招待と幻の美女
ぱちぱちと燃え盛る炎が爆ぜる。焚き火の灯りが明々と私たちの顔を照らしていた。
夜。そう、この『塔』の内部にも、外部と同じく、夜が来るのだ。天井から放たれていた光は時間と共に徐々に弱まり、やがて夜の帳が下りる。だが、天移門の場所を示すぼうっとした灯が満月のように宙に留まり、心安らぐほのかな輝きをもたらしていた。
遠く周囲を見渡すと、同じようないくつかの焚き火らしき灯りが、あちらの丘、こちらの谷にちらほらと見える。他の登攀者たちも、このようにして夜を過ごすのだろう。
この焚き火を使ってガイモンとペカが作ってくれた薬湯は、薬草の匂いと味がきつくて、美味しいというわけではなかったけれど、疲れていた体に染み透って、元気を出させてくれる効果があった。こういった滋養強壮剤を持ちこむのも、地味ながら必要なのね。
「一階層はこうして枯れ木や枯れ草も多いけんども、どの階層に行ってもこういったもんが簡単に手に入るわけじゃねえで、気ぃつけねばならねえです」
ペカが焚き火の具合を見ながら教えてくれる。なるほど、荒野や沼地などといった環境となっている階層もあるのだったか。そういった階層へ赴く際には、燃料に関してもあらかじめ考慮が必要になるのね。
私たちは、丘陵地帯をしばらく進んだ後、夕暮れが迫ってきたことから、程よい木陰にキャンプを張って夜を過ごすこととしていた。
無論、強行軍で夜を徹し天移門まで踏破することもできるのだろうが、視界が限られる夜間に無理をして危険を冒す必要はないだろう。私はともかくアンジェの体力的な問題もあるし。夜目の効く種族などの場合は逆に、昼間キャンプをし夜に進む、ということもあるようだが。
「しかし、考えてたよりも距離がはかどったですだ。この分だと、明日の五点鐘前にはもう、天移門につけると思いますだよ」
「ラツキさんたちが、こんなつええとは思いませんでしただ。おかげでホイホイ進めたですだよ」
今日一日で、私たちは守護獣7体と戦った。うち3体をガイモンとペカが倒し、3体をアンジェが仕留めている。私がとどめを刺したのは一体だけで、その後は基本的に牽制や援護に回り、アンジェやガイモンたちに討たせるようにしていた。一つには聖遺物を大量に取得しないようにするためであり、もう一つにはアンジェの育成のためでもある。
後者の理由は特に隠す必要がなくはっきりと明言できるので、アンジェやガイモンたちに、私があえて積極的に討って出ないことを怪しまれはしなかった。アンジェは優秀な子だが、現状では私との戦力に開きがあるのもまた事実。この差を埋めるために経験を積ませるという行動には何の不審な点もない。
「新人さんはだいたい、一階層でしばらく鍛えたりするもんですだが、ラツキさんたちは、もうこのまま2階層へ上がっても大丈夫じゃねえかと思うですだ」
ペカが丸い顎でこくんと頷き、受けあってくれる。
「そう? あまり先を急いでいるわけではないし、慎重に行こうとは思っているのだけど」
「まあ、慎重になるのは大事ですだがね。いくら守護獣に食われるのがありがてえこととはいえ、進んで死にに行くこともねえですから。あくまで精いっぱい戦った上で……」
「げほっ、ごほっ、がほっ!」
薬湯を派手に噴き出す勢いで思い切りむせた。え、なに、食べられるのがありがたいの? 何その価値観。
「大丈夫ですか。ご主人さま!?」
アンジェが慌てて背中をさすってくれる。柔らかくてしなやかな手。それ自体は嬉しいのだけど。でもアンジェは私がむせたことに驚いているのであって、ガイモンたちの話の内容自体には平気なようだ。そういうもんなのか。
「え、ええ、大丈夫。ちょっとお湯が喉に四角く入っちゃった」
「気ぃ付けるですだよ、事故で命落としたら守護獣に食ってもらえねえですだから」
「そ、そうね。大事よね、それ」
適当に話を合わせつつ、困った時のリサーチスキル。
……神々の塔は人に試練を与え、その存在を昇華させてくれる聖なる場所。そして守護獣は塔の使いだ。従って、敗北して守護獣に食われることは、魂が塔に還ることであり、祝福すべきことらしい。逆に言えば、遺体を守護獣に食べてもらえないのは、塔に魂を拒まれたということになり、非常な恥辱であるのだという。
ちなみに食べられるといっても、遺体を光のような形に変えて守護獣が吸収するというものであって、グロいことではないようだが。それでもやっぱり、食われるというのはどうなんだろうという気もするなあ。なお、光にされるのはあくまで遺体のみであって、装備品は残る。魂魄板はそうした際の身元確認の意味も果たすそうだ。いわゆるドッグタグね。
「気を付けるわ。せっかく聖遺物を手に入れても、死んじゃったら意味ないものね。……でも、結局今日手に入ったのはこれだけだったわね」
深呼吸して気を落ちつけながら、私は揺らめく焚き火の灯りに小さな宝石を透かす。炎の色が赤い宝石に跳ねて妖しく煌めいた。
聖遺物。私が倒した一体から取得したものである。『アナライズ』のスキルで見てみると、魔力増強の効果のある宝石だった。とはいえ、1階層で得られる程度のものだ、それほど高い効果があるわけではない。ないよりはマシ、というくらい。
ガイモンたちに聞いてみると、聖殿に奉納すれば銀貨一枚ほどの価値ではないかとのこと。いやもちろん銀貨一枚でも大金ではあるのだけどね。銀貨一枚でだいたい私とアンジェの一週間ほどの、ちょっとだけ贅沢なレベルでの食費が賄えるだろう。
「まあ、しゃあねえですだ。一階層で一個でも出ただけびっくりですだよ」
「そんなに出ないものなの?」
「そりゃあねえ。登攀者は『剣一振り金貨百枚』だの、『三日稼いで半年遊ぶ』だの言われますだども、そんな儲かるのは上の方の階層まで行けたもんだけですだ。10階層あたりを超えて、ようやく差し引きトントンになるかならねえかってぐれえで」
「10階層までは赤字覚悟か……参考までに、あなたたちは10階層を踏破するのにどのくらいの日数がかかったか聞いてもいい?」
何気なく聞いた私の言葉に、ガイモンとペカは気まずそうに顔を見合わせた。
「えー……えーとですだね……その」
「まあその、わかりやすく言いますとだ。……今あたいたちが取っかかってるのは、その。な、7階層くらいじゃねえべかなあと……」
もじもじと打ち明けた二人に、私はちょっと驚く。だって自分で「経験豊かな」とか何とか言ってなかったっけ。てっきりもう10階層以上はクリアしてるのかと思った。セールストークだったか。
「そ、そうなの」
彼らの助言が役に立っているのは事実だから、別に怒ったりはしてないし呆れてもいないけど。
ただそれでもガイモンたちはやや後ろめたかったらしく、少し顔を赤らめている。
「3階層くれえまでは、トントーンと上がれたんですだがねえ」
「だんだんと現れる守護獣も、地形もきっつくなっていきましただ。5階層くれえからはなかなか上手くいかねえで、途中で諦めて出直すことも何度か」
なるほど。1階層は楽なものだったが、これを基準に物を考えてはいけないらしい。
「もう塔に入って1年半にはなるだで、そろそろやべえかなあと」
「あと半年以内に10階層まで行かないとならねえですだからねえ」
ん? 2年以内に10階層まで行かないと何かあるのだろうか。きょとんとする私の横で、アンジェがやや硬い声を出した。焚き火の揺らめく炎のせいか、彼女の顔に少し濃い影が刷かれて揺れている。
「聖務者支援金制度の期限、ですね」
「んだ。入った頃は、2年で10階層なんざ、わけもねえべと思ってたんですだがねえ。ラツキさんたちも支援金、貰ってますだか?」
何それ。いきなり冷や汗かかせるような質問しないで欲しい。
えーと、いや待て、確か登攀者登録をしたときに、ラフィーネさんがなんか言ってた気がするな。資金が足りない初心者に融通してくれる制度があるんだっけか。私はその時お金には困っていなかったので、適当に聞き流していた。
「い、いえ。少しだけど、手元には余裕があるから」
「そらぁ羨ましいこんですなあ。支援金も、最初はええんですだが、期限が迫ってくると、どんどん追い立てられる気持ちさぁなってしまって、なかなかつらいもんがありますだよ」
深刻な顔つきでガイモンたちは頭を振り、薬湯をごくりと飲み干す。
聖務者支援金制度。こっそりリサーチで仔細を調べてみる。ほんとにありがたいスキルだ。
登攀者が聖遺物を聖殿に奉納するだけで一応は暮らして行けるようになるのは、さっきの会話にあったように、10階層をクリアしたあたりから。逆に言うと、それまではとても生活が成り立たないわけだ。それでは新人の登攀者が困窮する、ということで、聖殿は新人の登攀者を支援する制度を用意している。それが支援金制度だ。
支援金は生活費のみならず、登攀に必要なさまざまな道具代、また武器防具の費用、さらには登攀者にはつきものの、怪我などの治療代も見込んで、そこそこ潤沢に与えられる。だが、いつまでも無制限に与えられるわけではない。その期限が二年間だ。二年を過ぎればそれまでに与えられた支援金は返済しなければならない。
ただし、それまでに10階層に到達し、いわば一人前となった登攀者には支援金の返済は免除される特例がある。言いかえれば、2年以内に10階層に到達しなければ金返せ、ということになるわけだ。
2年以内に10階層に到達もできず、かといって返済できるだけの財産もない場合は、聖殿法によって罪に問われる。
「上の方の階層は、それほどに困難なのでしょうか。御二方でも苦しむほど」
アンジェが真剣な眼つきで二人に尋ねている。確かに、今日一日で見たガイモンとペカの戦闘技術はそれほど悪くないものだったと思う。私がこの世界で最初に戦った森の盗賊たちは、20階層までは踏破したとか言っていた。奴らと同等とまでは言わないが、かといって、奴らと比してそう大きく二人の技量が劣っているようにも思えないのだが。
だが、ペカは人のよさそうな丸い顔に苦笑を浮かべた。
「もちろん、あたいだちがまだ弱えちゅうこともありますだが……何よりも頭数が足りねえです。あたいだちは二人ですだで、上の方の階で守護獣の数が多くなったりすっと、どうしてもねえ」
ガイモンもそれに頷き、続ける。
「戦う時ばっかでねぐて、荷物を分けたり、夜の見張りの交代だったりも、やっぱ二人だと難しいですだなあ」
そうか、人数か。単に戦力的な問題だけではなく、登攀という行程そのものについても、ある程度の人員は必要になる。一人が強いからそれでいいんだ、という単純な問題ではないわけだ。
私とアンジェも今は二人。いずれこの人数では無理が出てくるのだろうか。
「他の人とご一緒に、といったようなことはお考えにならないのですか?」
アンジェは当然の疑問を口に出す。だがペカは困ったような表情を浮かべた。
「なかなかいい相手が見つかんねえです。ちゅうのは、あたいだちはまずこの体格ですだから、だいたい他の種族の人たちと組むと遅れ気味になるですだよ」
「あっ……ごめんなさい」
私は思わず弾かれたように謝った。そう言われればそうだった。脚の長さがかなり違うんだから、人間族のペースで歩いたなら、身体の小さな矮霊族の人たちにとってはかなりペースを急かしていたことになるのか。
登攀には体力の保持が重要だというのは誰でもわかることだ。それなのに一日中急ぎ足で歩かせて、彼らに無駄で無意味な疲労を強いてしまっていたのか。これは完全に私のミスだ。配慮が足りなかった。
「いやいや、一階層みてえに楽な場所なら、それほど苦にはなんねえですから、大丈夫ですだよ。ただ、もっと険しい地形の上の階とかになると、やっぱ、その辺が響いてきますだね。岩山登ったりとかすっと、もう他の種族の人とは登る道筋自体が変わってしめえますだから」
ペカは慰めるような口調で言ってくれた。だが、今後は気を付けなければいけないだろう。種族混成の部隊編成では、体格などの肉体的差異につき、行動を共にする上で不都合を生まないかという点においても注意しなければならないということ。戦いが強ければそれでいいという狭い視野だけで判断してはならないわけね。
「他に矮霊族の登攀者が多ければええんですだが、こういうありさまだもんで、矮霊族はなかなか登攀者になりたがらねえ。そうすっとますます矮霊族の登攀者にとっては組む人が見つかんねえという、あく……悪なんとかですだ」
悪循環か。確かに。しかし、登攀者希望がほとんどいない矮霊族にあって、何故二人は登攀者になろうと思ったのだろう。不思議に思い、そのことを聞いてみると、ガイモンたちは恥ずかしそうに笑った。
「まあその、……正直、、金もうけのためですだ。お恥ずかしいこんですだが。」
そういう人は多いようだから、別に恥じることではないだろう。私は微笑みかけた。
「でも、ほとんどの登攀者がそれを目的にしているんじゃないかしら。あなたたちだけではないでしょう」
「いやあ、だども、神聖な塔に入る目的が金もうけ、ちゅうのは、やっぱし気恥ずかしいもんがあるですだよ……っと、すまねえだ、ラツキさんもそれが目的だったですだか?」
「いえ、私は必ずしもそうではないけれど」
なるほど、と私は納得する。ガイモンとペカは本当に純朴で素直なのだ。ほとんどの登攀者が金銭目的で入っている塔に対してさえ、純粋に尊崇の念を抱き、それを大切に考えているほどに。
しかし逆に、それほど素朴なこの二人が、何故お金に執着するのだろう、という気もするが。
「お金を貯めて、何かお求めのものがある、ということですか?」
アンジェの問いに、二人は一瞬黙る。火に掛けた湯がしゅうしゅうと音を立てた。彼らはもう一杯薬湯を注いで啜る。
「――あたいだちの村は」
と、ペカが口を開く。
「静かでええとこなんですだが、暴れ川がありましてなあ。何年かに一度くれえ、洪水さぁ起こすです。ご領主さまにもずっとお願え申し上げてるんですだが、なかなかおらだちの村みてえな、ちっさいとこにまでは手を掛けてくださらねえで。村のもんはみんな、もうしゃあねえなって諦めちまってるですだ」
「だけんど、堤を作ったり、川の道筋変えたりすれば、川が暴れんで済むはずなんですだ。もちろん、それにはたいそうなお金がかかるですだが」
「……ああ」
私は静かに頷いた。
「あなたたちの目的は、それなのね」
「あはは。だもんで、自分らの登攀の合間に、こういう案内人みてえなことしてまで小銭稼いでるちゅうわけでして。ちいっと、大それた望みかもしれねえですだがね。身の程知らねえちゅうか」
「そんなこと、ありません。素晴らしいことだと思います」
照れたように笑うガイモンに、アンジェがきっぱりと首を振る。感動にか、彼女の目は少し潤んでいた。優しい子だ。
治水工事を個人が行うって、どれくらいの費用がかかるものなのだろう。例えば大阪の道頓堀などは、その名の通り、費用の相当の部分を、商人である道頓さん個人が負担したという話は聞くけれど。もちろん詳しいことを私は知らないから何とも言えないが、それにしても莫大なものだろう。何年かであっさりと稼ぎ出せるようなものでもあるまい。つまり、ガイモンとペカは、短くても十年以上、長ければほぼ一生を、その目的のために捧げるつもりなのではないだろうか。
私は周囲を見渡した。闇の中に灯るいくつもの小さな、しかし確かな焚き火の明かり。
どの明かりの下にも、それぞれ何人もの登攀者が憩っているのだろう。一人ひとり異なる過去と異なる夢をその胸に。
それぞれの思い、それぞれの願い、それぞれの人生を抱いて、塔はただ、聳えている。
翌日、三つの丘と一つの谷を越え、守護獣4体を倒したところで、視界に大きな輝きが入ってきた。天移門。塔の上部へ転移できる場所だ。今しも、何組かの登攀者が門に入り、消えていく。
前夜、ペカが言ってくれたように、まだ昼を少し過ぎたころだろう。
「お疲れ様でごぜえました。ここが中央天移門ですだ。上の階層へ登るか、外へ帰るか選べますだが、どうなせえます」
「そうね……私たちは、今日はもう帰ることにしようかな。初めてだったし、ちょっと気疲れしたわ」
「わかりましただ。おらだちはまだ時間もありますだし、ちいっと登っていきますだよ」
「じゃあ、ここでお別れね。いろいろありがとう。本当に助かったわ。それじゃ、お約束の案内料をお支払いしないとね」
私は背嚢から革袋を取り出し、硬貨を摘んだ。
ガイモンの掌に、乗せる。銀貨1枚を。
「あ、お釣りですだか。ちっと待ってくだせえまし……」
「ううん。それがお代よ」
釣銭を出そうとしたガイモンを私は笑って押しとどめる。
「へ? お約束は銅貨5枚でしただよ」
「そうよ。銅貨5枚。それが二日分だから銀貨1枚。合ってるでしょ?」
「いやそうではねぐて、二日で銅貨5枚の……」
不思議そうな顔をしているガイモンの背中をペカがどやしつける。
「何言ってるだよガイモン! ラツキさんのお気持ちがわかんねえだか!」
「ヘ? ……あ、ああ……! そういうことで……!」
ようやくガイモンも私の意図を悟ってくれたらしい。顔を輝かせて、ぺこりと頭を下げた。
「あ、ありがとうごぜえますだ!」
その彼の手に、さらに銅貨5枚を握らせる。
「それから、これは昨夜の薬湯代。とてもよく効いたわ。だからちゃんとその分も払わないとね」
「ラツキさん……」
真ん丸な目をうるうるとさせて、ガイモンとペカが見つめてくる。私はこほん、と咳払いして目をそらした。
「今後も、お互い、頑張りましょうね。応援してるわ」
「へ、へえ! ラツキさんたちも、どうぞご成功なさいますよう、おらだちも祈りますだよ!」
「ありがとう。またどこかで会いましょう」
深々と頭を下げてから、ガイモンとペカは天移門に乗る。ぶんぶんと手を振りながら、彼らの姿は青白い光の中に消えていった。
「……なあに? アンジェ」
二人を見送ってから、アンジェがいたずらっぽい視線で見つめているのに気付き、私は唇を尖らせる。
「ふふ。いえ、別に。ただ、ご主人さまって、お可愛らしいなあって思って。うふふ」
くすくすと笑うアンジェを「めっ」と睨んで、私は彼女の手を引き、天移門へ乗った。
今日はとりあえず帰って、1日くらい休んでから2階層に挑戦かな。必要なものも色々とわかったし、買い物もしないといけないなあ……と思いながら、光に包まれる。行き先選択の概念が頭の中に流れ、塔外を選択し――。
だが。塔の中に転移した時と同じ状況にはならなかった。
ふと気づけば、私の身体は光の中に溶け込んで行かず、形状を保ったまま、蒼い輝きの中にたゆたっている。
時が凍りついたように。
驚愕する私の前に、朧に霞む輪郭の人影が揺らめいていた。波打つ黄金の髪と、深く澄んだ黄金の瞳を備え、華麗で豪奢な白金色のドレスを身に纏った、その姿は――
……アンジェ!?
一瞬絶句する。だが、アンジェ本人は、私と手をつないだまま隣にいた。
アンジェもまた形を保ったまま、そして私と同じように不可思議な人影を見つめて息を飲んでいる。そう、確かに、良く目を凝らして見れば、その人影はアンジェではない。アンジェとよく似ているが、彼女よりやや年上に見える。
アンジェによく似たその人影は、自らの胸を抱いた手を静かにアンジェに差し伸べた。そして私の眼を見つめ、親しげに微笑む。
「彼女」の取った仕草はそれだけだった。言葉もなく音もなかった。次の瞬間我に返った私は、自分たちが塔外の天移門の上に立っていることを知った。まるで何事もなかったかのように。
「――アンジェ……」
止まった息を強引に吐き出し、私は、掠れた声を絞り出す。
「……あなた、お姉さん、いる?」
我ながら何ともアホ丸出しな言葉だったが、それがまず私の頭によぎった言葉だったのだ。
だがアンジェも青ざめた顔で首を振る。彼女も、私がそう聞いた意味をわかっているのだ。
「あの人は、一体……誰、だったんでしょうか」
「ガイモンたちも何も言っていなかったし、最初に塔に入った時はあんなもの見なかったわよね」
周囲を見る。今この瞬間も、他の登攀者たちがひっきりなしに天移門に出入りしているが、その表情には別段変ったところは見受けられない。とすると、あの人影を見たのは私たちだけなのか。
とりあえず実害は何もなかったようだが、奇妙なことには変わりない。まあ魔法とかがある世界なのだ、幽霊やお化けくらいいてもおかしくはないのかもしれないが、そんな単純なものなのだろうか。
そしてもう一つ奇妙な点は、衝撃を受けてはいても、同時にあの人影に対しては、不思議に恐怖などは感じなかったということだ。むしろ、
「……なんだか、親近感……というのでしょうか。そんなものを感じました」
アンジェの言う通り、言いようのない感覚的近さを私もまた覚えていた。いや、すごい美人だったから怖くなかった、ということもあるかもしれないけどね。うん。
私たちはしばらく顔を見合わせていたが、やがてどちらからともなく疲れたような微笑を浮かべ、天移門を降りて歩きだした。なんかもう、色々と処理すべき情報の量が多すぎて煙出そう。ちょっと休みたい。
だが、「面倒事」さんはさびしがり屋なので、たいてい一緒に仲間を連れてくるものだ。
私が魂魄板をかざして自動改札ならぬ魔法改札を通り、エントランスホールへ戻ったところ、案内係の聖務官さんがサービスカウンターを出て近寄ってきた。
「失礼いたします、ラツキ・サホ様でいらっしゃいますか?」
「え? はい、そうですが」
なんでわかったんだ、と一瞬思ったが、魂魄板に登録された個人情報か。あれがサービスカウンターに投影されてたりするんだろうな。
「ラフィーネ4等聖務官から、ラツキ様が見えたらお目にかかりたいと伝言を預かっております」
げ。ラフィーネさんか。
いやラフィーネさんに会えるのは嬉しいのだが、一昨日、ラフィーネさんのことで、アンジェとその、色々あったばかりなので。
私はそっと傍らのアンジェを盗み見る。アンジェはそれに気付き、照れたような顔をして、小さくこくんと頷いてくれた。
良かった、アンジェ様のお許しが出たみたい。どっちが主人なのよって話だけど。
「わかりました。お会いします」
「ありがとうございます。ではこちらへどうぞ」
案内係さんに連れられて、小さな控室のようなところへ。
さほど待たされることもなく、すぐに扉が開き、ラフィーネさんが入ってきた。
「ラツキさん、お会いできてよかったです。……あ、ほむべきかな、いと高き塔」
「はい、ほむべきかな。今忘れてたでしょ、それ」
「そ、そんなことありません! ちゃんとほむりました!」
「ほむるんだ……」
なんかラフィーネさんと話してるとそれだけで元気出てくる感じがする。
……って、アンジェを悲しませないように気を付けないとね。
「で、何か御用ですか、ラフィーネさん?」
「ええ、少し。……あの、驚かないでくださいね?」
まあ、ここ何日か、いろんなことが立て続けに起きてるし、今更ちょっとやそっとのことではそうそう驚かないと思いますよ。
「――ラツキさんを夕食にご招待したいとの申し出がありました……レグダー男爵から」
……いやそりゃ驚くよ。




