競争初日と最初の問題
星々を覆い隠すように屹立した高層ビル。月の輝きを消すほどに眩いネオン。林立する街灯の光と無機質に行き交う自動車のヘッドライトは暗闇を駆逐し、深夜でも絶えない人々のざわめきがかまびすしくコンクリートに反響する。
……そんな光景がふと脳裏に浮かんで、私は軽く瞼を閉じた。
もう5か月なのか、まだ5か月なのか。いずれにせよ、置いてきた過去の世界。
以前の世界にもう未練はないけれど、それとは別に、追憶や郷愁が鈍い色で胸の奥に疼くことはある。それはある意味当然ではあるだろう。仮にも私を30年近く育ててくれたのはあの世界なのだから。
――いや、「30年近く」であって30年ではないけどね! 決して! まだ!
……こほん。まあそれはともかく。
何故そんな光景をふいに幻視したのかと言えば、今、この目の前の景色が、どことなくそんな都会の夜を思い出させてくれたからだった。
聖殿前の大広場には黒山の人だかり。まだ夜明け前だというのにだ。
眠らない街・聖都と言えども、普段ならこんな時間にうろつきまわるのは登攀者くらいのもの。まあ、そんな登攀者目当てのお店も開いているところもあるけれど、通常なら、一般市民はさすがにまだ眠りの中にいる時間。
けれど、今日は違う。
広大な広場の隅々まで照らし出すように飾り灯篭が明々と光を投げかけ、興奮した人々のざわめきが眠る野鳥を驚かす。そんな眩しくも賑やかな夜の一幕が、かつての世界の夜の景色と被り、一瞬、私に過去の幻を見せたのだった。
この賑わいも無理はない。今日はいよいよ聖王祭の初日。そして、聖花の摘み手を選ぶ競争の初日なのだから。
競争に出場する登攀者たちだけではなく、それを応援し、また賭けに興じる多くの人々が群れを成して、この広場を埋め尽くしているのだった。
聖殿の壁、出場者の告知が為されている掲示板の隣には、巨大な水晶板が新たに設置されている。私たち登攀者が所持している魂魄板をものすごく巨大にしたような感じのもの。
この水晶板に、塔の中の登攀者たちの様子が時折映し出されるのだという。
ちらりと10階層の景色を眺めたことがあったが、不思議な水晶柱があちらこちらに立っているのを見て不思議に思ったものだった。あれが映像を捉えて塔の外に送り、この巨大な水晶場に映し出すのだとか。
人々はその私たちの映像を見て、競争の行方に一喜一憂するというわけだ。すっかり公共の娯楽なのね。
「ラツキさーん! 頑張ってくださいねー! 一発当ててくださーい!」
のんきに呼ぶ声が聞こえて、私は瞳を開け、苦笑する。
ラフィーネさんが、人ごみの中からぶんぶん手を振り回していた。……っていうか、聖務官が口にする言葉ですか、それ。
ラフィーネさんの隣には、リアンディートも控えめに手を振ってくれている。そしてそのさらに隣には、メガックさんが手を組み合わせ、祈るような面持ちで心配そうに私たちを見つめていた。
私の掛け率は一時期53倍まで上がったが、その後、メガックさんが私に大金を掛けたため下がり、結局50倍ちょうどで決定していた。ぎりぎりだったなあ。
まあ、あとは勝つだけだ。それが一番難しいんだけど。
とはいえ、その一見アホっぽいラフィーネさんの言葉で、私たちの緊張は少し緩和された。もしかしたら、そこまで考えてくれたのかな? ……なんてのは買いかぶりすぎかしら。
そんなことを考えていた時、空の片隅から一筋の輝きが刺し込めた。日の出だ。
同時――
私たちを含めた出場者は、一斉にスタートする。競争の幕開けだ。
怒涛のように登攀者たちが走り出す。聖殿の中を通り、塔へ向かって。
人の波がこれほどの勢いだと、身長の低いガイモンやペカ、それに華奢なフォン=モウンは弾き出されてしまうのではないか、と一瞬心配になった。けれど、人の身を案じている余裕は私たちにもない。今はとにかく一歩でも早く塔にたどり着くことを考えるのみだ。
実は、これ程の人数でもまだ、参加者のすべてではないのよね。
競争の参加者は、それぞれ、到達した塔の階数によってハンデが与えられる。
私は10階層にたどり着いたばかりだから、夜明けと同時のスタート。しかし、例えば20階層までたどり着けている人は少しあとの時刻からの開始になる。25階層や30階層まで行けている人はさらにそのあと、といったような仕組み。
――もちろん、誰よりも塔の頂上に近い男であるユーゼルクは、最後のスタートになる。
彼がスタートする前に、できるだけ距離を稼いでおきたいところね。
それにもう一つ、なるべく余裕を持っておきたい理由がある。
私は、脳裏に妖しい美貌を想起した。
……あのキュリエナが、どこで何を仕掛けてくるかわからないのだから。
登攀者たちは聖殿を走り抜け、塔へとつながる天移門へ次々と飛び乗っていく。
私たちも比較的早い順位で、天移門へと入ることができた。すぐに周囲が青白い光に包まれ、転送が開始される。
塔の内部は、その円周外縁に沿っていくつもの天移門が並んでいる。外から入ったり、また下の階層から上がってきたりする場合は、この塔周縁部の天移門へと送られるわけだ。塔の上層階へと登るための天移門は各階層の中央にあるだけだけれど。
今回の競争の目的は聖王の樹へたどり着き、聖花を摘むことだけれど、その聖王の樹は中央天移門の傍らにある。結局は塔の中央を目指すことに変わりはない。
しかし、外から入ってきた場合、または下の階層から登ってきた場合は、どこの周縁天移門へ送られるかはわからない。完全にランダムだ。
10階層は荒野の地形。どういった場所に出るかによって、スタートダッシュに差が出そうだ。スタートしやすい地点に送られるといいな、と願いつつ、周囲を包んでいた光が薄れていくのを見守る。やがて光は消え、私たちは塔の10階層へと転移した。
一歩足を踏み出して、周りを見回す。
見回して、
「……うわぁ」
私は思わず、顎をがっくりと落として虚ろな声を出さざるを得なかった。
崖。
私たちが出たのは、切り立った断崖絶壁の上だった。まるで嘲り笑うような乾いた風が一陣、私の頬を叩いて吹き過ぎていく。
おそるおそる崖の先端まで行って下を覗いてみる。ほぼ垂壁の岩棚が、まあ20mほどの高さで聳え立っているのだろうか。
遠くを見渡すと、平野部に転移されたほかの登攀者たちが、塔の中央へ向かって次々と疾駆を開始している。崖の上に移送されたのは私たちだけみたいだ。
「ど、どうしましょうか、ご主人さま」
不安げなアンジェの声に、私は我に返る。ぼけっとしている間はない。一刻も早く行動を開始しないと。
しかし……どうすればいいの、これ。
この切り立った崖を降りる?
まあ、できなくはないかもしれない、私なら。私の他に、テュロンもいけるかも。でも、アンジェとメイアは無理ではないだろうか。
登攀者である以上、備品として綱は用意しているけれど、その長さは10mほどでしかない。長さが十分なら、例えば綱を体に巻き付け、テュロンに崖の上から吊り降ろしてもらう、ということもできたかもしれないけど……。
「と、塔に入りなおすこともできるんですよね?」
アンジェがすがるような目で私を見てくる。
彼女の言う通り、いったん私たちが入ってきた天移門から塔の外に出て、もう一度入りなおすことは可能だ。そうすれば、また別の場所に転移できる。崖の上じゃなく、平野部に出られるかもしれない。
しかし、問題もある。
というのは、一度塔の外へ出て入りなおすと、ペナルティとして時間が加算されるのがルールなのだ。一度の入り直しに付き、ロウソク一本が燃え尽きるだけの間、塔の外で待っていなければならない。私の前の世界の時間感覚で言えば、一時間ほどだ。
一時間……。
それだけのペナルティを受けても、塔に入りなおすべきだろうか。
でも、一時間というのは結構大きいロスよね。加えて、入りなおしても、必ずスタートしやすい場所に転移できるとは限らないわけだ。最悪、ペナルティを受けた上で、さらにもう一度、崖の上や、あるいはもっとひどい足場のところに送られることだってあり得る。
……認めたくないが、そういう意味では、私は自分の運を信用してないのよね。
「……ここから降りましょう」
私は決断した。いつもの私なら安全策を取るところだけれど、今は多少の危険を犯しても前に出るべき時だろう。
「で、でも、この高さを降りるのですか?」
やや震え声のアンジェに続いてテュロンも首を捻る。
「アンジェやメイアを庇いながらこの崖を降りるのも、結局は入り直しと同じくらい、あるいはそれ以上に時間がかかると思われますが……」
と、そこまで言って、テュロンはぱっと顔を明るくさせ、ぽんと掌を叩いた。
「あ、いえ、そうですわ。アンジェを使うのですわね?」
「ええ。アンジェの風なら、ね」
私はテュロンの言葉にうなずく。
そう、私が思いついたのは、いわばバンジージャンプだった。この崖から一気に跳んで降りるのだ。
もちろん、実際のバンジージャンプは弾力性のあるロープを使って落下の衝撃を吸収する。それに対し、今私たちが用意している綱にはそんな弾力性はない。
けれど、私たちにはアンジェがいる。風使いのアンジェが。
彼女の風に乗って、それをクッションのようにし、緩やかに下まで降りることはできるのではないだろうか、と私は考えたわけだ。アンジェの風に、人一人分くらいを持ち上げるほどの威力があることは、この間の「淀み」との戦いや、第9階層での大蛇との戦いで実証済みだし。
まあ、この先何があるかわからないし、なるべくアンジェの魔力は温存しておきたいという気持ちもあるけれど、出し惜しみしすぎて全てを棒に振っては何にもならないものね。
「うわあ、面白そうだね、それ!」
無邪気にはしゃぐメイアに苦笑しつつ、私はアンジェを振り返る。
「アンジェ、やってくれるわね?」
「は……はい……いえ、あの……」
だが、アンジェの答えは歯切れが悪かった。不思議に思って彼女を見つめる私の前で、アンジェはそろりと崖の先端に近寄りかけ、しかしすぐにそこにしゃがみ込んでしまった。
「アンジェ!?」
驚く私たちに、アンジェは震える肩を自分で抱きしめる。その美しい容貌が、今は真っ青になるほど血の気を失っていた。
「も、申し訳ありません、ご主人さま。私、駄目なんです……高いところ」
歯の根をかたかた言わせながら、アンジェは涙目になって訴えてきていた。
愕然とする。……確かに、さっきからやけにアンジェの様子が落ち着かないとは思っていたけど。
うわあ。よりによって、アンジェ、高所恐怖所かあ……。
魔法の行使には高度な精神集中が必要なものらしい。こんな状態のアンジェに魔法を使わせるなんてちょっと無理っぽい。崖に背を向けて魔法を使ったらどうか、とも一瞬思ったけど、それでは正確な魔法制御ができないだろう。
仮に強引に魔法を使わせたとしても、私たちが宙に浮いている途中で風が消えてしまったりしたら目も当てられない。
それになにより、こんなに怯えているアンジェを叱咤するなんてしたくないし。
仕方ない。バンジー作戦は放棄して、一度塔から出るしかないか。
……私が諦めかけた時、テュロンがアンジェの元に歩み寄った。しゃがみ込んでいるアンジェの傍で自分も膝を曲げ、テュロンはアンジェの震える肩に手を掛ける。
「ねえアンジェ。高いところが怖いというのは仕方がないことですわ。怖いという気持ちは無理やりねじ伏せようとしてもなかなかそうはいきませんものね。……ですが、なぜ怖いと思うのでしょうか? それが問題なのですわ」
何を言いたいのか、と私もアンジェもテュロンを見つめる。テュロンはそんな視線に拘泥せず、ピンと指を一本立てて、続けた。
「私思いますに、高いところが怖いのは、高いところが高いから怖いのですわ。高いところが高くなければ高くないので怖くないのですわ」
「え?」「え?」「え?」
――えっと、すいません、何が何ですって?
そんな思いを共有したのだろう、私とアンジェとメイアの間抜けな声が重なる。いやそんな声だって出るよ。
テュロンの言うことは時々ついていけなくなる。時々じゃないかもしれないけど。
不得要領な顔をしている私たちの前で、テュロンは栗色の縦ロールをふぁさぁっと後ろに靡かせ、得意げに弁じた。
「わかりやすく申し上げますわ。この崖が高いように見えなければ、ある程度心を落ち着かせて魔法を行使できるのではありません?」
あ、と、アンジェと私はぽかんと口を開ける。
そっか。幻影だ。
風魔法を使うだけではなく、同時にアンジェの光魔法で景色を屈曲させ、この崖の高さを歪めて見せれば、アンジェの恐怖心も多少は抑え込めるのではないか、とテュロンは言っているのだ。
もちろん、事実として崖の高さを頭ではわかっているわけだから、まるで平気というわけにはいかないだろう。それでも、視覚情報をごまかすというのは、結構心理的な影響として大きいと思える。
「私、やってみます!」
アンジェはきっぱりと頷き、杖を支えにして立ち上がった。
アンジェの頭上に光輪が、その背中に光翅が現出する。
崖の先端には、あらかじめ私が目印となるような小さな杭を刺し込んである。アンジェはまず、崖の先から離れたところで光魔法を展開。景色がぐにゃりと歪む。そのまま、一歩ずつ、そっと彼女は前へと進んでいく。進むと同時に、歪んだ景色、つまり魔法の範囲も前へと延びる。
目印の杭まで歩み出て、アンジェはふうと大きく息をついた。
彼女の目の前には、さらに数mほど先まで地面が伸びている――ように、見える。
だがもちろん、この目印の杭から先は幻影だ。はるか崖下の地面の光景を、光を歪めて目の前に投影したものに過ぎない。……そうと頭ではわかっていても、大したものね。全然幻には見えないな。うっかりすると私もその先に足を踏み出してしまいそう。
これなら、アンジェも大丈夫かな。
そっと彼女の様子をうかがう。
アンジェの脚はまだ少し震えていたが、そのまなざしには強い光が戻っていた。
「大丈夫です。やれると思います」
アンジェは私たちに視線を送り、すぐに次の魔法を使い始めた。今度は風魔法。こっちが本命だ。目の前の地面、つまり実際には崖下の地面から上方へ向かって、強い風が吹き上がる。
「どうぞ!」
アンジェの指示に従い、まずテュロンが進み出た。さすがにテュロンも多少緊張の面持ちだったが、さすがというべきか、彼女はためらいもせず杭の先に足を踏み出した。
一瞬テュロンの体がゆらりと揺れ、私は息を飲んだが、問題なく彼女の体はそこにあった。つまり宙に浮いていることになる。縦ロールが踊り、体もゆらゆらと蠢いているのは、風に乗っているからだろう。
「問題ありませんわ、アンジェ!」
テュロンの合図に従って、アンジェは風の強さを調整し始める。ゆっくりとテュロンの体が下方へ沈み込んでいく。幻影の地面の下へ降りていくわけだから、見た目だけで言えば地面にめり込んでいくように見えてちょっと不思議な気分。
やがて、今度は上空からテュロンが下りてきた。もちろんこれも、景色が歪められているため。
目の前に投影されているのは崖下の景色なのだから、テュロンが上からここに降りてきたように見える、というのは、彼女が崖の上から本当の地面へ向かって降りてきたということだ。
とん、とテュロンが地面に足を付き、とんとん、とつま先で地面を蹴ってその感触を確かめる。
頷いて、テュロンは上を向き、手を振った。彼女的には崖の下から崖の上の私たちへ向かって手を振っているわけだが、その景色が目の前に投影されている私たちにとっては、目の前にいるテュロンが誰もいない空の上へ向かって手を振っているように見えて面白い。
ともあれ、これで問題なく崖の下へ降りられることはわかった。
今度は私が、メイアを抱っこして崖の先へ進む。メイアは小さいし、荷物もあまり多く抱えていないから、二人一緒でも大丈夫だろうと、アンジェと相談の上、判断したのだ。
「怖くない、メイア?」
「うん、ご主人さま!」
気遣う私に、メイアが腕の中で元気に答える。不安や怯えよりも好奇心と面白さの方が勝っているみたいだ。瞳をきらきらさせている彼女に、意外にこの子は怖いもの知らずだな、と私は微笑む。
むしろ私の方がちょっとドキドキしながら、そっと足を踏み出す。その先には何もないとわかっている頭と、しっかりとした地面があるはずだという視覚とがケンカして、混乱しそうになる。それでも私の脚は、風の渦に支えられて、空中という名の地面にしっかり立つことを得ていた。
アンジェに合図し、そっと私たちも下降を始める。幻の大地を突き抜けると、その下は20mの虚空。
うわ、風に支えられているとはいえ、これは結構精神に来るな! 特に高所恐怖症じゃない私でもそうなのだから、アンジェがこの光景を目にしたら耐えられなかっただろう。
しばしの後、ゆっくりと私たちもテュロンの待つ崖下に降り立った。
手を振って、アンジェに合図を送る。今度はいよいよアンジェ自身の番。
ただ、アンジェの場合はまた少し工夫が必要になる。
というのは、たった今私たちが経験したように、投影された幻の大地を突き抜けると、そこは何もない空だからだ。アンジェがこんな景色を目にしたらたちまちパニックに陥ってしまうだろう。
そこで、アンジェの成長がここで役立つことになる。
もともと、私の元に来てくれた時から、アンジェは一属性につき一種類、同時に二つまでの魔法を同時行使できる子だった。
だがさらに、第9階層の戦いのときから、アンジェは一属性につき二種類までの魔法を同時行使できるようになっている。複数属性でも計三種類までの同時行使が可能なのだ。
つまり、この場面で使う三つの魔法とは。
一種は風魔法を使って体を支え、もう一種は光魔法で幻の大地を投影する。そしてもう一種は――
二つ目の光魔法。幻の地面の下に、もう一つの幻の大地を投影したのだ。
アンジェは最初の地面を抜けたその少し下に、さらに幻の地面を映し出す。これによって、地面がすぐそこにあるという安心感を抱いたまま、風魔法を制御して下降してくることができる。
その二番目の地面を抜ける前に最初の地面を消し、三番目の地面を投影。それを繰り返せば、パニックに襲われることなく、アンジェは最後まで落ち着いて降りてこられるというわけだ。
それでもやっぱり心配だったから、私は胃の腑を掴まれる思いでアンジェが下りてくる様を見つめる。かなり恐る恐ると言ったゆっくりした速度で、それでもアンジェはちゃんと少しずつ降りてきた。
あと2mくらい、と言ったところで、私はたまらず両腕を広げ、アンジェに呼びかけた。
「アンジェ! いらっしゃい!」
「――ご主人さまっ!」
悲鳴のような声を上げて、アンジェは魔法を消し、一気に飛び降りた。私の腕の中へ。
しっかりと腕の中に掛かった重みとぬくもりを感じながら、私はアンジェを抱きしめる。
「よくやってくれたわね、アンジェ。偉いわ」
「ご、ご主人さま、私、私、頑張りました! 一生懸命、頑張りました!」
うんうん、と頭を撫でる。震えるアンジェの声は少し涙声だった。当たり前のことだが、やっぱり怖いものは怖かったのだろう。普段は控えめなアンジェが、自分は頑張った、とアピールしてくること自体、本当に彼女が勇気を振り絞ってくれたのだと伝わってくる。
潤んだ黄金の瞳の中に私は自分の顔を見出す。私の瞳にもアンジェの顔が映っているだろう。
そのまま、映りあった顔が近づく。
アンジェの瞳が閉じられたのは、唇が重なってからだった。
「……こほん。お二方、まずは先へ進みませんこと?」
空咳をしたテュロンの言葉に、私たちははっと我に返り、慌てて離れる。テュロンは自らは顔をそむけながら、メイアの目を隠してくれていた。……ご、ごめんね?
え、えーと。
この崖を降りるのに、20分強くらいは、結局費やしちゃったかな。塔に入りなおす一時間のペナルティよりはずっとましだけど、それでもスタートが遅れてしまったのは否めない。頑張って取り戻さないとね。
私は周囲を見回す。視界に広がるは赤茶けてひび割れた、乾いた荒野。見渡す限り、砂と岩で構築された、物寂しい景色だ。埃っぽい風が砂塵を軽く巻き上げて時折吹き過ぎていく。
ここを駆け抜けるわけだが、いつもの登攀とは異なり、時間との戦いだ。なるべく急ぐ必要がある。とはいえ、さすがに徒歩でマラソンをしていくわけにもいかない。
だから……。
「あ、いたわ。あっちね」
私は一方向を指さし、アンジェたちに示した。
そこには、のんびりと歩く、一団の守護獣の群れがいた。
純白の美しい毛並みを持った、馬型の守護獣が。
この聖花の摘み手の競争では、あの馬型守護獣に騎乗して聖王の樹を目指す、というのが、一種のセオリーとなっているのだった。
もちろん、馬術を修めた登攀者がすべてではないのだけど、あの馬型守護獣は、守護獣たちの中では例外的に穏やかな気性で、扱いやすく、慣れていない乗り手にも比較的従ってくれやすいのだという。
私はアンジェたちを促し、その守護獣たちの群れに向かって駆けだした。
「どういう子がいいのでしょうかしら」
テュロンが困り顔で見回す。
守護獣の群れは私たちが傍に寄っても、特に警戒する様子もなく、おとなしいものだった。話に聞いていた通り、穏やかな性質のようだ。しかし、この中からどういった個体を選べばいいのだろうか。
「ええっと……普通の馬と同じような基準で選んでいいのでしょうか。体格や毛並みの色つやとか……でもみんな綺麗な体をしていますね」
アンジェは元貴族であり、馬術のたしなみがある。そのアンジェでも、ちょっと悩んでいるようだ。彼女の言う通り、どの守護獣も立派な体つき過ぎて、逆に悩ましい。
だがその時、不意にメイアが声を上げた。
「ねえ、僕、あの子たちがいいと思うな」
彼女の指し示したのは、群れから少し外れた場所に佇んでいた、二体の守護獣だった。
どちらも他の個体よりは一回り体格が小さい。守護獣に年齢の概念があるのかどうかわからないけど、仔馬のようにも見える。こちらを見つめる目はくりっとしていて、愛らしくはあるけど。
「どうしてあの子たちを選んだの?」
仔馬だし、可愛いんだけど、それは今の場合の選択基準にならないわよね。メイアもそのくらいはわかるはずだし……と不思議に思い、私は尋ねた。
メイアは少しはにかんだように、右目を覆っている前髪をさらりと持ち上げた。
彼女の髪の奥に隠されていた紫色のオッドアイ。それが、今、きらりと輝きを放っている様をみて、私たちは息を飲む。
「えへへ。僕のこっちの目、見えるんだよ。なんていうのかな、力の波みたいなものが。あの子たちは、とても綺麗で力強い波を体の中に持ってる。だから、あの子たちがいいかなって」
アンジェが感嘆したようにメイアの瞳を覗き込む。
「魔力を見極めるだけなら修業した魔法行使者ならできますが、魔力以外の力に関しても識別出来る目を持っているんですね、メイア。話に聞いたことはありましたけど」
そうか。単なる色違いのオッドアイの持ち主というだけで、聖殿に献納されるほどの存在になるわけではない。メイアがそのように貴重な存在として扱われたのは、彼女の目に特殊な能力があったからか。
メイアの肩をぽんと叩いて、私は笑いかけた。
「わかったわ、メイア。じゃああなたのお勧めのあの子たちに決めましょう。テュロン、馬具の支度を」
「承りましたわ」
テュロンは抱えていた大荷物を下ろす。あらかじめ用意していた鞍と鐙、そして轡と手綱だ。これをアンジェと一緒に手早く守護獣に装備させる。仔馬の守護樹はおとなしくそんな私たちの行動を受け入れてくれた。
準備を終わらせ、私たちは守護獣にまたがる。
アンジェが手綱を取った守護獣にはテュロンが。そして私が乗った守護獣にはメイアが同乗した。
うん。実は私も馬に乗れる。
と言っても、もちろん私本人が身に付けていたわけではないけれどね。乗り物って言ったら、私、自動車の運転も自信ない人だったし。
私の備える乗馬の技術は、あのクソ電飾のところで仕入れておいたESスキルだ。
そのほかのスキルも購入してこの競争に備えている。私は勝たなければならないんだから。
「さあ、それじゃ行くわよ、みんな! 一気に飛ばしましょう!」
私の号令一下、二体の守護獣は、私たちを乗せて、砂煙を高く上げ、猛然と走り出した。
目指すは聖王の樹。そして聖花。




