攻防と謎
最近、夜間は接続不良になることが多いようなので、今回は昼間に更新してみました。
耳障りな音を立てて、大剣・殲煌雷刃の刃先が床をこする。
長身を前屈みにしたユーゼルクは、その剣を引きずるようにして、次の一手を繰り出す瞬間を狙っていた。
その眼光は鋭く悍ましいものではあったが、同時に、私は微かに戸惑いも覚える。
ユーゼルクは長身の男で、あの剣もそれに見合った長大なものだ。だが、今のユーゼルクは、その剣の大きさと重さに、何というか、振り回されているようにも見える。いつもは軽々と扱っていたのに。
先ほど、ロッグロックやルーフェンの拘束を抜け出した時のユーゼルクの体捌きは、まさに見事で達人の領域だった。
けれど、今の彼の動きは、最初からいきなり殲煌雷刃の大技をぶち込んできたことと言い、妙にちぐはぐなのよね。変な言い方だけど、まるで、ユーゼルクの中のユーゼルクが、うまく身体を使えているときと、そうでないときがあるみたい。
ま、いい。
事情を詮索するのはあとのこと。
ユーゼルクが本調子じゃないのなら勝負はたやすい。
既に、彼の間合いはわかっている。後は斬るなり突くなり、彼が仕掛けてきたところを、寸毫の間合いで見切って懐に潜り込み、陽炎で斬ればいい。
……と思ったのに。
そう簡単にはいかなかった。
蛇が毒息を漏らすような不気味な呼吸音を上げつつ、ユーゼルクが大剣を突き出して襲い来る。
この間合いを僅かにかわして入り身になり、颯と付け行って斬れば終わる。中条流・『浮舟』の技法、と私の中のスキルが教えてくれたけど、まあ名前なんかはどうでもいい。とにかく、これでけりがつく。――と思った次の瞬間。
逆に、私は慌てて大きく後ろへ飛び退いていた。
理由は、……波。
殲煌雷刃が波打ち、脈打っていた。
いや、そう見えるかのように、剣の刃に雷撃がまとわりつき、明滅していたのだ。
大威力の魔法撃を放電するほどの魔力はまだ蓄積されておらずとも、刃に電撃を纏わせることならできる、ということか。
そして、その帯電が不規則にうねり蠢くがゆえに、『ぎりぎりで見切って懐に潜り込む』という私の策は初手から変更を余儀なくされた。どこが『ぎりぎり』の間合いなのかが読み切れないからだ。
しかも、これで、私とユーゼルクの間での剣での撃ち合い、斬り結びも簡単には出来なくなった。刃を合わせた瞬間、剣を伝って私を電撃が襲うだろう。
……うわあ、これ、ある程度覚悟してたよりも、さらにめんどくさいぞ、ユーゼルクと戦うのって。
(……もう、本気出して全力で行く? ……いや、でもなあ……)
今も私は自分の力をセーブして戦っているし、いくつかのスキルはあえて使っていない。異世界転移者という正体を知られると死ぬ、というのが私に課せられたペナルティだからだ。
この場には私とユーゼルク以外誰もいないのだから、いっそのこと全力全開で行っちゃおうか、ともちらりと考えたのだが、私の目的はユーゼルクを殺すことではなくてあくまでユーゼルクの中に巣食っている「何か」を斬ること。
「何か」を斬りさえすればその時点でのユーゼルクの記憶も失われる、というのならいいのだが、必ずしもそうとは決まってないわけで。もし彼の記憶が残ってたら死活問題になりかねない。
「仕方ないわね。臨機応変でいきましょうか! フレイムオーラ! フリーズオーラ! ……ただしちょっとだけ!」
陽炎と不知火の刀身に、黄金と漆黒の光が「ちょっとだけ」満ちる。
これもあんまり高出力にしてしまうとユーゼルクを焼いたり凍らせたりしちゃうから、一定程度……つまり殲煌雷刃の纏う電撃を相殺できる程度に出力を押さえておかなければならないわけね。同時にそれは、私の剣の真なる威力を彼に悟らせないための措置でもある。
獣の咆哮のような声を上げてユーゼルクが走った。殲煌雷刃を引きずりながら。床は、剣の発する紫電に焼かれ、黒い焦げ跡からぶすぶすと煙が上がる。
彼はその勢いのまま、殲煌雷刃を下段から思い切り斬り上げた。焦げた匂いの籠った空気が私の顔面をかすっていく。
私は半身になってこれをかわしつつ、左手の不知火で、下段から襲ってきた殲煌雷刃を、さらに上方へ大きく跳ね上げた。
殲煌雷刃は巨大な剣であるがゆえにその重量も相当のもの。さらに私が払いのけた勢いが加わって、その加速の付いた質量に体を持って行かれそうになり、ユーゼルクはぐらりとバランスを崩した。その彼の脛を足で払い、転倒を狙う。
が、その瞬間。
「な……っ!?」
ばちん、と。私の脚が爆発した。
いや、そう感じた。
驚愕と苦痛に目を見開きながら視線を下に移した私の瞳に映ったのは、焦げた自分の足。
傷自体はそれほど重篤なものではなく、せいぜい軽い火傷程度のようだったが、全く予期せぬところから傷を受けた、という衝撃が私を大きく動揺させていた。
私は片足を軽く引きずりながら、またも距離を取らざるを得ない。
歯の間からしゅうと蒸気のように息を吐くユーゼルクはにたりと笑みを漏らしていた。
彼の周囲には、まるで一面に雲母の石が埋まった石窟のように、輝き煌めく小さな光の玉が無数に浮かんでいる。
(……そういうことね)
それが、それこそが、私の脚に傷をつけた仕掛け。
バチバチと火花を放つ、閃電の光球の一群だったのだ。
ユーゼルクの殲煌雷刃には、こんな使い方もあったのか。この閃電の球体を刀身から幾つも放ち、宙に浮かべて浮遊機雷のように仕掛けておくという策が。
光球の一つ一つの爆発力は、私が軽い火傷で済んだように、大したものではない。しかし、眼をくらませる光とそれなりの衝撃、思いもかけない場所とタイミングで爆発するという意外性は、十分以上の優位性をユーゼルクに与えることになる。
(……なんなの、こいつは)
私は歯を噛みながら、それでも湧き上がってくる疑問と違和感を抑えきれない。
少なくとも、「現状」の剣の構え方や振るい方などは、「今のユーゼルク」は、「いつものユーゼルク」とは比べものにならない。一応の剣の使い方は知っているという程度の三流だ。
だが、同時に。同時に、こいつは、魔法剣「殲煌雷刃」そのものの使い方については熟知している。どんな能力を有し、それをどう使えば相手を追いつめ、自分を有利な立場に持って行けるのか、知っているのだ。
なぜこんなにも、色々な形で、ちぐはぐなのだろう、この相手は。
群れ飛ぶ蛍たちのように美しく、けれど不吉な紫電の光球が私を取り巻き、動きを封じていく。剣で薙ぎ払いでもしたら、おそらく光球の群は連鎖的に爆発を起こし、今度はさすがに「ちょっとした火傷」程度では済まないかもしれない。
閃電の球体に取り囲まれた私に向かい、するすると滑らかな足取りでユーゼルクが向かい、真っ向上段に剣を掲げた。無理やりな力強さはなく、流れるように自然で、それゆえにこそ恐ろしい挙措。それは、先程までとは違う「いつものユーゼルク」の動きだった。
また一時的に入れ替わったのか。それとも……それとも、徐々に、「本物のユーゼルク」の力を完全に取り込みつつあるとでもいうのか。
風を斬り裂いて殲煌雷刃が撃ち降ろされる。
一つにはその剣捌きの隙のなさに、そしてもう一つは電光の球体に取り囲まれているがゆえに、私は回避することができず、咄嗟に陽炎と不知火を十文字に組み合わせてユーゼルクの剣を受け止めるしかなかった。
三本の刃のこすれ合い打ち合う、キン、とした甲高い音と、それぞれの剣の纏ったエネルギー同士が反発するバチンとした炸裂音が同時に響く。
巨大な殲煌雷刃の電撃が、麗艶な陽炎の黄金光が、幽玄な不知火の漆黒の凍気が絡み合い、三つ巴となって唸り、その中を三つの刃が互いをめがけて鍔競り合いを続ける。
ちりちり、と、私の前髪が軽く焦げる嫌な臭いがした。
ユーゼルクの膂力と殲煌雷刃の質量で強引に押されると、セーブしている私の体躯ではやや押し負ける。
(……あー、もう、めんどくさい!)
一進一退の攻防に、私はなんかもう、キレた。もともとこんなつもりでここに来たんじゃないのに、なんでこんなことになってるのよ、もう。
(ケリ、付ける!)
私は乱暴に自分の頭をぐるんとブン回した。歌舞伎の連獅子みたいに。
腰まである私の長い髪はその激しい勢いに、風を巻いて唸る。当然私の周囲に浮かぶ無数の閃電球をことごとく巻き込んで。
必然的に、連鎖して爆裂が発生する。まばゆい閃光と耳をつんざく轟音、そして衝撃が続けざまに周囲を包み込む。一つ一つの衝撃は軽いと言っても、一斉にそれらが巻き起こった時の激しさは相当なものになる。
――そしてもちろん、私と鍔競り合いをするくらいの至近距離にいたユーゼルクにもまた、その爆発は襲い掛かったわけだ。
私はもちろん自分がやったことだから、最初から十分心と体の準備は出来ていたし、意図的に視覚と聴覚のレベルも落としておいた。
しかしユーゼルクにとってはもちろん思いもかけない事態だ。唐突に起きたその全周囲での連鎖爆発に、思わずたじろぎ、さしもの彼も一瞬体勢が揺らぐ。
その一瞬。それが私の狙いだった。
三振りの剣が重なった、まさにその一点。そこを中心点に、ぐるりと、私の身体は、剣の真下へ回転するように滑り込んだ。まるで鉄棒で逆上がりをするような回転。
当然、私の剣、陽炎と不知火は、私の身体がぐるんと真下に滑り込んだことに応じて、その刃が私の背中側に回る。そしてその代わりに、私の胸前に回り上がってきたのは、二本の剣の、柄。
長身のユーゼルクに対して、私の身長はそれよりもかなり低い。その私がさらに体をかがめて剣の下へ潜りこんだのだ。私の目の前には、ユーゼルクの鳩尾から胸がある。
そこへ。
下からせり上げてきた陽炎と不知火の柄頭を、回転力を加えて思い切り叩き込んだのだ。
――心形刀流『剣忍誠』。
そんな太刀名義だと、私の中のスキルが教えてくれた技。
ユーゼルクの分厚い身体さえも抉る、重い手応えが、あった。
「グッ……!」
ついにユーゼルクが呻き、膝を付いて、殲煌雷刃を取り落とした。
おそらく肋が二、三本は折れたか、最低限、ヒビは入っただろう。
私は彼が取り落とした殲煌雷刃を部屋の隅に蹴り飛ばすと同時に、陽炎を高上に構えた。
高々と振り上げられた陽炎を、うなだれたユーゼルクに向かって真っすぐに振り下ろす――
が、その刹那。
ぼさぼさの前髪の下から覗いたユーゼルクの瞳が、それまでのどんよりとした濁ったものから、僅かに光を宿したように見えた。
ぼそぼそと枯れた口調で、聞き取りづらく、けれど、彼は、こういったように聞こえた。
『……ラツキだったノカ……気づいてイレバ、戦わなかッタ……』
が、その真意を聞き糺す間もなく。
陽炎は旋風のように、相手に吸い込まれていた。
物音が静まってしばらくしてから、そっと屋根裏部屋の戸口に、いくつもの顔が覗いた。
アンジェたち私の仲間、そしてミカエラたちユーゼルクの仲間。
部屋の中央にぺたんと座り込んだ私は、小さく手を上げて、大丈夫よ、と手を振って見せた。
私の隣に倒れ込んでいたユーゼルクも、ぎこちなく手を上げて、親指を立て見せる。
そう。
私の剣・陽炎は、見事にユーゼルクの中にいた「何か」だけを斬り絶つことに成功したのだ。
途端、全員が声を上げて部屋の中になだれ込んできた。
「ご主人さまっ!!」「ユーゼルク!!」
それぞれの仲間たちが歓声とともに、私とユーゼルクを取り囲み、抱き着いてくる。
「あ痛っ!」
が、ユーゼルクの両側から抱きついたミカエラとエレインに、彼は顔をしかめて体を硬直させた。
「あー、ごめん。ユーゼルクの肋、多分折れてるか、ヒビ行ってるかしてると思う。……彼を相手に全く無傷で取り押さえろってのはさすがに無理よ」
多少言い訳がましく言った私をミカエラは一瞬じろりと見たが、すぐに苦笑を浮かべて柔らかく小首を傾げた。
「そりゃそうね。もちろん、怒ったりはしてないわ。感謝してるわよ、ラツキ。ありがとう」
「ええ、むしろそれだけで済ませてくださったこと、さすがラツキさんと言うべきですね」
エレインもそろって礼を言ってくれる。ユーゼルク本人も頷いて、横たわったままだったが、私に手を差し伸べてくれた。
「本当に世話になったね、ラツキ。このお礼は改めてさせてもらうよ」
「気にしないで。私たちだって散々世話になったり無理聞いてもらってるんだし、別に……痛っ!」
今度悲鳴を上げたのは私だった。ユーゼルクの手を取った瞬間、ピリッと軽い衝撃が走ったのだ。真冬に扉の金属の取っ手を握った時の静電気みたいな。
「あっと、ごめん、ラツキ。まだ僕の身体に電撃の名残が残ってみたいだ」
「いえ、びっくりしただけだけど……あなたは平気なの?」
「僕自身も電撃の魔法は使うからね」
へー。
そういえば、天使族は、アンジェもミカエラも魔法行使者だし、基本的に魔法に適性のある種族なんだろう。そんな中で、ユーゼルクだけが戦士ってのも、考えれば変な話だった。彼は魔法も使う剣士だったというわけか。
「僕の『殲煌雷刃』は我が家に伝来の宝剣で、雷の魔力を秘めているけれど、その力を完全に引き出せたのは僕が一族で初めてなんだそうだよ。あの父も珍しく喜んで……」
そこまで言った時、ユーゼルクは苦し気に顔をしかめた。話も聞かないといけないけれど、でも今は傷の手当てが先よね。
「アンジェ、ユーゼルクの傷、治してあげて」
私がアンジェに指示したのを、ユーゼルクが遮った。
「いや、ラツキ、君も傷を負っているんだし、君から先に治療してもらうといい。特に、髪は女性の命なんだから……」
「え? 髪?」
言いかけて、そこでようやく気付いた。廻りのみんなが必死で笑いをこらえているような顔をしていることに。
……あー、髪か。
さっき思い切り振りまわして電光球を爆発させた私の髪。その結果は、多分鏡を見なくても想像つく。
……きっと、爆発コントのオチみたいなことになってるに違いない。
私はぶすっとしたまま、唇を尖らせた。
「……今更隠せもしないし、後でいいわよ、もう。それよりおとなしく治療されなさい、ユーゼルク」
くすくす、と誰からともない笑いが小さく起こり、私も表向きは不機嫌な表情を浮かべて見せていたが、それでもほっとした気持ちの方がはるかに大きかった。
アンジェの聖魔法とエレインの詩によって、ユーゼルクの怪我と、ついでに私の負傷と爆発ヘアも無事治癒された。ラツキのあの頭、記念に記録しておきなさいよ、とキュリエナがアンジェにそそのかしていた小声が聞こえたのでお尻を抓っておいたが。
私は元気になったのだが、傷を治したとはいえ、気力と体力を激しく消耗したユーゼルクは、しばらくの間休む必要はあるらしく、寝台に横になっていた。
「メイア、ユーゼルクの中に、もう怖いものは見えない?」
私は念のためにメイアに尋ねてみたが、彼女は元気に頷いた。
「うん、とっても綺麗な、ご主人さまみたいな、きらきらしたものしか見えないよ。……あ、でも」
そこでメイアは少し声を切り、不思議そうに小首を傾げた。可愛い眉をしかめ、頑張って何かを思い出そうとしているようだ。
「今考えてみると、さっきのアレは、怖いことは怖かったんだけど、それ以外にもどこか、哀しそうっていうか、辛そうな感じにも見えた気がするんだよね……」
ふう……ん?
んー、どういうことなのかな。まあ、実際に「視た」メイアがよくわからないんだから、私にわかるはずもないが。
私はベッドに横たわるユーゼルクに、改めて向き直った。
「ユーゼルク、本当ならこのままお大事にって言って帰ってあげたいんだけど、こっちとしてもさすがに、ある程度の事情は聞いておきたいの。それはわかってくれる?」
「ああ、もちろんだ。と言っても、今度のことについては僕たち自身にもよくわからないんだけどね……」
疲労を顔に浮かべながら、それでも肯ってくれたユーゼルクに、私はまず直球で尋ねた。
「今度のことみたいなことは、これまでにもあったことなの?」
だが、ユーゼルクより前に激しい勢いで食いつくようにミカエラが首を振る。
「そんなことないわ! 私、ユーゼルクとは20年も一緒にいるけど、あんなことになったのは初めてよ」
「うむ。わしらはユーゼルク坊とは、まあ10年ほどの付き合いじゃが、そのわしらも、あのような坊は初めて見たのう」
続いてバートリー老人もミカエラに同意し、最後にユーゼルク自身がゆっくりと頷いた。
「ああ。僕自身、物心ついてから、あんなことになった記憶はないな」
「じゃあ、「あれ」が始まる前に、何か……心とか精神に強い衝撃を受けたとか、そういう出来事はなかった?」
今度も、ユーゼルクたちは揃って首を振り否定する。
私がそれらの問いを発したのは、現代日本人としての知識によるものだ。
つまり、――ユーゼルクは解離性障害、いわゆる二重人格なのではないか、という疑念。
だが、これまで一度もそういった症状を見せたことがなく、また人格が乖離するきっかけになるような出来事もなかったというなら、そういうわけでもないのかな。もちろん私は精神医学のスキルを取得してるわけじゃないし、ただの素人考えでしかないんだけど。
「そもそも、あれが始まったのは……」
ユーゼルクは瞼を閉じ、しばし黙した。眠っちゃったのかな、と思ったが、やがて彼は目を閉じたまま、また口を開いた。
「……うん、今はもう、見えないな。最初は、夢の中や、こうして軽く休もうと目を閉じているときに、うっすらと見えていたんだよ。悪夢、と言うほどのものでもない。小さな、薄い影みたいなものがね。それが、ぼそぼそと、よく聞こえないような声で僕に何かを言ってきていたんだ……」
その「影のようなもの」は、しかし、日が経つうちに、次第にユーゼルクの夢の中で大きく、濃く成長し、言葉も聞こえるようになってきたのだという。――『カエセ』と。
その言葉の意味もよくわからないまま、さすがにユーゼルクの眠りも十分ではなくなってきた。毎夜脂汗に塗れ、時にはうなされながら目を覚ますようなことも多くなっていったという。
「そしてある夜、いつも枕元に置いている、この殲煌雷刃を手に取りかけていたところで、はっと目を覚ましたんだ。僕が本当にぞっとしたのはその瞬間だったよ。前後不覚の状態でこの剣を使おうとしていたということなんだからね……」
だが、殲煌雷刃を手にした途端、彼は夢から覚めた。それはおそらく、剣に籠められた霊力が、その「もの」を祓ってくれたのではないか、とユーゼルクは解したそうだ。
なるほど。だから、さっき、あんなにガチガチに鎖とかで縛られていながらも、ユーゼルクは剣を持っていたのね、なんでそんな危ないものを持たせて拘束してるのかと思ったが、ある程度は殲煌雷刃の霊力が、お守りみたいな役割を果たしてくれていたわけか。
「……だが、次第にその「もの」の力は強大になっていった。剣の力も及ばないほどにね。エレインの詩や、御老の薬草なんかも、もちろん何度も試してみたが、効果はなかった。そんな時だよ、君の、あの剣のことを思い出したのは。そして、君は見事に僕を救ってくれた」
ユーゼルクは横になりながら、感謝に満ちた真摯なまなざしで私を見つめてくれた。私は照れ臭くなって手を振る。
「やめてよ。だから、お互い様だってば。……それじゃユーゼルク、今日のところは私たちはここまでにするわ。お大事にね。それと、今度何かあったら、悪化する前にすぐ呼んでよね」
「ああ、そうしよう」
ユーゼルクは苦笑しながら言い、私たちは彼の宿舎を後にした。
宿舎の上の方は当然大きく壊れていて、それを見守る野次馬たちがこれも当然騒いでいたが、まあそこまでは面倒見切れないので放っておこう。
だが、放っておけない事柄もある。
私は自分のお屋敷に帰った後も、しばし寝台に寝転んで考え込んでいた。
そして一つの決意を固め、自室を出ると、ある一人の部屋の戸を叩いた。
「ラフィーネさん、ラツキです。今、いいですか?」
「あー、ラツキさんですかー? 鍵は開いてますよ。っていうか、ラツキさんになら、私の心の扉はいつでも全開ですよー」
戸の内側から返ってきた相変らずの能天気な声に苦笑しつつ、私はラフィーネさんの部屋に一歩を踏み入れた。
……うわあ。
衣装掛けに適当に法衣を引っ掛けて置いて、ラフィーネさん自身はビスチェとショートパンツというあられもない姿で寝台にうつぶせに寝っ転がり、片手でおやつをつまみながら、もう片手で本を斜め読みしていた。しかも仮面まで外して寝台の脇にほっぽってるよ。
そりゃ確かにここはラフィーネさんの自室だし、私は何度となく彼女の素顔を見てるんだから、気にしなくていいのかも知れないけどさ。
「あーすいませんねー、ラツキさん。今、祈祷書を読む聖課の時間でして。なあに、あとちょっとで読み終わるんで、少しだけ待っててもらえます?」
「いえ、大事な聖務の時間なら、あとで出直してきてもいいですけど……」
「いいんですよ、どーせ数えきれないほど読んでて、もう暗唱くらいできる本ですし、あと一節だけで。……さーて、おしまい。で、何ですか、用って?」
もぐ、ともう一切れ、お菓子を口に放り込みながら、ラフィーネさんはこちらに向き直った。相変わらず寝そべったままだけど。
……ちゃんと決められた聖課の時間に、こんな格好ではあってもきちんと祈祷書を読む程度には、一応真面目な聖務官だと褒めるべきなんだろうか、この人。
私はふうとため息をつくと、顔色を改め、ラフィーネさんの寝台の前に跪いた。
「……ふ、ふえっ!?」
仰天しているらしいラフィーネさんをよそに、私は胸の前で手を十字に交差させる正式の礼法で首を垂れる。
「……ほむべきかな、いと高き塔。ラフィーネさん、聖務官としてのあなたに、お願いがあります」
「ほ、ほみゅびぇきかにゃ……げほんごほん。喉に詰まっちゃったじゃないですか! いきなり変なこと言うから!」
しかも思いっきり噛んでるし。とうとう「変なこと」とか言い出したよ、この駄聖務官は。
それでも、単なる冗談やいたずらで私がこんなことをしているというわけではないことはわかってくれたらしい。
ラフィーネさんも寝台の上に座り直し、真面目な顔つきになると、改めて礼を正式に返してくれた。さすがに、まじめに礼法をこなすと、この人でもびしっと決まって綺麗なものだ。
「それで、お願いって何ですか、ラツキさん?」
「はい。……それがですね」
私はいったん言葉を切って、ラフィーネさんの真紅の瞳を見つめる。
「ラフィーネさん。公私混同をしてくれませんか。ついでに、職権濫用も」
「……は?」
彼女の朱い瞳が一瞬きょとんと丸くなり、次いで刃のように鋭い光を帯びた。唇がきゅっと一文字に結ばれ、厳しい表情を形作る。
「……ラツキさん。私、これでも聖務官です。聖殿での聖務に生涯をささげたつもりです。その私に、よくわかりませんけど、公私混同で職権濫用の何かをしろと、あえてそうおっしゃるんですね?」
「はい、あえてそれをお願いしてます」
先ほどのユーゼルクとの対決の時にも勝るとも劣らない、緊張感に満ちた空気が。私とラフィーネさんの間に漂った。
――だが。
一瞬の後、ふわりと、ラフィーネさんは微笑んだのだった。
「……はい。で、何をすればいいんです?」
逆に私の方が、あまりにあっさりとしたその返答にぽかんと口を開ける。結構な覚悟をしてきたのに。
「え、えっと。いいんですか。ラフィーネさん?」
「もし、ラツキさんのそのお願いが私利私欲からのものだったら、私は絶対にお引き受けなんかしませんよ。……でも、違うんでしょう? さっきの真剣な顔つきでわかります。何か、とても大切で大事なことがある。それで、私に頼みたいんでしょう? なら、かまいません。そのくらいには、私、ラツキさんのこと、信じてますよ。ぎりぎり」
「……ぎりぎり、なんですか」
「ええ、ぎりぎり」
私とラフィーネさんは顔を見合わせ、ぷっとお互いに噴き出した。
まったく、この悪友は。……そして、この親友は。
「……それで、ラフィーネさんに頼みたいことというのはですね……」
ひとしきり笑いあった後、私は依頼の内容を彼女に詳しく話した。話が続くにつれ、彼女の顔つきも深刻に変わってくる。
「――でも、まさか、ラツキさん。そんなことって」
「ええ、もちろん、「まさか」です。でも、その「まさか」が万が一当たってたらシャレになりません。「まさか」だからこそ、一番最初に可能性を潰しておきたいんです」
私の言葉に、ラフィーネさんは頷くと、立ち上がって法衣を手早く引っ掛けた。
「わかりました。明日と言わず、今から聖殿へ行って調べてきましょう。多分、徹夜になりますが」
「すいません、ラフィーネさん」
ラフィーネさんは最後に仮面を掴むとそれを装着しようとして、しかし、その時、ふと思い出したように私の方へ振り返った。
「そういえばラツキさん、あなた、キュリエナさんにこんなことおっしゃったんですってね。――『自分の唇を誰かに褒美として与えられるなんて思うほどうぬぼれてはいない』って」
「……案外口が軽いですね、あの子も。間士の癖に。後でほっぺた抓っておきます」
「あはは。まあ、惚気られたんですよ、彼女に。……で、確かに、そういう考えも一理あると思います。そういう関係もあるんでしょう。でもね」
ラフィーネさんはくすっと笑って、私に一歩近づいた。彼女の甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「でもね、人それぞれなんじゃないかなって思うんです。もし私だったら、私の大好きな人に頼られて、頼まれて、それを成し遂げることができて、その感謝を表してもらえたなら、私は嬉しいって思うんだろうなって。幸せだろうなって。そう思うんです」
彼女の言いたいことは明らかだった。そして、人それぞれの色々な考え方があるのだということも、私は改めて、思いを致さざるを得なかった。同じ仲間の間であっても、違う考えの子たちがいる。
それを、私は、彼女に教えられた気持ちだった。
「あー、ちなみに私、お礼は、前払いでも後払いでも分割払いでもなんでも受けつけてますからね、ラツキさん」
くすりと笑ったラフィーネさんの細い肩を私は強引に抱き寄せた。
笑みが消えないうちに、吐息を混ぜ合わせる。
「じゃあ、前払いにしましょうか。それとも、分割かな?」
言い終わる前に、私は彼女の唇に上塗りする。
お菓子の甘い口触りよりも、もっと激しく熱く、刺激的な味を。
ラフィーネさんの手から、ぽとりと仮面が床に落ちた。
その輝く仮面には、私とラフィーネさんの姿が重なって、揺らめくように、映り続けていた。




