決着と真相
「……参る!」
狼頭の剣士ルーフェンが静かに吠えた。
滑らかに送る脚は流水のように、その剣閃の舞うさまは風のように。
虚空に刃の輝きが散ったと見る間もなく、「淀み」の「脚」が二本斬り飛ばされている。
再生が始まるものの、片側二本の「脚」を一時的に失った「淀み」の巨体はぐらりと傾く。その揺れた体躯を迎えるように、狼人の冷えた刃が妖しい唸りを上げた。
深々と体幹を斬り裂かれて大きく足掻く「淀み」からすでに間を取って、ルーフェンは残心の姿勢を取っている。
その一連の挙措は鮮やかに水際立って私の目に映った。
ミカエラたちから事前に聞いていた「妖刀を操る狼人の剣士」というルーフェンのイメージでは、もっと荒々しい暴風のような太刀筋を想像していたのだけど。
だが実際に目の当たりにした彼の剣は、暴戻に溺れることなく、かといって過度に華美に流れることもない。
それはまさに研ぎ澄まされた刀そのもののような、一切の無駄のない鋭さを体現したものだった。
(……鍛錬とか研鑽って、ああいうものなのね)
私は思わず見惚れ、密かに感嘆する。
ルーフェンの動きはまさに達人と呼ぶにふさわしいものだった。
純粋な技だけで言うのならば、彼はユーゼルクよりも上かもしれない。少なくとも、ユーゼルクの剣よりも、私はルーフェンの戦い方の方に、より強く魅かれた。
私の中にも無論、スキルがある。戦闘の際にはそのスキルが私の体を動かし、あるいは知識を与えてくれる。その効力は絶大なものだし、実際私とルーフェンが戦えば私が勝つだろう。
しかし、私の強さはそのスキルによって与えられたものだ。ルーフェンは身を削り血の汗を流してあの域にまでたどり着いたのだろう。それは素晴らしく美しいことだと、私は素直に思う。
もちろん、私の、ポイントを消費して買ったスキルによる強さを卑下するという意味ではないけれど。私がこの強さを手に入れることができたという運や巡り合わせ、そして選択と決断。それも含めて私自身の在り方なのであり、それが努力と比べて価値が低いとは思わないけれどね。
ただ、ルーフェンの芸術的な剣捌きはそんな私の対極にあるものであり、それゆえに私には魅力的に映ったのだ。
「よし、ラツキ」
ユーゼルクから声を掛けられ、私は慌てて我に返る。
「僕が雷撃を放つ。君にとどめをお願いするよ」
見ると、ユーゼルクの構えた大剣にはバチバチと弾けつつ形を成し始めた紫電がまとわりつき、刃はうっすらと発光を始めている。
なるほど、ルーフェンの戦闘は、牽制と陽動をこなしつつ敵の戦力を低下させ、同時にユーゼルクが雷撃をチャージする時間を稼ぐためのものだったのか。
何の打ち合わせもしていないのに咄嗟に各自が同じ判断をし、行動に移せるあたり、さすがに登攀者の頂点といったところだろう。
そして先程、ユーゼルクが洞窟内に走りこみながら撃ったあの雷撃は、「淀み」の体を半分以上は焼いたけれど、一撃で倒すことはできなかった。だから私にとどめを任せる、か。
でも。
「嫌よ」
にっこりと笑った私の顔に、ユーゼルクは一瞬言葉を失ったようだった。
「伯爵夫人たちが心配だし、すぐにでも治療も必要。だから、どうせなら一撃で終わらせましょう。長引かせてもいいことないわ」
「……そ、それはそうだが、しかしそれは無理だと……」
呆気に取られている様子のユーゼルクに、私は問う。
「ユーゼルク。あなたの剣の雷撃は、魔法と考えていいのね?」
「あ、ああ。天属性の雷撃魔法を撃てる聖遺物を製錬して、この剣は作られているが」
「なら問題ないわ。私が合図したら、思いっきり撃ってちょうだい。それで終わるわ」
言い捨てて、私は脱兎のごとく「淀み」へ向かって駆けだした。事情を説明する時間はないが、ユーゼルクならわかるはずだ。今は惑うときでも問うときでもなく、行動の時だと。
驚いた表情のルーフェンの傍らを走り過ぎながら、私は陽炎を鞘に納め、不知火を右手に持ち替えた。
ぶん、と叩き下ろしてきた「淀み」の「脚」を不知火で削ぐ。
痛みでか、それとも単に反射か、「淀み」はのけぞりながら「脚」を大きく振り上げた。私はすかさずその「脚」を空いた左手で掴み、その勢いを利用して高く跳躍する。
宙で体勢を整え、とん、と着地したのは「淀み」の背中。一気に不知火を突き刺し、そのまま尾部へ向かって走り抜ける。不知火でまっすぐ「淀み」を斬り裂きながら。
うねる「淀み」の体を何とか走破し、私はくるっと回転しながら大地に降り立った。
私と「淀み」、そしてユーゼルクが一直線上に並んだことになる。私は素早く周囲を見回し、位置関係を確認した。
アンジェたちの位置。テュロンたちの位置、そしてリアンディートたちの位置。問題ない。いける。
「今よ、ユーゼルク! 撃って!」
叫んだ私に、うろたえたようなルーフェンの声が届く。
「な、何を言っておるのだ! その位置では、お主も雷撃に巻きこまれるぞ!」
だが、ユーゼルクは逡巡なく肯った。
「わかった。行くぞ、ラツキ!」
やはり彼は惑うべき時・悩むべき時と、決断すべき時の峻別ができる男だ。私は小さく微笑んで、不知火を構え直す。その瞬間。
「『殲煌雷刃』――っ!!」
ユーゼルクの裂帛の気合が洞窟内に響き渡り、眩い光が暗闇の隅々までをも照らし出す。
空気を引き裂いて轟く霹靂を伴にして、猛り狂った雷霆の奔流が、爆裂するかのように「淀み」に向かって叩きつけられた。
SHAAAAAAAAAAAA!!!!
怒号を吐き散らしつつ、雷撃に撃たれた「淀み」が大きく体をうねらせ、のたうつ。
そして同時に。
射撃線上の私にも、その雷撃は容赦なく襲い掛かっていた。
私の考えた通りに。
「不知火っ!!」
私は漆黒の魔剣を振り切った。風を鳴らして曲刃が遠吠えする。
視界が眩むほどの雷光と、体を微塵に吹き飛ばされそうな衝撃。
そのすべてを――不知火が受け止め、そして、まっすぐに一文字に、投げ返していた!
二度目の光と轟音を道連れに、再び雷神が奮い立つ。今度は私の手元から。
これが、EXアイテムとしての不知火に付与していた追加効果の一つ。魔法反射能力だった。
私の有する二振りの剣に、魔法を排斥する効果がある、というのは、以前にも述べたことがある。陽炎と不知火はそれぞれ異なる効果だが、不知火の場合は、撃たれた魔法をそのまま相手に投げ返すことができるのだ。
ただし、今の場合は、その反射した軸線上に、「淀み」がいる。
結果として――「淀み」は、前後から同等の雷撃を同時に喰らうこととなった。
SHAAAAAAAAAAAAAAA!!!!!!!
雷撃のサンドイッチが「淀み」の異形を前後から同時に焼き尽くす。
一発ではユーゼルクの雷撃は「淀み」を倒せない、……だが二倍なら。いかに「淀み」の巨大な体躯、そして耐久力と言えど、耐えきれるものではなかった。
その様はまるで哀れで惨めな踊り手のように。それとも狂った仕掛け人形のように。「淀み」はぎこちなくも荒々しく激しく、天に向かって跳ね、舞い、暴れた。だがそれも一瞬。
見る間に「淀み」の体は、ぼこぼこと煮えたぎり泡立ち、そして二倍もの大きさに膨れ上がったと見るや、ボン、と弾けて散った。その弾けた飛沫さえも瞬時に蒸気と化して宙に吸い込まれる。
……ふう、しかし。頭では魔法を跳ね返せるとわかっていても、実際にその力を使ったのはこれが初めてだ。まともに巨大魔法の正面に身を晒すって、ものすごい迫力ね。ちょっと膝がガクガク笑ってるよ。
――だが、ともあれ、これで、全滅。
終了、だ。
「ラツキ……何を、したんだ?」
歩み寄る私に、さすがにユーゼルクも、そしてもちろんルーフェンも、驚嘆の色を隠せない顔つきで問う。
私は肩をすくめ、ウインクして言った。
「特別な剣を持つのはあなたたちだけじゃない、ってことよ」
リアンディートたちの身の安全を図り、その治療を至急行わなければならない以上、のんびりと長時間戦っているわけにはいかない。速戦即決を図るのならば、結局私はいずれかの能力を見せなければならないわけだ。
正体を知られてはならないという縛りが私にはある。ならば、どの力を見せ、彼らに知られても仕方ないと考えるか、――どの力なら相手に異常だと思われないか、が私の選択になる。
『ブースト』は本当に最後の切り札だ……明らかに常軌を逸した効果だし、これは見せたくない。それに、EXスキルは「私自身」に由来する能力だ。対して、今見せた不知火の魔法反射は、「剣」に依拠する能力。
そして、この場には、妖刀・羅刹の主であるルーフェンと、魔法剣・殲煌雷刃の所有者であるユーゼルクがいる。特殊能力を有する剣の持ち主たちの視点で考えれば、もう一人特殊な剣の持ち主が現れても、違和感や驚きは少なくて済むのではないか。それが私の判断だった。
案の定、ユーゼルクとルーフェンは各々の剣にちらりと眼を落とした。難しい顔をして少し首を捻っており、十分に納得、とはいかないようではあるが。だがとりあえず、異常だと思われなければ私はそれでいいんだし。
「それよりも」
と、やや強引だが私は話を逸らした。
「伯爵夫人たちが心配だわ」
「あ、ああ。そうだな」
それは実際に大事なことでもある。私たちは揃って踵を返し、伯爵夫人たちの方へと小走りに駆け出した。
すでにアンジェたちが夫人たちの周りに集まっている姿が見える。他の場所での戦いも終わったようだ。
銀色の光が漏れているのは、アンジェが治癒の聖魔法を使っているのだろう。同時に美しい調べも聞こえてくるのは、吟遊詩人であるエレインの「歌」だろうか。
「アンジェ、リアンディートたちは?」
尋ねた私に、アンジェは振り返ってにっこりと微笑んだ。
「はい、もう大丈夫です」
伯爵夫人はもとより身体的なダメージは受けていない。リアンディートはまだ顔色は蒼く、気だるげな様子ではあったが、瞳には輝きがあり、しっかりと頷いてくれた。ウィジィくんはまだ意識は戻っていないが、頬に赤みが差し、呼吸もはっきりとしている。
私はほっとして胸をなでおろした。
「伯爵夫人、御無事でなによりでした。おわかりですか、私、ミカエラです」
伯爵夫人の前に片膝をつき、その手を取ったのはミカエラ。普段は勝気な彼女の表情も、今は安堵に満ち溢れている。さっきの彼女の話では、ミカエラとユーゼルクは幼いころに、伯爵夫人に可愛がってもらったのだとか言ってたっけ。
「あなた……あなた、ミカエラさん、なの?」
力なく伯爵夫人がミカエラを見つめ返す。おどおどとした様子で、取られた手を握り返した伯爵夫人は、ミカエラの存在を確かめるように何度もその手をさすった。
「こんなに大きくなったのね、ミカエラさん。……つまり、あの子が……ミュシアが亡くなってから、それだけの時間が経ったのね」
夫人は苦しげに息を吐き、目を伏せた。
「私の中では、ミュシアが逝ってしまったのはつい昨日のような気がしていたわ。……そのまま時間が止まってしまっていたのね……」
「伯爵夫人、一体何があったのか、教えていただいてよろしいですか?」
そっと気遣うように、しかしためらうことなく問いかけたミカエラ。
はっとした様子で弾かれたように夫人は顔を上げる。その瞳には、恐れと怯えと、そして悔恨の色があった。
夫人はぎこちなく洞窟内を見回す。今はひっそりと静まりかえり、たった今まで異形の怪物が猛威を振るっていたとは信じられないほどだ。そしてその静けさは、どこか物悲しいものでもあった。まるで何かの遠い追憶を埋葬した墓場のような。
「確か……『秘法』をお使いになったと、仰っておいででしたわね」
ちらりと私の顔を見ながら、テュロンが口を開く。アンジェも不安そうにその言葉を聞いている。
二人は、私が彼女たちについた嘘……私の力は『秘法』によって得られたものだ、という「設定」を知っている。それだけに、彼女たちにとっても『秘法』に関する事実は重大な関心事だろう。
……というか、まさに私自身にとっても他人事ではないのだが。まさかこんなところで本物の『秘法』使用者に出会うなんて思わなかったし。内心めっちゃ焦ってるよ、うう。
「『秘法』……? まさか、そんなものが実在するわけが……でも、実際にあの化け物が現れたのは事実だし……」
「さよう、信じがたいことであるがゆえに、逆に納得できてしまうのう。『秘法』のようなものでなければあんな怪物は生み出せまいて」
『秘法』に関する情報を初めて得たミカエラたちは、さすがに衝撃を受けたような表情を浮かべている。経験豊富な登攀者たちの頂点であるミカエラたちでさえ、いや、そんな彼女たちであるからこそ、その事実に驚きを隠せないようだった。
伯爵夫人はよろよろとよろめきながらウィジィくんの方へ近づき、静かに寝息を立てている彼の顔をそっと撫でた。震える手で。
いや、手だけではない、肩も体も、夫人はその小さな体をすべて大きく震わせていた。過呼吸になるのではと思うほど浅く速い息をつきながら。その顔は、冷や汗でじっとりと濡れそぼっていた。
「そうです……私は……『秘法』を使ったの……『秘法』であの子を蘇らせようとしたんです……!」
呻くような声を絞り出す。しわがれた、ひび割れた声を。
夫人の瞳は乾いていた。涙を流すことができたら、泣きわめくことができたら、彼女はもう少しだけ楽になれたかもしれないけれど。
そのまま、伯爵夫人はぽつりぽつりと切れ切れに話を始めた。いや、半ばそれは独り言のようでもあった。自分自身に対して自分の罪を突きつけるような独白。
最愛の娘を失い、夫人の世界は止まった。動きも色も音も香りもすべてが止まった。そのまま夫人はゆっくりと立ち枯れていった。
けれどある時、不意にその止まった世界に小さな光がともった。『秘法』という名の灯が。
無論伯爵夫人も、『秘法』の名は聞いていた。ただのおとぎ話として。
けれど、もしそれが単なる噂ではないと、都市伝説ではないとしたなら。
代償を支払い、望みを叶えることができる、そんな力が本当にあるとしたら。
夫人の、これまで無意味に溜息をついていただけの心臓に、急激に精気が宿り、活発に踊り出す。
夫人は数多くの知識人、魔法使い、学者と出会って貪欲に知識を吸収し、目標とするべきものを絞り込んでいく。惜しみなく金をばらまき財産を傾けて。
『聖王七書』のうち、失われた第七の書にこそ、『秘法』の詳細が記されている――そんな胡散臭い巷説を聞きこんでからは、夫人の行動はさらに加速した。
そして夫人は、とある人物から、「第七の書」を――少なくとも、そうだとされている書を入手したのだという。
「おそらく女性と思える声でしたが、その人物は黒衣を深く纏い、素顔は見えませんでした。仮面も被っていたのかもしれません。けれど、ちらりと覗いた、燃えるように赤い髪だけは印象的でした……」
伯爵夫人は影に語らうようにどこか虚ろに、言葉を紡ぐ。
その第七の書とされるものの真贋など、夫人にはどうでもいいことだった。学術も歴史も問題にはしていない。ただ、『秘法』をいかに行使するか、それだけが問題だった。
しかし、夫人には魔力がなく、魔法を使えない。『秘法』は魔法とは異なるが、起動のシステムには魔法に近似した概念術式を構築する必要があるらしく、やはりそういった行為に習熟し、適性のある魔法行使者が向いているのだという。
ならばと、夫人は『秘法』の代理執行者としての奴隷を購入することとした。魔力が高く、魔法を行使することができ、できれば第七の書を読み解けるだけの歴史に造詣の深い奴隷を。
それほどの好条件の奴隷は、普通ならばなかなか入手できるものではない。だが、折よく、年に一度の大奴隷市が聖都で開催される日時が迫っていた。夫人は聖都へ赴き、そこでリアンディートを見出したのである。
「そしてもうひとつ、『秘法』の行使には、……代償が必要でした。私はその代償を……え、選んだ、……のです」
奥歯をカチカチと鳴らしながら伯爵夫人は言う。
強張った舌はもつれ、聞き取ることさえ難しい発音だったが、私たちにはすぐに理解できてしまう。その「代償」が何を指しているかは言うまでもない――ウィジィくんだ。
幼い純真な魂。まっすぐで疑いを知らない心。憧れへ向かう強い意志。そして魔法の適正。
それらを併せ持った少年に巡り合ってしまったことが不幸だったのかもしれない……ウィジィくんだけでなく、夫人にとっても。夫人の行動は、そこで歯止めが効かなくなってしまったのだから。
ある程度ウィジィくんの素養を見極め、代償として支障ないと判断した後、『秘法』の行使は開始された。
リアンディートは何度も泣きながらやめてほしいと懇願したというが、無論、伯爵夫人は聞く耳を持たなかった。事実、ウィジィくんの意識は徐々に、亡くなったはずの娘さんのものに近くなっていったという。成功は間近いと、伯爵夫人は驚喜した。
そして今日。『秘法』の最後の仕上げを執り行うべく、儀式を行った。
だが――最終的に現れたのは、可憐な少女の姿ではなかったのだ。
「……さ、裁いて、ください。ゆ、許しなど、とても請えません。私を……お裁き、ください……!」
大地にうずくまり、伯爵夫人は祈るように呟く。老婦人のその小柄な体は、まるでそのまま消え行ってしまいそうなほど頼りなく、はかなく見えた。
その夫人の元へ、リアンディートがにじり寄る。自らも疲弊した体を引きずるようにして。
弱々しく、けれど柔らかな微笑を浮かべて、リアンディートは言った。
「奥様……私も、共に参ります。奥様をお諫め出来なかった責めは、私にもありますもの」
電撃に撃たれたように、伯爵夫人は上体を起こし、リアンディートを見つめる。
「な、何を言うのです、リアンディート。あなたには関係ありません!」
夫人は私たちを慌ただしく見回し、掠れた声で叫ぶように言う。
「わ、私です! 今回のことは私だけが為したこと。私だけを、どうか!」
「……奥様」
その時、もう一つの小さな細い声が、伯爵夫人を呼んだ。
声の主は、ウィジィくん。彼の目が薄く開かれ、まだ重たげに体を横たえたまま、けれど頭を回して夫人に呼びかけていた。
「奥様……僕は……僕は、奥様が好き、です。僕には、母さんもいなかったし、父さんもいなくなっちゃったから。……奥様が優しくしてくれて、嬉しかった、です……」
「それは……それは、あなたを利用しようとしてやったことです。あなたもリアンディートも、みんな私は利用しようとして……」
取り乱し、うろたえて伯爵夫人は優しさに抗う。だが、ウィジィくんは、いたわるように笑った。
「でも、一緒に食べたお菓子は美味しかったです。勉強を教えてくれた時は優しかったです。頭を撫でてくれた時は嬉しかったです……母さんが生きてた頃みたいで……」
「ああ……そんな! そんなことを言わないで……」
身を揉んで、ついに伯爵夫人は地に倒れ伏した。苦しげに喘ぎながら。
重苦しい沈黙が私たちの間に漂う。
夫人が為した行為は、確かに裁かれるべきことなのだろう。
だが、夫人本人がこうまで、……苦悶のあまり身をよじり苦しがるまでに痛烈な悔恨に焼かれており、また当事者であるリアンディートとウィジィくんが夫人を罪に問う気がないなら、私たちは何の資格で、何の立場で夫人を裁けるのだろうか。
「……ラフィーネさん」
私は、この場にいる唯一の法曹であるラフィーネさんに顔を向ける。だが、彼女もたじろいだ。
「え、えーと。まず、『秘法』を行うこと自体は聖殿法では罪に定められていません。また、『秘法』は魔法ではないので、魔法行使による傷害や殺人予備の罪にも当たりません。物理的行為以外の無形力による通常の傷害等の罪……になるのかなあ……でもそもそも『秘法』なんて、不能犯に当たるんじゃないのかなあ……どうしましょう……」
いやどうしましょうって言われても。
私たちが途方に暮れた時。
不意に、洞窟内に声が響いた。
『いいえ、この件は表沙汰にはなりません。よって、法で裁かれること自体、ないのです……』
驚愕し、私たちは周囲を見回す。
だが、洞窟内はただでさえ広大で薄暗く、さらに先程の戦いの余波で、朧げな燭台の灯も多くが吹き消されている状況だ。アンジェが光を放って周囲を照らしてみたが、闇に濃く包まれた洞窟の中に、その声の主の姿を見出すことはできなかった。
『本来なら、私たちがあれの処理をする予定でしたが、代わって始末をしていただいたこと、感謝します……』
「――誰?」
私は剣の柄に手を掛けながら鋭く詰問する。声がした大体の方角に検討をつけて。だが今度は、先程とは全く異なる方向から声が木霊してきた。
『ご案じになるには及びません。あなた方の敵ではありませんから……味方でもありませんが』
「ふん、『山彦の術』かよ……それも相当の手練れじゃの」
バートリーが白い眉を吊り上げ、吐き捨てた。
後で聞いたところでは、「山彦の術」とは、閉暗所において声や音響を意図的に乱反射させ、どこに本人がいるかを悟らせないようにする、隠形の術の一種だという。
「敵ではないというなら姿を見せたらどうなのかしら。わざわざ声を掛けてきたということは、何か用があるのでしょう?」
私の言葉に、相手の声は不思議なまでに柔らかい口調で返す。
『いかにも、用件があります。……今回のこの事件、他言無用にお願いしたいということです。そしてこれ以上の詮索も無用』
「理由も言わずに、はいそうですか、って素直に答えると思う?」
『理由ですか。……確かにあなた方は、ある程度の事情を述べなければ、さらに深く首を突っ込んで調べまわりそうですからね……それはこちらとしても多少困ります……』
含み笑いのような声。それは嘲笑などではなく、むしろ慈愛に満ちたものだったが、それゆえに言い知れぬ不気味さがあった。
『では答えましょう。……今回の件、私たちが仕組んだものです。……イェンデ伯爵夫人に『秘法』の存在について誘いをかけ、情報を流し、第七の書を渡して、『秘法』を実行させるべく行動したのは私たち』
「なっ……!?」
ざわめきが私たちの間に走る。驚愕、しかしそれと同時に、納得できる部分もあった。
何年も隠遁状態にあった伯爵夫人が、急に『秘法』によるお嬢さんの復活を思いつき、行動し、情報や資料を「運よくたまたま」手に入れて、儀式にまで持ち込む。ちょっと唐突というか不自然だ。
だが、誰かに唆されていたとしたなら――それなら理解できる。
「何のために、そんなことをしたの。人の心を弄んでくれるような真似をしておいて、敵ではない、は通らないわよ!」
私の声が尖る。アンジェやユーゼルクたちの顔にも怒気が漲っていた。だが、木霊する謎の声は続けた。とても、とても優しい響きで。
『……無論私たちとて、伯爵夫人のお嬢様を思う御心を利用してしまったことに関しては、自責の念はあります。けれど、それもまた、大義のため。そして世界のためでした』
「何ですって?」
『あなた方が倒したあの黒い異形――あれを出現させることが必要だったのです。……あの、『淀み』を』
「――っ!?」
今度こそ、私は言葉を失う。
『淀み』。それは、確かにあの化け物の正体だ。世界が閉ざされているがゆえに発生してしまった、世界のひずみ、歪み、淀みが実体化したものだ。私自身も奴をそう呼んでいた。
だがなぜその正体を、そしてその呼び方を、この得体の知らない声が知り、同じように使っているのか。
「『淀み』――だって?」
不審そうにユーゼルクが呟く。当然の反応だ。この世界の一般の人は知るはずのない存在なのだから。
『そうです。世界の淀み。あの怪物は、そこから生み出されたものです。……生み出されなければならなかったものです。……そうしなければ、世界の均衡が崩れてしまうのですから』
木霊する声はどこか物悲しい口調で語り、アンジェたちはそれに聞き入るしかない。
『この世界が世界としてある限り、どこかに生まれてしまう世界の淀みが姿を取ったものがあの怪物なのです。ゆえに、あれを定期的に生み出し、そして消滅させることが必要であり……それが私たちの使命。さもなければ、とうの昔にこの世界は蓄積した淀みのために危機に瀕していたことでしょう』
つまり――世界の淀みがあまりに肥大化して手に負えなくなる前に、意図的に実体化させて滅ぼすことによって一時の安定を得る。それが、この謎の声の主の役目だということなのか。
私がこの世界に来る前にも、世界には淀みがたまり続けていたというのは、確かにわかる理屈だ。そして、その淀みを除去する掃除人が必要だったという理屈も。
『私たちが伯爵夫人にお渡しした書に書かれていたのは、『淀み』を実体化する方法でした。強い願いと執着を有する者の心が、その儀式を牽引します。……従って、私たちは、何らかの強い想いを有する人を探し、その人に儀式を行っていただいて、『淀み』を生み出し、倒すことで世界を清める。そうした行為を続けてきたのです。……往古から』
しばらくの間、私たちの息の音だけが静かな洞窟内に聞こえていた。言葉もなく、音もなかった。それほどに、それぞれがこの情報を自分の中で咀嚼することは困難だったのだ。
昔から……何らかの強い願いを持つ人の心を使って、世界の掃除が為されてきた。
それは、必要なことなのだろう。だが同時に、それだけ多くの人の心が利用されてきたともいえる。
今回は伯爵夫人もリアンディートもウィジィくんも無事だった。だが、おそらく今回は例外だ。願いをもって『秘法』を行った人やその周囲の人が犠牲になるケースが皆無だったとは思えない。
それをわかっていて、それでも、この声の主たちは淡々と、粛々と、行為を続けてきたのだ。
「世界のため」に。
そして何よりも。
それだけの大掛かりなことを、しかも昔から継続的に執行可能な存在……いや、組織となると。
この世界では、おそらく一つしかない。
――聖殿、だ。
誰もがそっと、あるいは真正面から、聖務官であるラフィーネさんを見つめていた。私も含めて。
だが、彼女は、そんな私たちの視線にも気づかないようだった。彼女の唇は血の気を失い、膝から頽れそうになるのをやっとの思いでこらえているようにさえ見える。
もちろん、ラフィーネさんはこの事実を知らなかったのだろう。今回のことにラフィーネさんは積極的に手を貸してくれていた。彼女の情報や手助けがなければ私たちはここまで来られなかったし、それは、謎の声の主たちの望むところではなかったはずだから。
聖務官であるラフィーネさんでさえ知らなかった裏の機構が、聖殿の中にはあったのだろう。たとえ手を汚してでも世界を守るための仕組みが。
だがそれは、ラフィーネさんにとっては痛烈な衝撃だったはずだ。彼女は一途に純粋に、聖殿の誠を信じていた人だから。
私はそっとラフィーネさんに触れた。彼女は揺れるように、私の腕にすがり、震えていた。
『――以上、理解していただけましたか? おそらくあなた方の心中には、ひとつの想定が浮かび上がっていることでしょう。私たちはそれにつき、肯定も否定も致しません。ですが、今回の件についてのこれ以上の詮索及び他言は無益有害。故に、忘れていただきたいのです。忘れてくださればそれで済みます。こちらとしても、嫌な手段を取るようなことまではしたくはありません……お互いにとって』
声の反響は次第に小さくなっていった。声の主はこの場を去ろうとしているのだろう。
お互いにとって嫌な手段とは、聖殿の権威をもって、あるいは最悪、実力行使で私たちを黙らせる……ということか。
「そこまではしたくない」、ということは、逆に言えば、「どうしてもとなればそこまでやる」ということだ。
私たちは動けなかった。だが、一声、悲鳴のように伯爵夫人が叫んでいた。
「待って! 一つだけ教えてください、ならば、『秘法』は、……あらゆる願いをかなえる『秘法』の存在は偽りだったのですか!?」
『いいえ、真の『秘法』そのものは存在します。実際の効果がなければ、『秘法』の説得力も生まれませんから。真の第七の書に、それが記載されているのも本当です。伯爵夫人、あなたが手にした書は、その部分を削除した写本でした。もう一度、真の書をお探しになるのでしたら、御止めは致しません……『秘法』の存在を喧伝してくださるのなら、私たちにとってもそれは助かりますから……『秘法』に憧れるものが多くなれば、それだけ『淀み』を生み出しやすくなりますからね……』
声の残響は、静かに穏やかに消えていった。最後まで優しく残酷な音色のままで。
がっくりと地に手をついてうなだれている伯爵夫人を、リアンディートとウィジィくんが手を貸して、立ち上がらせようとしていた。
結局、伯爵夫人を裁くことは誰にもできないわけだ。
そして、そのことが。
「裁かれない」ということ自体が、夫人にとって最も重い裁きになるのだろう。夫人はこれから、良心の呵責にいつまでも耐え続けなければならない。罰を与えられることがないゆえに、昇華されることなく、区切りをつけられることなく、いつまでもいつまでも、無限に永遠に。
――もっとも。
リアンディートとウィジィくんの優しい手が、いつか夫人の心を救うかもしれない。いつか、夫人に自分自身への許しを与える手助けになるのかもしれない。
寄り添って立つ三人の後姿を見ながら、私は何となく、そうも思うのだった。
「ねえ、二人とも」
ユーゼルクやラフィーネさんたちと別れ、宿舎に帰ってから、私はふと、アンジェとテュロンに問いを向けてみた。それほど深い意味はない。ただなんとなく、だ。
「もし私が、道をどこかで大きく……取り返しのつかないほど大きく間違えてしまったとしたら、あなたたちはどうする?」
今回の事件は、人の上に立つものとして在り方を私に考え直させてくれた。
私が伯爵夫人のように過ちを犯してしまったら。それは、アンジェとテュロンの人生すら破滅させてしまう可能性もあるのよね。私の愛する大切なこの少女たちを。
「今回の事件のように、ですの? ……そうですわね……」
さすがにテュロンは私の質問の意図をすぐに察してくれる。細い指を顎に当てて、しかしあまり考え込むことなく、彼女はすぐににっこりと微笑んだ。
「冥府魔道の旅路をお一人ではお寂しいでしょう。道行きのお供を致しますわ」
思わず顔を上げ、まじまじとテュロンの貌を見つめてしまう。その眼はまっすぐに澄んで輝いていた。
「私は……」
次いで、アンジェが朱唇を開く。黄金の瞳を優しく穏やかに煌めかせて。
「私は、ご主人さまの本当のお望みどおりにいたします。――ご主人さまがもしそのようになった場合に、きっと本当に心の底ではお望みのことを」
そっと手を伸ばして、アンジェは私の首にその白い指で触れる。微かに、本当に微かに、その指に力が籠った。
「お楽にして差し上げます。……もちろん、私もその時には生きていられませんけれど」
私は胸の奥が熱く燃える感覚を覚えた。
私が過ちを犯したなら、テュロンは、私と共に地獄に堕ちてくれると。
そしてアンジェは、私を殺して止めてくれると。
どちらの言葉も、きっと本心だ。本心で私を想い、そしてそれぞれが、別の形だけれど、私のために自分自身を捧げてくれると言ってくれたのだ。
何だろう。この、全身に満ち溢れる、切ないような幸福感は。
悲しさにも似た充実感は。
こんなにも真っ直ぐに私を想ってくれるこの二人の少女を。私は。絶対に幸せにしないといけないんだ。改めて、誓う。
「ごめんね。変なこと聞いて。そんなことには絶対にならないわ。あなたたちを悲しませるようなことは、決して決して、しない」
私はぎゅっと二人を抱きしめて、耳元で囁く。
二人がくすくすと笑いさざめく声が聞こえた。
「はい、もちろんです、ご主人さま。信じています」
「私もですわ、ご主人さま。と申しますか、私がついております限り、誤った道など選ばせたりはしませんわ」
二人の体の温かみを感じながら、私はいつまでもぎゅっと彼女たちを抱きしめ続ける。
ゆっくりと移ろう月が、嫉妬するまで。




