過去と今
白銀の雨が降った。
煌めく輝きが宙空に無数の光跡を引いて大地に降り注いだのだ。
その閃光は、鋼。鋼の欠片。
鋭利で強靭な刃が、微塵に砕けて散った、その一瞬だった。
私たちは思わず息を飲む。
その砕けた刃は、テュロンの振るった大斧のものだったからだ。
『塔』の25階層。
そのクリアを目前にした私たちの前に立ちふさがったのは、巨大な純白の守護獣。カメの外見を模した超常の獣だった。
全長で7、8mほどはあろうという巨体に獰猛な顔つきのそのカメは、口からプラズマ火球を吐き、回転しながら空を飛んでもおかしくないんじゃないかというくらいの圧倒的迫力を持って私たちに迫ってきた。
動き自体はやや鈍重だったけれど、何よりも手こずったのは、聳え立つ巌のような甲羅に起因するその防御力だ。
非力なメイアの弓などもちろん通用するものではなかったし、キュリエナの魔法鞭も決定的なダメージソースになるほどではない。ラフィーネさんの火炎魔法はある程度の効果があったものの、アンジェの風魔法の方は、十分な打撃を与えるのはなかなか難しいようだった。
私たちの隊って、防御力全振りの敵を相手にした場合には、意外に決定力不足が目立つのかもしれないなあ。今後の課題かも。
しかし、無論、私たちも為すすべなく指をくわえていたわけではない。
守護獣の動きはさほど速くはなく、ゆえに、メイアは『眼』によってその行動を先読みし、私たちに指示を出してくれることが可能だった。メイアの声に応じ、アンジェとラフィーネさんはそれぞれの魔法によって相手の動きを制し、牽制。
そしてキュリエナは、いつもの皮肉気な微笑を浮かべて、舞うように踊るように守護獣の前に進み出る。彼女をめがけて猛然と噛みつきかかった守護獣の咢から、キュリエナは華麗に身を翻し、ぎりぎりで回避した。すなわち守護獣の首は大きく伸び切り、今や私の前に無防備にさらされている。
私の不知火から黒い剣閃が走り、守護獣の首根を深々と斬り割ったのは次の刹那を待たなかった。
AAAAAGHAAAAAAA!!
噴水のように体液を飛び散らせてのたうつ守護獣めがけ、テュロンがとどめを刺すべく、大上段に振りかぶった大斧の渾身の一撃を叩き込む。
「とおおおりゃああっ! ですわーっ!!」
轟と風を巻いて唸った大斧の一閃は、間違いなく守護獣の首を両断した、……はずだった。
だが、予期せぬ偶然という名の悪戯っ子はどこにでもひょっこり顔を出すものだ。
巨大なカメがメイアの予期したとおりの動きをし過ぎ、私の斬りつけた傷が予想外に深く入って相手を激しく悶えさせ、また同時に、アンジェとラフィーネさんの牽制の魔法が想定よりも効果を上げ、さらにキュリエナの囮としての挙動が巧みすぎて、――つまり、色々と上手くいきすぎて。
逆に、テュロンの踏み込むべき間合いが微妙に狂ってしまったのだ。
結果、地龍族の少女がその全力をもって振るった斧は、守護獣の首を叩き切るのではなく、僅かにそこから外れた場所に吸い込まれることとなった。巨大な頑強な甲羅に。
音と光が競演を見せる。
硬い煌めきが無数に舞い散り、悲鳴のような甲高い音が木霊して。
――テュロンの大斧は、微塵に砕け散っていた。
守護獣の甲羅がそこまで強靭であったということ。
また、テュロンの間合いが狂わされ、技ではなく、ただの力任せの一撃に近いものになってしまっていたこと。
そして何よりも、ここに至るまでの無数の戦いによって、斧には目に見えぬ疲労が蓄積していたこと。それらが複合してこの結果を引き起こしたのだろう。
思わず私たちは目を見開き、言葉を失った。
……テュロン本人以外は。
テュロンだけは、その凛とした眉毛を微かにぴくりと動かしただけだった。
狂乱した守護獣が、宮殿を支える大柱のようなその巨大な脚を振り上げ、目前の小さなテュロンを踏みつぶそうとする。
だが、テュロンは得たりと紅い舌をちろりと出して唇を舐め、武器を失った両手を広げて大気を削りくるようなその一撃を待ち構えた。その瞳は縦に割れ、額からは二本の角が屹立している。地龍族の『真態』だ。
ずん、と塔そのものを揺らぐような衝撃が響き渡り、テュロンの足元の大地が大きくひび割れる。
だが、テュロンは依然、そこにいた。
守護獣の巨大な脚を、しっかりと、がっきと受け止めて。
ぎらり、とテュロンの褐色の瞳が光る。
「でええええりゃあああああ!! ですわーっ!!!」
万軍の鬨の声かと思えるほどの大音声を木霊させ、テュロンは。
守護獣の脚を抱え込んだまま、その巨体を宙に持ち上げたのだ。
単に相手の脚を上げただけではその身体が宙に浮きあがることにはならない。いや、それだって十分以上に凄まじいことなんだけど。でもテュロンは、脚を受け止めつつも入り身を取り、角度を考慮しながら相手の骨格を極め、同時に反動を付けつつ驚異的なバネで相手を持ち上げたのだった。
高々と一直線に持ち上がった守護獣は、その一瞬の後、脳天から大地に向かって轟然と叩きつけられた。なんというか、垂直落下式のブレーンバスターかなんかみたい。
あまりにも巨大な体とそれに伴う大重量を自分自身で喰らった守護獣は、山の崩れるように凄まじい勢いで、文字通り砕け散った。
守護獣が光になって消えていき、その後には、大ぶりな宝石が一つ残った。
聖遺物。このあたりの階層にもなると、聖遺物のドロップ率もかなり高い。
「すごいよ、テュロン姉さま!」「見事でした、テュロン!」「やったわね、テュロン」
私たちは口々に賞賛しつつ、彼女に駆け寄った。
テュロンはさすがに薄汗をにじませ、多少肩で息をしていたものの、得意げに栗色の縦ロールをふぁさっと靡かせ、悠然とした態度で私たちを迎えた。
「問題ございませんわ。ですが……」
テュロンは少し眉を曇らせ、私を見た。
「申し訳ございません、ご主人さま。武器を失ってしまいましたわ」
「あなたが謝ることじゃないわ、気にしないで。不可抗力でしょう、今のは。それに、前衛の私とあなたはそれだけ負担も大きいんだし。斧はまた買えばいいわ。今出た聖遺物を聖殿に奉納すれば、相当の金額になるでしょう」
「……はい、ありがとうございますわ」
ん?
なんだろ。ちょっと、テュロンの言い方に引っかかりを感じた。
彼女の瞳は微かに伏せられ、そして、ちらりと動いて、大地にばらまかれた、かつて斧だったものの残骸を視界に入れていた。
「ま、とにかく今日はここまでよね。地上に戻りましょ、ラツキ。それで後はお酒、お酒」
「あ、いいですねえ。今夜は負けませんよー」
のんびりと言いかわしているキュリエナとラフィーネさんを苦笑しながら眺めつつ帰途に就こうとした私に、そっとささやきかけたのは、アンジェだった。
「ご主人さま。あの、テュロンなのですけど。気遣ってあげてください」
「え?」
問い返した私に、アンジェは、他のものに聞こえないように抑えた声で答えた。
「もしかしたらですけど、落ち込んでいるかもしれないと思います。斧を失ってしまって」
「斧を……? でも、テュロンは斧がなくても強いし、それにあれは特に謂れのある品とかじゃなく、街の武器屋さんで普通に買ったものよ」
「はい。そうです。買っていただいたものです。……ご主人さまに」
アンジェの声は、しっとりと濡れて、愛おしむようだった。
その言葉に、私ははっとする。
「たとえば、私の今の武器は光芒剣です。ですが、これまでに使っていたあの白い杖を、私は今でも大事に部屋に飾らせていただいています。大切なものですから。……ご主人さまに、初めて買っていただいた宝物ですから」
アンジェは胸をそっと押さえ、微かに優しく笑みながら、私の目を見つめていた。
そっか。
私からの、初めての贈りもの。そうなるわけか。
変哲のないただの武器武具でしかなくても、そこに込められた想いというものがある。
ま、それが行き過ぎると、レグダー男爵みたいになっちゃうのかもだけど。でも、品物を通じて私を――私への想いを抱いてくれているのなら。
もしかしたら、テュロンにとっても、それは哀しい喪失だったのかもしれない。
本人は、今は平然とした様子で、メイアと仲良く話をしながら歩いているけれど。
「わかったわ、アンジェ。ありがとう」
「いえ。もし私だったら、と思っただけで、もしかしたらテュロンは気にしていないかもしれませんけれど。あの子は、強い子ですから」
アンジェとテュロン、やっぱり仲いいな。私たちの中では最初期のメンバーだし、年も近いしね。
私は微笑ましい思いで胸が満たされていくのを感じていた。
「ではご主人さま、私たちはお先に」
「ええ、お願いね。じゃ、テュロン、行きましょうか」
「はい。御面倒をおかけして申し訳ございませんわ」
郊外と繁華街への分かれ道。
アンジェたちを先に屋敷へ返し、私はテュロンとともに、武器屋さんに寄って新しい武器を探すことにしていた。
テュロンと一緒の時間を過ごしてください、というアンジェの配慮だった。
手を振りながら帰っていくアンジェたちを見送った後、ふうとテュロンは息をつく。
「……まったく、アンジェも気を回し過ぎですわ。それがあの子のいいところではございますが」
「……あ。わかってた?」
テュロンの顔を覗き込んだ私に、彼女は苦笑して細い肩をすくめた。
「我が輝ける知性をもってすれば……と申しますか、そうでなくともわかりますわ。ですが、それはアンジェの考えすぎです。私は過去に囚われたり時を振り返ったりはしませんわ。壊れてしまったものは壊れてしまったのですし、それにいつまでも心を縛られていても仕方がございません」
うーむ。なんというか、さすがにテュロンはいい意味でドライだな。割り切りがしっかりしてるというか。そんなには斧のこと、気にしてなかったのかな。
しかし、そこまで言って、テュロンはふと悪戯っぽい笑みを浮かべて私の瞳を覗き返した。
「……ですが、せっかくアンジェに作っていただいた機会です。利用させていただきますわ」
言うと、彼女は私の腕を取り、きゅっと自分の胸に抱きよせ、すがりついた。
わ。
ちょっと驚いた私に、テュロンは妖艶に微笑みかける。とろりと滴り落ちる蜜のような笑顔。
「ご主人さまと二人きりでのお出かけは、初めてですものね」
あ、そっか。
アンジェとは何度か二人きりでデートしたことあったけど、テュロンとはそういうこと、なかったかもしれない。
二人きりで夜を過ごしたことは何度もあったけど、でも、やっぱりそれとは違うものね。
別にテュロンを大事にしていなかったわけではなく、これまではレグダー男爵という敵がいたために、アンジェを一人きりにはしておけなかった。だから必然的にみんな一緒に行動せざるを得なかった、ってことではあるんだけど。
けれど、今は違う。みんなとそれぞれ、ちゃんと向き合ってあげる時間も持てるんだ。
でも、それはそれとして。
どちらかといえばあまりがっついてくる印象ではなかったテュロンが、こうして積極的に私を求めてきてくれる、というのは、嬉しい驚きであり、楽しい意外性でもあった。
えへへ。ちょっと、ときめいちゃう、かな。
私は微笑みを投げ返して、空いている方の手でテュロンのふんわりとした髪を撫でる。
「そうだったわね。じゃ、ゆっくり過ごしましょうか。二人きりで、ね」
「ええ、ご主人さま。楽しい一日にいたしましょう。武器を買うのは最後でもよろしいですわ」
腕を組みながら、私たちは繁華街へ向かって緩やかに歩を進め始めた。
――が、その時。
「失礼いたしますぞ。少々、ものをお尋ねいたしたいが、よろしいですかな、そこの登攀者のお二方」
後ろから掛けられたのは、深みがあってよく響く男声の低音。
え? と思って振り返ろうとするより早く、その声は続けた。
「何故私があなた方を登攀者と見抜いたのか。そうお思いのことでしょう。いや、お隠しになることはない。すべてはこの鮮烈なる知性の導きによるもの。まずはその見事な二振りの剣は一般市民がお持ちになるようなものではなく、また武器を買うというお話もなさっておいでだったことから……」
……なんか、この展開知ってるんだけど。
そう思いながら改めて振り返る。
そこに立っていたのは、老人。
まぎれもなく年振りてはいるが、細身でありながら背筋もピンと伸び、いまだに力強さを感じさせる矍鑠とした風体を保った老人だった。
いわゆる三牙の髭、つまり口髭・頬髯・顎鬚は茶色で艶があり、いずれも綺麗に整えられ、太い眉の下に鋭い眼光といった、風格を感じさせる容姿。長めの外套を羽織ったその服装も、汚れ一つなく整えられており、落ち着いていながらも身分の高さを感じさせる。
もし私の前の世界にこの人がいたなら、シルクハットに片眼鏡をかけ、ステッキを片手にパリの通りを歩いてるのが似合うような、そんなお爺さんだった。
「つまりですな、そのような観察と論理の帰結から……」
「……このようなところで、何をなさっておいでなのです、お爺さま」
驚愕の中にも呆れたような響きを籠めたテュロンの言葉が、老人の言を遮った。
……って、ええ!?
お、お爺さま!?
「おお、その声その姿、まさしくテュロンではないか。誰ぞ登攀者を見つけ、そこから辿ってそなたを探そうとしていたのだが、このような場で出会えるとは、まさに塔のお導き。我が敬虔なる信仰の証しともいえようか」
テュロンとは対照的に、その老人は上機嫌の様子で目を細めつつ、鬚を撫でる。
お爺さまって、つまりその、テュロンのお爺さんなのか、この人。
確か、地龍族の中では、テュロンの次に強い人じゃなかったっけ。
あー、なんだろう。細身ながら力強さのある容姿、茶色の髪と瞳、そしてこの饒舌さとノリ。ほんとにテュロンのお爺さんって感じだ。
「では、こちらの方がそなたの主殿かな。そなたは登攀者の随伴奴隷となったと聞いておる。その情報から我が知性をもって推論すると、その可能性が高いと儂は判断する。どうじゃな、当たっとるじゃろ? これぞ我が知性の……」
「お話が長いですわお爺さま。……ご主人さま、恥ずかしながら我が祖父にして地龍族の前族長、ゾーディックですわ。お爺さま、私の主、ラツキ様です」
あ、あはは。テュロンに話長いって言われちゃうか。
そのテュロンのお爺さんは私をまじまじと見つめ、感嘆の表情を浮かべると、手をぎゅっと握ってきた。
「ふうむ。お美しい御方とは聞いておりましたが、いやまさにこれは聞きしに勝る。何事も自分の目で見てみぬと確かなことはわからぬもの。夜の闇を幾重にも束ねたようなその深い漆黒の髪と瞳、夜明けの雪原のような滑らかに輝く白い肌、これはまさに口説を極めての賛美に値しますな。加えて、あなたの武術の腕、その見事な手練のほどは、立居振舞からも想像がつきますぞ。このようなお方にこれまで我が孫を預かっていただけたこと、感謝申し上げねばなりますまい」
「は、はあ。い、いえ、その、どうも」
へどもどしてよくわからない返事を返すしかない私。ペース取りづらいな!
テュロンもほっとくと大抵一人で突っ走っちゃう子だけど、間違いなくこのお爺さんの薫陶を受けて育ったからだと思う。
……って、あれ?
「これまで預かってくれた」って……?
テュロンも同様に引っ掛かりを覚えたらしく、険しい目つきをしてお爺さんに向き直る。
「お爺さま、どういうことですの? 我が知性の輝きは、今お爺様がおっしゃった言葉の端に一定の意味を感じましたが」
「簡単なことじゃ」
と、お爺さんは珍しく、短く簡明に答えた。
「儂はそなたを連れて帰りに来たのじゃよ、テュロン」
急遽入った、とある料理屋さん。その奥の小部屋を慌ただしくも一室借りて、私とテュロンは席に着き、改めてお爺さんと向かい合っていた。
いつまでも道端で立ち話というわけにもいかない。ましてやそれが、テュロンを連れて帰る、などという重大な話ならば。
驚愕と困惑と混乱に襲われながらも、私たちはひとまず場所を移したのだった。
「それで、お爺さま。改めてお話を伺いますわ。……私を連れて帰るとはいかなる意味ですの?」
「同じことを繰り返させるとはそなたらしくない知性の曇りじゃの、テュロン。まあよい。わしはそなたを、地龍の里へ連れ戻しに来たのじゃ」
尖った声のテュロンに対し、お爺さんの方は、髭を捻りながらも泰然たる態度を崩さない。その眼光は静かでありながら貫くような威儀をも感じさせた。
「そなたと、そしてそなたの主殿たちが行った業績のいくつかは、里にも届いておる。見事なものじゃ。ならばこそ、もはや、十分に功成り名遂げたと言っても良かろう。また、地龍族としては不本意なことながらも、尊きかの塔の、相当の階数まで到達したのであろう。……ならばもはやよいではないか。潮時じゃ。一族の元へ帰って参れ」
「お爺様の方こそ、理にかなっていない、お爺さまらしくないお話ですわ。私はご主人さまの、ラツキ様の奴隷です。その私が自らの一存で自儘に主の元を去ったりすることなどできませんわ。主に背いたとなれば、この胸の誓刻による制裁も下されるのですわよ」
テュロンが自らの薄い胸をとんと叩いて唇を尖らせる。が、お爺さんは動じた様子も見せず、深い色の瞳を楽しげに揺らした。
「誓刻の制裁か。何、問題ない。我慢せよ」
「……は?」
「痛みが襲うのであろう。耐えればよいではないか。気合と根性でガーッとグワーッと頑張るのじゃ。それだけのことじゃ」
「お……お爺さま!? あのですわねえ……!」
わー、そこで精神論持ち出してくるのか、このお爺さんは。テュロンが目を白黒させて、その滅茶苦茶な理屈に反駁しようとする。が、お爺さんは、がっはっはと、髭の中から大きな口を開けて笑った。
「冗談じゃ。もちっと心に余裕を持たねば、知性の輝きにも陰りが出るものぞ、テュロンよ。……じゃが」
口髭を捻りながら、お爺さんは続けた。その口調は不意に真面目なものに切り替わっていた。
「確かに、そなたの奴隷という身分は聖殿によって根拠づけられたもの。本来ならば、当然、儂もそなた自身も勝手に身の振り方を考えることは出来ぬ……主であるラツキ殿の御同意がなければの」
ちらり、と私を見たお爺さんに、真正面から視線を返し、私はきっぱりと答えた。
「申し訳ありませんが、御老体。私にとって、テュロンはかけがえのない大切な存在です。どなたであってもお譲りする気はありません」
私の隣でテュロンが目を輝かせ、頬を染めて、嬉しそうに大きく頷く。
当然の話だ。かつてアンジェを奪われないために戦ったのと同じ。テュロンもまた、私の掌中の珠なんだ。この手から失ってたまるものか。
もちろん、お爺さんにとって、実の孫が奴隷という立場になっているのは、色々と思うところがあるのかもしれない。
でも。それでも、私はテュロンと離れるなんてことは考えられない。身勝手であろうとも。
お爺さんは、その私の言葉に、柔らかく微笑んだ。
「孫は良い主を得たようです。その点に関してはありがたいことと思うております。ですが、こちらもそう簡単には譲れませんでな。それに、たった今、「本来ならば」と申し上げた通り、ラツキ殿とテュロンの、主と奴隷という立場も、実は絶対ではございませんのじゃ」
「え?」
意味がつかめず、私だけではなくテュロンもまた眉根を寄せ、不審げな表情になる。
お爺さんはそんな私たちに答えた。
「テュロン。そなたは、16歳を迎え、成人したために、自分の行動を自分で決められることとなった。だからそなたは聖都へ赴き、自分を志願奴隷として売り込んだのであったな。だが、成人であるということは、年数で測るものだけではない。身も心も大人に相応しいものとしての儀式を経る、ということじゃ。そうでなければ、本来は成人したとは認められぬ」
いわゆる通過儀礼的な考えか。自動的に成人するのではなく、一定の儀礼を通過して初めて人生の次のステップに進むことを許されるという。
「……それがどうかいたしましたの、お爺さま? 私は成人の儀式を確かに……」
「――そなたは儂を倒しておらぬ」
……え?
何その、拳法漫画とかなんかみたいな話は。
儂を越えてゆかんか、このバカ弟子が! みたいなことなの?
「儂はそなたの成人式の際、そなたと力試しをせんかった。成人式の数年前に、儂はそなたには既に負けて負ったからな、今更するまでもないと思うたのじゃ。だが逆に言えば、部族代表の中で、儂にだけは、そなたは正式な16歳の、成人の承認を受けておらぬのだ」
「そ……それは……屁理屈ですわ、お爺さま!」
顔色を失ってテュロンが叫ぶ。よくわからないが、まさか、テュロンが何かの理屈で後れを取ったというのだろうか。
それから少しずつ、テュロンとお爺さんの話を拾い、またリサーチスキルを使って地龍族の慣習を検索しながら、ようやくその問題の全体像を私は纏めることができた。
それによると。
地龍族は16歳で成人する。だからテュロンは自分の行動を自分で決められるようになり、自分を志願奴隷とすることができたのだ。
だが、厳密に言えば、16歳となったことで自動的に成人資格が付与されるわけではなく、一定の通過儀礼が必要らしい。それが、力試し。部族の代表者たちと腕相撲をしてみて、一定の力量があると認められることが条件なのだそうだ。
といっても、事実上はただの儀式で、本気ではなく軽く勝負をしてみて、それなりの力があると認められればいいというものらしいが。
で、その成人の儀式の時。テュロンのお爺さんは、部族の代表者たちの一人であるにもかかわらず、彼女の腕試しに参加しなかった。
テュロンは6年前にすでにお爺さんを、これは本気の腕相撲で破っている、という話は以前も聞いたことがある。彼女が仲間入りしてすぐの時だったかな。
まあそんなわけだから、今更試合をするまでもない、テュロンは既に自分を越えている、と、お爺さんは立ち合わなかったのだ。
けれど。
それはつまり、厳密に言えば、テュロンの成人の儀式の正当性に、一点の瑕瑾を残したことになるのだった。
普通なら誰も気にしない、小さな、どうでもいいとさえいえる難点。
しかしお爺さんは今、正確にその急所を突いてきた。
お爺さんとテュロンは力試しをしていない。だから、成人の儀式は無効。だから、テュロンは成人していない。だから、行動を自分では決められない。だから、自分を志願奴隷とはできない。だから、私を主とし、奴隷となったテュロンの誓いは成立しておらず、無効である――。
「――無効であるから、そなたを連れ帰ることも可能なのじゃよ、テュロン。これは聖殿に正式に申し立てても、おそらく通る案件じゃ。それで誓刻は解除してもらえるじゃろう」
「……でしたら、今ここで、勝負を致しましょう。それで私がお爺さまに勝てば済むことですわ!」
物静かに言い放ったお爺さんと対照的に、激昂した様子でテュロンが席を立つ。
ちょ、ちょっとテュロン、落ち着いて、と言いかけた私の言葉も、彼女には聞こえないようだった。
お爺さんはそんなテュロンの姿を見、微かに笑むと、私を見た。
「テュロンはあのように申しておりますが、いかがですかな、ラツキ殿?」
「やらせてくださいませ、ご主人さま!」
お爺さんの言葉に被るようにテュロンが声を張る。
どうしよう。
こんな場所で野試合的にやらせてもいい勝負なんだろうか。
ラフィーネさんあたりに頼んで、正式に聖殿に仲介に立ってもらったほうが良くないだろうか。
逡巡している私に、テュロンはなおも重ねて言う。
「ご主人さま、私は何年も前にお爺さまに勝っておりますわ。それに、いやなのです。私とご主人さまとの誓いが不成立だったなどといわれては――これまでの、ご主人さまと私との間のことを、否定されるような気がして」
彼女の目は鋭く、熱く滾るものがその奥に輝いていた。
お爺さんは対照的に、テュロンのその言葉に、やや瞳を陰らせる。が、彼は何も言わなかった。
私は眉間にしわを寄せる。
テュロンが、私たちの間のことを大切にしてくれて、そのために勝負をしたがってくれているのは嬉しい。
でも、私は彼女の中に、何か、焦りというか、不安定なものを感じてもいたのだ。
「ご主人さま!」
しかし、テュロンはなおも言い募り、私の手を握った。ぎゅっと籠められる力が私の手を締め付け、そこに込められた意志の、不退転の強さを物語っていた。
「……わかったわ。テュロン。頑張って」
私が頷くのを待っていたように、テュロンはお爺さんに向き直った。お爺さんも、無言で席に座り直す。
二人は同時に片肘をつき、卓の中央へ手を差し伸べる。
二本の角が額の両端から伸び行き、瞳孔が細長く変化していく。地龍族の真の姿だ。
テュロンとお爺さんがそれぞれ纏う空気が鉄のように重くなり、軋んで悲鳴を上げるかのように凝縮されていく。
二人の地龍族は、烈日のような視線をかわした後、がしりと手を組みあった。
私の中にはまだ漠然とした不安とためらいがある。
しかし、いわゆる騎虎之勢というやつか。もう止めることはできない。
私は、しっかりと組み合わされたテュロンとお爺さんの手の上に自分の手を置いた。
「では、お二人とも、準備はいいわね? なら、用意……始めて!」




