事件と都市伝説
「……で、いつまでついてくるのよ、あなた」
守護獣を奔らせながら、じろりと傍らを見やって私は言葉を投げつけた。
しかしその相手、つまりキュリエナは、涼しい顔で彼女の騎乗した守護獣の手綱を捌いている。
昨夜押しかけてきて、うやむやのうちに私たちと同宿したキュリエナは、結局今日になっても、ちゃっかりと同道しているのだった。
通常の登攀と異なり、今は一瞬でも早く聖王の樹へたどり着かなければいけない競争だ。
だから、私たちは、多少の仮眠を取ったらすぐに出発する必要があった。
夜更けにテュロンが起きてきて、私とキュリエナが務めていた見張りを交代してくれたけれど、そんなスケジュールだから、十分に睡眠が取れたとは言い難い。……キュリエナはのんきそうにすぐ寝息を立てていたけどね。
夜が白々と明け染めるより早く起き出した私たちだったが、もちろん、わざわざ敵だとわかっているキュリエナを起こして出発を促したわけではない。
できればこっそり置いて行ってしまいたかったけど、まあ彼女がそんな間抜けな失態を犯すはずもなく。
結果としては、こうしてぴったりと張りつかれているというわけだった。
「えー? いつまでって?」
「だから! 目障りなの! 邪魔なの! どっか行きなさい、しっしっ」
ひらひらと追い払うように手を振ったが、キュリエナはくすくすと上機嫌な笑い声をあげるのみ。
「ラツキ、そんなこと言われても、私だって競争の出走者なのよ。だから、行く先は同じ聖王の樹。目的地が同じなんだから、そりゃあ同じ道のりになっちゃうでしょう。仕方ないわ」
「うっ……」
そ、そう言われれば、そうなんだけど。
こうやってなぜか敵と一緒に道行きをしているって、精神的に結構堪えるものがあるぞ。彼女からすれば、それも狙いのうちなのかもしれないけど。
「塔の中では、どんな『事故』が起きても不思議はありませんわよ。せいぜいお気をつけあそばせ!」
テュロンが尖った声を放つが、もちろんキュリエナには馬耳東風だ。
「そうねえ、気を付けないとね。もし何か事故があったらお互いに助け合いましょう。きっとそうしてくれると信じてるわ、あなたたちは優しい人たちですものね」
――相変わらず白々しい。
……ただ、助け合いというのかどうかはわからないけれど。
昨夜は疲れ切って泥のように眠りこけていたアンジェとメイアだったが、今朝はかなり体調がいいようだった。蒼褪めていた彼女たちの容貌にも、美しい薔薇色の輝きが戻っている。
これは、昨夜キュリエナが分けてくれた、あの栄養剤のおかげなのかもしれない。
キュリエナ自身が飲んで見せ、また私も肯定したことで、最終的には他のみんなもあの丸薬を飲んでくれた。テュロンなんかは眉間にしわ寄せて、やっぱり疑わしそうだったけどね。
まあ、それでも効き目はあったわけだ。
この世界の人々は、サプリメントとかは普段はあまり飲まないでしょうしね。それだけに、高い効果を発揮したのかも。
しかし、まあ。なんというか、独特な線引きをする人よね、キュリエナ。
彼女が敵なのは間違いないし、彼女自身それをはっきりと飲み込んで、私の邪魔をするという目的のために動いていることは確かだ。
でも、同時に私たちとの会話を楽しみ、私たちにささやかながら親切を施してくれたりもする。
キュリエナの中では、その両者が矛盾なく結びついているのかもしれない。
仕事は仕事として、それとは別に、快適で楽しい生き方を両立させる。
敵や味方などというかっちり引いたボーダーラインの上を軽々と飛び越えて、自由に気ままに舞い踊る。
それが、キュリエナという女性の在り方、なのだろうか。
そんなことを思っていたら、私の視線はついキュリエナに注がれ続けていたのかもしれない。目ざとく気付いたようで、キュリエナはくすりと誘うような笑みを浮かべて私を見つめ返してきた。
「あら、なあに、ラツキ? そんなに見つめられると、私、ドキドキしちゃう。誘惑してるの? いけない人ね。私、なんだか昂ぶってきちゃいそう」
「な、何言いだしてるのよ! あなたって、脳みそのしわ一本に至るまで、全部桃色に染まってるみたいね! 頭ぱっくり開けて見てみたいわ!」
「あら、しわ一本に至るまで桃色なのは、脳みそだけじゃなくて、『他の場所』も、よ? うふふ、そっちだったら開けて見てほしいわねえ、じっくり」
「……あなた、本気で『事故』に遭ってもらうわよ?」
早口で言葉のチャンバラを交わしながら、それでも私は自分の顔が赤く染まっていることを否定できない。ねっとりと絡みつき、愛撫してくるようなキュリエナの声と話し方、何よりその淫靡な雰囲気は、それだけで一種の凶器だ。
それはまるで、とろりと蕩けてしたたり落ちる花の蜜のよう。でも、その花は同時に毒花でもあるのだということは、私ももちろんわきまえているのだけど。
……そして同時に、私の背中に何本も矢のように突き刺さっているアンジェたちの視線も痛すぎたりする。
べ、別に、私のほうから口説いてるとかじゃないのに! 私、無実だよ!
うう、きょとんとしているメイアの存在だけが癒しだ……。
だが、そんな馬鹿なやり取りをしている時間は、すぐに終わりを告げた。
夜がすっかり明けて周囲も明るくなり、遠くまで見通せるようになったころ。
私たちの行く先に、十数人ほどの集団が見えたのだ。
もちろん、塔の中では、同時に行動できるのは6人までという制約があるから、その全員が固まっているわけではない。
数人ずつに分かれて、しかし制約を受けないぎりぎりの距離を保って、たむろっている。
何よりも異質なのは、その集団が、――その場に止まっている、ということだった。
競争していないのだ。
それどころか、守護獣にまたがってもいない。いや、守護獣自体はいるのだが、全員が下馬している。
「何でしょうか、ご主人さま……?」
アンジェが不安そうに声を掛けてくる。
その集団の仔細は、近づくにつれて少しずつ明らかになってきた。彼らは口々に興奮したように、あるいは困惑したように何事かを話し合っているように見える。
そして、その集団の中には、登攀者だけではなく、法衣と仮面を身に付けた聖務官さんたちの姿も何人か、散見された。
なぜ、ここに聖務官さんがいるのだろう、と疑問が浮かぶ……二重の意味で。
聖務官さんは競争に出場していないのに、なぜ塔の中にいるのかという意味と。
後から来たのだとしたら、なぜ私たちより前にいるのかという意味だ。
まあ、後者の解の方はすぐに思いつく。上層階になると、塔の外周の天移門と中央天移門だけではなく、それ以外にも、行程の途中から入れるような天移門もある、ということは、以前にも調べておいたっけ。そこからショートカットしたのね。
でも、前者の疑問のほうはわかんないな。なんだろう。
やがて、向こうからも私たちを視認したのだろう。聖務官さんの一人が進み出て、大きく手に持った杖を振った。
私たちもやむなく守護獣を止め、下馬する。聖務官さんの制止に反して、この場をそのまま駆け抜けてしまうわけにもいかないし。
「アンジェ、テュロン、メイア。ここで待っていてね」
私は仲間たちに言い置くと、集団の方へ歩み出した。
剣帯から陽炎を鞘ごと外し、さかさまに持って、私も大きく振りながら、彼らの方へ近づいて行く。これは、登攀者同士のサインのようなもの。話があるから代表者の人は来てください、と言った意味内容だ。
人数制限がある以上、全員で近寄って大集団を作るわけにはいかない。登攀者同士が邂逅する際は、少人数の代表者同士がお互いに自分の隊から出て、その中間地点で話し合いを持つ必要がある。
もっとも、今の場合、私が近寄っているのは登攀者じゃなくて聖務官さんだけど。
聖務官さんと言えば、すぐに私の中ではラフィーネさんの姿が想起される。けれど、残念ながら、この場にいるのは彼女ではなかった。なかったけれど、見知った人もであった。
それは、ジメインさん。
メイアの脱走事件を裁定した、あの大柄な猿人の三等聖務官さんだ。ご丁寧に、やっぱり小脇には大判の本を抱えている。
「ほむべきかな、いと高き塔。これは、ラツキ殿でしたか。このような場でまたお目にかかるとは、塔のお導きですかな」
謹厳に挨拶をしてくるジメインさんに、私も礼を返す。さすがというか、しょっちゅうその挨拶忘れるラフィーネさんとは違うなあ。
「それで、ジメインさん。これはいったい、どういうことな……」「どういうことなんですか?」
言葉を奪われて、私は思わず傍らを振り向く。
そこには、興味津々といった顔つきのキュリエナがちゃっかり陣取っていた。
「……あなたも来たの」
「だって、私はラツキの隊じゃない独立参加者だから、私が自分で事情を聞くしかないじゃない? それとも、私をあなたの隊に入れてくれるのかしら?」
「冗談は下半身だけにしておきなさい」
「やん、私はいつでも真剣で正直よ。特に下半身はね」
馬鹿な話になりかけた時、重々しくジメインさんが咳払いした。さすがに慌てて首をすくめ、私とキュリエナは彼の方へ向き直る。
「まずは、ラツキ殿。気を悪くされないでいただきたいのですが、剣を両方とも抜いて、その刃を調べさせていただいてもよろしいですかな」
「それは構いませんが……いったい……?」
陽炎に続いて不知火も剣帯から外しながら、私はジメインさんに尋ねる。
彼は、重厚な口調で、ただ一言答えた。
「登攀者の遺体が見つかったのですな」
登攀者の、遺体?
最初、その言葉の意味に、私は気づかなかった。
確かに、犠牲者が出るというのは痛ましいことだ。
けれど同時に、登攀者である以上、死は常に隣り合わせに顔を覗かせているものでもある。
私自身、危ういところでかろうじて命を拾った経験があるし。……まあ、私の場合は多少事情が異なっていたけど。
それ以外にも、例えばアンジェのお兄さんは塔で亡くなっている。
また、私がこの世界に来てから5か月の間にも、噂話として、今度はどの階層で誰それが命を落としたらしい、どこそこで遺品が見つかった、……などと聞くのは珍しいことではなかったのだし。
でも、そこまで考えて、私はやっと、ジメインさんの言葉の抱える問題点に気がついた。
――『遺体が見つかるはずはない』のだ。
登攀者が守護獣に倒されたなら、その体は光に変えられて吸収され、遺品だけが残る。
その事実は、私が初めて塔に登った時に聞かされて、強い衝撃を受けたから、よく覚えている。
だが、今、ジメインさんは「遺体が見つかった」と言った。
ならばそれは……守護獣に倒されたものであるはずがない。
「では、事故ですか? それとも、……他の登攀者に?」
冷ややかに聞いたのはキュリエナだった。もちろん、この世界の人なら、ジメインさんの言葉が何を意味しているかすぐに分かっただろう。
事故ならまだいい。だが、他の登攀者に害されたとなると一大事だ。
「さて、どうですかな。……ああ、ラツキ殿、ありがとうございました。刃に曇りはなく、残留する魂魄反応もありませんな、ただ、後程、お供の方々の武器も改めさせていただきますが」
ジメインさんは私の剣を返してくれながら、しかしキュリエナの問いに明答は避けた。
捜査状況を漏らすわけにはいかないというよりも、事実、何がどうなっているのか、彼らも見当がついていないのかもしれない。
ジメインさんは次いでキュリエナの体も調べたが、特に怪しいところはないようだった。
「ご苦労様でしたな。では、入れ替わりで、お供の方々もこちらへよこしていただけますかな」
「はい。……ですが、いったいどういった状況なのか、少しでも教えていただけませんか。事故だとしても、また仮に登攀者による襲撃事件だとしても、どちらにせよそれに対する備えを私たちもしておく必要があるように思います。そのためには詳細を知りたいのですが」
事故なら、私たちもまた同様の事故に巻き込まれないようにしなければならない。もし襲撃だとしたら、相手の手がかりをつかんでおく必要はあるかもしれない。
どうせ今度はアンジェたちの検査で少し足止めされるわけだ。それなら、その時間を利用して、多少なりとも情報が欲しいと私は考えたのだった。
私の申し出に、ジメインさんはちょっと難しい顔をしたが、やがて頷いた。
「まあ、理屈ですな。しかし、詳細と言っても大した情報はありませぬが……。では、こちらへ」
案内され、私は同じように検査されている登攀者たちの間を通って前へ進んだ。……言われもしないのについてきている約一名も一緒にいるが。
少し進むと、地面が岩盤から砂地に変わった。
そしてそこに、何人かの聖務官さんに囲まれて、横たわっているものがあった。
命であることをやめた、ただの物体が。
目を背けこそはしなかったが、私は思わず眉を顰めた。
自分で望んで見に来たとはいえ、気持ちのいいものであるわけはない。
もちろん、私自身がこの手でかつて山賊どもを手に掛けはしたけれど。だからと言って死体に慣れるというものでもない。ましてや、敵でも悪党でもない人の死体を見るということは。
一方、キュリエナは平然とその亡骸を覗き込んでいた。まあ、それこそ職業柄、彼女の方は「慣れて」いるのだろうか。
その遺体は、二人。若いと思われる男女だった。
「あらあら。この二人なの……」
ぽつりと呟いたキュリエナの言葉を、私は聞きとがめる。
「知ってる人なの?」
「いいえ、直接にはね。でも、10か月ちょいで10階層まで到達した記録を持ってて、結構注目はされてた、いわゆる期待の新人登攀者よ。まあ、あなたほどじゃないけどね、ラツキ。
それに、美男美女の組み合わせということもあって話題には上ってたわね。何でも、仲の悪い実家同士の対立から一緒に逃げて聖都に来て登攀者になったとか。この競争で名を上げて、二人の仲を許してもらうつもりだったのかもね」
言われて、私は改めてその遺体を見下ろす。
優秀で将来を嘱望され、仲もいい恋人同士で、そして目的に向かって努力もしていた。そんな若い二人が、今はもう。
……身の上なんて、聞くものじゃないわね。
「この砂地でうつぶせになった状態で発見されましてな。……あまり遺体に触れないようにしていただきたいですな」
苦々しそうなジメインさんの後半の言葉はキュリエナに向けたものだ。彼女はひょいひょいと遺体を持ち上げたり裏返したりして、その状態を確認している。
咎められ、キュリエナは先生に叱られたいたずらっ子のように、ちろりと赤い舌を出して頭を下げた。
「うふふ、申し訳ありません。でも、目立った外傷はないようですね。血の跡もほとんどないし、首を絞められたような跡もない。事故にしても襲撃にしても不思議ですね」
「え、そうなの、キュリエナ!?」
私は驚いてキュリエナの顔を見つめた。
それは確かにすぐには飲み込めない事実だ。誰かに襲われたとしても、あるいは事故だとしても、どちらにせよ傷がついたり血が出たりはするだろう。
もちろん、この世界には魔法がある。
しかしこの世界の魔法は、風や雷や水など、一般的な自然現象・物理現象を意思の力で発生させて操るものであり、それによって攻撃をすればやはり外傷は残るわけだ。不思議パワーで人知れぬ殺しをするような呪術めいたものではない。
先ほどの検査は、武器の血の跡や刃こぼれを見るというよりも、残留魂魄反応の調査が主体だったと言うことか。
しかし、物理的外傷がないということは……そうだ、吟遊詩人の「詩」を使われたという可能性はあるかも。
けれど、詩を吟じ終わるまでには相応の時間がかかる。
キュリエナの言によれば、この犠牲者二人は一定の手練を備えていた優秀な登攀者だったはず。しかも二人。そんな二人が、詩が完成するまで相手を漫然と放置しておいたというのも考えづらい話だ。
では、この二人は、なぜ命を落としたのか。
「毒……とか?」
「それは聖殿に遺体を持ち帰り、詳しく調べぬと何とも言えませぬな。事実、二人の表情を見ると、かなり苦しんだようには見えるのですな。されど、簡易的な調べでは、少なくとも一般的な毒物の痕跡もやはり見つからぬようでしてな……」
ジメインさんは口をへの字に曲げ、むっつりした調子で言う。
ますますわからない。苦しんで亡くなったのに、傷もなく、毒でもない?
それなら、一体何が起きたのだろう。
この二人だけのことではないかもしれない。私たち自身にも、いつなんどき、この不可解な死が降りかかってくるかもしれないのに、その正体がわからない。
首筋の産毛がちりちりと逆立つような不気味な感覚が、私を襲っていた。
「さ、じゃあそろそろ行きましょう、ラツキ」
その時、いきなりキュリエナに話を振られて私は困惑した。いやたった今来たばかりで、まだ何も具体的な手掛かりは掴んでないんだけど。
「ちょ、私を巻き込まないで!」
「だって、これ以上ここにいたって、「何もわからない」ということがわかるだけよ。それに、そもそもあなたの目的は事件を探ることじゃないでしょ。今頃は多分あなたの奴隷たちの検査も終わったころじゃない?」
「そ、それは……まあ……」
私は不承不承頷いた。それはもちろんキュリエナの言う通りなんだけど。
「もう出発してもよろしいんですよね、聖務官さま?」
キュリエナの問いに、ジメインさんは首肯する。
「一通りの検査が終わりましたら出立なさって構いませんな。なお、公平を期すため、すべての出走者の方々に、同じ時間だけ競争を待ってもらっております。その点はご心配なさらずにいただきたいですな」
そうなのか。良かった。そこは確かに気になってたのよね。
まあ、気になると言えばこの事件のことも気にはなるんだけど。
でも確かに、何もわからないというなら、これ以上この現場に留まる意味はないし、それにその必要もない。私たちの目的はあくまで、競争に勝利し、聖花の摘み手になることだ。
十分に警戒をしようとは思うが、逆に言うと、どうせ警戒する以外のことは何もできないわけだ。ならば、もう出発したほうがいいというのは事実かも。
私は犠牲者を振り返り、黙祷を捧げると、ジメインさんに一礼して、その場を後にした。
「……あなたがやったの?」
しばらく無言で歩いていた私は、キュリエナの顔を見ないまま、低くつぶやいた。
彼女は一瞬私の方を見つめたようだったが、すぐに短く答える。
「いいえ」
「……そう」
私は「何を」とは言わなかったが、もちろん、今の事件のことだ。それはキュリエナも理解しているだろう。
否定されてから、私はその時初めてキュリエナの方を振り向いた。
相変わらずの余裕を持った妖艶な微笑。あたかもヴェールのように、その微笑が彼女の内心を遮って探らせない。
「……ラツキ。なぜ私がやったと思ったの?」
「事件を起こせば私の足止めになる。実際、今私たちは競争を止められているわ。それにあなたは、私を陥れるために無関係のメイアやメガックさんを巻き込んだ前例がある」
乾いた風が微かに吹き流れた。キュリエナの銀髪が一瞬だけ一すじ揺れる。
彼女は細い首をそっと愛おしむように傾げて、私の目を見つめていた。
「じゃあ、今はそう思っていないの?」
「結果的には、足止めになっていないわよね。出走者全員が同じ時間だけ停止させられることになったから。それに、そこまでやるなら、私を犯人にでっち上げてしまえばいいのに、それをしていないわ」
例えば私の服に返り血を付けておくとか、キュリエナならできそうよね。それで本当に私を罪に落とすことはできないとしても、取り調べはされるだろうから時間稼ぎにはなるわけだし。
でも、彼女はそうしなかった。
そしてもう一つ。というより、それが一番大きな理由だけれど。
「それに……犠牲者の二人は、苦しんで亡くなったそうね。あなたは必要なら手を汚すかもしれないけれど、無意味に苦しめて命を奪うような人には、私は思えない」
キュリエナは小さな肩をすくめ、こくんと頷く。
「そうねえ。確かに私の趣味じゃないわね。だいたい、手間も暇もかかるし、騒がれるかもしれないし、時間が掛かって危険だもの。もし私が殺すなら、そんなやり方は取らないわ」
「でしょうね。……ごめんなさい」
ぺこりと頭を下げた私の頭上を、間抜けな声が通り過ぎる。
「……え?」
「……え? って、何が?」
前者がキュリエナ。後者が私の声だ。どっちも同じくらいぽかんとした表情で、相手を見つめている。
「……ラツキ、何で謝るの?」
「なんでって。あなたを殺人犯扱いしたから、ごめんなさいって言ったのよ」
「いやでも。私、あなたの敵なのよ? あなた自身が散々何度もそう言って、私を警戒してるじゃない。私は敵なのに、あなたはそんな私に謝るの?」
えー。
なんかおかしいかなあ。
キュリエナは不思議なものでも見つめるように、私に向かってまじまじと視線を注いでいる。
それは今までの、他者を韜晦するような微笑とは異なって、ちょっとだけだけれど、キュリエナの本心が覗けたような表情だった。
「それは……、確かにあなたは敵だし、油断できない存在だと思ってるけど。でもそれと、あなたを疑ったこととは無関係だし。そこは謝るべきだと思ってるんだけど。変?」
まあるく見開いた眼と、半開きになった唇で、キュリエナは私を凝視して。
そして突然、声を上げて笑い出した。けらけらと、ころころと、体を折り曲げ、腹を抱えて。
むー。なによ。失礼な女。
「あははは! あーおかしい。そう、あなたってそういう人なのね、ラツキ。いやー、いいわ、ほんとにいい」
「……何がよ。私、別に面白いことなんて言ってないけど」
憮然とした私に、キュリエナは目に浮かべた涙を指先で拭いながら向き直る。
「あのね、ラツキ。今までは半分冗談だったけど、今度は四分の三くらい本気で言うわ。ねえ、改めて、私のものにならない? 大事に飼ってあげるわよ、ほんとよ?」
「……せめて完全に本気で口説きなさいよ」
「本気で口説いたら、受けてくれる?」
「なわけないでしょ!」
もう相手にしてらんない。言い捨てて、私はさっさと歩きだした。
それでも、後からトコトコとついてくるキュリエナの足音は続いていたけれど。
楽しそうに。――とても楽しそうに。
「守護獣によって倒されたのではなく、外傷はなく、毒でもない……ですか」
出発の支度をしながら、テュロンは形の良い眉をしかめた。
今起きていることの事情は、彼女たちも聖務官さんたちから聞いただろうし、私からもあらまし説明し終わっている。
だが、話が進むにつれ、アンジェやメイアには不安の色が濃くなっていた。
「急に心ノ臓の発作に襲われたりなさったのかもしれません……」
ためらいがちにアンジェが口にした可能性に、しかしテュロンは首を振る。
「希少事案としても、一人ならまあ、あり得るかもしれませんわね。ですが、二人そろって、となると、これは考える方に無理がありますわ」
「そう……ですよね……」
アンジェはうなだれる。
もちろんアンジェ自身も、そんないくらなんでもな偶然を信じてはいまい。
ただ、一般常識の範囲で理解できる何らかの説明が欲しかっただけなのだろう。全く説明がつかないことよりも、無理でも強引でも適当に説明がついた方が安心はできるからだ。
「ご主人さま……だ、大丈夫だよ、僕がちゃんと、この目で見張っていてあげる! みんなを守るからね!」
メイアが頑張って胸を張る。
目の力を使えば消耗するというのに、そんな健気な言葉を言ってくれる彼女に私は心が温かくなる。けれど同時に、メイアの言葉に微かに震えがあるのも気づいていた。
なぜ、こうまで、アンジェもメイアも怯えるのか。
もちろん、身近で事件か事故かわからない死亡事案が発生したのだから、不安に思うのは当然だろう。だが、理由はそれだけではない。
「やっぱり、あれかなあって思っちゃうわよねえ。――『登攀者殺し』」
守護獣の背でのんびりと空を見上げながら、キュリエナがぽつりとつぶやくように言った、それが答えだった。
アンジェとメイアはびくりと背を震わせ、テュロンも不機嫌そうに唇を尖らせる。
その反応は、彼女たちが想起していたのがキュリエナの言葉通りのものだったことを示していた。
『登攀者殺し』。
それは、私がこの世界に来てすぐに調べた、都市伝説の一つだ。
あの『秘法』と並ぶ、もう一つの怪異。
もっとも、『秘法』とは異なり、この『登攀者殺し』の方は、ごく近年に噂され始めたものではあるようだったけれど。
そのあまりにストレートなネーミングは、かえって、それが作り上げられた虚構のものというわけではない実在性を感じさせもする。
いずれにせよ、『登攀者殺し』の為すことは、まさにその名称の通りだ。
登攀者を、殺すのである。
――時折、塔の中で、死体が見つかることがあるという。先ほどの犠牲者のように。
死体が見つかるということは守護獣の仕業ではない。しかも、遺品や所持金には一切手を付けられておらず、放置されている。
その犠牲者たちの相互関連性は見いだせない。評判の悪かった登攀者もいれば、先程の男女のように周りから好かれていた者たちもいる。若い人も、ベテランも。男性も、女性も、種族も問わない。ただ平等に――登攀者に死をもたらすものがいる。
その手口も不明。外傷はほとんどなく、どのようにして命を奪われたのかもわからない。
そんな不気味な存在がいると、声を潜ませてささやかれる噂。
それが、『登攀者殺し』だった。
イカレた連続猟奇殺人者なのか、それとも人知を超えた化け物なのか。
『塔』に対して絶対的な尊崇の念を抱いているこの世界の人々からすれば、その聖地である塔を血で汚すという行為自体、恐れ多いにもほどがある。それだけでも十分異常なのに、その正体がわからないに至っては、怯え、慄くのも無理はない。
『登攀者殺し』とは、そんな存在だったのだ。
「……とにかく、今まで以上にお互いしっかり助け合いながら、十分警戒して、先を急ぎましょう。大丈夫、みんなが揃っていれば、どんな事態だって乗り越えられるわ」
「……はい、ご主人さま」
私が半ば無理やり絞り出したような明るい声に、アンジェたちも同意して頷いてくれる。
彼女たちももちろん、私の言葉に何の裏付けもないのはわかっているだろうけれど、それでも私を信じ、ついてきてくれる。それが私には嬉しかった。
そう、みんな一緒なら大丈夫。みんな一緒なら。




