主人と奴隷
『ヘイ、らっしゃい! 奥さん、イキのいいスキル入ってマスヨ! これを逃しちゃあ買い物上手とは言えないネエ!』
「まあ素敵。じゃあお薦めの新鮮なスキルをいくつか見繕ってちょうだいな」
『ヘイまいど! ……って、即ツッコミから被せボケに芸風変えましたネ』
「一々あんたのつまんない小ネタに突っ込むのもバカらしいからよ」
見渡す限り純白の霞がかった世界。その白い闇の中、ひときわ下品で下劣な輝きを放つ電飾掲示板が強烈にその存在感をアピールしていた。
何とかシステム――めんどくさいのでもう名前を思い出す気もないが、とにかく私をこの世界に転移させたのがこいつだ。
私はEXスキル『ショッピング』で、任意の時にこいつの空間に入り込み、新たなスキルを買い足すことができる。
「とにかく、スキルを見せなさい」
『それは構いマセンが、そろそろポイントの残額も気になさった方がいいデスヨ』
クソ電飾の表示した言葉が正論なだけに、私は唇を尖らせた。私が買い物をできるのは、くじで当選した10億ポイント分に限られる。
最初にこの世界に来たときは結構残っていたけれど、そのあともひょいひょいと気軽にスキルやアイテムを買い足していたら、結構残額は減ってきていた。
残り5千万ポイント弱。高額なスキルを二つか三つくらい買うと、もうほとんど底を付いてしまいそうだ。
『先のことを考えずに適当に買い漁るからデス。その無計画な生き方自体を変えなければ、異世界に行ってもいずれコケることと思われマス』
「し、仕方ないでしょ! その時々に応じて必要なスキルとかアイテムを買ってたのよ! 先に何が起きるかなんてわかんないでしょ!」
『でしたら、予見や先読みをするスキルをまずお買いになれば良かったのデハ?』
「うっ……」
割と私に電流走った。言われてみれば、それが何よりも有効なスキルだったような気がする……。
「な、何で教えてくれなかったのよ!」
『聞かれなかったからデスガ?』
さすがに蹴った。
というか、そこまで来ると、単にこいつの性格の悪さとかで済ませて貰ったら困る。私はこの世界を活性化するために来てるんだから、その私のサポートをするのは、むしろこいつの目的にかなうはずなのに。
そういうと、クソ電飾は肩をすくめた――と見えるように器用に電飾の色を変えた。
『それは見解の相違デスネ。こちらとしては、あなたに世界をかきまわしていただきたいのは事実デス。だからこそ、予知予見の出来るスキルはなるべくご紹介したくはアリマセン。事件の芽を摘むのではなく、むしろどんどん事件を起こしてほしいのデスカラ』
「……それで私が死んだりしたら?」
『ケーッ、使えないナー! とか言いながら他の誰かを探しマス。面倒くさくて迷惑デスカラ簡単に死なないでクダサイ』
「迷惑するのはこっちよーっ!!」
蹴り飛ばした。
……が、そこで一つ、わかったことがある。わかったというか、まあ多分そうだろうなと思っていたこと。
もし私が死んだ場合、すぐにというわけではないかもしれないが、次の誰かが新たにこの世界に送り込まれるのだ。
――ということは、きっと……。
……まあいいや。どうせ直接聞いてものらりくらりと答えないんだろうし。
私はそのあとも、クソ電飾とバトルを繰り広げながら、いくつかのスキルを買った。
しかし、残額が乏しくなってしまったのは事実。このEXスキル『ショッピング』は、使わないスキルの下取りをしてもらうこともできるのだから、そうやってポイントを増やしていくことも真剣に考えないといけないかな。それこそ、今後何があるかわからないんだし。
――と、塔に入る前に、そんな感じのやり取りがあったわけだった。
その時購入したスキルのうち、ESスキルの「乗馬」が、今、役に立ってくれている。
私とメイアが同じ守護獣。アンジェとテュロンがもう一匹の守護獣に乗り、私たちは荒野を疾走する。
メイアが選んでくれたこの守護獣たちは、小さな体躯ながらもその速度は速く、走りには安定感があった。仔馬ほどのちっちゃな体で、二人ずつを乗せて平気だなんて、さすが守護獣と言ったところね。
しかし、生き物に騎乗し、荒野を高速で走らせるというのは、舗装された道路をサスペンションの効いた車で走るというようなわけにはいかない。
それはもうすんごい勢いでがっくんがっくんと体中が振り回され、細胞がシェイクされて美味しいジュースになりそう。スキルによる助けがなかったら一瞬で振り落とされていたかも。
もっとも、慣れれば何とかなるものではある。
要は、守護獣の体の動きに逆らわず、自分も合わせて柔らかく衝撃を吸収すればいいわけだ。……って、口で言うのは簡単なんだけどね。
まあ、私にはスキルがあり、アンジェは元貴族だから乗馬のたしなみがある。
残り二人が問題だったが、テュロンは最初のうちこそ振り回され、落ちそうになりながらも持ち前の豪力で何とかしがみついていた状態だった。
けれど、彼女の武術の素養はこんなところでも役に立つ。すぐに程よい脱力とタイミングの合わせ方を覚えたようで、多少ぎこちないながらも、乗るだけならしっかりと騎馬することができるようになっていた。もちろん、御するのはアンジェに任せていたけど。
そしてメイアだが、彼女は意外だった。
彼女は献納奴隷となるべく育てられ、友達もできないほどに箱入りで育てられた、外の世界を知らない子。それだけに騎馬の技術などないと思っていたが、テュロンよりも先にすんなりと乗れるようになっていたのだ。
波。
メイアがこの二匹の守護獣を見出したのは、彼女の右目が、守護獣たちに内在する力を察したからだ。オッドアイであるメイアの右目には、ものの内部に秘められた、常ならざる力を、「波」として認識し把握する能力があるらしい。
メイアはその右目の認識力によって、高速で走る守護獣の激しい動きを波として捉え、それにすんなり乗っていくことができたようだった。
単に能力というだけでなく、メイア本人の素直な性格も寄与しているのかもしれないけどね。
荒野と言ってもただ荒涼とした大地が広がっているばかりではない。私たちがさっき降りてきたような切り立った岩山があちらこちらに点在している。まるでこの地を侵す登攀者を睨みつけ、襲い掛かってくるような迫力で。
そんな岩山地帯に差し掛かろうとした時、アンジェが私に呼びかけた。
「ご主人さま、見えました!」
前方に視線を送り、砂煙が立っている様を確認する。同じように守護獣に騎乗している、私たちに先行していた他の登攀者たちだ。
私たちはあの崖をクリアするのに時間がかかってしまったので、他の登攀者たちにやや距離をあけられてしまっていた。だが、メイアの選んでくれた守護獣の健脚もあって、追いつくことができそうだ。
と言っても、私たちに先行しているのは、私と同時にスタートした組。つまり、10階層に到達したばかりかそこらの、まだ経験が浅い人たちだ。
だから、追いついたと言っても慢心はできない。本当に手ごわいのは、先にいる人たちではなく、この後から来るベテランの人たちなんだから。
だからこそ、どんどん先へ進む必要がある。
「アンジェ、一気に、前の人たち、抜くわよ!」
奮い立ってスピードを上げようとした時、テュロンが慌てたように叫んだ。
「お待ちくださいませ、ご主人さま! 迂闊には前に出られませんわ! 人数が!」
えっ、と一瞬戸惑い、そしてすぐに理解して、私は急いで守護獣の速度を緩めた。
私たちの前に並走している登攀者たちは、5人。その先にもさらに何人か。
そして、私たちの人数は4人。
つまり――むやみに前進し、前の登攀者たちを抜き去ろうとすれば、その時点で人数制限に引っかかってしまうのだ。
この塔の中では、同じ隊を組んで行動できるのは6人まで、というルールがある。
その6人を超過した人数で行動すれば、塔による制裁が下される。それを、私は初めて塔に登った時に教えられていた。
「……そういうことね……!」
私は舌打ちして前を睨みつけた。前方の登攀者たちとの距離は、前の世界での感覚で言えば、およそ100mから150mくらいだろうか。ダッシュを掛ければ抜いていけそうな距離だが、これ以上先へはいけない。
先行する登攀者たちは、守護獣を走らせながらも、ちらちらと私たちの方を振り返り、それぞれの距離を調節していた。
人数制限を利用し、意図的に私たちをブロックしている、というわけだ。
イラつくが、でも仕方ない。
もちろん、聖花の摘み手の競争に出場する登攀者が、競争相手自体に攻撃を仕掛けたりすることは許されていない。だが、こうやって前に出さないようにするのは正当なテクニックであり、駆け引きのうちに含まれるだろう。
よく前方を見渡すと、私たちの前にいる5人だけではなく、さらにその前にいる登攀者たちも、やはり同じように広がって後続をふさいでいる。だから、彼ら自身も前に行けないわけだ。お互いにガードし合っているわけか、この集団は。
スタート時には出遅れた私たちがすぐに追いついてこられたのも、その辺が理由かな。
単に私たちの守護獣の能力が高いからというだけではなく、先行した人たちがお互いにこうやって牽制しあっていたためにペースが遅かったから、って部分もあったわけね。
しかし、仕方ないと言ってばかりもいられない。
なんとかこの現状を打開しないと。
私は何度か前方集団に近づいて突破を試みようとしたが、そのたびにうまく距離をコントロールされ、二の足を踏む。
確か、20mくらい……そのくらい離れていれば、ぎりぎりで同一集団認定されないはずなのだけど。その距離を保ったまま抜きに出るだけの隙間を、なかなか見出すことができない。
いっそのこと、集団の外側を大きく迂回して抜くか、とも思ったが、既に岩山地帯に入ってしまっていた。私たちの両側には峻険な崖が聳え立ち、回り込んで進むだけの余裕がない。
「ど、どうしましょう、ご主人さま!」
焦りを含んだアンジェの声が風に乗って響く。このまま、少なくとも岩山地帯を抜けるまでは、集団の最後尾に位置して我慢しているしかない時間帯なのだろうか。
しかし、聖王の樹を目指しているのは、この集団だけではない。塔の全周から同時に中央へ向かってスタートしているのだから、他の地域ではもっと速いペースで聖王の樹に近づいている人たちがいる可能性が高い……。
私が歯噛みしながら思い惑っていた時。
不意に、私と同乗していたメイアが呼びかけた。
「ねえご主人さま! あっちの方から、何か来るよ!」
メイアが細い指をついと示す方向には、だが岩山がそびえ、何も見えない。
しかし、彼女の右目を覆う髪は風に吹かれて靡き、そこから覗く紫色のオッドアイは、炯々と輝きを放っていた。
はっと気づく。
メイアの右目が見るものは、超常の力の「波」。
彼女は今、岩山の陰から、「波」が――何かの力持ったものが来ると認識したのだ。
「メイア、数は? 速度は? 勢いは?」
「え、えっと、いっぱい! 速い! すごく荒々しいよ!」
そっか、いっぱいで速くて荒々しいか。曖昧だけど、それがわかれば十分ともいえる。
逡巡する時間はない。私は、メイアと、そして傍らを走るアンジェたちに呼びかけた。
「メイア、その波が岩陰から出てくる前に声を掛けて! アンジェ、メイアに合わせて前に出るわよ! 大変なことになりそうだから心の準備もね!」
「う、うん!」「わかりました、ご主人さま!」
さっと緊張感が私たちの間に漲った。こくり、と生唾を飲んだ一瞬。メイアの声。
「来るよ、ご主人さま!」
「行くわよ!」
そのメイアの声と同時に、私たちは猛然と守護獣を奔らせた。蹄の音が乾いた虚空に響き渡る。
ひび割れた大地を蹴りたて、砂塵を巻き上げて、守護獣は疾駆する。
行き先を塞いでいた登攀者たちは、私たちが凄まじい勢いで近付いてくる姿を見て驚愕の表情を浮かべた。まあ、このまま近づくと塔の制裁を受けて全滅だしね。
だがもちろん、私だって死のうなんて気はない。
制限距離に入るかどうかというぎりぎりの瞬間――
同時に、岩山の陰から一団の白い影が津波のような勢いで突出した。
石礫を蹴り飛ばして荒れ狂い、大地を踏み割る勢いで、いななきを上げて暴れまわる、それは守護獣。目を血走らせた、猛牛型の守護獣の群れだった。
一度この10階層を下見で見に来た時に、私たちの今またがっているようなこの馬型の他にも、牛型の守護獣もいたことを思い出す。
ここに暴れこんできたのは、それか。
突然の乱入者に、他の登攀者たちは仰天し、隊列を乱して逃げ惑う。あるものは守護獣から降りて岩肌を登り逃げようとし、あるものは馬首を巡らせて後退しようとし、千々に乱れて混乱の極を呈した。
だが、その混乱の中、糸一筋ほどの勝利への道を迷いなく見通す瞳が、ここにある。紫色に美しく輝く澄んだ瞳が。
人と守護獣で作り上げられた、文字通りの巨大な「波」。
それを潜り抜けるべき僅かな間隙を、メイアのオッドアイが見極め、私たちに口早に指示を下す。私とアンジェはそれに応じ、右に左に手綱を捌き、あるいは緩に、あるいは急に速度を操りながら、その大波をかいくぐっていく。
一歩間違えれば私も守護獣に跳ね飛ばされるか、あるいは他者との距離感を見誤って6人制限に触れ、塔の制裁を受けるかだ。冷や汗すらかく余裕はなく、呼吸することさえ忘れそうになる。意識自体がトビそうになるのを必死で繋ぎ止めている感じだ。
それでも、かろうじて私の守護獣もアンジェの守護獣も、大混乱の岩場から抜け出すことを得た。
私たちが騎乗していたこの小さな守護獣は、それゆえに小回りが利き、あの大混乱の中を、うまく泳ぎ渡ってくれたのだ。
まだ続いている喧噪を後ろに置き去りにしながら、私たちはなおもしばらく走り続け、しばらく行ったところでようやく一息を付いた。今になって、嫌な汗がどっと噴き出てくる。
確認すると、アンジェもテュロンもメイアも、憔悴しきった顔つきだった。
「あ……ありがとう、メイア。あなたのおかげで助かったわ」
頬にへばりついた髪を払いつつ、ほっとしてメイアをねぎらうと、彼女は照れたようにその美しい顔に笑みを浮かべた。
「えへへ。嬉しいな、ご主人さまの役に立てて……」
だが、そこまで言いかけて、メイアはぐったりと私の背にもたれかかった。
「メイア!?」
「だ、大丈夫だよ、ご主人さま。でも、ちょっと疲れるんだ、あれ使うと」
息を荒げて、メイアはふらつく頭を支えようとしていた。そうか。彼女の薔薇色の頬から血の気が失せていたのは、ただの緊張からだけではなかったのか。
あの眼を使うのは、やはり消耗するということなのか。確かに、あれほどの効力ある能力なら、それはそうよね。
メイアのように可憐な少女に負担をかけてしまったことに忸怩たる念を抱きながら、私は少し馬足を緩めた。
いや、メイアの前にも、先程の崖を降りる際、すでにアンジェにも無理を強いている。
本当ならみんな、止まって休ませてあげたい。というより、よほどそうしようかと思った。
でも、とにかく前に進まないと。進んで聖花を摘まないと。その切迫感が私を突き動かす。
いつ休むか。どこで休むか。どれほど休むか。そんな取捨選択も、私のちっぽけな器と悪い頭には厳しい難問だ。
登攀者は、武力が優れていればいいというものではない。ユーゼルクの言葉に改めて思いを致しながら、私はそれでも進まざるを得なかった。
幸いなことに、その日は、それ以上トラブルには出会わなかった。
いやまあ、峡谷のどこを渡れば時間的に短縮できるのかとか、山を超える際は、距離的に近い方向よりも、多少遠回りでも地形的になだらかな方向へ回った方が結果的に早く進めるのだろうかとか、そういう問題で悩まされることは色々あったけどね。
今まで、いかに「何となく」で塔に登ってきたのかを痛感させられる。まあ、これまでの登攀は、別に時間との戦いではなかったから、割と行き当たりばったりでもなんとかなってたんだけど。
ともあれ、もうすぐ日が沈む。
と言っても、塔の中なんだから、日が登ったり沈んだりすることは実際にはなくて、あくまで塔の内部照明が切り替わるだけなんだけどね。でも、感覚的に登攀者はみんな、日が登る沈むという言い方をしている。
普段の私なら、暗くなって来たら、もう結構早めに休息をとってしまう。
でも、今はそういうわけにはいかない。少しでも距離を稼がないと。
「ご主人さま、まだ進むのでしたら、光を灯しましょうか?」
アンジェが聞いてきた。彼女は光魔法の使い手だから、道を照らしてもらうことはできる。しかし、ちょっと考えたけど、私は首を振った。
今日の行程が強行軍だったのは自覚している。崖から降りるときにもアンジェには無理してもらったし、少しでも魔力の消費を抑えてもらいたい。魔法使わなくてもいい場面では使わないで済ませた方がいいよね。
私は松明を取り出して火をつけ、手にかざした。守護獣はさすがにただの動物ではないようで、火を恐れないでいてくれるのはありがたい。
もっとも、騎乗してる人間が火を持ったところで、実はあんまり先々まで見通すことはできないのだけど。自動車のヘッドライトみたいに光を遠くに投げ掛けるわけじゃないものね。
私が松明を付けたのは、実はカモフラージュという側面が強い。火をつけてるから夜道を行けますよ、という理由づけだ。
じゃあどうやって実際には夜道を進んでいるのか。
――『ノクトビジョン』。
答えは、手に入れたばかりの、私の新しいEXスキルだ。
文字通り、闇を見通すことができる能力。地味ながら便利な力、とも思える一方、逆に使いどころに困りそうかも、という気もして、購入する時にはちょっと迷ったのだけど。
ただ実際に夜の中を歩いてみると、このスキルは確かに視界を開かせてくれる。あればあったで、損になることはない力だろう。
ノクトビジョンのスキルでしばらく夜道を進み、これなら結構距離を稼げるかも、と思っていた時。
不意に、テュロンが声を上げた。
「アンジェ、止まってくださいな」
アンジェが慌てて手綱を引き絞る、が、テュロンは完全に守護獣が静止するより前に素早く地面に飛び降り、私たちの方へと走り寄ってきた。
何なに? と驚いている間もなく、テュロンは大きく手を広げて――守護獣から落ちかけたメイアを抱きとめたのだ。
「えっ……!?」
息を飲む。夜道なのでもちろん速度は出していなかったとはいえ、テュロンが受け止めてくれなかったら、メイアは地面に叩きつけられていただろう。
「あっ……ご、ごめんなさい」
メイアはテュロンの腕の中ではっと我に返ったようで、小さな声を上げた。
眠りかけていた……というより、半ば意識を失っていたのかもしれない。
メイアの小さな体は、もう限界に近かったのか。
蒼白になりながら私は守護獣を止め、下馬して彼女たちの元へ歩み寄る。
「メイア……きつかったら、言ってくれればよかったのに。頑張りすぎちゃだめよ」
メイアの頭をなでながら言った私に、彼女はすまなそうに答えた。
「だって、ご主人さまたちは僕のために……それだけじゃないけど、でも少なくとも一部は僕のために出場してくれているんだもん。だったら、僕が一番我慢しないと、って思ったんだ」
言葉を失う。
もちろん何度か小休止を挟んではいたけど、それでも、メイアがここまで疲労していたと私は気づけなかった。いや、メイアが、この事態は自分のためだと考え、辛い中でも我慢してくれている、という彼女の考えに気付けなかったのだ。
……何度目だろう。自分がダメ主人だと思うのは。
私は胸の奥が押しつぶされそうな感覚を覚えながら、皆を見回して言った。
「今夜はここまでにしましょう。テュロン、野営の支度するから手伝ってね。アンジェ、メイアを診ていてあげて」
「そんな、ご主人さま! 僕、もうちょっといけるよ!」
抗議したメイアの頬を、両手でそっと挟む。
「駄目よ。ここで潰れてしまったら、何にもならないわ。今日は十分な距離を走れた。大丈夫よ」
「……うん……」
しょんぼりと、けれど素直にうなずいたメイアをアンジェに任せ、私とテュロンは野営の準備を開始した。
本当なら私がメイアについていた方がいいのだろうか。でも、テュロンだけに支度を任せるのもどうなんだろう。そんなふうに頭をぐるぐるにしながら、とにかく手だけを動かす。
……主人って、どうあればいいのかな。なんだかもう、色々テンパっちゃうよ……。
パチパチと火の粉が爆ぜ、闇を照らす。
ことこと、と、火にかけた小鍋が揺れる。
食事を済ませ、今、一息を付いたところだ。小鍋で作っているのは薬湯。最初に塔に入った時、ガイモンとペカに教えてもらったように、こうしたもので心身をリフレッシュさせるのも大事なことだしね。
「……なんか今日はごめんね、みんな」
揺らめく炎を見ながら小声で謝った私に、アンジェたちはきょとんとした顔を向ける。
「色々、みんなには無理をさせちゃったわ。みんなの主として、もうちょっと、ちゃんと指揮を取れなきゃいけないのに」
それが今の私の偽らざる本心だった。みんなを守るのが、主人である私の務めなのに、実際には無理をさせてばかり。ああ、凹むなあ。
だがその私の言葉に、アンジェとテュロンは、何か意味ありげに顔を見合わせた。何だろう、と不思議に思っていると、テュロンとこくんと頷き合って、アンジェが口を開く。
「あの、ご主人さま。テュロンと最近よく話すことがあったのですが、お伝えしてもよろしいでしょうか」
「……なあに?」
ちょっとどきりとしながらアンジェの言葉を待つ。もしかして、主人失格だとか言われたりしないだろうか、とか、そんな不安が一瞬脳裏をよぎる。
……だけど。
アンジェはそっと立ってきて、私の隣に座り、手を取った。きゅっと力を込めて握った手は暖かく、柔らかく、そして優しかった。
「ご主人さまは、最近、御無理をなさりすぎているように見えます。どうか、もっと力を抜いてください。私たちは、そのままのご主人さまをお慕いしているのですから」
「無理、を……? あなたたちじゃなくて、私の方が?」
よくわからない。無理なんかしてたかな。ピンと来ないけど、でもアンジェの眼差しはまっすぐで、その心情を雄弁に映し出していた。
そんな私たちに、反対側の隣に座ったテュロンも口を添える。
「端的に申しますと、ご主人さまは、良い主人であろうとなさりすぎているように思えるのですわ。奴隷にとって良い主人であるということはどんなことなのかと、それを必死で模索なさって、そのあまりに、肩に力が入りすぎているように思えますの。特に、あの伯爵夫人の事件のあたりからは、それが顕著でしたわ」
ぽかん、と間抜けに唇を開けて。
それから、猛烈な勢いで衝撃と気恥ずかしさが私の胸の中を焼き尽くした。
うわ。うわ。うわあ。
見抜かれてた。そのうえ、気遣われてた。
ヤバい。マジ恥ずかしい。何この羞恥プレイ。
……確かにね、確かに、それは事実なのよね。
アンジェを買ってから、私はずっと、奴隷の主とはどういうことなのか、そしてどう振る舞えばこの子たちの良い主人となれるのか、について考え続けていた。
特に、この間の伯爵夫人の事件が一つのきっかけになったのも、言われた通り。あの事件は、主人としもべとの関係について、私にいろいろ深く考えさせるものだったからだ。
奴隷の主人としてどうすればいいかなんて、前の世界から来た私は、知らない。知るわけがない。
だけど、買った以上、私はアンジェたちの人生について全責任を負うんだ。だから、いい主人にならなきゃ。頑張って、いい主人に……。
――そう、考えすぎて。思考がぐるぐるになって、背伸びしすぎて。そのあまり、転びそうになっていたのかも、知れなかった。
硬直した私の手を取って、アンジェはそっと唇を寄せる。熱い感触が、手の甲に伝わった。
「……ご主人さま。変な言い方ですけど、ご主人さまであろうとなさりすぎないでください。……いいえ、ご主人さまの中にある理想の姿に自分を当てはめようとなさりすぎないでください。私にとって、ご主人さまは、そのままのお姿で、世界中の誰よりも素晴らしい、たったひとりの私のご主人さまなのですから」
アンジェの言葉がじんわりと沁みとおる。爽やかな清水に心が浸されたみたいに。続いて、テュロンもくすくすと笑いながら言葉を受けた。
「それにご主人さまは、最初から、いわゆる奴隷の主人としては失格なのですわ。優しすぎ、そして私たちを可愛がってくだされすぎますもの。奴隷と主人という一線を引くことに、もともと失敗なさっておられますわ。
でも、それでいいのではございません? 私はそんなご主人さまを……ふふふ、そんなご主人さまをお慕いしていますわ」
うう。テュロンは相変わらずズバズバ言ってくれる。最初から失格とか、何よ、もう。
……でも、そうなのかもね。
私は、彼女たちを愛していて――そして、愛している時点ですでに、理想の主人ではありえないのかもしれなかった。
主人と奴隷との関係は、本質的にはやっぱり、一種の規律と秩序に基づくものだろう。そこに副次的には慈愛や情愛や性愛が介在する余地はあるとしても。
でも私は逆だ。まず彼女たちを愛してしまい、そこに副次的に上下関係があるという形になってしまっている。
……はあ、と私はため息をついた。なんてことだ。一生懸命「理想の主人」としてのあるべき姿を探していたら、最初からそんなものから道を外れていたのか。
そんな私の肩に、ぽんと手がかけられる。メイアが、澄んだ瞳で私を見つめていた。
「僕、難しいことはわかんないけど。でも、さっきご主人さまが僕に言ってくれたこと、僕も言うね。頑張りすぎちゃだめよ、って」
「……あはは。はい、気を付けます……」
可愛いメイアの言葉に、私は苦笑を浮かべて頷いた。そう言われると確かに、思いっきりブーメランだったわけね。
――でも、なんだかすっきりしたかも。
もちろんこれからも、彼女たちにとって、よりよい自分であろうとする気持ちは変わらない。
でも、奴隷の主人としてどうあるべきかとか、人の上に立つものとしてどうすればいいかとか、そういう考え方だけに囚われるのはやめてもいいのかな。それも一つの方向性だけど、まず私は私として、ちょっとだけいい私を目指していこう。
そう思いながら、私がアンジェたちに笑いかけた時。
不意に、夜の闇の奥から、楽しげな声が降り注いだ。
「なぁんだ。自分たちで気づいちゃったのね。ちょーっと、残念かしら」
雷に撃たれたように私たちは身構え、その声が聞こえた方向を凝視する。
ゆらりと闇の中から滲み出すように、あるいは湧き立つように。
その人影は軽やかに歩み寄る。
銀髪に銀の瞳。褐色の肌に艶やかな朱唇、そして微かに覗く白い牙。
妖艶にして淫靡な雰囲気をこれ見よがしに纏わりつかせた、その美女は。
――もちろん、キュリエナ以外にありえなかった。




