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異世界くじと神々の塔  作者: 天樹
67/84

名前と少年

「はいっ、ご主人さま!」


 背筋をぴんと伸ばし、座った姿勢で手をまっすぐに上げたアンジェが真剣なまなざしで私を見つめる。


 ここは屋敷の居間なんだけど、なんだか、遠い昔の学生生活で授業してるみたいだ。アンジェは優等生と言うかクラス委員長みたいなイメージ。

 で、思わず私もそんな調子でアンジェを指名してしまった。


「はい、答えをどうぞ、アンジェリカさん」


 いつもと違う私の態度ノリにアンジェはきょとんとしたようだったけど、それはそれとして、彼女は自分の考えを述べ始めた。


「ええとですね、私が囮になればいいのではないかと思います」

「ええっ!?」


 素っ頓狂な声を出して驚いたのは実はメイアだけ。私を含む他のみんなは、そうか、その手もあるな、と頷いていたのだった。


「ど、どういうことなの、アンジェ姉さま!?」

「つまりですねメイア、私たちの中で一番弱そうに見えるのは、メイアを除けば私だと思うんです。ですがさすがにメイアが一人で塔の中にいるのは不自然。ですから、私が階層を単独でうろついていれば、『登攀者殺し』が食いついてくる可能性があるのではないかということですよ」

「だ、だって、それでほんとに『登攀者殺し』が来ちゃったらどうするの!? アンジェ姉さま一人で勝てるの!?」


 顔を真っ青にするメイアの背中を、私は安心させるようにポンポンと叩いた。


「落ち着いてメイア。何も本当にアンジェだけが一人で行くわけではないわ。そう見せて、アンジェの後ろを、アンジェの風と光の複合魔法で姿を消した私たちがそっとついていく、ってこと。そうでしょ、アンジェ?」

「はい。一階層なら踏破に急ぎ足で一日ほどとしまして……今の私なら、なんとか透明化魔力が持ちます。……自分でも不思議なんですけどね、こんなに早く魔力が成長してるって。きっと、ご主人さまとご一緒させていただくうちに、色々な大きな事件に出会ったために、成長が早まったのでしょうね」


 いやまあ、実はそれはアンジェに私がコピーしたスキル『ラーニング・エンハンス』の効果なんだけどね。

 でも不幸中の幸いというか、実際私たちはいろんな事件に立て続けに巻き込まれてるので、その分成長も早いのだろう、とみんな納得してくれているっぽいのはありがたい。

 アンジェの説明に、ラフィーネさんが考え込む。


「大海の中で小魚を一匹釣り上げようというような確率に近い気はしますが、何もやらないよりはとにかく何かやった方がいいのでしょうかね……。

しかし問題はあります。登攀者殺しではなく、守護獣が出た場合はどうなさるんです? 今のアンジェさんの力なら、光芒剣もありますし、一人で倒せるかもですけど、守護獣と戦えば意識の集中は乱れて、透明化魔法は破れてしまいませんか?」

「あー。それは……」


 アンジェが困ったようにうつむき、考え込んだ。集中持続不可能とも可能とも言い切れない、ぎりぎりのライン、と言った感じだろうか。

 と、今度は元気いっぱいにメイアが手を挙げた。


「はいはいはーいっ、ご主人さま! はーいっ!」

「え? ……えーと。じゃ。メイア、どうぞ」

「あのね、僕もアンジェ姉さまと一緒に囮になるといいと思うよ。そうすればまず、アンジェ姉さまのとーめーか魔法の負担がそれだけ減るでしょ。それと、姉さまと一緒だから僕みたいな子がいてもおかしくないでしょ。それに何より、僕にはこの「眼」があるよ。守護獣が近づいてきそうになったら違う道を案内するから、そしたら守護獣に出会わなくて済むよ」

 

 ドヤ顔で胸を張るメイア。変なとこでテュロンの影響受けちゃだめよ?

 で、それは確かにいい案かもしれないけど、私は首を横に振った。


「駄目よ。あなたの「眼」だって、使えば疲れるんでしょう? アンジェとは違って、あなたの「眼」はまだ一日中使い続けていられるほどには使い慣れていないはずよ」

「あう……い、一生懸命、頑張るよ……」

「だーめ。そんな無理なことはさせられません」


 メイアの意見を却下したところで、くっくっく、と忍び笑いが漏れてきた。その艶めいた声の持ち主はキュリエナ。彼女の横では、テュロンもやや苦笑を顔に浮かべて、小さな肩をすくめている。


「な、何よ、二人とも」

「『登攀者殺し』が、もし怪物や自然現象なら、それも一つの考えではございますわ。ですが、相手が仮に人間……殺人狂の人間だとした場合、その案は意味を持ちませんわね」


 テュロンに続き、キュリエナも長い銀の睫毛を瞬かせる。


「ええ、もし相手が人間なら、そんな囮に喰い付くかしらね。光芒剣の継承者にして聖王陛下のご子孫であるアンジェ。そして、その主人は聖花の摘み手にして、ユーゼルクの次代を担う新たな英雄とさえ言われ始めてるラツキ。そんな有名人なのよ、あなたたち。

 しかも、あなたたちの素顔は、例の肖像画によって、聖都のど真ん中に大きく張り出されてるし、その縮小画だって大売れして、みんなが持ってるわ。つまり、あなたたちの素顔はもろバレなのよ? 誰かさんの、みんなと一緒の絵が欲しい、なんていう、乙女っぽい少女趣味のおかげでね」



 キュリエナのその言葉にさっとみんなの視線が私を射すくめた。

 ……え、な、何よ!? 私のせいだっていうの!? だってあの時はこんなことになるなんて思ってなかったし! そ、それに!


「な、何よぉ! みんなだってあの肖像画、持ってるくせに! そ、それに、みんな、寝る前に、あの肖像画にそっと口づけしてるの、知ってるんだからね!」


「えっ!」「えっ!」「えっ!」「えっ!」「えっ!」



 ……5人の虚を突かれたような驚愕の声が一斉に上がった。

 で、一拍遅れて、私自身の「え?」の声。


 あれ? もしかして、マジだった? 私、ただブラフっていうか、カマかけただけだったんだけど。何故なら私もやってるから。ってか、キュリエナだって自分もそんな乙女チックなことしてんじゃない!


「そ……それは、だって……ご主人さまのお夜伽の御当番は数日に一度ですし……その……寂しい夜もございますから……」


 アンジェが羞恥に真っ赤な顔をして可憐にうつむく。

 まあ、それを言われると、私も自分の身体は一つしかないものだし……照れるというか恥ずかしいというか、何とも言えなくなっちゃう。

 たまには、数人一度に愛し合うこともあるんだけど、それやると次の日はみんな疲れ切って何もできなくなっちゃうし。……加減? 出来るわけないじゃない!

 いやこれでもね、「今夜は自分が誰を愛したいか」だけじゃなく、「今夜は誰が私を求めてくれているか、誰かが寂しがってないか」までも考えに入れて指名するようにはしてるのよ。主人の責任として。


 

 ……ってか、何の話だっけ。いつの間にか思いっきり話がずれてたような。



「……こ、こほん。え、ええとですわね、まあとにかく、囮作戦は少々無理がある、ということですわ」


 テュロンがやはり耳朶を愛らしく朱に染めつつも、一応締めてくれた。そうそう、そういう話だった。いかにして『登攀者殺し』を倒すか、という話。

 ふう、とメイアが、小さな頭脳を精一杯に使い切ったという疲れた顔でため息をつく。


「はあ……難しいよねえ。『塔』が、自分で『登攀者殺し』をやっつけてくれたらいいのにね」


「え?」 

 

 先ほどのハモりとはまた異なった響きで私たちの声が調和する。

 そんな私たちの目線に驚いたように、メイアは小鳥のように首をかしげ、言った。


「だ、だってさ。ほら、昔、偉い王様が、百人もの兵隊を塔に送り込んで、いっぺんに塔を征服しちゃおうとしたことがあったんでしょ? それみたいにさ」


 そう、その話は、私がガイモンとペカに案内され、初めて塔に登った時にも聞かされ、印象に残った逸話だ。

 当然、登攀者なら誰でも知っている顛末だが、その王の送り込んだ軍勢は、突如現れた、一階層には現れるはずのないような、異常に強大な守護獣に、血肉の一片さえ残らぬほどに鏖殺おうさつされたのだという。遠くで震えながらその光景を見ていた、「ただの登攀者」たちには、かすり傷一つ負わせずに。


 だからこそ、今でも、登攀者たちの一行は最大で6人まで、という規則が厳然として守られているのだ。


 あれ?

 そこから考えると、『塔』には、ルール違反を犯した者に対する制裁、自己制御の能力が備わっていると考えることができるわけで。

 ……それなのに、『登攀者殺し』は、『塔』の制裁の対象になっていない?

となると……『塔』にとって、『登攀者殺し』は、自己の法則に違反するとみなされていないということなのだろうか。



「……確かにそれは、今までに考慮したことのない視点でしたわね。メイア、お手柄ですわ」



 テュロンはメイアを褒めながらも、その表情は険しく、眉根にはしわが寄っていた。


「ですが、その点を突き詰めると、登攀者殺しは、塔そのものによって引き起こされているか、少なくとも塔によって、積極的にせよ消極的にせよ、容認されているということになってしまいますが……」

「そ、そんな馬鹿な!」


 さすがに聖務官としてはその発言を認めることはできないだろう、ラフィーネさんが席を蹴立てて身を乗り出し、勢い込む。


「登攀者殺しと言われる不審死が発生し出したのは、僅かにここ10年ほど。千年に渡る歴史の中で、何らかの知られざる塔への罪が10年でいきなり発生したとは思えません。それに、記録を見る限り、亡くなった方々も、塔に粛清されるような罪を犯すようには見えない方が多かったですし」


 ま、異世界人であり、異界から持ち込んだスキルなんてのを平気で使ってる私が、堂々と塔に登れてるんだものね。ルール違反と言えば、まさに私こそそれに当たるんじゃないかという気もするわけで。

そんな私で大丈夫なんだから、ましてや、人数制限以外の罪で塔が直接制裁を下すとは思えないわね。


 しかし、それならそれで、やっぱりどうも手掛かりがなくなってしまうなあ。

 一応、『登攀者殺し』と『塔』について、何らかの関連があるかもしれない、というところまで想定できたのだけは収穫か。

 


 と、その時、玄関の呼び鈴が鳴った。

 すぐにアンジェとテュロン、メイアが立ち上がり、お客様を出迎えに行く。

 メイアもこの頃はなかなか反応が早くなってきている。何もそこまでしなくてもいいのよ、と私なんかはちょっと甘く考えてしまうけどね。

 やがて帰ってきたアンジェは、微笑みを浮かべて来客を知らせてくれた。


「ご主人さま、リアンディートさんがおいでです」

「あら、久しぶりね。居間にお通ししてあげて」


 リアンディートはアンジェと同じ奴隷競り市で売られた元奴隷で、アンジェの友人でもある。

 彼女はイェンデ伯爵夫人に購入され、あの『淀み』の事件に巻き込まれるという危険な目に遭ったものの、私たちはそんな彼女を救うことに成功したのだった。それ以後、彼女は奴隷身分から解放され、伯爵夫人の養女という身分になって幸せに暮らしている。


 リアンディートを迎えに行ったアンジェの後姿を見ながら、唇の端を釣り上げ、白い牙を覗かせながら、キュリエナがからかうように言う。


「この女の園にまた女性が増えたわね。ラツキの6人目の情人さんの登場……って、いったーい」


 ちょっぷ。

 私の手刀がぺちんとキュリエナのおでこに当たっていた。


「そういう冗談は嫌い」

「堅いんだから、ラツキは……もう」


 大袈裟に痛がりながらキュリエナが文句を言う。

 が、私は確かにこういう、女性しか愛せない女だ。だからこそ、同性間の友情と愛情の区別はしっかりつけたいし、それを茶化されるといい気持ちはしない。

 まあキュリエナだって私と同じ性指向なんだけど、彼女はそれを冗談にできる精神性を持ってるわけで、それが私とは異なる彼女の性格でもあるのはわかるが。


 とはいえ、実際、そうやって、友情と愛情の区別を意識しすぎていたために、私とラフィーネさんの関係がなかなか進展しなかったのは事実。だから、そういう意味では、私がちょっと繊細すぎるのかなあとは思うんだけどね。

 ま、それはそれとして、リアンディートとは実際ただの友人で、それ以上ではない。それも事実。



「お久しぶりです、ラツキさん」

「元気だった、リアンディート?」


 居間に案内されてきたリアンディートと私は握手を交わす。

 リアンディートは、アンジェたちのように、誰もがはっと振り返るような華やかな美貌の持ち主ではないけれど、その深く澄んだ眼差しと緩やかな笑みを形作る整った唇には、深い知性と品の良さ、淑やかさが感じられる。

 そして、そのリアンディートの理知的な微笑みを見て、私は安堵した。この間の事件の時のように、何か悪いことが起きたわけではないようだったから。


「そのことなのですが、実はお義母さま……イェンデ伯爵夫人の御健康が、ようやくやや快方に向かいまして」

「まあ、それは良かったわね」


 イェンデ伯爵夫人は、自分の亡くなった娘を蘇らせるために、孤児だったウィジィくんを犠牲に捧げて『秘法』の儀式を行おうとした。だがそれは失敗に終わり、現れたのは見るも悍ましい怪物だけだった。

 その失敗と、自分の歪んだ欲望のために無垢な少年を犠牲にしようとしてしまったことへの罪の意識、そして何より、その行状を誰からも裁かれないために逆に贖罪ができない、という心の痛みで、しばらく夫人は床に就いたままだったのだ。


 が、リアンディートとウィジィくんの献身的な介護で、その病状も多少改善へ向かってきたらしい。無論、夫人の犯した罪は彼女が一生背負わなければならないものなのだけれど。


「それで、ささやかながら、明日、ラツキさんたちをお呼びしてお茶会でも開きたい、というお義母様のご要望をお伝えに来たのです。かしこまった席でもありませんし、気軽にお出でくださればと」


 お茶会か。

 確かに、今の私たちはちょっと登攀者殺しの件で精神的に追い詰められ、袋小路でもがいているような状況に追い込まれている。ここらで少し、気分転換するのもいいかもしれないわね。


「わかったわ。ご招待ありがたくお受けいたします、と夫人にはお伝えしていただけるかしら」

「ありがとうございます。きっとお義母様も、ウィジィも喜びます」


 リアンディートの緑色の瞳は優しく穏やかな光を放っていたし、柔らかい陽光が窓辺から差し込む光景ものどかでさわやかだった。

 なんだか、私たちも久々に緊張がほぐれて、のんびりした気分に浸った開放感を楽しめそうだな、って。

……そう、思っていたのでした。

 


 ──ちなみに、一般的にはその状況をこのように表現するわけで。

「フラグ」と。






 翌日に開かれたお茶会自体は、確かに楽しいものだった。

 伯爵夫人はまだ長椅子に横たわったままだったが、それでも少しは気が晴れたような優しい顔をしていたし、リアンディートとウィジィくんに至っては何度も私たちとの会話に笑い声をあげ、賑やかで和気あいあいとした空気がその場に満ちていた。

 お茶もお菓子も美味しかったしね。これ重要。


 その場に来て私が少し驚いたのが、大きなハープを弾く、一人の楽人が来ていたことだった。なるほど、いくら気軽なお茶会と言っても、伯爵夫人主催となれば楽人くらい呼んでいるものなのか。

 お茶会の楽しい雰囲気に対して過度な主張をせず、かといって埋没することのない適度な美しい調べは、私たちの気分を高揚させることに大きな役割を果たしていた。


 長身で物優しげな雰囲気を漂わせたその楽人は、男性のようだったが、柔らかく整った中性的な顔つきをしていた。しかし同時に、その目つきには強い輝きがあり、芸術家らしい繊細さと、芯の強さを共に感じさせてもいた。

 何より驚いたのは、その楽人さんの声域の広さだ。ソプラノからバスまで、裏声ファルセットなしで自由自在に歌い上げるのだ。多分、そういう、異様に声域の広い固有能力を有する種族の人なんだろうな。


 いかに楽しい歓談の場としても、一瞬、話の間が空く時はある。いわゆる、「天使が通ったってやつ。

 その時に聞こえてきた楽人さんの歌は、私の心にふと染み通った。


 もう、ずうっと前。私が前の世界にいた頃に、大好きだったアーティストがいた。

 そのアーティストはもう解散してしまったけれど、どこか切なく、遠く知らない世界の民族音楽を思わせる、心の深奥に郷愁を覚えさせるそんな彼らの曲が、私は好きだった。幻想的で抒情的、それでいながら時にステンドグラスの砕け散るように美しい破滅的な雰囲気を持つ曲を多く歌うそのアーティストのことが。


 今、目の前にいる楽人さんの歌は、どことなく、そのアーティストを思い起こさせる雰囲気を漂わせており、気が付けば私だけでなく、アンジェやメイアたちも、リアンディートや伯爵夫人たちも、みな感に堪えぬようにその歌に聞き入っていたのだった。



「素晴らしい歌を聞かせてもらったわ。ありがとう。これほどの歌を、恥ずかしながら今初めて聞いたなんて、我ながらもったいなかったわね」


 歌が終わった後の私の謝辞に、楽人さんは照れたように不器用に微笑んだ。その笑みが彼の人の良さをよく表しているようにがして、つい私もつられて笑む。


「僕、聖都へは来たばかりなんです。それで路上やあちこちの酒場で歌わせていただいてるときに、こちらのお嬢さまに声を掛けていただいて」


 へー。リアンディート、ストリートミュージシャンに声を掛けたのか。なんか、もっと、かしこまったところから呼ぶんじゃなく、そういう場所で歌っている人でも、曲さえ良ければためらわずに伯爵夫人なんて大貴族のお屋敷にも呼んじゃうってあたり、気さくで飾らないリアンディートたちらしいな。


「あ、でも、ここへ来たばかりの僕でも、あなたのことは存じ上げていますよ、ラツキ様。聖花の摘み手でいらっしゃるんですよね。お目にかかれて本当に光栄です。……それで、あの、『塔』の中って、どんな感じなのでしょう?」

「え?」


 楽人さんの唐突な質問に私は戸惑った。が、楽人さんは真剣なまなざしで言葉を紡ぐ。


「見たことも、想像したこともないような様々な景色や環境を目にできれば、僕の歌にももっと広がりができるんじゃないかなって、そう思っていまして」


 うわ……っと。

 これはヤバい流れになってきた。

 この人、ほっとくと一人で『塔』に登るって言い出しかねないぞ。

 確かに、『塔』の中の不思議な様々な景色は、芸術家に強いインスピレーションを与えるだろう。それは、彼ほどの天賦の才能の持ち主ならばなおさらのこと、より讃嘆すべき名曲を作り出す原動力になるかもしれない。


 だが、あまりにも今は、時期が悪い。

 『登攀者殺し』が跳梁している今の時期は。


 私はその旨を説明し、彼もなおも心残りそうだったけれど、一応は思いとどまってくれたように見えた。

 それでもまだ、「ほんのちょっと登って、景色を見てすぐ帰る。それだけでも危険でしょうか?」などと言っていたけど、やっぱり万に一つも危ない橋は渡らない方がいいとは思うのよね。


「今のままでも、あなたの歌は素晴らしいと私は思うわよ。さらなる向上を目指す、その心がけは素敵だけど。今の歌でも、私はすごく感動させられたわ」


 なだめるようにいう私の言葉に、賛同してくれたのは伯爵夫人だった。



「そうね、いい歌だったわ。なんだか昔のことを思い出させてくれるような、懐かしい感じの歌。私はあなたのような、そういう静かで、水晶のように透明なというのかしら、そんな歌が好きでね。昔はよく屋敷に楽人を読んで歌を聞いていたのだけど……」


 そこまで言って、伯爵夫人は懐かしそうな苦笑を浮かべた。


 「ミュシア……私の娘も、それにミュシアと仲が良くてよく遊びに来てくれていたミカエラさんも、そういう静かな歌が苦手なようでね。すぐにじっとできなくなったり、こっそり抜け出したりして、手を焼かされたものですよ。もう一人の、あの男の子だけは静かに聞いていてくれたのですけれどね」


 そっか。

 伯爵夫人の亡くなった娘さんであるミュシアさんと、ミカエラ、そしてユーゼルクは、確か幼馴染なんだっけ。

 ま、小さい子にはもっと明るく楽しい歌の方が好みなんだろうけどね。

 でも、ユーゼルクは、小さい子には珍しく、こういう音楽が好きだったのか。小さな椅子にちょこんと座って真面目に歌を聞いている幼い彼の姿を想像して、私はふっとおかしくなった。


「そうですか……ユーゼルクは小さいころはお行儀が良かったんですね。それが今では塔で大暴れしていますけど」



 何の気なしに言った私の言葉。


 それが、思いもよらなかった伯爵夫人の返答をもたらした。不思議そうな、困ったような口調で。




「ユー……ゼルク……さん? それは一体どういう意味でしょう? いえ、私もそのかたが著名な登攀者だということくらいは存知上げていますが」


 

 その場の空気が、不自然にいびつな形に切り取られたように、あるいは冷たく凝固したように、感じられた。

 ──何を今、伯爵夫人は言ったのか。

 夫人は……ユーゼルクのことを、個人的には、知らない……?

 そう、言ったというのか。


 いや、そんな馬鹿な。

 あの『淀み』と戦った事件の際にも、その後にも、私はミカエラと何度も話をしている。

 ミカエラとミュシアと仲が良く、伯爵夫人に小さいころに世話になったという話を。

 そして、それはユーゼルクと共にだったと言う話を。

 

 それなのに。


 それなのに、伯爵夫人は、ユーゼルク個人のことを知らない……?

 ミカエラのことははっきり覚えているのに……?


 ならば。

 ならば、今、夫人がおっしゃった、「もう一人の男の子」というのは誰だというのか。


 私が唇を震わせて問いかけようとした時、伯爵夫人は、何かに思い当たったように、ぽんと両手を打ち叩いた。その顔が一気に晴れやかになる。


「あ、ああ、ユーゼルク。ユーゼルクですね。そういえば、あの男の子の長い名前の中にも、その名がついていたことを思い出しましたよ。でも、誰もそんな長い名前では呼びませんでしたから、すっかり忘れていました。みんな、最初の名前でばかり呼んでいましたからね」

「長い……名前……ですか?」

「ええ」



 伯爵夫人は、記憶の糸を少しずつ手繰りよせるように、ゆっくりした口調で、その名を口にしていった。

 あくまで、にこやかに。しかし、私にとっては恐ろしい、その名前を



「あの男の子の名前は、確か。──フォン=モウン・ディス・ユーゼルク・フェルゲイン。フォン=モウンと呼ばれていましたね」

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