呼び名と約束
跳ねる水しぶきに白い肌が映る。
踊る波を透かして可憐な肢体が舞う。
……はあ。うっとり。いいよね、可愛い女の子たちが水浴びしてる姿って。
私たちは今、塔の11階層に来ている。
ここは湖沼の広がる階層。船もなく、最短距離で塔の中央天移門までは進みにくいので、湖や沼の外縁をくねくねと迂回する、大回りのコースを取らざるを得ない。そのために時間はかかってしまったのだが、良かった点はある。
それは、水の補給や水浴びが簡単にできるということ。
この階層の水は『アナライズ』のスキルを使って確認した結果としても綺麗で、飲用としても問題なく、もちろん体を洗うのにも適している。
……正直、それは本当にありがたい。体を洗えるというのはね。
やっぱり、水浴もせずに何日も過ごすというのは気持ちのいいものではない。
みんな年頃の女の子だしね。私も含めて。私も含めて。私も!
……こほん。
まあとにかく。
もう競争しているわけではないのだから、ある程度はのんびりした行程でも構わないわけだ。なので、私たちは、ちょうど都合の良さそうな入り江を見つけて、水浴をさせてもらっている。
もちろん、まったく呑気にバカンスを楽しめるというものでもない。どこから守護獣が現れ、襲撃してくるのかもわからないわけだし、それにまあ、他の登攀者に覗き見とかされるのもいい気持ちはしないし。
なので、二交代制を取ることにした。
今水浴びしているのはアンジェ、テュロン、メイア。私はキュリエナとともに、見張り役だ。
さすがに白昼に一糸まとわぬ姿となって屋外で水浴びをするというのは、元貴族のアンジェにとっては恥ずかしかったらしく、少し顔を赤らめながらそっと衣服を脱いでいた。まあそんな表情がまたそそるのですが。
逆に、テュロンやメイアはそれほどの抵抗感はないようだった。性格的な部分、また女同士でしかも仲間内ということもあるかな。それに、彼女たちの場合は、私の元へ来る前から、こうやって川や湖で水浴をすることは珍しくなかったのだろう。
こんなところにも、人それぞれの過去や経歴が透けて見えるものね。
「気持ちいいね、アンジェさん、テュロンさん」
メイアは楽しそうに水をぱしゃぱしゃと跳ねながらはしゃいでいる。うーん、ここで休息してるのは、別に水遊びをするためじゃないんだけどな。あくまで体の汚れを落とすだけで……。
でも、まあいいや。可愛いから。
「メイア、遊んでいてはいけませんよ。体を洗うだけです。ご主人さまたちをお待たせしていますし」
と思ったら、あらら、メイア、アンジェに叱られちゃった。厳しい口調ではないけれど、メイアはちょっと、しょぼんとなる。
けれど、テュロンがくすりと笑って助け舟を出した。
「アンジェ、まあよろしいのではありません? 今日はメイア、よく頑張りましたもの。ねえメイア?」
「う、うん! 僕、一生懸命やったよ!」
にこっと顔を輝かせて頷くメイア。
確かに、メイアはよくやってくれた。競争を除けば今回が初めての塔への登攀、しかもいきなり11階層。相当な緊張や不安もあっただろうけれど、それでも必死になってくれていた。
私たちに一生懸命ついてきてくれた、というだけではない。メイアの弓は、その威力こそ弱いものの、的確に襲ってきた守護獣の急所を射抜き、相手を弱らせてくれた。私が思っていた以上に、メイアに弓の適正はあったようだ。
そして、もちろん彼女の「眼」の能力も。特にこの11階層は湖沼地帯だから、水棲守護獣が水の中で蠢いていても私たちには視認しにくい。そんなとき、メイアの「眼」で相手の動きを把握できるのは非常にありがたかった。
「ですがメイアはよくやってくれたとはいえ、おそらく無意識下で疲労は蓄積しているはずですわ。遊ぶことでその疲労を発散させてあげれば、より効果的かつ効率的に活動を再開できましょう。これが我が輝ける知性の導くところですわ」
……むう、さすがにテュロン。私のように、ただ遊んでるメイアが可愛いから、というだけの単純な理由で、メイアを庇ったわけではなかったのか。
「え? ええと……よ、よくわかんないけど、うん、多分テュロンさんの言う通りだよ!」
「まあ、メイアったら、もう」
アンジェも苦笑し、けれどそれ以上メイアを注意しようとはしなかった。
なんか、うん。
アンジェとテュロンって、メイアの指導役というか保護者として、なかなかいいコンビな気がするな。
「えへへ、そーれっ!」
「ふふ、加勢しますわ、メイア!」
「ちょ、ちょっと、二人とも!」
メイアは煌めくような笑顔を再び浮かべて、アンジェにパシャパシャと水しぶきを掛け始めた。テュロンが悪戯っぽい笑みでメイアに加担し、アンジェも困ったような慈愛深い笑い声をあげて、それに応えている。
いやあ。うん。
微笑ましいなあ。……危うく、若いなあ、とか言いそうになったけど。私だってまだ17歳だしね! ガワは!
それに、何よりも。
彼女たちは、今、生まれたままの姿なのだ。ここ重要。
もちろん、アンジェの素肌も、テュロンの裸身も、数えきれないほど私は目にしているし、色々な意味で、まあその、堪能はさせてもらっている。メイアとだって、一緒にお風呂には入っているし。
でも、降り注ぐ白昼の光の下で、というのは、なかなか機会がない。
幽遠に揺れる燭台の灯の中でとか、繊細な月光や星明りに見守られながらの秘め事、というのもムードがあっていいものだけどね。
でも、明るく爽やかな日差しの中で戯れあう一糸まとわぬ美少女たちの饗宴というものは、それとはまた異なった、健康的なエロチシズムを感じさせてくれる。
「もう、二人とも、怒りますよ?」
にこにこしながらアンジェは光翅と光輪を顕現させ、魔法で風を起こして波をかき立てた。ばっしゃん、と派手な勢いでテュロンとメイアがずぶぬれになる。……笑いながらえげつないな、アンジェ。
とか思いつつ、改めてアンジェを見やる。
その、清楚で典雅な中にも蠱惑的な雰囲気を湛えた、抜けるように白い肌。そこに、濡れた金髪がしっとりと纏わりついて、鮮やかなコントラストを醸し出している。
零れる滴が豊かな双丘を流れて滴り、くびれた腰やみずみずしい太腿を遠慮なく伝っていく様に、どこか嫉妬さえ覚えてしまう。
「やりますわね、アンジェ。ではお返しですわ!」
今度はテュロンが腕に金剛力を漲らせ、水底から塊となった水を掬い上げるように天空へ放り投げた。頭上から豪雨のように降り注いだ水がアンジェを直撃する。
そんなテュロンの引き締まった肢体は、弾けるような躍動感を湛えて水波と絡み合う。
彼女の身体は細く、豊かな膨らみには欠けるけれど、野生動物のようにしなやかで活き活きと舞い踊る。控えめで微かなその胸の盛り上がりの中に、けれどとても乙女らしい感受性が秘められていることを私は知っている。
その姿はアンジェとまた違った溌剌とした魅力が満ち溢れており、目が離せない。
「きゃあ! もう、やりすぎです、テュロン!」
「うふふ、おあいこですわ」
「あはは!」
笑い合う三人。メイアもとても楽しそうだ。
メイアの姿はほっそりとしているが、テュロンの張り詰めたような力を秘めた細さとは異なり、どこか儚げな繊細さを感じさせるものだ。小さいなりにラインとしては成熟し始めているテュロンのボディと比べると、まだ未成熟で、どこか幼ささえ残した面影がある。
そんなメイアだったが、笑いさざめいている中、ふっとその表情を止めた。
何かが気にかかったような視線が、アンジェ、そしてテュロンへと動き、そして岸にいる私を伺うように移ろっていく。
あれ、どうしたの? とちょっと私が身を乗り出しかけた時。
「ラーツーキー! 何してるのよ」
ぺちん、と後頭部を叩かれた。
「あ痛っ。……何よ、キュリエナ」
「何よじゃないでしょ。あなた見張りでしょ。どこの何を見張ってるのかしら?」
「そ……それは……あんなとことか、こんなとことか」
また叩かれた。
うう。だってつい目が行っちゃうんだもん。色々と魅惑的なものが目の前でぴょんぴょん飛び跳ねてるんだよ? そりゃあガン見しちゃうでしょ。
……わかったわよ。ちゃんと真面目にやりますよ。
「こほん。……それで、キュリエナ。さっきの話に戻るんだけど」
「さっきの? ……ああ、さっきの、ね」
キュリエナは取り繕ったような態度の私に呆れた顔を向けながらも、答えてくれた。
私とキュリエナは、先程まで別の話をしていたのだ。
「やっぱり無理だと思うわ、ラツキ。私じゃ、たいして意味のある証言はできないわよ」
「でもキュリエナ。あなた、会ったんでしょ、あいつに。……レグダー男爵に」
そう。
私とキュリエナが話をしていたのは、レグダー男爵のことについてだった。
聖花の摘み手の競争の時、キュリエナは男爵に雇われて私の邪魔をしていた。もうその仕事は終わったのだし、今の雇用主は私なのだから、キュリエナに証言をさせて、男爵を聖殿の裁きの場に引っ張り出せないか、と尋ねていたのだった。
男爵を舐めていたわけではない。十分に警戒もしていた。じかに私に対して何かを仕掛けてくるのなら、受けて立つ覚悟も常にあった。
だが、競争の時の男爵は、私とは直接関係のないメイアまで巻き込んだのだ。
結果的にメイアは今幸せかもしれないが、だからいいというものではない。
これ以上男爵を野放しにしておいては、もう何をしでかしてくるかわからない。
そろそろ本気で男爵とはケリをつける時だ、と私は強く決意していた。
その一手として、キュリエナの証言を使えないか、と思ったのだけど。
「一つの仕事が終わったからと言って、ぺらぺら前の仕事の内容を話しちゃうのは、間士としての仁義に悖るなあ、というのもあるけど。
でも何より、私は男爵と、直接的には仕事の内容について話していないのよ。あなたの邪魔をしろ、あるいは奴隷商人さんを破産させろ、なんていう話は彼からは聞いていないわ」
「じゃあ、何しに会ったの」
「私の人柄とか腕前とかを直接見たかったんでしょうね。いくつかの質問をされたり、反応を見せたりさせられたわ。それを確認したら御本人はさっさとお帰りになって、具体的な打ち合わせは何人もの仲介人を通しての話だったわね」
「そう……」
私は考え込む。
男爵は、以前アンジェを襲ったあのネズミ男を速攻で切り捨てた。ネズミ男は男爵の側用人だったらしいにも関わらず。
そのことから考えると、仲介人を尋問して男爵の関与を明言させるのは難しいだろう。やはりすぐに切り捨てられるか、あるいはとっくに始末されているかもしれない。
それほど注意深い男でありながら、男爵はキュリエナの、いわば面接自体は自分で行ったのだ。男爵の所有する聖遺物は遠隔視ができるけれど、男爵側の声を届けることはできないから、質疑応答はできないものね。
つまり、男爵は自分自身しか信じていない。自分で直接見聞したものしか。
歪んだ男だ。そして、哀れな。
だからこそ、何をしてくるかわからない狂気もあるのだが。
しかし何にせよ、キュリエナの証言は無理か。男爵に会って当たり障りのない話をした、というだけでは、男爵を何の罪に問えるはずもない。
「仕方ないわね……。でもキュリエナ。男爵からすればあなたは裏切り者に近いわけだし、あなた自身も気を付けてね。いつ何があるかわからないわよ」
「嬉しいわ、ラツキ。私を心配してくれるの? ちょっと胸がきゅんとしちゃったわ。どれだけ私をときめかせれば気が済むの、あなたは」
細い手を豊満な胸に当て、悪戯っぽくキュリエナは笑う。笑ったまま、彼女はあっさりと言った。
「というか、まあ、もう二回ほど襲われちゃってるんだけど」
「え……ちょっと、大丈夫なの!?」
私は仰天してキュリエナの顔を覗き込む。目の前に本人がいるのだからもちろん大丈夫なんだろうというのはわかってるんだけど。でもやっぱりそれは驚くよ。
「まあね、うふふ。私を殺すにはちょーっと戦力不足だったわね」
妖艶に笑むキュリエナ。その笑顔の裏に秘められた冷酷な素顔がちらりと見えた気がして、私は一瞬背筋を凍らせた。
その暗殺者たちのたどったであろう哀れな末路を、あえて私は聞こうとは思わなかった。
ぱしゃん、と音がして、アンジェたちが水から上がってきた。
あれだけ盛大に水かけあっていたのだから当たり前だけど、三人ともびしょ濡れだ。
「申し訳ありません、ご主人さま。お待たせしてしまって」
「いいのよ、じゃあ今度は私たちね。見張りお願いね」
アンジェに頷くと、私とキュリエナも水辺に向かう。「ねえねえ、私の体洗ってくれる? それとも私があなたを洗ってあげましょうか? 隅々まで?」などとニヤニヤしながら聞いてくるキュリエナは無視しよう。
ふと振り返ると、アンジェが風を起こしてみんなの髪を乾かしている。便利だなー。
アンジェもテュロンも髪長いもんね。私も後でやってもらおう。
あ、指の周りに風を纏わせて、テュロンの縦ロールをセットしてあげてる。そういう使い方もあるのか。
ああやって、暖かく柔らかな風をちょうどいい強さで吹かせる、という精度の高い微調整ができるのも、アンジェの魔法が練れてきた証なのだろう。単に強い凄い威力の魔法を撃つだけが成長ではないわけだ。
けれど、何だろう。着替えながらも、またメイアが少しうかがうような視線をアンジェとテュロン、そして私たちに向けているのが、ちょっとだけ気になっていた。
「メイア、あなたもちゃんと髪乾かした? 生乾きのまま歩くと風邪ひくわよ」
「うん、大丈夫だよ、ご主人さま!」
水浴びを終え、出発の準備をしながら私はメイアに尋ねた。彼女は明るく元気に頷く。
そんな私たちに、アンジェが苦笑した。
「ご主人さま、メイアは幼児ではないんですもの。ちょっと過保護ではないでしょうか?」
「ああ……そうね、ごめん」
気づいて同じく苦笑いする私に、テュロンが縦ロールを整えながら言う。
「でも、ご主人さまのお気持ちもわかりますわ。メイアはなんと申しますか、かまってあげたくなる雰囲気がございますわね。私たちの中では末の妹のような立場だから、ということもあるのでしょうか」
「妹……」
メイアがぽつりとつぶやく。その表情は、何かに気付けたような、嬉しさと驚きが入り混じっていた。
「えへへ。そっか、僕、妹なんだ。なんだかうまく言えないけど……うん、嬉しいな」
「メイア?」
不思議そうな顔をする私たちに、メイアは照れたように続けた。
「僕、両親は小さいころに亡くなって、それからはずっと里長達に育てられたんだ。もちろん里長たちはとっても良くしてくれたんだけど、でも、家族って感じじゃなかったから。だから」
確かに、このあいだ、聖王祭の時に会ったメイアの里の里長さんたちはいい人たちのようだった。実際、そういったいい人たちに親切にされて育てられたのでなければ、メイアの純真素朴な人柄は形成されなかっただろう。
けれど、それはいわば、お客さんをもてなすような親切だったのではないだろうか。家族としてではなく。
「……だから、僕、嬉しいんだ。優しくしてくれるだけじゃなく、さっきのアンジェさんみたいに時々叱ってくれたりするのも。よくわかんないけど、多分、家族ってそうなんだよね」
私たちは顔を見合わせ、誰からともなく破顔した。
――家族か。
私自身のことは、まあいいとして。
アンジェは家族をすべて失っているし、テュロンは自ら家族に永遠の別れを告げてきた子だ。
だからこそ、二人とも、家族のぬくもりを大事にしたいのかもしれない。彼女たちがメイアをそれぞれのやり方で慈しみ、愛おしんでいるように見えるのも、そのためかも。
言ってしまえば、ただの幼稚な疑似家族、単なる家族ごっこでしかないのかもしれないけど、でも。
それでも、きっとそんな団欒の場は、アンジェもテュロンもメイアも、求めていたものかもしれないな。
「メイアが妹なら、二人はメイアのお姉さんなのね」
私の言葉に、メイアはきらりと瞳を輝かせた。
「じゃあ、あの。もしよかったらだけど、そう呼んでもいいかな」
「呼ぶって?」
問うと、メイアは顔を赤くしてもじもじとしながら、けれどはっきりと言った。
「アンジェ姉さまと、テュロン姉さま。……って」
……その瞬間、二人がものすごい勢いで悶絶したのを誰が責められるだろうか。
メイアみたいに純粋でひたむきな美少女に「姉さま」と呼ばれるなんて。まるで砂糖と蜜をたっぷりかけた刃に心臓を貫かれたかのような、甘ったるくも凄まじい衝撃が走ったことだろう。
っていうか、私だっておもわず咳込みそうになったくらいのインパクトだった。
それを聞いたキュリエナも身を乗り出してメイアに顔を近づけ、彼女は思わず上体をのけぞらせる。
「いいないいなー。ねえねえ、私は? 私は? メイア」
「え? えっと……キュリエナは……キュリエナじゃないかな……」
顎をがっくり落とすキュリエナの姿に、私は声をあげて笑った。
「あはは! お気の毒ね、キュリエナ。あなたは『姉さま』ってガラじゃないんですって」
「何よー。じゃあなたはどうなのよ、ラツキ」
唇を尖らせるキュリエナ。ふふん、私はキュリエナとは違うもんね。きっとメイアだって姉さまって呼んでくれるはず。私はそう期待を込めてメイアを見つめる。
……だが。メイアは申し訳なさそうに視線を逸らした。
「えっと。ご主人さまも、ご主人さま……って呼びたいんだけど」
「……」
……まあ、うん。そうよね……。私はメイアのご主人さまだもんね……。
今度は傍らでキュリエナが高笑いしてる。憮然としてそんなキュリエナにデコピンをしてやってから、私は出立のために立ち上がった。
そんなこんなで11階層を無事にクリアし、私たちは塔を出て聖殿へと戻った。
と、私たちの前に聖務官さんが立った。何だろう、と思って話を聞くと、私たちをラフィーネさんが待っているらしい。以前、男爵邸への招待を伝えてくれた時のように。
これもまた以前のように控室に通され、しばらく待っていると、ラフィーネさんがあたふたとやってきた。
「ああラツキさん、お疲れ様です。実はですね」
「『ほむべきかな』」
「……ほむべきかな、いと高き塔! わ、忘れてないですからね! ちゃんとやろうと思ってたんですから! 後で!」
顔を真っ赤にしているラフィーネさんを見てくすくすと笑いを漏らしながら、私は改めて尋ね直した。
「はい、それで、何ですか、ラフィーネさん?」
「え、ええ。実はですね、もうすぐ四か国会議が開かれるじゃないですか」
「ヨンカコクカイギ……そ、そうですね、そういえば」
あたふたとしながら適当に相槌を返す。この世界に来てからもう半年近くになり、たいていの日常知識は入ってきているつもりだけど、まだちょいちょい、こうして知らない単語を当たり前のように話されることがある。
慌てて検索スキルを使ってみたけど、まあ詳細はともかく、大体のところは、調べずともなんとなくの見当はつく。
四か国、というのは、多分、この世界の大国四つのことだろう。
帝国、古王国、新王国、都市連合。
その四つの大国が、世界を四分割していると言っていい。もちろん、例えばテュロンの地龍族のように、どの国にも属さない種族や地域はぽつぽつと点在するのだけど。
アンジェやイェンデ伯爵夫人、ユーゼルクとミカエラなんかは帝国の出身よね。
四か国のうち、帝国が最も勢力が大きいのだけれど、他の三か国を圧倒するほどではない。
三カ国が合従すれば、帝国を凌駕できるほどの勢力にはなる。もちろんそれをさせまいと帝国の側も色々と工作をするわけだけれど。
ただ、そういった裏側での暗闘や策謀は当然あるのだろうけど、四か国の間では、ここしばらく、表立った大きな衝突や抗争、ましてや戦争などは発生していない。
それは、聖殿による調停が機能しているためだ。
『塔』という明確で絶対的な存在を背景にした聖殿に対する人々の尊崇の念は篤く、その聖殿が中に立てば、どの国もそうそうは我を通しきれない。
で、年に一度、聖殿と四か国の代表者が聖都に集まり、会談を行う。それが四か国会議というもののようだ。
「それで、その四か国会議がどうしたんです?」
「ええ、私その会議の世話係に任じられちゃいましてねー。まあほんの裏方の一人なんですけど、それでも、ほんと忙しいしめんどくさいし責任ばっかり重いしで」
「……はあ。でも、国際的にも大事な会議のお仕事なら、いいことなんじゃないですか? うまくやり遂げれば出世できるかも」
良くわからないながらも、慰めるつもりで言ったのだが、ラフィーネさんは顔を上げてきゃんきゃんと噛みついてきた。
「それ! それが嫌なんですよ。私、出世したくないんです。今の地位で十分なのに。これ以上上に行ったら、もう後は書類と机の前でにらめっこするだけの仕事ですよ。私は街に出て、現場で、人々とじかに触れあうお仕事がしたいのに」
それはまあ、ラフィーネさんらしいというか、理解できる話ではあるけど。
彼女が偉そうに書類をいじくりまわしている姿はあんまり想像できないものね。せわしなく町中を走り回って、いろんな雑用……こほん、人々のためになる様々な仕事をしている方が似合ってそうだな、とは思う。
「それはわかりますが、私に言われても仕方ないのではと……。というか、それを言うために私を呼んだんですか?」
「いやそうじゃないんですけど、愚痴を言うのにちょうどいい相手がラツキさんだったので」
「……みんな、帰るわよ」
「ああ、待ってください! ちゃんとした用件はあるんですってば!」
席を立った私の後ろ髪を、ラフィーネさんがすがるようにぐいと引っ張る。痛い痛い。帰らないから。冗談だから!
「もう、なんなんです、だから」
「はい、それでその四か国会議にですね、アンジェさんと光芒剣に関する議題が提出されることが決まりました。アンジェさん、そしてその主人であるラツキさんも、場合によっては出席してもらうことがあり得ます。なので、会議の期間中は塔に登らないで、自由に動けるようにしていただきたいのですが」
うわ、なんか大事だ。国際会議に提出されるくらいの問題なわけか。
思わずアンジェと顔を見合わせた私に、ラフィーネさんは少し小声になり、囁くように言った。
「それで、ですね。帝国側の出席者の中には、レグダー男爵がいます。もしかしたら会議の席上で顔を合わせるかもしれません。一応、心しておいてくださいね」
私は喉の奥で、ぐるる、と狼のような唸り声を上げ、眉を顰めた。
そういえば、レグダー男爵の職務は、帝国の聖都駐留外交官だったっけ。だとしたら、聖都で行われる国際会議には当然出てくるわけか。さすがにそんな重大な会議の席で何か問題を起こしはしないだろうけど……。
いや。あいつにそんな自制を求めるのは危険か。相手はイカれた男なのだということを、改めて肝に銘じておかなくてはね。
「わかりました、ラフィーネさん。忠告、ありがとうございます」
私は堅い声でラフィーネさんに礼を述べた。傍に侍立するアンジェの、少し震える手をそっと握りながら。
「ねーラツキー、ここのお家ってお酒ないのー?」
屋敷に戻って一息ついていたら、キュリエナが居間にひょっこり顔を出して言ってきた。
ここは貴族のお屋敷としてはこじんまりしたものなのだそうだけど、元日本人の私の感性からすれば、十分以上に広壮な規模の邸宅だ。なので、アンジェ、テュロン、メイアにもそれぞれ個室を与えている。
まあ、結局は居間でみんなして賑やかに過ごすことの方が多いけどね。
キュリエナにも個室を選ばせようとしたのだけど、彼女は屋敷中を見て回ってから、意外な場所を自分の居所として示した。
それはなんと、地下洞窟。あの『淀み』の事件の舞台となった、このお屋敷の地下に広がる空洞だった。
妖鬼族であるキュリエナの感覚では、あの地下洞窟が非常にお気に召したのだそうだ。
暗くてひんやりしていて物寂しくて、私なら滅入ってしまうけど、そこは種族の差なのだろう。種族というか、キュリエナ個人の嗜好のような気もするけど。
とにかくキュリエナは洞窟にいろいろと私物を持ち込み、すっかり自分の居場所に仕上げてしまった。
キュリエナは、屋敷で一緒に暮らし始めてからも、自由気ままにフラフラしていることが多い。
みんなで一緒にわいわい騒いでいることもあるし、逆に一人だけで孤独の時間を楽しんでいることもある。とにかく、相変わらず掴みどころのない女性だ。
「お酒? そうね、なかったわね」
「ラツキ、飲まない人? なんかお酒強そうに見えるけど」
「飲まなくはないんだけど……」
というか、正直かなり好きなんだけど、お酒。
でも、アンジェもテュロンもお酒をたしなまない。一人だけで飲んでもつまらないから、この世界に来てからはあまり飲みはしなかった。
「ご主人さま、お飲みになりたかったのですか? 気が回らずに、申し訳ありません」
謝るアンジェをなだめてから、私はキュリエナに言った。
「あなたは飲む方なのね、キュリエナ。だったら私も、御相伴しようかしら」
「ほんと? 良かった。二人で飲むんだから、お勘定は半分ずつよ?」
「ちゃっかりしてるわね……まあいいわ。あなたの好きな銘柄を適当に買ってきて。おつまみも」
呆れながら言った私にキュリエナは楽しそうに頷く。
まあ、私自身もちょっと浮き浮きしてるんだけどね。お酒飲むのは久しぶりだな。
……あ、そうだ。指輪、外しておかないとね。
私は自分の左手薬指に輝く指輪に目を落とす。これはあのクソ電飾のところで作ったEXアイテム。かつてレグダー男爵邸を訪問する時、毒殺を警戒して作ったものだ。
だが、毒を無効化してしまうがゆえに、これを嵌めたままでは、お酒で酔うこともできないのよね。忘れずに外しておこう。
「そういえばご主人さま、買い物といえば、薪がそろそろ少なくなってきましたが」
アンジェが言って来たので私も気づく。このお屋敷では自炊なわけだし、薪は必要なのよね。いちいち街に行って買ってこなければならない、というのが、このお屋敷に来てからの数少ない不便な点の一つだ。
聖都の外に広がる森に行って自分で木材を拾ってくるということも、もちろんできるんだけど、薪っていうものは、最低半年から一年は乾燥させないといけない。なので、今急場の役には立たないのよね。
だから結局、街の市場に行くことになるんだけど、薪は重くてかさばるし、気軽にちょっと買ってくるね、というわけにはなかなかいかない。
かといって、私たちは不規則に塔に登っているので、この日に届けてくださいね、と商人さんに簡単に頼むわけにもいかないわけで。
でもまあ幸いというか、私たちには頼もしい味方、テュロンがいる。
彼女の怪力ならば、山のような薪を背負って軽々と街中から帰ってこられるわけだ。
「じゃあ、みんなで買い物に……」
と言いかけて、私はメイアの様子に気付いた。ちょっとぐったりして、眼差しにも力がない。
「メイア、疲れてる?」
「う、ううん、ご主人さま! 大丈夫だよ!」
顔を覗き込んだ私の言葉を慌てて否定したメイアだったが、何も無理をさせるつもりはない。
塔から帰ってきたばかりで、また街まで買い物に行くなんて、やっぱり大変だもののね。
ましてや、メイアにとっては、競争を別にすれば初めての登攀だったんだし。守護獣とも戦ったわけで、気疲れもしているだろう。
「いいわ、じゃあメイアと私はお留守番してるから、みんなは街までお買い物に行って来てくれるかしら」
「はい、ご主人さま」
身支度をして出かけるアンジェたちを玄関まで見送ってから、私は居間へ戻った。
うん。けっこう耐性、ついたかも。
これまでは、アンジェやテュロンとずっと一緒だった。離れるということは考えられなかった。
でも、この間の競争の時に、一時的とはいえ、二人とはぐれたことは、かえっていい経験になったかな。
いつまでも永遠にべったりくっついたまま、というわけにはいかないのは当たり前なんだしね。
二人と離れるということに対しての精神的な不安や、心理的な焦燥感、というようなものは、ずいぶん治まっている。あの時に、私たちは離れても心がつながっている、という実感を得たからだろうか。
まあ、これまでは、アンジェが襲われないか、という部分での不安もあったから、なるべくアンジェから離れたくはなかった、というところもあったんだけどね。
でも、キュリエナとテュロンが一緒なら、ちょっとやそっとのことではびくともしないだろう。それに、アンジェ自身の魔法の腕前も、十分に上達しているんだし。
「ごめんなさい、ご主人さま。迷惑かけちゃって」
居間で待っていたメイアが済まなさそうに謝ってきた。片目を隠すその髪が力なさげにはらりと落ちて、もの悲しそうだ。
しょんぼりとしたその小さな背中をぽんぽんと叩いて、私は笑いかける。
「気にしないで。誰だって最初のうちは疲れるものだわ。それに、さっきも話に出たでしょう。メイアは私たちの末の妹のようなものなんだから、甘えてもいいのよ」
けれどメイアは気まずそうに上目遣いで私を見た。きゅーん、とかぼそく啼いている子犬みたいな表情。
……けっこう破壊力高い表情ね。この子、もうちょっと大きくなったら天然小悪魔になれるかも。
「あの、ご主人さま。そのこと……さっきの、その、妹の話。怒ってない?」
「何が?」
「ご主人さまのこと、姉さまって呼べなくて」
ああ、気にしてたのかな。私が露骨にがっかりした顔してたから。
もちろん半分冗談だったんだから、メイアが悪く思う必要なんてないのに。
そう伝えると、メイアは少し安心したような顔になった。
「僕、どうしても、ご主人さまのことは姉さまって呼びたくなかったんだ。どうしても。絶対。何が何でも」
……いや、あの。そこまで強調されると、それはそれでやっぱり傷つくような気がするんですけど。
そこまで私って、姉に相応しくないように見えるのかなあ。
「ど、どうして?」
ちょっと顔を引きつらせながら尋ねると、だが、さっとメイアの顔が朱に染まった。白い彼女の素肌に、まるで春の花が咲いたかのように艶やかな桃色が舞う。
緊張したように可憐な唇を小さな舌でちょっと湿したメイア。そんな仕草に、幼い彼女に似合わない色気が一瞬だけ垣間見えて、私は思わず引き込まれそうになる。
「あ、あのね。ご主人さま。あの……ご主人さまを姉さまって呼ぶと、姉さまになっちゃうでしょ」
「え?」
きょとんとする。メイアが一生懸命に何かを言おうとしてくれているのはわかるんだけど。
「だ、だから、その。ご主人さまが姉さまになっちゃうと、その。……アンジェ姉さまやテュロン姉さまとご主人さまみたいに……」
語尾がどんどん小さくなっていき、しまいにはむにゃむにゃとよく聞こえなくなる。
思わず、え? と耳を近づけた途端、今度は逆に、メイアは精いっぱい声を張り上げた。
「……ご、ご主人さまと家族になっちゃうと! ご主人さまと恋人になれないって思ったんだもん!!!」
きー……ん。
私、なまじっかスキルで身体能力を強化してるもんだから。
耳元で怒鳴られると、普通の人の何倍も脳味噌に響くのだ。
耳を抑えてうずくまった私に、慌ててメイアが「大丈夫?」と聞いてくる。
うん、まあ。大丈夫は大丈夫なんだけど。
それとは別の意味で、私の心中に衝撃が襲ってもいた。
そっか。
恋人、か。
――それはとても幼くて不器用でつたなくて、でも、とても真摯で一途な、告白だった。
メイアは私と、そうなりたいと思ってくれている、のか。
顔を上げるとメイアと目が合った。澄んだ湖水のような深い瞳。
「ご、ごめんなさい、ご主人さま。急に変なこと言って」
「ううん。嬉しいわ、メイア」
長い睫毛を伏せておどおどとしているメイアの小さな肩を私は抱いた。
震えているその身体が、幼いながらも、既に女性としての――恋をする女としての温度と息遣いを湛え始めていることに、私はその時初めて気づいた。
「ほんと? でも、ご主人さま、僕みたいな子は好きじゃないんじゃない? その……いろんなとこ、小さいし」
メイアは不安そうに自分の胸を抱えた。
いやまあ、確かにメイアのその部分は小さいけど。別に私は胸の大きさとかで好き嫌いを決めてるわけじゃないわよ?
「でも、アンジェ姉さまもキュリエナも、おっきいし。テュロン姉さまはあんまりだけど、それでも僕よりはおっきいから……さっきの水浴びの時、それを見て、自信なくなっちゃってたんだ」
……あー。
あの時、メイアが盛んにみんなをちらちらと見つめていたのは、それが理由だったのか。
でも、テュロンにはそれ言っちゃだめよ、と念を押しておこう。メイアの年齢と比較対象になってるなんて知ったらさすがに辛いと思う……。
「小さくてもいいの? ……だったら、僕も、姉さまたちみたいに、その。ご主人さまの……」
「待って、メイア」
勢いこんで言いかけたメイアの唇を、私はそっと人差し指で抑えた。
もちろん、メイアの気持ちは嬉しい。嬉しいけど。
それをそのまま、私は受け入れてしまっていいのだろうか。
アンジェを買った時のことを思い出す。
あの時私は、自分の性的指向を、主従という縛りでアンジェに押し付けたくなくて、彼女を解放しようとしたのだった。
あの時のアンジェは自分でよく考えた上で私に付いてきてくれた。
でもそれに対して、今のメイアはまだ幼い。純粋すぎるくらいに無垢で、稚い。
もしかしたら、親愛と恋愛の区別さえ十分にはついていないかもしれない。
そんなメイアに、女の子同士、という関係を、教えてしまっていいのだろうか。
私は迷った。
最終的に幸せにしてあげればそれでいいんだ、という結論をアンジェの時に出したけど。
小さなメイアに対しては、また別のような気もする。
……うー。こうやって悩んじゃうのが、キュリエナの言うように、重すぎるってとこなのかなあ。
「メイア。あなたの気持ちは嬉しいわ。とっても嬉しい。でも、もう少し考えた方がいいかもしれないわ。あなたはまだ……」
「まだ子どもだから? 子どもは人を好きになっちゃいけないの?」
小さく細い、けれど強いその声に、私ははっと胸を突かれた。
そっか。
メイアも、一生懸命悩んで、そして私に打ち明けてくれたのだ。
子どもでも大人でも、人を恋う気持ちに優劣はない。
多分メイアは初恋だと思う。だったらなおさら、私は逃げずに向き合ってあげなければいけないのだった。それを、私自身がとても良く知っていたはずなのに。
私の胸中に、一つの思い出が蘇る。いや、それは蘇るのではなく、常に私の中にあった。ずっと、消えずに。
私自身の初恋の。――あの少女の面影が。
「……ごめんねメイア。私が間違ってたわ。私もあなたが好きよ。大好き」
「じゃあ、あの。姉さまたちみたいに……?」
ぱあっと輝くような表情になって、メイアは私の顔をまじまじと見つめる。幸福感と陶酔感に満ちた、恋が叶った時の顔。
そんなまっすぐで一途なメイアの瞳に、私自身も恥ずかしく照れてしまうけれど。
でも、私は言った。
「それは、もう少し待って。あなたがもうちょっと大人になってからね。そうね……季節があと一巡りしたなら、その時は」
アンジェやテュロンと同じように愛するということは、つまりメイアと寝所を共にする、ということ。
……それはやっぱり、まだ早いと思う。彼女の気持ちを受け入れた上であっても。
メイアはしゅんとうなだれた。小さい時の一年って、長いわよね。大きくなってからは一年なんてあっという間なんだけど。
「約束だよ、ご主人さま? 季節が一巡りしたら……そしたら」
「ええ。その時には、あなたと本当の恋人になるわ。約束しましょう」
私はそよ風を愛撫するように、そっと、メイアの頬に手を伸ばす。
滑らかで美しい、白磁器のような頬。
メイアが小さく息を吸うのがわかる。可憐な唇がわなないていた。
瞳が微かに潤んでいるだろうか。けれどその眼差しは熱を孕み、メイアの昂ぶる心の奥を映し出すものでもあった。
「――これがその、約束の証よ、メイア」
ほんの僅かに、頬に添えた手に力を入れるだけで。
メイアの顔は、私に引き寄せられてくる。
穢れないその唇に、私は。
自分という刻印を――烙印を、押した。
おままごとのような。でも、きっと一生忘れない、忘れさせない、キスを。




