今と未来
「では、お二人とも、準備はいいわね? なら、用意……始めて!」
私の号令一下、ぎしり、と軋むような音さえ聞こえてきそうな重厚な密度の空気が揺れた。
少女と老人は食卓の上で双方の腕をガッチリと組み、同時に渾身の力を込める。
一気に二人の肌が紅潮し、周囲の景色さえ歪んで見えるような気迫が小部屋を満たした。
テュロンと、彼女のお爺さん。
お爺さんの言うには、テュロンは厳密な意味では成人の儀式をクリアしたとは言えないのだという。従って、私とテュロンとの間の主従の契約も無効になりかねないのだとか。
それに反発したテュロンが、ならば今この場で勝負をしようと持ち掛けたのだ。
テュロンの剛力、というよりも怪力は、私にとって、何度見せられても驚嘆の念を抱かずにはいられない、底知れぬものだ。スキルによって強化された私でさえ、真態ではなく通常状態のテュロンを相手に全力を振り絞ってやっと勝てる、という程度。
そのテュロンの表情が、鬼神のごとき猛りを見せたまま――凍った。
テュロンとお爺さんの拳は、互いに固く握り合わされたまま、空中で微動だにしなかったのだ。
私は思わず息を飲む。そこにあった光景は、二人の浮き上がった血管さえ脈打つのをためらうような、凄まじい拮抗。
沸き立つ熱気が二人を中心に渦を巻く。しかし、その中央のテュロンとお爺さんは、彫像のように固まったまま、相互に譲らない。
いや、譲らないかに、見えた。
そのバランスが。
崩れ、始めた。
ほんの僅かに、影が揺れる。二人の組み合わされた拳の落とす影が、揺れる。
それはつまり。一方が、押され始めたことを示していた。
驚愕に目を見開いたのは、――テュロンだった。
私もまた、信じられないものを見る思いだった。
微かに、そして確実に。
テュロンの拳は、卓面に向かって傾き、押し付けられつつあったのだ。
ばちん、と音を立てて、テュロンの服の袖が弾けて破れる。
膨らみ上がった筋肉が悲鳴を上げたかのように。
しかし、それでも、少しずつ。テュロンの拳は傾きを増していく。
想像だにしなかった結末が――彼女の敗北が、迫っていた。
「テュロン――っ!」
声を上げようとした私の前で、その時。
破局が、起きた。
……まあ、考えたら当然なわけだけど。
真態を現した二人の地龍族の本気の力比べの舞台として、そんじょそこらの食卓が耐えられるはずなんか、ないわけで。
それなりに分厚い木の板でできた立派な食卓ではあったのだけど、バキンバリバリと凄まじい音と共に、食卓は粉微塵に砕け散ってしまっていた。
「きゃっ!」「おおっとっと!」
組み合わされたテュロンとお爺さんの手が空中で支えを失う。凄まじい力が込められていただけに、勢い余って二人は同時にどんがらがっしゃんと床に倒れ込んだ。
「ははは! これは参ったのう。さすがに、このような場でやるべきことではなかったか。お互い、輝く知性を持ちながら、そんな簡単なことに気付かなかったとは汗顔の至りよの、テュロン?」
お爺さんは床に座り込んだまま、面白そうに髯を震わせて笑う。だが、テュロンはそれに応えず、きゅっと唇をかみしめて、自分の手を見つめていた。
凄い音がしただけに、慌てて店の人が覗きに来る。私は急いで謝り、壊れた食卓の弁償を申し出た。お爺さんも立ってきて、自分も償金を支払うと申し出てくれた。
そんな騒ぎの中、テュロンは黙したまま、ただじっとお爺さんの背中を見つめていた。
「さて、テュロン」
と、ひと段落したところでお爺さんは振り返る。
「勝負は中断してしもうたが、このままにしておいていいものでもない。時に、もうじき、恒例の地龍族の祝祷が聖殿で行われるのは知っておるの? わしはもともと、そのために聖都に参ったのじゃ。そこで、改めてその折、聖殿で勝負を取りおこなうというのはどうじゃな」
テュロンは即答しなかった。
しばしの沈黙ののち、彼女はゆっくりと口を開く。蒼褪めた唇を、わななかせながら。
「……お爺さま。6年前のあの勝負の時は、手を抜いておられたのですか? 私に花を持たせようと?」
彼女の肌は透き通るように白く、対してその目は充血していた。
テュロンにも、無論わかっていたのだ。あのまま勝負が続いていたら、自分はおそらく敗れていた可能性が高いと。
だが、テュロンは何年も前に、既にお爺さんに勝っていたはずだった。それが、何故。
当然と言えば当然のテュロンの問いに、お爺さんは髯を撫でながらにこやかに首を振る。
「そのようなことはせぬさ。あれは紛れもない、あの当時のわしの全力であったよ」
「しかし……ではなぜ……」
お爺さんはややふんぞり返り、にやりと得意そうに口の端を歪めた。結構なお年だろうに、いい意味で、なんとも子供っぽい無邪気さのあるご老人だ。
「わからぬかテュロン。まだまだ知性の輝きが足りぬようじゃの。論理的に考えれば導かれる答えは一つ。すなわち――わしは滅茶苦茶鍛えたのじゃ!」
「……は!?」
ぽかんとして口をあんぐりと明けるテュロンと私。
「まだ幼いそなたに負けたのが悔しくての。何年もかけて滅茶苦茶頑張ったのじゃ! がははは!」
「そ、そんな、単純すぎますわ! それに、私だって……!」
あまりにもシンプルなお爺さんの答えに返す言葉がない。それに、そのお爺さんの言葉が仮に事実だとしても、鍛えていたのはお爺さんだけではないのだ。
テュロンには、スキルがある。私の『スキルコピー』のスキルで複製した、『ラーニング・エンハンス』の能力。成長を促進させる力だ。その効力を有したテュロンは、これまでの幾つもの戦いの中で、自分の力を研ぎ澄ませてきたはず。お爺さんが自分を鍛え上げたと言っても、テュロンもそれと同等、いやそれ以上に成長していたはずなのだ。
お爺さんは、面白そうに顔をつるりと撫でて、ドヤ顔でテュロンを見やる。あー、このドヤ顔。テュロンの家族なのだなあ、としみじみしてしまう。
「テュロン。確かにそなたも強くなったの。しかしじゃ、家族を取り戻したいと思う気持ちの強さを侮っていたのではないかな」
その言葉の意味がピンと来ないらしく、テュロンは柳眉をしかめる。
だが、私には。傍らで聞いていた私の方には、お爺さんのその言に、胸を突かれるものがあった。鋭く貫かれる感覚が。大事な、忘れていたものを思い出させられた感覚が、あった。
お爺さんはやや目を細めてテュロンを打ち眺め、続ける。
「それにじゃ、ただ硬いだけの鉄は脆いもの。それがわしの煌めく知性の導く結論じゃよ」
「……どういう意味、ですの……?」
「がはは。それはそなた自身が解いて見よ。そなたの知性が確かなものであるならば、のう」
お爺さんはそこまで言うと、私に向き直って大仰に一礼した。
「ではラツキ殿。今しばらくの間だけ、テュロンをお預けいたしますぞ。聖殿での改めての勝負の時まで、ですな」
私たちは一言もなく、靴音を高く鳴らしつつ颯爽と踵を返すお爺さんを見送るしかなかった。
テュロンの拳が強く握り込まれる音が、乾いて小さく響いた。
本来、私とテュロンのこのデートは、失った斧に代わるテュロンの新しい武器を選ぶためのものだったが、もちろん、そんな余裕はなくなった。
私たちは急いで屋敷に戻り、みんなに事態を報告した。アンジェたちの顔色も変わり、ラフィーネさんは慌てて聖殿へ向かって事情を調べてきてくれた。
「……確かに、テュロンさんのお爺さんのおっしゃったことには理があります。聖殿法に照らしても、彼の言い分が通る可能性は高いかもしれません」
ラフィーネさんはしばしの後に帰ってくると、朱唇を湿しながら困惑したように報告してくれた。
正式に、テュロンのお爺さんは聖殿に対し、自分とテュロンとの成人の儀式を改めて遂行したいと願い出、その立ち合いを申し込んだようだった。
何とも行動が早い、というより、最初からそのつもりで手を回していたのだろう。
「でも、信じられないわね。テュロンが負けたの?」
キュリエナの面持ちにも、さすがにいつもの皮肉めいた余裕はない。しなやかな小首を傾げながら問うたキュリエナに、テュロンはムキになって反論した。
「負けてはおりませんわ! 決着はつかなかったのです!」
「ふーん。でも、その態度、ほんとは自分でもわかってそうだけどね、実質的な勝敗がどうだったのかは」
「……っ!」
ぎり、と歯を噛みしめてキュリエナを睨みつけたテュロンは、しかし、すぐに睫毛を陰らせて眼を逸らした。
――確かに。
あれはテュロンの負けだった。傍から見ていた私にも、それはわかる。ましてや当の本人であるテュロンにはより強烈な実感として伝わっていたはずだ。
「テュロン姉さま……帰っちゃうの? いなくなっちゃうの?」
メイアが不安そうに声を震わせ、テュロンのスカートの裾を掴む。
テュロンは答えなかった。
部屋に重苦しい雰囲気が漂う。
私の脳裏に、お爺さんの先ほどの言葉が渦巻く。
微かに目を閉じると静かに息をつき、私は立ち上がった。
「テュロン、ちょっと、お庭に出ない? みんなもついてきて」
きょとんとした表情を浮かべて、テュロンは顔を上げた。
みんなも不思議そうな視線を私に向け、互いに顔を見合わせながら、それでも私の言葉に従ってくれた。
屋敷の庭にはいくつかの庭石が飾られている。日本的な感覚なのかな、とも思うけど、聖王アンジェリカがこういった景観を好んだらしい。そのため、この世界でも時折みられる風習だ。
私の推測では、聖王アンジェリカも私と同じ世界から来た異世界転移者だろうとみているけれど、あるいは彼女も日本人だったのかもしれないわね。私も、こういった景色を眺めてると、なんとなく心が落ち着くし。
で、その庭石のうちの一つ、平たくなっている大きなテーブル状の石の前に、私はテュロンを連れてきた。
「何の御用でしょうか、ご主人さま?」
縦ロールをふわっと風に靡かせながら、テュロンは尋ねる。私はそれに、軽く答えた。
「私ともやってみましょう、勝負。本気でね」
「……え?」
目を丸くするテュロンに構わず、私は庭石に肘をつけ、手を差し出した。
「あ、あの、ご主人さま?」
「疲れてる? ならアンジェに少し回復してもらって」
「い、いえ、それほどでもありませんが……」
戸惑うテュロンに構わず、私は半ば強引に、彼女を私の対面に招いた。
不審そうな表情を浮かべながら、やむを得ずと言った様子でテュロンは私の手を握る。
――私は以前、テュロンが仲間入りして間もないころ、彼女と腕相撲をしたことがある。その時は、テュロンは真態ではなく通常態、そして私が両腕でテュロンが片腕、というハンディを付けて貰った上で、ぎりぎりで何とか勝てたのだった。
テュロンもその時のことを覚えてはいるだろう。
今回も条件は同じ。私は両腕を使わせてもらう。それは逆に言えば、私もまた全力で勝ちに行っている、ということだ。手は抜かないように、という意味になる。
「ええと……一応、準備は出来ましたわ、ご主人さま」
「こっちもよ。じゃあアンジェ、悪いけど、合図をお願い」
「は、はい。……お二人とも、用意してください……では、始め!」
アンジェの声音と同時に、私たちの腕に力が籠った。
大きく息を切らして、私とテュロンは二人してぺたんと庭石の上に上半身を突っ伏した。
結果は、私の勝ちだった。あの時と同じに。
……だから、それが結論だ。
テュロンは私に負けるはずはないのだ。
以前、私がテュロンに勝ったのは、テュロンが仲間入りしてすぐの時。
つまり、彼女がさまざまな戦いを経て成長を始める前だ。
そして、その時点で私のスキルは既にレベルの極限にまで達していた。そのように自分をデザインしてこの世界に転移してきたのだから。
だから、私はそこから先、少なくとも単純な身体能力という意味では変化がない。戦いの駆け引きや場慣れという部分での、学習あるいは経験的な上積みはあるとしても。
それに対し、テュロンはラーニング・エンハンスの能力で確実に育っているはず。テュロンの能力は、前に勝負をした時、まだ頭打ちではなかったのだから。
すなわち、あの当時ぎりぎりで勝てた私が、今もまだテュロンに勝てるはずはない。
けれど、私は勝てた。勝ててしまった。
ならば、そこに理由がなければならない。
テュロンのお爺さんが、鍛え上げて再挑戦をしてきたというのは確かだろう。だがそれだけではなく、テュロンの側にも、敗れる理由があったのだ。
「メイア、視ててくれた?」
汗を拭きながら私の向けた問いに、メイアはこくんと頷いた。事前に、テュロンの姿をよく「視て」いてほしいと私はメイアに頼んでいたのだ。
力の波、波動を見取ることのできるメイアの浄眼。その眼差しは何を映しただろう。
「うん。テュロン姉さま、凄かったよ。全身にこう、ものすごい力の波が漲っていて」
何故そんなことをさせたのだろう、というような疑問を顔に浮かべながら、メイアは素直に応えてくれる。
だがその解答を聞いて、テュロンははっとした面持ちで顔を上げた。キュリエナも微かに頷く。そしてもちろん私も。やや遅れて、アンジェも。
私たちの中で、武術の心得があるのはこの四人だ。だからこそ、分かったのだろう。
「全身に……ですの、メイア?」
「うん。僕はすごいなーって思って見てたんだけど……いけなかったの、テュロン姉さま?」
心配そうに尋ねたメイアに、テュロンではなく私が答えた。
「ううん、メイアのおかげで一つ大事なことが分かったのよ。だから、よくやってくれたわ、メイア」
そう言うと、私は再びテュロンに向き直る。
「テュロン。さっき途中で二人きりのお出かけは終わってしまったわね。今から、続きをしに行きましょう。みんな、ちょっと出かけてくるわね」
「え? ですが、ご主人さま……」
「ね、行きましょう」
私は戸惑うテュロンの手を取ると、半ば強引に歩き出した。
テュロンの手は、普段の彼女からは信じられないくらいに軽く、どこか頼りなく感じられた。
屋敷は深く静かな林の奥にある。
今からもデートのやり直し、と言っても、街中に出かけていけるような時間ではないが、林の中をゆっくりと散策するというのもいいものだろう。木々の間を抜けてくる涼しい風が、火照った私たちの身体を心地よく撫でて冷やしてくれる。
しばらく私たちは手を繋いだまま林の中を無言で歩いていたが、やがてテュロンが顔を上げ、強い口調で切り出した。
「ご主人さま、……私、お爺様に後れを取りそうになった原因がわかりましたわ。もう不覚を取るような真似は致しません」
「違うわテュロン。多分、あなたが理解したのは、負けそうになった『理由』であって、『原因』ではないと思う。『原因』は、その『理由』をさらに導いたものよ」
私の答えに、テュロンは栗色の瞳を見開く。
その彼女の驚愕の表情を、私は立ち止まって振り返り、少し見つめた。
そして、――きゅ、と、手を握る。
それ自体が小さな生き物のように、テュロンの手は私の掌の中で、ぴくんと震えて愛らしく悶えた。
「……ご主人さま?」
「テュロン。あなたの手、小っちゃくて、柔らかいのね。私の手はどう?」
「はい? ええと……その……しなやかで、美しい御手だと思いますわ」
「ありがとう。じゃあ、さっきの、あなたのお爺様の手はどうだった?」
「え?」
テュロンの唇がぽかんと開く。
先ほど、テュロンはお爺さんと手を組んで試合をしたばかりだ。だけど。その手の感触を、彼女は感じることができただろうか。
……そんな余裕が、あっただろうか。
テュロンの視線が泳ぎ、何かを、朧な何かを自分の中で必死に模索する。
そんな彼女の表情が、たまらなく愛おしくて。
ふわり、と。
次の瞬間、私の腕は、テュロンを柔らかく包み込んでいた。
「ご……ご主人さま!?」
小さな声が裏返って、テュロンの驚きを物語る。
抱きしめながら、私は思う。
小さくて、細い、彼女の身体。
それは、テュロンの持つ肉体と心の強さとはまた別の意味で、やはり彼女の本質そのものでもあった。
「ごめんね、テュロン。私、あなたの強さに甘えてたかも。あなたにいつも支えて貰ってばかりで、あなたを支えてあげることが足りなかったかもしれない。あなたの主人なのに……ううん、あなたの恋人なのに」
「ど、どうなさったのです、ご主人さま!? 私、何が何だか……」
私の腕の中でテュロンは、か弱く、じたばたともがく。嫌がっているのではないけれど、パニクってはいる感じ。まあ、そりゃそうだろうけど。
そんな彼女の朱く染まった耳朶近くに、私は囁きかけた。
「あのね、テュロン。多分、だけど――」
私が語ったのは、おそらく本来ならば、私には言うべき資格のない言葉。
けれど、だからこそ言わなければならない言葉でもあった。
私の言葉がそっと紡がれていくうちに、テュロンの動きが止まる。やがてその身体に、小さな、微かな震えが現れ、そして、私にすがりついてきた。
彼女の細い肩は、小刻みに揺れていた。
数日後。
正式に、聖殿を介し、地龍族から私たちに招待があった。
地龍族では、祝祷、という儀式を、何年かに一度執り行うとテュロンから聞いた。
それは、地龍族の代表が聖殿に赴き、地龍族の父祖伝来の宝物に祝福を与えてもらうという儀式なのだそうだ。地龍族は信心深い種族なので、そういった儀礼を重視している。
そして。その場で、改めてテュロンとテュロンのお爺さんとの試合が行われる。
テュロンが敗れれば、私との主従契約の正当性に疑義が生じることになる。
いざ聖殿に赴くと、そこには地龍族の人々が数人、そして聖務官が数人、私たちを迎えてくれた。
テュロンはその力においても頭脳においても、いや存在そのものが、私たちにとって不可欠な人材だ。
だから私たちにとっては、彼女を失うかもしれない、という状況は結構なピンチなのだけれど、だれも不安そうな顔はしていなかった。テュロン自身も。
「……ほう」
待ち設けていたテュロンのお爺さんが、そんな彼女の表情を見て、楽しそうに目を細めた。
「いい顔じゃな、テュロン」
「もとより、我が美貌は論じるを待たず弁ずるに及ばず、明々にして白々なのですわ、お爺さま」
くすり、と微笑みながら、縦ロールをふぁさっと靡かせた、珍しいテュロンの冗談。
それを聞いてお爺さんは呵々と大笑しながら、髭を捻った。
「そうか。ではその可愛い、一族の、そしてわしの宝物であるそなたを、ますます手放すわけにはいかなくなったのう。では早速、勝負といくかな、テュロン」
「望むところ、ですわ」
テュロンとお爺さんは聖務官さんに導かれ、勝負のために用意されたであろう大きな台の前に立つ。おそらく聖遺物で作られていると思われるその台は、神秘的な透き通った光を放ち、冷えた硬質な存在感を顕示している。地龍族の力をもってしてもそう簡単には壊れなさそうだった。
「では、ご準備を」
立ち合いの聖務官さんが声を掛け、それに応じてテュロンとお爺さんは台を挟み、向かい合って手を組んだ。
背後で見守る地龍族の人たちの面持ちは緊迫感に満ち、薄く汗をかいている人もいた。
テュロンとお爺さんの視線が絡む。
だがその眼差しは、数日前の時のような、滾り煮え立つ気迫に満ちたものではなかった。
テュロンも、お爺さんも。どこか、楽しげに、それでいながら真剣に。きらきらした輝きと活気に満ちた瞳で、互いを見据えていた。
「用意……始めて!」
聖務官さんの号令一下、二人の汲んだ手に力が漲った。
猛り狂う獣たちが咆哮するような、凄まじい密度の空気が重く分厚く膨れ上がったのが数日前の試合。
だが、――違う。今の、この試合はそれとはまったく異なっていた。
陽光の中、桜の花びらがふんわりと踊る薫風が吹いたような。
そんな柔らかく穏やかな空気が、一陣、舞った。
ことん。
小さな、静かな音がした。
あまりにも落ち着いた、優しい音が。
それは、勝負の決まった音。
――テュロンのお爺さんの手が、台に付いた音だった。
あ、と、地龍族の人たちの口がぽかんと開く。
テュロンとお爺さんの顔色は共に蒼褪め、息を荒げており、その眉間には汗が光っている。今の一戦が、内容としては、静かな中にも白熱したものであったことを、それは物語ってはいた。
けれど、二人の表情は晴れやかで、口元には笑みが浮かんでいる。
「ははは! 見事じゃ、テュロン。負けたのう。良い脱力であった」
「お爺さまも、さすがでしたわ」
快活に、二人は笑いあう。
テュロンが、今度は勝てた理由。それを、お爺さんはさすがに見通していた。いや、おそらく、この部屋に入ってきた彼女を、一目見た瞬間にわかったのだろう。
テュロンの身体から、すべての余計な力みが消えていたことを。
数日前にお爺さんと戦った時。そして、私と試合をした時は、テュロンの全身に力が漲っていた。それは、メイアの「眼」が見た通りだ。
だが、それではダメなのだ。
余計な力を、余計な場所に巡らせていては、その分の力が無駄になるだけではない。それどころか、十分な力さえ出せないことになりかねないのだ。
とても単純化した話をすれば、10の力があるとしても、縮める筋肉に7、伸ばす筋肉に3の力を込めてしまっては、プラスマイナスで4の力しか出ない。
縮めるなら縮める、伸ばすなら伸ばす、その分だけにすべての力を込めて初めて、全力を振るうことができる。
いわゆる脱力という態勢の意味のひとつは、そういった部分にもある。
テュロンは、数日前にお爺さんと戦った時、そして私と試合した時には、その力配分のバランスが崩れ、無駄な力を全身に込めてしまっていた。だから、負けたのだ。
テュロンが理解したという、負けの『理由』とはそれだ。
だが、その『理由』を招いた『原因』は何か。
それは、やはり、精神的なところにあったのだろう、と思う。
私は、笑い合うテュロンとお爺さんの姿を見つめた。
二人の笑顔の残響が消えぬ間に、しかし、テュロンはふと真顔になっていた。
彼女の手は、まだお爺さんの手を握ったままだ。
「――お爺様の手、ごつごつしていらっしゃいますのね。大きくて、厚くて、しっかりしていて。……これまで、気が付きませんでしたわ」
「ん?」
「この手が。ずっと、私たちの一族を。そして私たち家族を。護ってくださっていた、手なのですわね」
テュロンは、きゅっとお爺さんの手を握りしめたまま、眼を上げた。
澄んだ栗色の瞳に、ほのかに揺れる熾火のような温かさを宿して。
「お爺さま……今まで、私を導いてくださって、ありがとうございます。そして、わがままを言ってしまって、申し訳ありません」
握っていた片手にもう片手を添え、両手でテュロンはお爺さんの手を包み込んだ。
お爺さんは黙したまま、テュロンを見つめ続けている。
「ですが、私はどうしても、自分の夢を追い続けたいのです。見知らぬあの塔の果てに何があるのかを。それが一族の教えに反することだということはわかっておりますわ。ですから、許していただけるとも思いません。それでも私は、……私は……」
「よい、テュロン」
言葉に詰まったテュロンに、お爺さんは穏やかに言い、彼女の小さな手を今度は自分の大きな手で包みこんだ。
「確かに、許せはせぬ。じゃが、それでもそなたはわしの可愛い孫じゃ。そなたの夢を果たすがよい。果たしてから、戻ってきて、それから一族の皆に改めて詫びるがよい。その時にそなたが一族に受け入れられるかどうかはわしにはわからぬがな。石もて追われるかもしれぬ。それでも、その覚悟はあるのじゃろう」
「はい、お爺さま」
きっぱりと言い放ったテュロンの目から、たった一滴、零れた、涙。
その潤みを、お爺さんは愛しげに見やった。
「そなたの涙など、見たのはいつ以来じゃろうな。そなたは一族を捨てはしておらぬ。儂のために、そして一族のために、流す涙を、そなたはまだ持っていてくれる。今はそれだけでも十分じゃよ、テュロン」
こくん、と。
テュロンは、ただ無言で、頷いた。
饒舌な弁巧者のテュロンが、ただ黙って。
その沈黙の中の溢れる感情の渦は、いつもの千言万語にも増して、彼女を見つめる私たちの胸に届いていた。
偶然ながら、ここのところ、私たちの周りでは、それぞれの「家族」に関する出来事が続けざまに起きていたのだった。
アンジェは、家族の仇であるレグダー男爵を倒すことができ、その無念を晴らした。
メイアは、育ててくれた里長さんたちと聖王祭で出会い、腹蔵なく語り合うことができた。
ラフィーネさんは、亡くなったと思っていたお姉さんの生存を知り、無意識下で彼女を苦しめていた罪の想いを昇華することができた。
そんな各人の「家族」に関する出来事の数々は、身近でその光景を見続けていた仲間たち相互にも強く影響を与えただろう。
特に、家族を捨ててきたテュロンには。
彼女は、地龍族の掟を破り、一族を捨て、故郷を捨て、家族を捨てて私の元へ来た少女だ。
テュロンにはもちろん、それを為すほどの強い鋼の意志と不退転の覚悟があり、何よりも万難を排しても成し遂げたい夢がある。
テュロンのそんな強さは、確かなものだ。
だが同時に、テュロンもやはり、一人の女の子。
家族を捨てることの辛さや痛み、そして哀しみ。
それはテュロンの中で静かに、少しずつ反響に反響を重ねていき、増大していっていたのだろう。
そして、仲間たちの間に起きた「家族」の話が、テュロンの傷を気づかぬうちに加速させていったのではないだろうか。
その不安定な精神が、さらに揺れるきっかけになったのは、やはり。
「やはり……あの、ご主人さまからいただいた斧のこと、だったのかもしれませんわ」
テュロンは、林の中で私と抱き合った後、ぽつりとそう認めたのだった。
「家族を捨ててきた私にとって、残されたのはご主人さまとの絆でした。しかし、その絆を象徴するものであった、あの大斧が砕けてしまったことで、私の心は、自分でも思っていた以上に追い詰められていたのかもしれませんわね。それがきっかけで、私は平静を失い、お爺様に負けてしまうところでしたわ」
うん。
斧が砕けてからのテュロンは、やっぱりちょっと、昂ぶっているようなところがあったものね。
「過去にこだわらない、などと言っておいて、恥ずかしいことですが」
「ううん。過去にこだわらないことと、捨て去って見ないふりをしてしまうこととは、きっと違うんだと思うわ、テュロン」
「見ないふり……そうですわね……私の姿勢は、今まで確かに、そうだったのかもしれませんわ」
頷くテュロンを見ながら、私の中で忸怩たる思いがこみ上げる。
過去を――故郷を捨てて新しいこの世界に飛び込んできたというのは、まさに私自身のことだからだ。
でも、そんな私だからこそ、テュロンに言ってあげなければならないことなのだとも、思う。
その言葉を、私自身に対しても言い聞かせるように。
「捨てるのではなく、かといって縛られるのでもない。そんな向き合い方を探したいわね」
「はい、ご主人さま」
林の静かで清冽な空気の中で、テュロンは私の言葉を胸に抱きしめ、可憐に微笑してくれた。
そんな彼女への愛おしさが、私の胸にも大きく湧き上がっていた。
「さて、テュロン」
「はい、なんでしょう、お爺さま?」
勝負が終わり、テュロンは改めて、正式に私の奴隷であることが認められた。
テュロンのお爺さんも、そしてお付きの地龍族の人たちも、それを承認してくれたのだった。
その手続きが終わったところで、テュロンのお爺さんは改めて、テュロンに向き直る。
「わしがそもそもこの聖都に来たのは何の為であったか、もちろん覚えておろうの?」
「はい、一族の祝祷の儀式のためでございましょう?」
「そうじゃ。でな、その祝祷自体は先程終わっておる。地龍族先祖伝来の宝物に、祈りを捧げていただく儀式はのう」
言うと、お爺さんは、傍らに大事そうに置かれていた、大きな包みを指し示す。綺麗な白い布が被せられた、なんだか長い形のものだ。
「受け取るがよい、テュロン。それはそなたの預かるべきものじゃ」
「お、お爺さま! しかし……よろしいのですか!?」
驚愕して目を見開くテュロンに、お爺さんは髯を揺らして大きく哄笑した。
「そなたはわしに勝ったな、テュロン。すなわちそなたは一族で最強の座を名実ともに手に入れたのじゃ。そして、その宝物は、常に一族最強のものと共にあるべきもの。であれば、そなたがこれを預かることになんの不思議があろうか。これぞわが知性の導く論理的な結論じゃよ」
お爺さんの言葉を受け、テュロンはまじまじとその「宝物」に目を落とす。そして、やや緊張した手つきで、被せられていた布をそっと取り除いた。
声にならない吐息が、テュロンのみならず、私たちの口からも漏れる。
そこに横たわっていたのは、神々しい輝きの中に重厚な存在感を示すもの。
――巨大な一振りの、大斧だった。
……これが、地龍族の宝物なのか。
その巨大で分厚い刃は冷え冷えとした凛然たる光沢を放ち、強靭にして鋭利な質感を周囲に振り撒いている。柄もがっしりした黒光りのする金属で作り上げられているようで、金色の文様がその周囲を走って飾り立て、美しいその威容を創出していた。
おそらく、聖遺物を素材として作られているのではないだろうか。確かに、宝と呼ぶにふさわしいものだった。
テュロンは斧を手に取り、軽く一閃する。
それだけで巻き起こった刃風は、冷たい威圧感を備えた音を立て、私たちの頬を撫でて過ぎゆく。
「……お爺さま……!」
「古より伝えられし我が一族の至宝。そして今は、そなたの未来を切り開くべき刃じゃ」
お爺さんの声に、テュロンはしっかりと頷いていた。
もちろん、テュロンと一族の人たちが和解できた、と言うほど単純な話ではない。
テュロンが掟を無視しているのは変わらない事実だし、それを許さないとお爺さんもはっきり言った。
けれど、それでも。
それでも、心を触れ合わせ、想いを伝えあうことができたということ。
それは、テュロンにとって、まぎれもない安らぎと幸福に、違いなかった。
その夜。
私の腕の中で甘えてくるテュロンを可愛がりながら、私の胸の中に揺れる一つの想いがあった。
過去との付き合い方。過去との向き合い方。
私は、どうなんだろう。
ちょん、と、そんなことを考えていると、ほっぺたを突っつかれた。
「ご主人さま、どうなさいましたの? なんだか難しいお顔ですわ」
「ん? ふふふ、あなたをどうやっていじめて……可愛がってあげようかなって考えてたとこ」
「……今、いじめて、っておっしゃいましたよね?」
「気のせいよ」
んもう、と苦笑して、テュロンはぺちんと私の胸を叩く。
そんな彼女の、幸せそうな顔を見ながら、私は改めて思う。
この世界に来たこと自体はもちろん良かったと思っているし、何度同じ機会を得ても同じ選択をするとは思うけれど。
でも、この世界に来たからそれでおしまい、ではなくて。
この世界に来たからこそ、過去のこと、改めてもう一度考えることも、必要なのかもしれないな。
それが未来のためにも、きっと。
そうよね、
――璃梨。




