木霊した。



『ですが、……ラツキ・サホ。あなたのこれまでの行動が事態を変えました。……大きく』

「私!? 私が何をしたっていうのよ」

 

 いきなり話を振られて素っ頓狂な声を出した私に、黒の聖務官の声はしばし含み笑いを漏らした。


『あなたは自分が思うより遥かに大きく、世界の動きに関わってしまっているのですよ。私たちでさえ、迂闊にはあなたに対し動きを仕掛けられないほどに。……一つ、お教えしましょう。明日、この聖都の帝国大使館に、帝国皇太子が訪れます。彼とあなたは親実な関係のはず。訪ねてみるとよいでしょう』

「ちょ、ちょっと待ってよ。何が何だか……」


 私の頭の中はすっかり混乱し、パニックを起こしていた。ぷしゅーって煙が出そうなくらい。

 だって、最初はただ『登攀者殺し』を何とかしよう、っていうだけの話だった。変な言い方かもしれないが、化け物だろうがイカレた殺人鬼だろうが、とにかくそいつを退治してしまえばそれで済むという、ある意味単純な考えがあったのは否定しない。

 だが、そこから、ユーゼルクとフォン=モウンとの謎の関係に話が及び、そこからさらに──世界の動きにまで私が関わってくるから、帝国皇太子に会いに行けという。


 ……どんな雪だるまよ、これ。

 山頂から転がり出した小さな雪の欠片が、ゴロンゴロンと転がってどんどん大きくなり、手が付けられないほどの巨大な雪球にまでなってしまっている感じだ。その雪玉から手足を出したまま巻き込まれて転がっている私自身を、私は想像した。



「ちょっと! 言い逃げしないで何とか言っていきなさいよー! こらー!!」


 私の絶叫は静かな林の中にただ無為に吸い込まれ、何の反応もないまま闇の中に消えていった。






「帝国に、何かあるの?」


 屋敷に付いてから、私はみんなに尋ねてみた。

 こういう情報に耳が早いのは、当然、聖殿勤めのラフィーネさん、そして間士という職業上、キュリエナだ。


「あー。そういえば、もうじき帝国皇帝が新たに即位するという話を聞いたわね」


 キュリエナがあまり興味なさそうに言う。

 それに伴い、ラフィーネさんも頷く。やや暗い表情なのは、やはりお姉さんたち──黒の聖務官が『登攀者殺し』を知りながら放置していたという衝撃が抜けきれないためだろう。


 それと同時に、影とはいえ、キュリエナが、容赦なくためらいなく、お姉さんに向かって殺意を放ったためもあるかもしれない。

 キュリエナとラフィーネさんは、私の仲間たちの中では年頃も近いし、大人組としての飲み仲間でもあることから、みんなの中でも親しい間柄だったはずだった。……けれど。


 実際にはキュリエナの一閃はかわされ、そして登攀者殺しを放置するということへの怒りもまた理解できるものだとは言え──それでも、それでも姉を殺そうとした相手に対する気持ちの整理はまだつかないだろう。


 キュリエナの方も言葉少なで、いつもは不敵なその美貌も、どこか虚ろげに見える。

 彼女はかつての恋人を『登攀者殺し』に殺された。キュリエナとその恋人は、決して憎みあい嫌いあって別れたわけではなかったのだろう、ということは、彼女の遺体が発見されてからのキュリエナの様子で察することができる。

 だから。キュリエナの気持ちも、わかってしまうのだ。


 ラフィーネさんも。キュリエナも。私の愛する二人の、それぞれの苦しい胸の内が。

 メイアも、その特殊な「眼」を使うまでもなく、キュリエナとラフィーネさんの間に流れる微妙な空気を感じ取ったのだろう、不安なまなざしを私にすがるように向けていた。

 

 私の仲間たちは、自惚れとかではなく事実として、私を中心にまとまっている。

 ならば、私を除いたみんな同士の関係は?

 ……仲間たち同士も、今まではうまくやれていたけれど。それは、どこかに危うさを秘めたものではあったのかもしれなかった。



 ラフィーネさんは仮面の影を深くし、キュリエナと視線が交わらないようにしながら、話した。


「ええ、帝国皇帝の即位が近いということは私も聞きました。故に、皇太子殿下も聖都へおいでになり、聖殿でその準備をなさるとか」


 即位って、つまりあの皇太子さんが、晴れて皇帝になるってことなの? まん丸い顔にどんぐり眼、団子鼻、もじゃもじゃの髭の、森の熊さんのような、あの皇太子殿下が。

 手合せを挑んできた彼を、そうとは知らずに私は思い切りブン投げてしまったことがあったけど、がははと笑って許してくれた、そんな快活な人だった。

 それだけでなく、四か国会議で、私たちがレグダー男爵を追いつめる際にも味方になってくれたのよね。もちろんそれは、私に対する好意と言うだけでなく、自分の政敵を排除するためという打算もあったんだろうけども。


「でも、何でその即位が聖都ここに関係あるの? 帝国の皇帝即位式なら、帝国の帝都でやるもんじゃないの?」

「はい、ご主人さま。もちろんです。正式な帝国皇帝の即位式は帝都で行われます」


 今度頷いたのはアンジェ。そっか、アンジェも、元帝国貴族だものね。そういう儀式次第には詳しいか。


「ですが、帝国はもともと、聖王陛下と関係の深い国。そして聖王陛下は塔の百階にまで到達したことで著名なお方です。ですので、歴代の帝国皇帝は、即位する前に自らも塔に入り、一人の力だけで一階層を踏破することで、聖王陛下の偉業を受け継げるだけの力があることを見せる、という慣習があるのです。……まあ、もちろん、単独で、というのは一応の建前でして、少し離れたところからお付きの一行が見守ってはいるという話ですけれど」


 最後の部分だけ、多少苦笑を交えて話し終えたアンジェの言葉に、私は納得した。

 でも、と私はあの皇太子殿下の逞しい姿を想い出す。そしてその腕前も。彼の武術の腕は相当のレベルにあり、一階層程度なら、別にお付きの人の援助などなくとも、単独での踏破もさして問題にはならないだろう。


「……ですが、こともあろうに、それが今、行われるというのですか。我が輝く知性で考察するまでもなく、少し、時期が悪すぎますわね……偶然と考えるのは危険なほどに」


 細い顎を指で撫でながら考え込んだのはテュロン。

 彼女のトレードマークでもある栗色の縦ロールは不安げに揺らめいて、内心の動揺を伝えていた。


「時期って? ……あ……!」


 問いかけようとした私の脳裏にも、その時、瞬時に、衝撃と共に閃くものがあった。

 私だけじゃなく、みんなほぼ同時に、そのことに気付いた様子で、それぞれ驚愕を露わにしている。

 と言うより、そもそも私たちは、最初から「その問題」について取り組もうとしていたはずなんだから。

 そう。

 ──『登攀者殺し』の問題に、だ。



 四大国の一つ、というよりもこの世界最大の国家である帝国の皇太子、次期皇帝が、建前とはいえ、たった一人で塔に登る儀式。

 ……『登攀者殺し』が跳梁跋扈している、この時期に。


 相手が単なる守護獣なら、あの皇太子なら問題ないだろう。近くにお付きの人もいるのだというし。

 だが、『登攀者殺し』に関しては、その手口もやり方もわからないままの、まったく未知の脅威なのだ。

 もしも──もしも、その新たな犠牲者が、よりによって……。


 まさかあの皇太子が、という思いはある。だが、その「まさか」が当たってしまったら。

 それこそ、帝国を──引いては、世界を揺るがす大問題になりかねない。


「……帝国は、『登攀者殺し』が、最近活動を活発にしていることを知らないわけではないんでしょう? それでも今、その儀式を行う危険性についてはどう考えているのかしら」


 情報が入っていないはずはない。もちろん、舐めている、なんていう単純な話でもないだろう。でも、それでも儀式を強行しなければならない、何か事情があるのだろうか。

 だが、ラフィーネさんも首を傾げた。


「聖殿でも、なぜ今の時期なのか、については知らされていません。そのあたりはやはり、皇太子殿下ご本人に直接伺うしかないのでしょうね」


 ラフィーネさんの言葉が、重くその場に響き渡った。

 確かに。

 どうやら私たちは、世界に関する大問題に、巻き込まれつつあるのかもしれなかった。

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