指輪と恐怖
「……ふざけないで」
低く重く押し殺した言葉が私の肺腑から押し出される。
抑揚のない淡々とした声。それは私の平静さを現すものではなく。
極限を越えた激昂をこそ、現わしているものだった。
「苦し……ラツキ、苦しっ……!」
表情を歪めて私の手をパンパンと叩いたキュリエナに、私ははっと我に返った。慌てて彼女の胸元を絞り上げていた力を緩める。
「ご、ごめん、キュリエナ」
「けほ、けほっ。……まったく、もう。私のせいじゃないのに」
じろりと私を睨むキュリエナに私は詫びながらも、しかし、胸の中でぐつぐつと煮えたぎり沸き立つ感情を抑えきれない。
――ラフィーネさんが、犯罪を? それも、……それも、殺人?
そんな馬鹿な話があるか。何がどこでどう間違ってそんなことになったかは知らないが、とにかく一から十まで、いや一から百まで全部でたらめだ。
四か国会議に先立って開催された夜会。その席上で、古王国の外務卿が死んだ。いや、殺されたのだ。
だがよりにもよって、その下手人がラフィーネさんではないかと疑われているという。
「一応、私の聞き込んできた情報は」
と、キュリエナは話す。この話を真っ先に仕入れてきたのは、耳聡い彼女だった。
「あなたの聖務官……ラフィーネは、今のところあくまで重要参考人というだけよ。犯人とされたわけではないわ」
「それにしたって! それだっておかしいわよ!」
語気を荒げる私を、キュリエナは手を上げて、どうどう、と静めようとする。
「もちろん何の根拠もなく取り調べなんかされないでしょう。いくつか疑わしいところがあるから事情を聴かれてるのよ。……睨まないでよ、私がそう言ってるわけじゃなく、聖殿としてはそうなんだろうなって言ってるだけよ。それに、疑いはただの疑いに過ぎないんだから……今のところはね」
キュリエナはぎらつく私の眼光から目を逸らして肩をすくめると、情報を整理し始めた。
まあなんだかんだ言っても、聖殿なんて言う大それた場所に潜り込んで、ある程度の情報を探ってこられるというのは、彼女のさすがの手並みと言うしかない。
「ムグディフ外務卿の遺体に目立った外傷はなかったそうよ。遺体からは毒物の痕跡が発見されたというわね。加えて、彼が直前まで飲んでいた盃からも同じ毒物が微量に検出されたというから、これが死因だろうと聖殿は考えているようね。サンキアージュという植物から採れる毒よ」
その言葉に、テュロンが栗色の縦ロールをふぁさっと靡かせて頷いた。
「サンキアージュですか。確かに、その根の汁には毒性がございますわ。少量飲んだだけなら気分が悪くなる程度ですが、一定量以上服用すると、心ノ臓の働きを止めて死に至ることが知られておりますわ。さらに申せば、無味無色無臭で水に溶けやすいという性質を持っておりますわね」
あ、そういえば、テュロンを買った時に、彼女の口から聞いたことがあったっけ。テュロンは薬草学についても造詣が深いんだった。
これまでは、誰かが怪我をした時にはアンジェの聖魔法に頼っており、せっかくのテュロンの薬草の知識も、宝の持ち腐れになっていたけど。
「テュロン。一定量以上って、どれくらいなの?」
「そうですわね……あの外務卿様はなかなか恰幅の良い御方でしたから、それを考慮いたしますと……」
私の問いに、テュロンは少し考え込みながら口中で計算を始めた。そっか。体格によっても毒の効き方は違うだろうしね。
「そうですわね、量的には、この盃の、四分の一……いえ、三分の一位でしょうかしら」
テュロンは目の前にあった盃を取り上げて、示した。握り拳よりちょっと大きいくらいの大きさの盃だ。
「この盃に三分の一の量……意外に多いようにも思うわね」
訝しんだ私の言葉に、キュリエナも同意する。
「めんどくさい毒物よね。確か綺麗な花を咲かせるから、観葉に栽培されてる場合もあって、そういう意味では入手しやすい毒物とはいえるかもだけど。それだけの量を飲ませることが必要なら、あんまり暗殺に適してるとは言えない毒ね。もっと少量で効く毒がいくらでもあるのに、犯人はなんでそんな毒を使ったのかしら」
「一つの可能性としては、即効性の毒物だから、ということがあるかもしれませんわね。何せ、犯行現場は聖殿。治癒魔法の使い手が山のようにいる場所ですわ。絶命するまでに時間のかかる毒物ならば、すぐに治療されてしまうおそれがありますもの」
テュロンは立ち上がり、部屋を歩き回りながら考えを纏めつつ話し続ける。
「夜会のことを思い出しますと、あの外務卿様は、あまり味を楽しんだりするご様子はなく、運ばれてきた飲み物を一気にあおっていらっしゃいましたわ。そういった飲み方をされるお方なら、一気に致死量の毒を摂取してしまう可能性は高いと思われますわね。……ですが、別の問題がございますわ」
テュロンが顎に指をあてて考え込むのに、キュリエナもこくりと応じる。
「そうね。それがラフィーネが疑われている理由の一つよ。……決して少なくないその量の毒物を、あの厳重な身体検査をくぐって持ち込めるかしら? それができるとするなら、出席者ではなく、聖務官ではなくて? ということね」
「そんなの……聖務官はラフィーネさん以外にもいくらでもいたでしょう」
私が唸るように言った言葉に、けれどキュリエナは首を振る。
「ええ。でも、外務卿が倒れた時に近くにいたのはラフィーネだけよ。そして、外務卿に毒の入っていたと思われる盃を渡し、毒見をしたのもラフィーネ。これは本人も認めてるみたいだわ。……つまり、盃に一番最後に触れたのは彼女で、そしてなぜか彼女は毒見をしても平気だったのよ、まったくね。これが彼女が疑われてる二番目の理由」
「一口だけなら致死量ではございませんが、先ほど申しましたように、少量でも摂取したのなら、多少なりとも体調に変化は現れるはずですわね……」
「そして、もう一つ。詳しくはわからなかったけど、どうやらラフィーネには何か、過去に、外務卿に対して含むところがあった可能性があるとかいう話も出ていたわ」
だが、テュロンとキュリエナのそんな会話の後半部分は、ほとんど私の耳には入っていなかった。
その前の話で、私の心臓には殴りつけるような衝撃が与えられていたためだ。
まるで、全身が石化してしまったかのような硬直が全身を覆い尽くす。
毒見をしたラフィーネさんが。
まったく、平気だった。
だから、彼女は外務卿に盃を渡した。
――毒が、彼女には、効かなかったというのか。
つまり、それは。
私は、強張った筋肉を強引に動かして、ぎこちなく自分の手を見る。
左手薬指。
そこには、小さく光る指輪があった。
私がかつて、レグダー男爵邸を訪れた時、毒殺を警戒して、あのクソ電飾のところで作ってきた、EXアイテム。
……それは、毒を無効化する効果を有するもの。
この指輪は、あの時男爵邸を訪れた私たち全員が持っている。
私。アンジェ。そして。そして……
ラフィーネさん、だ。
まさか、私が彼女に渡した指輪の効果で、彼女には毒が効かなかったのか。
だからラフィーネさんは、毒が入っていると気づかずに、外務卿に盃を渡してしまったというのか。
そして、冤罪を受けた……。
「もし……もしよ。もし、ラフィーネさんが有罪になったとしたら、その時は……どうなるの?」
しわがれた老婆のような声を誰かが発した。
……誰でもない、私だけれど。
みんなが少し驚いた表情で私を見る。
ややためらいがちに長い睫毛を伏せながら、それでもテュロンが答えてくれた。
「そうですわね……。殺人、それも一国の最高級の閣僚を殺害したのですから……最悪の処分もあり得ると思いますわ」
深々と、私は自分の身体をソファに埋める。
座ってるのか、倒れてるのか、それもわからない。
死ぬ。死ぬのか。
ラフィーネさんが、死ぬ。
……私のせいで。
もちろん、打てる手は、あるのだろう。
ラフィーネさんには毒が無効だったのだということを私が申告することだ。
……なぜなら、私は異世界転移者で、彼女にはその私が与えた特別な指輪があったのだから、と。
そうだ。そうすればラフィーネさんは助かるのかもしれない。
そしてその場合、死ぬのは……
私だ。
異世界転移者である、という事実を明らかにすることは、私に課された唯一の、そして決定的な禁忌。そしてその禁忌を破った場合にもたらされるものは、免れようのない確実な、死。
かつて、私は一度だけ、その禁忌の制裁を受けかけたことがある。
あの時の、全身が内側から磨り潰され、引きちぎられ、焼き尽くされるような苦悶は、忘れようとしても未だに心の奥にこびりついて離れないほどだ。
まして、あの時はほんの冗談のようにかわされた会話で発動した程度の結果だった。
本当に、完全に私の秘密を暴露した時に与えられる苦痛となれば、あれ以上なのかもしれない。
……恐怖。
その名の化け物が、笑いながら私の心に鈎爪を立ててくる。
こわ、い。
怖い怖い怖い。
やだ。死ぬのは嫌だ。死にたくない。あんなに痛いのも苦しいのも、もう嫌だ。
それに。それに、死んだらもう、会えなくなる。
アンジェ。テュロン。メイア。キュリエナ。私の愛する少女たちに。
やっと巡り合えた、奇跡のような恋しい存在に。やっと掴みかけた、泣きたくなるほどの愛しさに。
でも、それでも。
私が黙っていたら、ラフィーネさんが。ラフィーネさんが、いなくなってしまう。この地上から、永遠に。
それも、冤罪という恥辱を受け、彼女の誇りを穢されたうえでだ。
私がこの世界に来てから初めて出来た友人。私の大切な、大事な、
――大好きな、ラフィーネさん。
いつだって私と一緒にいてくれた。私の傍に。
アンジェたちとは違った意味で、彼女は私にとってかけがえのない存在だった。そんな当たり前のことを忘れていたわけではない。けれど、いきなり目の前に突き付けられた、彼女の喪失という悍ましい可能性が私を嘲笑う。
ラフィーネさんを見捨てて、私は生きるのか。生き延びたとして、その先の世界に私はまだ幸福の園を見出せると思うのか。
わかんない。わかんないよ。どうすればいいの。どうすれば。
「ご主人さま……泣かないで、ご主人さま」
潤んだ声音のメイアの言葉に、私は自分自身が哭いていることに気付いた。
のろのろと顔を上げた私の目に、大きな澄んだ瞳に自分自身も涙をいっぱいに溜めたメイアの顔が映る。
「ご主人さまが泣いてると、僕もつらいよ。元気出して、ご主人さま。きっと、きっとラフィーネさんは大丈夫だよ」
「メイアの言う通りです、ご主人さま」
メイアに続き、アンジェが私の前に跪いて、私の手を取った。
きゅ、と握りしめたアンジェの体温は、驚くほどじんわりと温かく、私の体の中に沁み通ってきた。
「ラフィーネ様がそのような罪を犯す方ではないと、誰よりもご主人さまご自身がよくご存じのはずではありませんか。聖殿がラフィーネ様を信じないというのであれば、ご主人さまがあの方の傍らに立ってさしあげないと」
メイアとアンジェが私を案じてくれたその言葉は、少しだけ見方がずれてはいた。
彼女たちは、私がラフィーネさんに掛けられた疑惑に衝撃を受け、そして彼女が裁かれて命を奪われることを恐れているのだ、と思っているのだろう。
けれど、実際の私は、ラフィーネさんをそんな窮地に追いやったのが、他ならぬ私の贈った指輪だったのではないかという恐れ、そしてラフィーネさんと私のどちらかが死ななければならないのではないかという恐怖におびえていたのだ。
でも。
たとえ少しずれていたとしても、メイアとアンジェの言葉は、私の胸の奥深くに届いて反響した。私とラフィーネさんを共に純粋に信じてくれている彼女たちの言葉は。
「そうですわね……確かに、おかしいのですわ」
先ほどから黙考していたテュロンが、栗色の縦ロールをぶるんと振るって瞳を上げる。まるで風に向かって立つ獅子のように。
「ラフィーネ様かどうかはともかく、聖務官のどなたかが毒見をするのはわかり切っていたことですわ。にもかかわらず、犯人は何故外務卿を毒殺できると考えたのでしょうか?」
「いやいやいや、なんか色々おかしいわよ、テュロン」
キュリエナが呆れたような顔でテュロンの言葉を遮る。
「それって、ラフィーネが犯人じゃないことを最初から前提にしてるじゃない。あなたらしくないんじゃないかしら、テュロン。感情的には信じたくないかもしれないけど、まずは全ての可能性を検討するべきじゃないの?」
「無論、検討しましたわ。我が輝ける知性には僅かの隙もございませんのよ」
ドヤ顔で薄い胸を張るテュロンは、ピンと指を立てて、言った。
「ラフィーネ様が犯人である可能性は既に除外されているのですわ。その理由は明確です。ラフィーネ様が、ラフィーネ様であるゆえに。ですわ」
ぽかんとしたキュリエナは、やがて脱力したようにがっくりと肩を落とす。
「だからそれ、感情論じゃないの?」
「いいえ、キュリエナ。私は何も、ラフィーネ様は絶対に罪を犯すような御方ではない、などと言っているわけではありませんわ。人は誰しも、ふとしたことで過ちに陥るものでしょう。ラフィーネ様とて無論その例外ではありません……しかし」
テュロンは獲物を見つけたというようにギラリと目を輝かせて唇の端を上げた。
ああうん、キュリエナはまだあまり実感してなかったかもだけど、テュロンに反駁するのって、彼女を焚き付けるだけだから。特にこういう場面ではね。
「しかし、罪を犯すという追い詰められた状況であればあるほど、人は己の行動類型に沿った行動しかできなくなるものです。そのように考えた時、今回のように、密かに毒を使う、などという陰鬱な性質を現す手法は、全くラフィーネ様の行動類型に当てはまりません。
ラフィーネ様が仮に外務卿に対して何らかの含むものを持っていたとしても、あの方の性格からすれば、まずは法にのっとって、聖殿の裁きの場に引きずり出すことを考えるでしょう。それが叶わないのなら、せめて真正面から戦おうとするはずですわ。
まして、あの方が大切になさっている聖殿法を自らが犯し、誇りとしている聖殿を穢してまで? あり得ませんわ、あの方の心の理からしても。
故に、彼女は犯人ではないのです。以上、証明されましたわ」
あまり納得したわけではなさそうな顔だったが、それでもキュリエナは肩をすくめ、それ以上何も言わなかった。下手にテュロンを突っつくと余計大変なことになるのを悟ったのだろう。
対してアンジェとメイアはきらきらと顔を輝かせ、希望そのものの体現者であるかのように、テュロンを見つめる。こっちはこっちで純粋すぎるコンビだなあ。
「従って、先ほど申しましたように、おかしいのですわ。ラフィーネ様が犯人ではないのならば、誰か別のものが犯人です。その者は、聖務官に毒見されることを承知の上で、盃に毒を持ったことになりますわね。そこで計画が露呈してしまう恐れがあるのに、何故そんなことをしたのか。そしてもちろん、盃の毒は何故ラフィーネ様を害さず、外務卿だけを殺害し得たのか。そこが問題なのですわ」
びしっと鋭く指を振って決め顔のテュロン。
……でも、申し訳ないんだけど、テュロンは、ラフィーネさんが付けてる解毒の指輪のことを知らないのよね。そこで根本的に彼女の推理はひっくり返っちゃう可能性はあるわけで。
だけど。それでも。
なんだか私は、少しだけ、元気が出てきた気がした。
アンジェ、メイア、そしてテュロン。みんなが、ラフィーネさんの無実を信じ、そして私を励ましてくれている。
彼女たちの考えが正しいかどうかではなくて。その気持ちが、私に勇気をくれていた。
一人じゃなくて、良かった。私は、本当にそう思う。
私一人だったら、きっと、折れてた。
そして。
私と反対に、ラフィーネさんは、今、一人だ。一人きりで、混乱と絶望の淵にいる。
だったら、私が、助けないと。
私たちが。私たちしかいないのならば。
「ありがとう、みんな。力を貸してくれる? ラフィーネさんのために」
私の言葉に、みんなはそれぞれしっかりと頷いてくれた。キュリエナさえも、少し皮肉気な微笑を浮かべ、呆れたようにだったけど。
何ができるかはわからない。わかったとしてもそれがうまくいくかどうかも。
だけどそれでも、手をこまねいて見ているだけなんてことは、しない。
やってみよう。ラフィーネさんを助けるために、精一杯のことを。
「ラフィーネさんに会って直接話を聞ければとも思うんだけど、やっぱり無理かしらね」
「さすがに難しいでしょうね。まだ犯人と確定していないとはいえ、重大事件の参考人として聖殿に身柄をゆだねられているのですもの。何の権限もないし関係もないラツキが会いに行っても、ホイホイ面会させてくれるとは思えないわ」
私の言葉をキュリエナがにべもなく打ち消す。
うーん……残念だけど、それもそうか。
じゃあどうすればいいのだろう。ラフィーネさんを助けるといったって、具体的には。
「ラフィーネ様の他にもう御一人、あの事件を間近で目撃されたであろう御方がいらっしゃいますわね。その方に話を伺うことならできるかもしれませんわ」
テュロンが指摘してくれたことで、私も気づいた。確かに、当事者はもう一人いたんだっけ。
どれだけの事情が聞けるかはわかんないけど、ぶつかってみようか。
「聖花の摘み手に選ばれた方、そして聖王アンジェリカさまのご子孫にわざわざご弔問に来ていただけますとは、外務卿閣下もさぞかしお喜びでしょう」
言葉とは裏腹の、あまり覇気のない表情とぼそぼそした声で、古王国聖都駐留官のフォジョンさんが迎えてくれた。
「改めてお悔やみを申し上げます。一度だけとはいえ、私は、外務卿閣下には親しくお声を掛けていただき、今後も励むようにとのお言葉もいただきました。せめて鎮魂の祈りを捧げさせていただきたく思いまして」
とても名誉のあるものだとは聞いていたけど、聖花の摘み手という地位は、確かにこういう時にはなかなかに便利なものだ。アンジェの、聖王の子孫という立場もね。
駐留官さんに取り次いでくれた、大使館の若い職員さんらしい人も、私たちをすっごくキラキラした目で見ててくれたし。ちょっとくすぐったいけどね。
そう、私たちはその肩書を利用し、外務卿への弔問という形で、古王国の大使館へやってきていた。
フォジョン駐留官さんはひょろりとした背中を丸め、私たちを外務卿の遺体が安置されているという広間に案内してくれた。
所在なさげに胸の前で組み合わされた骨ばった手は、血の気を失うほどに白く、肌もかさついており、彼の緊張を伝えていた。
「ちょうど今しがた閣下の御遺体が聖殿からお帰りになりまして。傷一つない綺麗なお身体であるだけに、亡くなったということがまだ信じられません」
「心中お察しいたします。ですが、大切な会議も近いことですし、あまりお力を落とされませんように。閣下も会議の成功をこそ望んでいらっしゃるでしょう」
我ながら良くもまあ、こんなぺらぺらと浮ついた言葉が出てくるなあ、とは思うんだけどね。
その辺はまあ、30年近くやってた前の世界での人生経験ってとこだけど。
……あれ? その、私の中の経験……前の世界での記憶が、なんかちょっと引っかかるものを感じた気がする。
なんだろう。その小さな違和感の正体を見極めようとしたけど、頭の片隅に引っかかったそれは、するりとどこかへ飛んで行ってしまった。
駐留官が言葉を続けたためだ。
「はい。閣下は会議のために精力的に準備をなさっておいででした。それがまさか聖務官に害されるとは」
私は思わず奥歯をかみ砕きそうになったのを必死でこらえ、さりげない風を装う。
「その、どういった状況だったのでしょう。外務卿閣下は、その聖務官から、直接盃を手渡されたのですか? 間に誰かの手を介したというようなことは」
「いいえ、そのようなことは。確かにあの聖務官から直接盃を手渡されました。それはあの聖務官自身も認めているはずです」
駐留官が語ってくれた言葉によると、宴卓には封をした酒瓶がいくつか用意されており、その傍らにラフィーネさんがいた。そこから彼女は一つの酒瓶を選んで封を切り、二つの新しい盃に酒を注いで、一個を自分が飲んで毒見をし、それからもう一個を外務卿に渡したのだそうだ。
外務卿はいつものように一気に盃を干し、次の瞬間床に倒れ込んで苦しみ出したのだという。
うーん。
その酒瓶に、最初から毒が混入されていたのだろうか。
でも、酒瓶は宴卓に複数置かれていたということだから、他に犯人がいたとしても、どれをラフィーネさんが選ぶかはわからなかったはずだ。
……だから、任意に毒の入った酒を注ぐことができたのはラフィーネさんだけだ、ということになってしまう。
くそ。自分の頭の悪さがほんとに恨めしい。
もしかして、狙いは外務卿ではなく、誰でもいい無差別殺人だった、とか言う可能性もあるのかなあ。さすがにそれはないだろうか。
安置場所に案内された私は、棺に向かって黙祷を捧げながら、必死に錆びついた脳を巡らせる。
正直って、今の私は、まだ重く立ち込めた深く濃い霧の中だ。見通しは全くない。彼女を求めて差し伸べた己の指先さえも。
でも、諦めはしない。
必ず、この手であなたを掴んでみせるからね、ラフィーネさん。




