夕焼けとほっぺた
「えーと、痛いよ、二人とも」
「あらそう? あなたは顔が痛いかもしれないけど、私は心が痛いんだけど!」
「脳味噌が木の実ほどしかないミカエラにしては珍しく適切かつ詩的な表現です。同意します」
「……エレイン。ケンカ売ってるなら私はいつでも絶賛高価買い取り中よ」
何が何だかわからない。
私は助けを求めて部屋を見回したが、彼の仲間たちはいずれも素知らぬ顔だ。狼人の剣士ルーフェンはうんざりとあきれた表情。間士の老人バートリーは面白そうにニヤニヤ笑いを浮かべ、岩人族の巨人ロッグロックは困ったように目を逸らす。で、誰も取り合ってくれない。
……まあ要するに、彼らにとってはありふれた日常らしい。この場にいる、ユーゼルクの仲間たちにとっては。
私の目の前に座っているのはユーゼルク。しかし、その美しい黄金の髪はぐいぐいと引っ張られ、その端正な顔は思いっきりつねりあげられている。
髪を引っ張っているのがユーゼルクの隣にいるミカエラ、頬をつねっているのは反対側の隣にいるエレインだ。
どっちも、かなり本気でやってるみたいで、せっかくのユーゼルクのイケメン顔が、まるでお酒飲んでから挑んだお正月の福笑いか、バグったCG画像みたいになっている。
とはいえ、ユーゼルク本人はあんまり気にしてないみたい。これも、慣れているからだろうか。
……で、結局私がこの場をおさめなければならないのだろうか。
人の痴話げんかって、はたから見てると、微笑ましい半分、頭痛い半分だな……しょっちゅう私たちも似たようなことやってるのかもしれないけど。
「こほん。で、じゃあ、つまり、あなたの意図ではないし、受けるつもりもないということなのね、ユーゼルク?」
「ああ、もちろんだよ」
私の問いに、ユーゼルクは髪を引っ張られ、顔をつねられたまま頷いた。
「僕はアンジェリカ君と結婚するつもりはないよ。確かに彼女は美しいし魅力的ではあるけれどね」
彼は私の席の後ろに立つアンジェに目をやりながら、はっきりと言明した。
アンジェが安堵したような柔らかい吐息をつく。うん、私も同じ気持ち。
今日。
私たちは、ユーゼルクの家に来ている。もう二度目なので、守衛さんたちとも顔なじみだ。
目的はもちろん、ユーゼルクのお父さんが企図しているらしいという、ユーゼルクとアンジェの結婚話について糺すためだ。
本来、私は聖殿に所属する登攀者なので、帝国と言えども、そう簡単に私からアンジェを取り上げるなんてことはできないはずだ。……はずなのだけど、それを承知で無理押し、ごり押しをしてくることもあるのかもしれない。
何せ、奴隷を解放して貴族に叙する、という条件だけを取ってみれば、信じられないほどの幸運なのは事実なのだ。そんないいことをしてあげるのにどうして反対するの? と言われると、こっちとしては困ると言えば困る。
また、聖王の子孫が奴隷身分のままなのは問題だ、という主張にも、相当強い説得力があるのよね。
そういった筋で正論を推されれば、聖殿側としても、どこまで帝国の言い分を撥ね付けることができるのか、ちょっと心配ではあるわけで。
なので私は、まず何よりも先にユーゼルクの家へ赴き、彼の意思を確認したかったのだ。
しかし、ユーゼルクの結婚話なんて言う爆弾を不用意に炸裂させてしまったことで、当然のごとく彼の恋人であるミカエラとエレインは、修羅とも羅刹ともいえる形相を現出させることになった。で、ご覧のありさまというわけ。
「確かに、父とはその話をした。聖王祭の最終日にいきなりやってきてね……おかげで、僕はお祭りに出かけるのが遅れてしまったが」
ああ、そういえば、聖王祭の最終日にユーゼルクと会った時、お客さんとが来たとか何とか、言っていたっけ。それがユーゼルクのお父さん、つまりフェルゲイン公爵のことだったのか。
「急にそんな話を切り出されたから僕としても驚いたが、でもきっぱりその場で断った。僕は登攀者だし、貴族に戻るつもりはない。それに、結婚するのはこの二人だと決めてもいるしね」
さらりと言い放ったユーゼルクの言葉に、彼の顔をいじくっていた左右の二人は、共にさっと顔を赤らめ、おずおずとその手を放した。
ちゃんと言うべきことは言ってくれるわね、このイケメンは。でも、髪の毛がもじゃもじゃにかき乱され、つねりあげられた頬が赤くなったままだと、いまいち決まり切らないけど。
「……あなたのお父様は、それで納得したの?」
私は少し首を傾げて尋ねた。
ユーゼルクが断ってくれたのはいいとして、けれど、フェルゲイン公もそんな簡単に諦めるのだろうか。
貴族の人の考えなんか私はわからないけど、アンジェも自家再興という話に対しては強い関心を示していた。お家のため、という大義名分は、貴族の人にとっては大事なのではないのだろうか。
「多少にらめっこの状態にはなったけどね。でも、最後には、僕の意思が堅いとわかってくれたようだ」
「あら……おじさまにしては随分と物わかりがよかったのね、こういうと失礼だけど」
ユーゼルクの言葉に、不思議そうな表情を浮かべたのはミカエラ。
ミカエラはユーゼルクの幼馴染だから、彼の父親のフェルゲイン公についてもよく知っているのだろう。
フェルゲイン公とは、私はこの間ごく短時間お会いしただけだけど、まあ見るからに頑固そうというかいかめしくて、確かにあんまり融通が利きそうな感じはしなかったわよね。その印象は、あながち間違ってもいないようだ。
「僕が、登攀者としてこの位置にいるということ自体も、フェルゲイン家の名を上げるために役立っているのは事実だからね。僕はそんな気はないし、出来るだけ家の名は隠しておきたいんだが」
ユーゼルクはがっしりした肩をすくめて苦笑した。
なるほど。ユーゼルクは登攀者たちの頂点、人々の憧れの的だ。そんな彼の存在は、フェルゲイン公爵家にとっても大きな名誉と誇りではあるだろう。つまり、公爵は息子に対して、そう簡単に、登攀者をやめて貴族に戻れ、ともなかなか言い出せないわけか。
「……もっとも、確かに父は、家のためには割と手段を選ばない人ではあるからね。正直、父にしては随分引き際がいいな、とは僕も思ったよ」
「頑固という点に関してはユーゼルクも御父君と同じですからね。不毛な言い合いになるのを避けたということではないでしょうか」
エレインの出した意見に、ユーゼルクの仲間たちは揃って笑いながら頷いた。
ふーん。そんなものかな。
私はまだ何となくすっきりしない気持ちを残しながらも、それでも席を立つ。
とりあえず、アンジェとユーゼルクとの結婚話については、あまり心配しなくてもいいのかな。
もちろん、レグダー男爵の企んでいる結婚話の方に関しては、真正面からぶつかるしかないけど。私もあいつも、どっちも今さら話し合いで解決しようなんて立場ではない。そう考えると逆に気が楽とさえいえるかもね。
「とにかく、あなたはこの結婚話には関与していないし、その気もないということが確認できたのはよかったわ。いきなり押しかけて申し訳なかったわね」
「いや、こちらこそ、父が迷惑をかけたね。僕にはこれ以上何もしてあげられないけれど、会議の結果が君に取って上首尾に運ぶよう祈っているよ」
輝く白い歯を見せてにっこりと笑うユーゼルクの励ましを受けて、私たちは彼の家を後にすることにした。
ついでに街で買いものがある、というミカエラと途中まで一緒になることにしたが、私はユーゼルクの家を出たところで、ふと思い立って、ミカエラに尋ねてみた。
「ねえミカエラ、あなたとユーゼルクって幼馴染なのよね?」
「そうだけど?」
きょとんとするミカエラ。特徴的なつりあがった眉は彼女の勝気な性格を現しているけれど、ふとした時に見せるそんな表情はなかなか可愛らしい。
「立ち入ったことかもしれないけれど、あなたとユーゼルクって、どうして婚約しなかったの? 貴族の家柄って、小さいころから結婚のお約束をするのが普通と聞いたけど」
ユーゼルクとミカエラは同じ天使族、同じ貴族の家柄で、幼馴染。家格としても、ミカエラの家は、公爵であるフェルゲイン家にさほど引けを取るものではないらしい。そして何よりも、ミカエラ自身がユーゼルクに、昔から強い思慕の念を抱いてもいたようだ。
だったら、なぜユーゼルクとミカエラは婚約していなかったのだろう、と、私はちょっと不思議に思っていたのだった。
もちろんプライベートなことだし、あんまり単純な好奇心で聞いちゃいけないのかもだけど。
だがミカエラは特に気にする様子もなく、気軽に答えてくれた。
「ああ、単純な話、それどころじゃなかったからよ」
「どういうこと?」
首を傾げる私に、ミカエラはくすりと微笑む。
「ユーゼルクって、今はあんな、がっちりした逞しい体格でしょう? だから想像できないと思うけど、昔は全然違ったのよ。ちっちゃい頃はやせっぽちでふらふらしてて、ちょっと強い風が吹けば飛んで行っちゃいそうだったんだから」
「へえ……それは、なんというか。確かに意外ね」
私は目を丸くする。実際、そんな姿は、今の勇壮なユーゼルクからは思いつかないな。
「それだけじゃなくてね、ユーゼルク、病弱でもあったの。すぐに体を壊して寝込むくらいでね。お医者様からは、大人になるまで生きられるかどうかわからない、とさえ言われたこともあったようよ。だから、どこの家もフェルゲイン家と婚約はしなかったの。いつまで生きていられるかどうかわからない子と婚約なんてできないでしょう」
へー。それが、今では登攀者の頂点として人々から仰ぎ見られる存在なわけか。
人間なんて、そして人生なんて、どう転ぶかわからないものね。……って、それを私が言うのもアレだけど。私自身も、思いっきり人生が変わった人だもんね。
「ユーゼルクの方はそれで分かったけど、ミカエラ、あなたはどうなの? あなたの家は何故、あなたと誰かを婚約させなかったの?」
「婚約? してたわよ? 顔も知らない誰かと」
あっさりと言い放ったミカエラに、私は思わず足を止めてまじまじと彼女を見つめた。
けれどミカエラは何でもないことのように、続ける。
「してたけど、ユーゼルクを追いかけて家を出るときに、そんなもの蹴っ飛ばしてやったわ。だから私は今でも家からは勘当中。あはは」
「そ……そう」
呆気に取られて私は言葉を飲み込む。
そっか。ミカエラ、そこまでしてユーゼルクに付いてきてたのか。
小さいころからの彼女の想いは、そこまで強いものだったんだ。
……小さいころからの。幼馴染の。想い、か。
私はほんの少し、胸の奥が疼く感覚を覚えた。
痛みではないけれど、どこかじんわりと熱を帯びた、灰の中の埋火のような、そんな感情。
「……な、何?」
私の視線に気づいて、ミカエラが不審そうな顔をする。
微笑ましさと、寂しさと、ちょっぴりの羨ましさと。
そんな気持ちが入り混じって、今の私の顔を彩っていることだろう。
「ううん、ミカエラ。ただ、素敵ねって思ったのよ。幼馴染と結ばれるってこと」
「急に何言いだすのよ。酔ってでもいるの? そういえば顔赤いわよ」
「酷いわね。夕陽のせいでしょ」
顔を向けた先には、今しも焼け落ちていく夕陽。その赤黒い輝きが天を鮮やかに染めあげつつある。行き交う人々の姿もまた炎の色に飾り立てられながら、長い影を色濃く引きずっていた。
揺らめく陽炎の向こうに、黒く聳える塔の姿が映る。
夕焼けと、塔。
私はしばらくその光景を見つめていた。
痛いほどに紅い陽の煌めきは、私の胸の中奥深くにまで差し込んでいるようだった。
ミカエラとはそこで別れ、私たちは帰途についた。
真昼の喧騒から夜の歓楽へと移り変わる一瞬の、夕刻のみの、どこか物寂しい慌ただしさが街並みを覆っている。
私たちの屋敷は街の中心部から少し外れたところにあるから、暗くなる前に帰ろうと思うと、少し早足になる必要があった。
まあ私には『ノクトビジョン』のスキルがあるし、妖鬼族のキュリエナは夜でも目が利くから、夜道でもそれほど問題はないんだけどね。アンジェに魔法で灯りをともしてもらうこともできるし。
でも、やっぱり夜になる前には家に帰り着いていたいと思うのは、根源的な人の心理なのかな、とも思う。
みんなに、ちょっと急ぎましょう、と声を掛けようとした時、逆に、キュリエナが声を掛けてきた。
「ねえラツキ、あそこにいるの、あなたの可愛い聖務官さんじゃない?」
「そういう、やらしい言い方をしないの」
たしなめつつ、私はキュリエナが指した方向を見た。多分ラフィーネさんのことよね。
今出てきたユーゼルクの家は聖殿前広場に面した立地だから、私たちが帰るときには聖殿の傍を通っていくことになる。
だから、聖務官であるラフィーネさんをこの場所で見かけるのは、別段おかしいことではないわけだけど。
目線の先には、確かにラフィーネさんがいた。聖務官さんはみんな仮面をつけているけれど、体つきや、何よりその真紅の髪は間違えようがない。
彼女は道を挟んだ向こう側の聖殿の陰、少し横道に入ったあたりに、影に潜むように佇んでいる。夕暮れ時だし、目ざといキュリエナでなければ気づかなかったかも。
やや距離が離れていることもあってか、ラフィーネさんのほうもやはり私たちには気づいていない様子で、すこしうつむき加減に視線を落としていた。
ラフィーネさん、と声を上げて呼びかけようとした時。
街道の向こうから、石畳を蹴立てる音と振動が届いてきた。
そちらの方向を見た私、そしてアンジェは思わず息を飲み、身を隠すように物陰に少し身を引いた。どうしたの、と不思議そうなメイアの手を引いて。テュロンとキュリエナも、よくわけが分からない様子ながらも続いてくれる。
私たちの目に入ったのは、黒い車体に黄金の装飾を施した、二頭立ての豪華な四輪馬車だった。
私とアンジェは、かつてその馬車を見、そして乗り込んだことがある。
それは。
レグダー男爵家の馬車だった。
馬車は静かに近づいてくると、ラフィーネさんの前で止まった。
彼女は顔を上げ、ためらいもせずに馬車に近づくと、そのまま乗り込む。
一瞬だけ見えたラフィーネさんの顔は厳しく、きゅっと引き結ばれた唇は少しわなないていたように見えた。夕陽が色濃く彼女の顔に影を落とし、どこか不吉な色合いに染めていた。
馬車はラフィーネさんを乗せると再び走りだし、深くなり始めた闇の中へと、溶けるように消えた。
「ご主人さま、あの馬車は……」
不安そうに私の顔を見上げたアンジェに私は頷いた。物問いたげだった他のみんなに、あの馬車のことを説明すると、彼女たちの顔にも驚きが走る。
「ラフィーネ様は今回の四か国会議の担当聖務官の中の御一人でいらっしゃいますわね。そしてレグダー男爵は会議の帝国側の出席者ですから、会議の打ち合わせをするためにお二人が会う、ということ自体は特に不思議ではないのかもしれませんが……」
テュロンが考え込むように言った。確かに会議の打ち合わせなのかもしれない。けれど、ラフィーネさんが一人で、しかももう夜が近いこんな時間から、男爵の屋敷に向かう、というようなことがあるのだろうか。
何よりも、先程のラフィーネさんの表情。馬車に乗り込む一瞬だけだったけれど、あの顔つきは、ただの仕事上の会合には見えなかった気がする。
私は漠然とした不安の翳りを胸に抱えながら、馬車の走り去った方向を見つめていた。
と、その時、場の雰囲気にそぐわないのんびりした声で、キュリエナが言った。
「ねえラツキ、私、今夜ちょっと遊んでくるわね。夕食はいらないわ。じゃあね」
え、ちょっと、と声を掛ける間もなく、キュリエナはへらへらと片手を振りながら歩き出し、雑踏の中へと姿を消した。ぽかんとした私たちを残して。
「もう、キュリエナってば、こんな夜近くなってから遊びに行くなんて、悪い子だよね。ご主人さま、キュリエナが帰ってきたら、ちゃんと叱ってあげなきゃ」
メイアがこまっしゃくれた様子で言う。私はそんな背伸びしたメイアの水色の髪を、微笑ましい思いでぽんぽんと撫でた。
傍らで、テュロンがそっと私の顔を伺う。だが私はテュロンに向かって微かに首を振り、彼女の言葉を飲み込ませた。
キュリエナがどこに「遊びに行った」のか。それはテュロンも私も、なんとなく想像はついていた。
静けさという名の音が嫌に耳に響く。
深夜を告げる聖殿の鐘が、遠くからおずおずと聞こえてきてから、もうしばらく経つ。
アンジェとメイアはもう寝かせている。テュロンも、アンジェたちに不安を感じさせないように、知らないふりで寝てもらった。
揺らめく灯りが、居間で一人待つ私の陰を頼りなげに踊らせていた。
……遅い。
止めればよかっただろうか、彼女を。
胸中に靄がかかったような不安を抱えつつ、燭台の油を足そうかと腰を浮かしかけた時、戸口の方で小さな音がした。
途端、弾かれたように私は居間を走り出る。
手燭を持ち出す余裕もなかったから廊下は真っ暗闇だったけれど、私の『ノクトビジョン』のスキルは闇を見透かしてくれていた。
床板を踏み破らんほどの勢いで廊下を走り抜けた私は、屋敷の入り口に、よろめいて立つ人影を見た。
「……キュリエナっ!」
低く叫ぶ私の目の前で、彼女はふらりと陽炎のように揺れて、そのまま頽れた。
彼女の銀色の長い髪が夜闇の中に妖しく流れて、残像を私の視界に映す。
私は息も止まる思いで駆け寄り、キュリエナを抱き起した。
やはり。やはり、キュリエナは男爵の邸宅に潜入しようとしたのか。そして、まさかそこで……。
「しっかりしなさいキュリエナ、キュリエナ……!」
呼びかけた私の、キュリエナの背中を支えていた掌に、ぬるりとした液体の感触が伝わる。
血……? こんなに多量の……!?
ひくっ、と喉の奥で呼吸が絡まる。心臓は……私の心臓はどこに行っただろう。動機が早まっているのか、それとも逆に静かに止まりかけているのかさえ自覚できない。
けれどたったひとつわかることは。
失ってたまるものかというこの想いだけだ。
――もう二度と。決して。
「待ってて、すぐにアンジェを呼んでくるから!」
アンジェの聖魔法なら、急速に魔術師としての能力を伸ばしているアンジェなら、キュリエナを救ってくれるはず。そ、そうだ、あの光芒剣の力も使ってもらえれば。そうしたら……。
けれど、立ち上がりかけた私の手を、キュリエナが掴む。思わず振り返った私に、彼女は消え入りそうな声で、囁いた。
「ラツキ……私は、もう駄目よ。だから……」
「何言ってるの! 馬鹿なことを……」
目の前が真っ赤になりそうな思いで、私は叱咤する、けれどキュリエナは弱々しく首を振って、続けた。
「だから、ラツキ。最期のお願いよ。あなたの唇が欲しいの。熱く、濃く、すんごいのを、ひとつ、ぎゅーっと」
「……は?」
「だから、ね? ほら、口づけを、思いっきりぶちゅーっと一発……って、いったーい!」
ごん、と音がする。
キュリエナの背を支えていた私がその手を放し、彼女が廊下に転倒した音だ。
「んもう、何するのよラツキ」
「こっちのセリフよ! あなた、ケガしてるんじゃなかったの!?」
怒鳴りつけながら自分の手を見る。だが、そこに塗れていたのは血ではなかった。
「……油?」
「ああ、間士はどこかに潜入する時に、自分の身体に油を塗ることがあるの。傷を負った時の血止めにもなるし、万が一戦闘になった時、相手の武器を滑らせてくれる場合があるし。もちろん狭いところにも入り込みやすいしね」
あんぐりと口を開けて、私は廊下にぺたんと座りなおしたキュリエナの顔を見る。いつも通りの悪戯っぽい笑みを浮かべている彼女を。
「なあにラツキ、もしかして、私がこの程度のことでやられるとでも思ってた? うふふ」
「だって、なんかフラフラしてて、もう駄目とか言ってたじゃない!」
「ええ、お腹空いてフラフラよ。お夕食、食べてないんですもの。って、痛い痛い痛ーい!」
言い終わらせもせず、私はキュリエナの両方のほっぺを思い切り引っ張っていた。
「らちゅき、いひゃい、ほんとにいひゃいから! やめて、やめ……ラツキ?」
キュリエナの悲鳴が途中で止まった。
多分、私の顔を見たからだ。
いや、私の目、かな。
溢れて零れ落ちそうになりながら、必死の意地で瞳に縋り付いている、私の涙を。
「ラツキ、あなた……」
「キュリエナ。私をどれだけからかっても、いたずらしてもいいわ。でも、命にかかわる冗談はだめ。それだけはだめ。それだけは」
私はキュリエナの頬を引っ張りながら、口をへの字に曲げて、眉を怒らせ、顔をくしゃくしゃにして、言った。
「死んじゃうのは。駄目だから」
キュリエナは無言だった。頬を引っ張られながら。
そんな滑稽な、はたから見たらバカバカしい冗談のような光景だったけれど。
それでも、あるいはそれだから、私もキュリエナも、ただひたすら、互いの瞳を見つめ合い、互いの輝きを映し合っていた。
「……わかったわ、ラツキ。ごめんなさいね、本当に心配してくれてたのね。私、誰かにそんなふうに思ってもらったの、初めてかもしれないわ。……嬉しい。とっても」
キュリエナの銀色の髪が一筋、ふわりと垂れ、目尻から流れた。
「……でもあの、そろそろ、手、離してくれないかしら。嬉しいんだけど、痛いのよ」
「駄目。ちゃんと反省しなさい」
「いやあの、報告あるから。お話しできないわよ、これじゃ」
ああ、そうか。
キュリエナが男爵邸に忍び入ったのは確かなわけで。そこで何かを見てきたのかな。
仕方ない。私は頬をつまんでいた手を放して、キュリエナを促した。
彼女は、ほっぺたをさすりながら話し始める。
それによると、男爵とラフィーネさんはやはり二人きりで、しかも人払いをして会っていたらしい。それだけでも、公式な会議の打ち合わせという雰囲気からは程遠いよね。
ラフィーネさんの表情も態度も堅く、時折激昂しそうになるのを懸命にこらえているように見えたという。対して男爵の顔付きには余裕があり、狡猾に目を輝かせていたらしい。
「と言っても、遠くから様子や雰囲気を見取っただけで、話の内容の詳しいところまで聞き取れるくらいには近づけなかったわ。でも、唇の動きで、いくつか重要そうな単語は拾ってきたの。私にはわけがわからない言葉だけど、もしかしたらラツキにはわかるんじゃないかしら」
キュリエナはいったん口をつぐむと、乱れた髪を撫でつけ直して、言った。
「――『秘法』と、『黒い聖務官』。……あの二人が話していたのは、そのことについてみたいだったわね」
「……なんですって」
身を乗り出した私に、キュリエナはびくりと肩を震わせ、慌てて自分の頬を押さえた。いや別にキュリエナに対して怒ったとか、またほっぺた引っ張るとかじゃないから。
……しかし。
なぜ男爵が、そのことを知っているのか。
秘法。そして黒の聖務官。
黒の聖務官というのは、おそらくあの、洞窟内で声だけを私たちに届けた相手のことだろう。後からバートリーとルーフェンに、黒衣の聖務官に出会ったという話を聞いている。
……あの伯爵夫人の事件の時に私たちが知った秘密。まさに私たちが今いるこのお屋敷の地下で起きた出来事。
それは聖殿の、知られざる暗部に関わる事実だ。
確かに、男爵は遠隔視能力を備えた聖遺物を所有している。彼がここまでのし上がれたのはその力によるものだ。
けれど、その力は、魔法に弱い。ほんの微弱な魔法障壁に対してさえも機能しない。
そして、このお屋敷は、貴族の邸宅だけあって、対魔法結界が張られている。
だから、男爵が「覗ける」はずはないのに。それに私たちも当然、慎重を期して、このお屋敷の外でも、男爵に知られそうな場所では事件の話はしていない……。
と、そこまで考えて、思い当たった。
私たちだけではないのだ。あの事件の時、この屋敷にいたのは。
ユーゼルクたちが、いた。
彼らも私たちと同じように、秘法の実態と、聖殿の裏側について知った。
そして、ユーゼルクたちは、私と違い、男爵の遠隔視の能力を知らないし、また男爵に対して警戒もしていない。当然だ。ユーゼルクたちは別に男爵の敵ではないのだし。
しかし、ユーゼルクが、私とともに、屋敷の中で起きた何らかの事件の当事者だということは、男爵が私を見張っていればわかることだ。そして、男爵がそこから追尾する対象を、私からユーゼルクたちに変えたのなら。
そこから知ったということは、あり得るか。
くそ、ユーゼルクたちの方にも注意をしておくこと、失念してたなあ。
明日の朝になったらみんなに相談して、それから何よりもまず、ラフィーネさんに事情を聴きに行った方がいいだろうな。
「はあ。とにかく、ちょっと疲れちゃったわ。ラツキ、私、休むわね」
考え込んでいた私の目の前でキュリエナが立ち上がる。
ふわりと彼女の薄衣が目の前に揺れ、翻って、去っていこうとした瞬間。
私は、条件反射的に、その裾を掴んでいた。
「……ラツキ?」
訝し気にキュリエナが振り返る。だが私は無言のまま、ぐいと手を引いた。 キュリエナの身体がよろけ、小さく声を上げて、私の腕の中に倒れ込む。
「……何のつもり、ラツキ?」
「……わかんないわ、私にも」
抱きしめたキュリエナが私を問い詰めるが、私自身、自分のとった行動の意味がよくわかっていなかった。
「ご褒美をくれるというわけ? お使いをしてきた忠犬に。でもラツキ、私はあなたの可愛い奴隷ちゃんたちとは違って、あなたのしもべじゃないのよ。あなたの抱擁や口づけに、いつでも喜んで尻尾を振るわけじゃないわ」
胸元から私を見上げるキュリエナの顔は、ノクトビジョンのスキルを切ってもその細部まで見えるくらいに、近い。
口元にはいつもの笑みを浮かべたまま、逆らいはせずに。けれど彼女の銀色の瞳は挑発的な輝きを宿していた。
「男爵はラツキだけじゃなく、私にとっても敵なのよ。だから探ってきたというだけ。あなたに感謝してもらったり、ましてやご褒美をもらうようなことでもないわ」
「私は……私は、自分の唇が誰かにとっての褒美になるなんて思うほど、うぬぼれてはいないわ」
言葉につっかえながら、私は何とか答える。
これまでさんざんキュリエナからの誘いを突っぱねておきながら、急に私の方から抱きしめたりして、変なことしてるよね、っていうのはもちろんわかってる。
もし褒美としての抱擁やキスなんていう、そんな傲慢すぎる行為だったとしたら、キュリエナが鼻白むのもわかる。
でも、違う。
ご褒美として、なんて、そんな図々しい気持ちではない。
かといって、愛や恋とも、ちょっと違う気も、する。
もちろん私はキュリエナに惹かれている。それを否定するつもりはないけれど。でも、今、私の中に渦巻いている感情は、純粋な恋愛とは少し異なる色がついているように思う。
「じゃあ私に欲情したの? ふふふ、それなら話は分かるわ。それならそれでもいいけれど」
「それも違う……違わないかもだけど……ちょっと違う」
ま、まあ。キュリエナの官能的な肢体はそれ自体が魅力ではあるのだけど。彼女の柔らかくしっとりとした肉の感触は、以前一度抱きしめた時に伝わってきた、ぞくっと背筋を這い上るような思いとともに、今もこの腕に残っている。
けれど、それに近く、でも、それではない。今の私の感情は。
自分でもよくわからない、けど、でも。
多分、私は。
「――あなたの、命を、感じたいんだと思う。あなたの生を。あなたそのものを」
私は、自分の中で乱れる気持ちをようやく言葉にした。
私が今、狂おしいほどに求めていたのは、多分、それだ。
キュリエナの、命の脈動を、存在の鼓動を、私は体で感じたかった。体のすべてで。
夕焼け。塔。幼馴染。廻り燈籠のように私の中で朧に巡るそれらのイメージが、私をかき乱し、不安定にさせていた。
そして、たった今私を掴み去ろうとした、死の印象。
そうだ。死。死だ。
それは私の早とちりとキュリエナの悪戯心が引き起こした、他愛もない勘違いに過ぎない。
けれど、私はその勘違いのたった一瞬だけれど、明確に死を感じていた。自分の大切な人の死を。あの砂漠でアンジェとテュロンとはぐれた時よりも、もっと容赦なく私を切り刻む、それは感覚だった。
だから。だから私は、命が欲しかった。命の証が。生命の実感が。
今私がキュリエナに求めているのは、多分、それだった。
「――だから、欲しいの。キュリエナ。あなたの命の証が。今」
しばしまじまじと私を見つめ、彼女は小さく笑みを漏らした。どこか皮肉げで、けれど同時に慈愛に満ちた、そんな矛盾した微笑を。
「だから重いのよ、ラツキ、あなたは。私に寄りかからないで。……でも」
キュリエナは、ちろりと紅い舌で艶めく唇を湿す。長い睫毛がゆっくりと瞬いた。
「……そう。あなたは、私を、……私の肉体じゃなく、心でさえもなく、私の生を、求めてくれるのね。そんな人、初めてだわ。ほんとにまったく、あなたって面白い」
私の腕の中で、キュリエナの温もりが変わる。熱く、燃えるように。
深い夜に包まれて。
私と彼女の体温は、高まり、昂ぶり、果てしなく、昇る。
互いに溶けて蕩けて、滴り落ちてしまうまで。




