共闘と激戦
「なかなか素敵なお友達と遊んでるじゃないか、ラツキ。一緒に酒を酌み交わしたい御面相とはいかないようだけどね!」
迫りくる「淀み」たちを鋭い瞳で睨みながら、軽くユーゼルクは声を掛ける。
大剣を腰だめに構えながら私の隣に位置取った彼に次いで、彼の仲間たちが陣形を取った。
見上げるばかりの巨人がユーゼルクの隣に。そして狼人の剣士。
背後には老人とミカエラ、そしてエレイン。
前衛と後衛のバランスのとれたいい隊だ。
一方、私たちの前衛は私とテュロン、後衛にアンジェとラフィーネさん。最後部のリアンディートたちを守って構える。
「で、お友達のご紹介をお願いできるかい?」
「敵。好戦的。攻撃方法は物理、主にあの脚。注意事項は高い耐久力と回復能力。連携もしてくるわ」
情報を問うユーゼルクに、事務的に端的に答える。
眼前に「淀み」が接近しつつあり、切迫した状況だったのは確かとはいえ、ユーゼルクのように心に余裕がまだ持てていないのだろうか、とやや忸怩たる念に襲われもしたけれど。
だがユーゼルクはニコリと白い歯で笑い、頷く。
「必要十分な情報だ。再生能力を持つ守護獣とも戦ったことはあるけど、変に捻らず、再生する間を与えずに真正面から全力で叩くのがいいかな」
そう、確かにこれだけの人数が集まったのだ。集中して一気に火力で押しつぶすのが正しいだろう。
……だが。
迫りつつあった「淀み」たちは、やや距離を置いた位置で突然、三体共に立ち止まった。
どうしたのか、と目を凝らした私たちだったが、次の瞬間、その目は驚愕に見開かれることになる。
「淀み」たちは、その場で揃って沖天高く脚を振り上げたのだ。
そして――凄まじい勢いで、振り下ろす。
洞窟中に轟然とした大音響が木霊すると同時、「淀み」たちの脚によって叩き砕かれた石床の破片が、豪雨を思わせる無数の散弾となって私たちへ牙を剥いたのだ。
「なっ――!?」
戦慄している暇も有らばこそ。半ば脊髄反射的に、前衛に位置していた私たちは、剣を振るい拳を舞わせて、降り注ぐ石礫の嵐から身を守った。が、
「きゃっ!」
「ああっ!」
背後からいくつかの絹を裂くような声。私たちが撃ち落としきれなかった石弾が、後衛に位置していた子たちへ襲い掛かっていたのだ。
今度こそ背筋に凍てつくものを走らせて、私は悲鳴にも似た声で振り返る。
「アンジェっ!?」
もしも彼女に万一のことがあったら……そんな思いが瞬時に脳裏を駆け巡り、私は全身の血液が沸騰する感覚を覚える。
しかし、振り向いた私の眼前には、渦巻く風が壁となって屹立していた。
「だ、大丈夫です、ご主人さま……かすり傷程度です」
青ざめた顔で、けれどアンジェは気丈に答える。ラフィーネさんやミカエラ、エレインたちもそれぞれ、多少の傷は負ったようだったが、各自の魔法障壁で身を守っていたらしい。
だが。
「く、う、うう……」
まぎれもない呻き声。それはリアンディートのものだった。
彼女は、自らの身を投げ出して、伯爵夫人とウィジィくんを庇っていたのだ。 その結果、いくつかの石礫をまともに食らってしまったらしい。
命に別状があるというほどではないようだが、しかし、私たちは方針の転換を迫られる。
「ユーゼルク。ここにみんなで固まっているのはまずいわ。一網打尽になるし、伯爵夫人たちを巻き込む!」
「ああ、そのようだね。戦力分散の愚を犯すことにはなってしまうが、やむを得ないか」
眉をしかめたユーゼルクと頷きかわし、私はきゅっと唇を噛むと、声を奔らせた。
「みんな、散って! あいつらの気を引きながらよ!」
全員が一斉に走り出す。右に、左に、光や炎、雷撃を放ち、あるいは苦無を飛ばして、「淀み」たちを誘引しながら。
案の定、「淀み」たちは、ばらばらに散った私たちのいずれを追うか覿面に惑い、統一行動がとれなくなったようだった。一体は右に、もう一体は左に釣り出され、「淀み」たちの連携は分断された。だがそれもおそらくは僅かの間のことだろう。「淀み」たちが再び集結する前に倒さなければならない。
……いや待て、二体?
左右に釣り出されたのは二体だ。ではもう一体は?
――もう一体の「淀み」は、そのまま前進し、リアンディートたちが身を寄せ合う方向へ向かおうとしていた。
空間ごと軋むような重圧を唸らせて、驀進しようとする「淀み」の巨体。
その前に、対照的に小さな一人がひょっこりと立つ。
「ふぉっほほ。まあつれなくせずに、一緒に茶でもどうかのう」
白髭をしごきながら、にやにやと言い放った老人。確か、彼がバートリーという名だったはずだ。
枯れ切った古木のような様相のその老人は、だが次の瞬間。
あたかも瞬間移動でもしたかのように空中にあった。
無論、この世界に転移系の術などはない。単にバートリーという老人の、俊敏かつ迅速を極めた術義。それがあって為し得たシンプルな奇跡だ。
そして何よりも驚嘆すべきは、その時点ですでに彼の行動は終わっていた、ということだ。
SHAAAAAAAAAAAAA!!!
巨体をうねらせてのたうつ「淀み」。
その頭部に鈍い光を放って林立していた幾つもの「眼」に、ことごとく苦無が深々と突き立てられていた。
しかも、それだけでは終わらない。
「眼」を刺し貫いた苦無が次々と連鎖的に爆発を起こしたのだ。
バートリーが為した一連の動きは、強化された私の視力をもってして、ようやく追うことができたほどのもの。彼は火薬を仕込んだ炸裂弾をまず投擲し、それを貫通するように苦無を打ち放っていたのだ。
一瞬の間に跳躍し炸裂弾を撒き苦無で貫通させ、そしてそのすべてを目標に命中させたバートリーの手腕はまさに神技の領域。
しかもその炸裂弾に仕込まれていた火薬は、聖遺物を混入させて、より爆発力を高めたものだったと後で聞いた。
白髭と白髪をふわりとなびかせて着地するバートリーの背後で、「眼」を吹き飛ばされた「淀み」が、さすがに動きを鈍らせる。
どうせすぐに再生が始まるとはいえ、ピンポイントに感覚器官を破壊されたのは無視できないダメージだったか。
そして逆に言えば、バートリーの瞬時の選択の適切さを示すものでもある。彼は俊敏性と技量に優れるとはいえ、「淀み」そのものを相手取って大打撃を与えることは至難だ。ならばあくまで役割に徹するにはどうすればよいか。それをとっさに判断し、実行し、成し遂げたのだ。足止めという役割を。
一瞬よろめいた「淀み」の巨体が、今度ははっきりと止まる。
背後から、その巨躯を支える「脚」を、二人にガッチリと抱え込まれていたから。
「さあて、我が舞踊のお相手、お願いいたしましょうかしら!」
「うう、そ、そっちには……行かせない」
鈴を振るような美声と、銀線のように小さく細い身体。
大地に響くような野太い声と、岩山のごとき頑健な肉体。
対照的でありながら、その二人には共通点がある――無双の怪力を誇るという共通点が。
テュロンと、ロッグロックという名だと聞いた巨人。
この世界にその大力をもって名を轟かせる地龍族と岩人族の二人が揃って、バートリーの作り出した隙を利用し、「淀み」に組み付いていたのだ。
「淀み」の巨大な体は、ちょっとした家ほどもある。ロッグロックの巨体でさえも、その前では、人形のように小さく見えるほどだ。
その巨体を揺さぶりもがいて、「淀み」は二人を振り払おうとする。大地を揺るがせるような激しい抵抗だ。
だが、踵で地面をえぐりつつ引きずられながらも、テュロンたちは抑え込んだ「淀み」の「脚」を手放さない。
いや、それどころか。
「お待ちなさいと申し上げております……わっ!」
「ぬうおおおおおおっ!!」
テュロンとロッグロックの総身に込められた気迫が膨れ上がるように高まっていき、「淀み」の前進の速度が鈍る。その巨体が僅かずつ、しかし確実に引き止められていく。
そしてついに双方の力が完全に拮抗し、「淀み」もテュロンたちも、ぴたりと時が凍ったように停止した。まるで空気が実体を持ったかような密度で、両者の力が軋みあう。
「ほい、そこじゃよ」
飄然と笑ったバートリーが、くいと手元の紐を引いた。同時、「淀み」の足元が、大音響を立てて崩落する。
この恐るべき老人は、すかさず地面に炸薬を仕掛けていたのだ。その爆発は「淀み」自身にダメージを与えるためのものではない。「淀み」が全身の力を込めて踏ん張っていた、その足場を崩すためのものだった。
全力を振り絞っていたその地盤をえぐられたのだからたまらない。「淀み」は無様にぐらりと大きく体勢を崩した。その瞬間。
テュロンとロッグロックは、抱え込んでいた「淀み」の「脚」を離さないままくるりと反転。そのまま、「脚」を肩に担ぎ上げるようにしながら、すべての力と体のバネを使い切って――投げた!
「どおおおっせえええいい! ですわーっ!!」
なんて、冗談みたいな。なんて、悪夢みたいな光景。
悍ましく禍々しい怪物が、宙天高く舞い上がり、弧を描く。
家ほどの大きさがある巨大な化け物が。……一本背負いで、ものの見事にぶん投げられたのだ。
洞窟内が鳴動するような大音響と、大地が崩壊するかと思えるほどの凄絶な衝撃。
テュロンたちの剛力。遠心力。硬い岩盤。そして自分自身の大重量。
それらをまとめて食らった「淀み」は、岩床を叩き割り砂礫を撒き散らして、その巨体を半ば地面にめり込ませていた。ぐしゃりと原形をとどめないほどにひしゃげて。
AHAAAAA……!!
「淀み」はまだぴくぴくと蠢いてはいる。だが、これまでの怒気の籠ったような「声」とは異なる、明らかに弱った響きが漏れていた。
「仕留めますわよ、岩人族のお方! ご老人も!」
「うう、わ、わかった!」
「やれやれ、老骨には堪えるわい」
容赦なくテュロンは「淀み」に躍りかかり、それにロッグロック、そしてバートリーも続いた。
拳が唸り、脚が舞う。炸裂弾が響きを上げる。
よろよろと「淀み」も反撃するが、もはやそれは威力も早さも失い、さしたる脅威ではなくなっていた。
だが相手には再生能力がある。時間が味方するのは敵の方なのだ。優位を取った今のうちに畳みかけなければならない……その焦りがテュロンたちにはある。
着実に怪物の身体を撃ち砕いて行きながら、テュロンは形のいい眉をしかめた。
「んもう、歯がゆいですわっ!」
ちらと、彼女は自分の拳を見つめる。
小柄なテュロンの小さな手。それは巨大な相手を叩きのめすには、不向きとまではいわずとも非効率な得物だった。特に、時間に追われる今のような戦いでは。
武器を置いてきてしまったことが、今テュロンの枷になっている。
「他に何か武器があれば……より広範囲を一気に破砕粉砕爆砕できるような、何か大きな武器があればよろしいのですのに……っ!」
気ぜわしげにテュロンの視線は周囲をさまよう。武器になるような何かが……大きくて硬いものが何かないかと。
そしてそのまなざしは一点に定まる。
彼女の視線の先には。
――ロッグロックがいた。
「……ありましたわ」
にこやかな笑みを可憐にたおやかに浮かべるテュロン。
その笑みを贈られて、一瞬ロッグロックは不審げな表情を浮かべていた。しかしすぐに何かに気付いたようにぎょっとした顔になる。
四角い顎をがくりと落としてたじろいだロッグロックだったが、すぐにぶるると頭を振って笑みを浮かべた。……まあ、多少強張って、口元がぴくぴくと痙攣したような笑みだったが。
「……うう。ち、地龍族の子。滅茶苦茶なこと考える。……だ、だが、確かにいい手。やろう」
「ご協力、感謝いたしますわ!」
テュロンはロッグロックとしっかりと頷き合うと、即座にかがみ、彼の脚をむんずと掴んだ。
そしてそのまま、
「参りますわよっ!」
高々とロッグロックの巨体を持ち上げたのである。
ロッグロックの身長は、私の元の世界の感覚で言えば2mを大きく超え、いやそれどころか3mにさえ迫るだろうか。肩幅も胸板の厚さもそれに見合い、まさに動く岩山だ。
そんな巨人を、テュロンは持ち上げたばかりではない。そのまま勢いよく振り回し始めたのだ。
「いっきますわよぉぉぉぉぉぉ!」
「うう……こ、これ、そ、想像以上……」
旋風を巻き起こし、空気が切り裂かれて悲鳴を上げる。ロッグロックをぶん回すテュロンの大回転のスピードはとめどなく上がり続け、あたかも荒れ狂う竜巻のような様相を呈した時。
「どおりゃあああああっ!! ですわーっ!!」
大地ごと砕けよといわんばかりの凄まじさで、テュロンはロッグロックを「淀み」に叩きつけていた。
SHAAAAAAAA!!!!!
「おごおおおお!?」
「淀み」とロッグロックの悲鳴が同時に上がる。
水たまりに巨大な石を放り込んだかのように――多重の波紋が水面そのものを覆い尽くし、大波を起こすように。
「淀み」の身体は浪打ち泡立ち沸騰し、それ自体が液状化して砕け散っていた。
飛沫と化した「淀み」の破片は、じゅうじゅうと濁った蒸気を上げて蒸発し、消えていく。
「どりゃどりゃどりゃあ! ですわーっ!!」
「あがががが……」
そのままロッグロックを振り回し、どかんどかんと「淀み」をぶん殴り続けるテュロン。一撃ごとに、さしもの巨大な「淀み」も、削り取られ、撃ち砕かれ、擦り潰されていく。
やがて最後に残った断片が微塵に砕き散らされて、穢れた蒸気となり、消え失せた。
「ふっ……これぞ我が輝ける知性と鋼の拳の合わせ技! お二方、ご協力に感謝いたしますわ」
ドヤドヤドヤア。三重くらいに輝くドヤ文字フォントを背中に負ったような、清々しく誇り高い顔つきで、テュロンは栗色の縦ロールをふぁさぁっと跳ね上げる。
その足元では、ぐるぐるに目を回したロッグロックがきゅうとぶっ倒れていたが。
「う、うう……お、お星さまが見える……」
「なんというか、とんでもないお嬢ちゃんじゃの……」
まあ、うん。呆れかえったバートリーの言う通り、どう見てもでたらめ極まりない戦法だ。
しかし、ロッグロックをただ力任せにぶん回したというだけの話でもない。
ロッグロックは叩きつけられるインパクトの瞬間、きちんと自らの関節を固め、打点に力を漲らせて、自らもまた、打撃の威力を向上させていた。拳術に長じた彼ならではの身体操作であり、そしてそれを為しうると見抜いたテュロンの観察眼の勝利でもあったのだ。
残り、二体。
「『風の乙女たちよ、大気の鉄槌を』――!」
アンジェの涼やかな声が魔法の詠唱と結実して響く。彼女の呼びかけに応じ、景色が歪むほどに高密度で渦を巻いた風が舞う。その襲い行く先は「淀み」。
叩きつけられた空気は砲弾のように「淀み」の体表をへこませる、だがそれは第一段階に過ぎない。
高圧に凝縮された風の壁は空間を一瞬閉鎖させ、その閉じた空間の中で――さらなる爆風が巻き起こった。閉じた空間の中での爆圧はその威力を数倍に膨れ上がらせ、さしもの「淀み」の身体をも引き裂き、圧潰させる。
だが。
「……!」
アンジェは口惜しそうにその朱唇を噛む。確かに負わせたはずの手傷が、けれど瞬時に再生していく様を見て。
「駆け出しにしては大したものだけど、あなたの魔力じゃ、まだあいつは無理よ! 下がってなさい!」
叱咤するのはユーゼルクたちの仲間であるミカエラ。アンジェと同じ天使族の魔法使いだが、さすがにその豊富な経験と戦歴は、登攀者になって数か月のアンジェとは比べものにならない。
「そう、私たちが相手をします。あなたと聖務官殿は援護を」
同調したのは同じくユーゼルクの仲間、美しい青銀色の髪をなびかせる吟遊詩人のエレイン。
三体の「淀み」のうちの一体とは、アンジェとラフィーネさん、そしてミカエラとエレインという、魔法行使者の一団が揃って相手をする形になっていた。
「『いと弱きものに弔歌を捧げん……大地を踏みしめることなく脚は萎え果て枯れ落ちた……』」
竪琴を静かに爪弾きながら、エレインが朗々と歌い始める。
吟遊詩人の歌も、広義では魔法。しかし十属性の精霊たちに語り掛けて力を引き出す狭義の魔法とは異なり、吟遊詩人の歌はその言葉と旋律そのものに意味がある。
世界が始まって以来幾星霜、無数の人々により積み重ねられてきた一定の言葉と一定の音階。それはその積み重ね自体によって力を得、その力がさらに洗練を積み重ねて、ついには恐るべき効果を得るに至った。いわば、人が人の力のみで魔法の領域に到達した力、それが「歌」なのだという。
その効力は主に、概念そのものの変換。定義付けのし直しにある。
ものすごい極論を言えば、砂糖はしょっぱいと定義し直せばしょっぱい砂糖が出来上がるものらしい。もちろん、そんな単純で簡単な話ではないようだし、必ずしも効果を完全に発揮できるものでもないらしいのだけど。だがそれにしても端倪すべからざる力だと言っていい。
今、エレインが奏でた曲、唄う歌は、対象の弱体化。いや、対象の強さの定義を変えようとしていると言ったほうがいいか。
「弱くなれ」と歌っているわけではない。「最初から弱い」と断定し、それを事実に変えようとしているのだ。
SHAAAAAAAAAA!!
自らの身に明らかに異変を感じたのだろう、「淀み」は身をくねらせて雄叫びをあげる。
だが、エレインの方にも余裕はない。曲を奏で続けつつも、その端麗な顔から、冷や汗が一滴、流れて落ちた。
「エレイン、歌の効力が薄いんじゃないの? どうかしたの?」
声を掛けたミカエラも、普段から見知っているエレインの歌があまり効果を上げていないことを察したらしい。エレインの真剣なまなざしを見れば、彼女が全力で力を行使しようとしていることは見て取れるが。
そう、事実、エレインのせいではない。
彼女たちは知らないことだが、あの「淀み」は文字通り、この世界の淀みが形を取ったものであり、世界の歪み、ゆがみそのものだ。いわば、世界の法則と概念が、部分的にあの「淀み」の周辺でだけ狂っていると言っていい。
だからなのだ。
吟遊詩人の歌も世界の概念を書き換える技能。……正常な概念を変換する技能。故に、既に狂っている概念に対しては効果を完全には発揮しきれない。
不運なことだが、エレインにとっては相性の悪い相手だった。
逆に言えば、それでも「淀み」にある程度のダメージを与えているところに、エレインの能力の高さを見ることができるともいえるのだろうけど。
確かに「淀み」の動きは鈍り、その活力は若干ながら、失われたように見えた。
「いいわ、その程度弱らせたなら十分よ。あとは私が! ――『清冽なる水の乙女たちよ、舞いなさい!』」
ミカエラが光翅と光輪を現出させ、指揮するように宙に指を躍らせる。
その運指に合わせ、彼女の周囲に幾つもの青く輝く光球が浮かび上がった。魔法を行使する時に現れる魔力の顕現。アンジェが魔法を使うときにも現れるものだ。
だが、普段アンジェが魔法を行使する時に現れるそれは一属性につき一つ。複数同時行使の時でも二つ。それに対してミカエラの喚んだ魔力球はその数倍だ。これがミカエラとアンジェの魔力の差を現しているのか。
「さあ、食らいなさい!」
勝気なミカエラの声が命じるままに、青い光玉は間欠泉の迸るように水流へと姿を変え、さらに瀑流へと変じて逆巻く。
轟と耳をつんざくような音を伴にし、岩をも穿ち鋼をも貫くであろうその激流は、無数の水槍となって「淀み」へと降り注いだ。
SHAAAAAAAAA!!!
錆びた鉄板をこすり合わせるような不快な音響が上がり、巨体を激しく荒れ狂わせた「淀み」の姿が水柱の向こうに霞む。
凄惨なほどに情け容赦なく「淀み」の身体を貫き抉る水槍は、尽きることなく猛威を振るう。飛沫と水煙、そして大地を砕いた砂塵が一体となって周囲を朧に包み込んだ。
霧の中、ザクザクと削り取られていく「淀み」。
エレインの「歌」による弱体化が加わってのこととはいえ、ミカエラの魔法の威力は確かに壮絶なものだった。
「ふえー。こりゃあ凄いですねえ。あの化け物がこんなに呆気なく……」
ラフィーネさんが感心したような声を漏らす。アンジェもそれにこっくりと頷こうとして、しかし。
はっと、何かに気付いたように顔を上げ、頭をあちこちに巡らせた。
何かを見出したように体を強張らせた次の刹那、アンジェは風を放った。
その対象は、「淀み」ではなく――ミカエラ。
魔法の行使に集中していたミカエラは、それをかわせない。
「ちょ、アンジェリカさん、何を……っ!?」
ラフィーネさんの泡を食ったような声にようやく気付いたミカエラだったが、既に遅く、彼女はまともにアンジェの風の直撃を食らった。
と言っても、アンジェも咄嗟に放ったような風だ、さほど威力があるわけではない。せいぜい数歩よろめかせた程度。
……だが、その僅か数歩が、ミカエラの命を救った。
「何をするのよ――!?」
叫びかけたミカエラの足元が、その時突然崩れた。
と認識する間もなく、ぽっかりと口を開けた大地から、牙を突き立てるように鋭く唸った一撃が、ミカエラのローブを切り裂き、髪を一房消し飛ばしていたのだ。
もし、アンジェの風によって、数歩、退いていなかったら。
今ごろその場には、「かつてミカエラという名前だった何か」に変わり果てたものが撒き散らされていただろう。
「なっ……!?」
血の気を失ったミカエラが絶句し、周囲のエレインやラフィーネさんも驚愕に立ちすくむ。
地の底から突き出したそれは、「淀み」の「脚」に他ならなかった。
ミカエラたちは弾かれたように「淀み」の本体を見る。
凄まじい勢いで舞い上がっていた飛沫や水煙、砂塵。それは、「淀み」の姿を隠蔽し、その動きを秘匿する効果を生んでしまっていたのだ。
大地に深く穴を穿ち、そこから脚を延ばして、地下からミカエラたちに反撃するという行動を。
「女の子を下から覗くとか、有罪ですっ!」
ラフィーネさんが撃ち出した火炎弾が地面から伸びた「脚」に直撃し、「淀み」は怯んだように脚をひっこめる。
だが同時に、ミカエラたちも跳び退いて距離を取り直さざるを得ず、そしてその時間は、「淀み」に回復の時間を与えるに十分だった。
悍ましくうねる組織が、見る間に再生し、復活していく。
「こんのぉ……!」
もう一歩というところまで追いつめておきながらむざむざと再生の間を与えてしまったことに、ミカエラは奥歯を軋ませた。
だが逆に、きっと鋭い視線を送り、決意に満ちて表情を引き締めたのはアンジェ。
彼女はラフィーネさんに対し、早口で言う。
「ラフィーネ様、あの怪物に、最大の火勢をお願いできますか」
「えっ? で、でも、いったん体制を整えてから改めて全員で連携したほうがいいのでは……」
「いえ、今です。今、試してみたいことがあるんです。今じゃないと駄目なんです!」
物柔らかく見えて、その実、一度覚悟を決めたら動じないのがアンジェだ。
ラフィーネさんはやや気圧され気味になりながら、それでもアンジェの意志の強さは感じ取ったらしく、しっかりと頷いた。
すっと調息したラフィーネさんの紅の髪と翼がはためいて燃え上がる。
「『輝ぐ焔の姫たちよ』――!!」
絶叫にも似たラフィーネさんの詠唱が木霊するとともに、紅蓮の狂瀾を躍らせて、炎の大瀑布が天空から逆落としに「淀み」を飲み込んだ。
この後のことなどもはや考えていない、この一撃に賭けたラフィーネさんの文字通りの最大火力。
SHAAAAAAAAAA!!!!
さすがに「淀み」もその巨体のかなりの部分を焼き払われ、苦しげに暴れまわった。
だが、強力であるがゆえに持続性を有しないラフィーネさんの炎は二の矢を放つことができず、やがて沈静化する。
ミカエラたちもまだ次の魔法を撃つ準備が整っておらず、アンジェの魔法ではとどめを刺すほどの威力がない。
「淀み」は急速に再生を開始し、ラフィーネさんの渾身の一撃は無意味に終わった、と見えた時。
アンジェの光翅と光輪が輝きを増し、彼女の唇から魔法の詠唱が漏れた。
だがそれは――治癒のための聖魔法。
銀色に輝く魔法のせせらぎは、他の誰でもなく、「淀み」を対象として柔らかくその身を包んだのだ。
「な、何やってるのよ、あなた! 敵を治療するなんてどういう……」
急きこんだミカエラの言葉が、しかし途中で止まる。
……彼女の眼前で、「淀み」の身に、大きく異変が起きていたから。
SHAAAAAAAAA!!!!
深刻なダメージを負っていた「淀み」は回復を行っている――しかし。
再生してきたはずの体組織は不気味に捻じれて崩れ、崩れながらもまだ成長し、成長しながらさらに崩壊を続けるという、悪夢のような循環に陥っていたのだ。
砕かれた脚はそのままの形で歪に延び、その先端からどろりとした腐汁に化して零れ、しかしさらに見苦しく伸長を続ける。
苦しげに喘ぐその声さえもひび割れて、重低音から高音と目まぐるしく変動し、一定していない有様だ。
「淀み」の体は今や、壁面に思いきりぶつけた泥団子のように原形をとどめていない。再生を試みてもがき足掻くたびに、より不自然に、より異常な形に変わり果てていく。その様はまるで、血と肉と泥水をぐつぐつに煮込んだスープ。
「これは……まさか」
ラフィーネさんが息を飲んで、アンジェの顔を見つめる。
「再生能力を暴走させた……のですか!?」
「はい。相手の再生能力は確かに強力です。でも、あまりに強力だからこそ、そこへ私の聖魔法でさらに回復を加速してあげれば……制御不能に陥るのではないかと、そう思ったんです」
淡々と言うアンジェ。その眼はやや痛々しげに、眼前の「淀み」を見据えていた。
「もちろん、エレイン様があらかじめ、相手の能力を低下させていてくださったから。そして、ミカエラ様とラフィーネ様が、大きく相手を傷つけてくださったから、できたことです」
そう、エレインの弱化の歌により、既に「淀み」の再生能力は狂わされかけていた。また、ミカエラの水とラフィーネさんの炎は「淀み」を消滅寸前にまで追い込む大ダメージを与えており、それゆえに「淀み」は全力で再生を行わなければならなかったのだ。
その全力の再生がさらに暴走させられた結果――完全に機能不全を起こした「淀み」は、自らの最大の武器であった再生能力そのものによって食い尽くされていく。
もはや、「淀み」は、ぼこぼこと沸騰を続けている巨大な腐肉に過ぎなかった。
ラフィーネさんとミカエラはしばしの沈黙の後、おもむろに魔法を起動し、「淀み」を塵に化して、静かに消し去ったのである。
残り、一体。
その最後の一体と、私は対峙していた。
最後と言っても、無論、テュロンやアンジェの戦いの内容は、あとから彼女たちに話を聞き、またその記憶をちょっと覗かせてもらって把握したもの。だから、実際はほぼ同時に起きたことだけれど。
私の両脇にはユーゼルク、そしてルーフェンという狼人。
期せずして、剣士が三人、揃ったわけだった。
しかも、いずれもその手にする剣は尋常のものではない。
血と脂に塗れるほどに斬れ味を増すというルーフェンの妖刀・羅刹。
裁きの天雷を放つユーゼルクの豪剣・殲煌雷刃。
そして、私の陽炎と不知火。
私たち三人が擁する四振りの刃がそれぞれに光を放って、「淀み」を睨みつける。
「じゃ……行きましょうか」
私の言葉を合図に、私たちは一斉に剣を引っ提げ、走り出した。




