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そのご寵愛、理由が分かりません  作者: 秋月真鳥
アレクサンテリ視点
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9.婚約の使者

 レイシーをわたしのために用意された席に連れていくと、レイシーは座ることを固辞していたが、レイシーが立っているならわたしも立っていると伝えると、五分ほど言い合った後に座ってくれた。


「皇帝陛下、この方は?」

「わたしの婚約者になるレイシー・ディアンだ」


 護衛として来ていたテオが問いかけるのに答えると、レイシーが慌てているのが分かる。


「婚約はお受けしておりません」

「受けてもらえないのか?」

「そ、それは……」


 急に言われても困るだろうというのは分かっていた。

 結婚することはないと宣言していたわたしが、興味を示したレイシー。婚約して結婚するのだと宣言すれば、護衛やテオが騒ぎ出す。


「レイシー嬢、おめでとうございます」

「皇帝陛下、ご結婚なさる気になられたのですね。素晴らしいことです」


 これでレイシーも後に引けなくなるはずだ。

 皇帝が唯一求めた女性で、レイシーにはもう婚約者もいない。何の問題もないはずなのに、レイシーは軽率には返事をしてこなかった。


「わたくしの婚約が正式に破棄されたわけではありませんし、両親に確認してみないと」

「そうだったな。ディアン子爵家に使いを出そう。正式に迎えを寄越すとしよう」

「わたくし、長女ですので、次女のソフィアの方が……」

「わたしが望んでいるのは、レイシー、あなただけだ」


 婚約破棄が口頭で行われただけで、まだ成立していないことや自分が長女で家を継がなければいけないことを口にしているが、それに関してもわたしは問題ないと思っている。

 婚約破棄の手続きは速やかに進めさせるし、妹のソフィアでは意味がない、レイシーでなければいけないのだ。


 ずっと孤独で苦しかったわたしの胸に宿った一筋の希望の光。それがレイシーだった。

 隣に座っているだけで心拍数が上がり、声を聞いているとセシルの声そのもので、もっと聞いていたいと思ってしまう。

 ひとが一番に忘れるのは声だと言われているが、わたしはセシルの声を忘れそうになっていた。六歳のときに聞いた後二十二年もセシルの声を聞いていなかったのだ。記憶は薄れ、遠くなっていたセシルの声がこれからずっと聞けるのならば、それだけでもレイシーにそばにいてもらう価値がある。


 セシルの代用品としてではなく、レイシーとして彼女を認識しているが、わたしの中ではまだセシルの存在が大きくて、彼女の中にセシルを探してしまっていた。


「あの、なんで、わたくしを?」

「デビュタントでわたしに挨拶をしたときのことを覚えているかな? あのときに、わたしはあなたに気付いた」

「気付いた?」

「あなたは、わたしの運命なのだと」

「運命?」


 あの日、レイシーを見てセシルに似ていると思ったし、声を聞いてセシルと同じだと感じた。

 まだそのことは口に出せていないし、レイシーにセシルの記憶があるのかも分からないのだが、運命を感じたことを伝えると、レイシーはとても驚いていた。

 給仕に命じてシャンパンを持って来させると、レイシーに勧め、わたしもシャンパングラスを手に取った。ずっと何を飲んでも、何を食べても、味などしなかった。生きるために必要だから飲んでいたにすぎないのに、そのシャンパンは味がした。ぱちぱちと弾ける炭酸も、口の中に広がるシャンパンの香りと味も、わたしは確かに感じた。

 セシルを失ってから、わたしは初めて味覚を取り戻していた。


 レイシーがいると味を感じる。

 レイシーがいると生きるためだけに鼓動を刻んでいた心臓が、全身に血を流し、わたしの喜びを伝えるために動き出すようだった。

 レイシーのドレスには刺繍がしてあって、レースもついていた。その刺繍は端の方を見れば、目立たないようにだが、玉留めが星のようにデザインしてあって表に出されている。


「この刺繍、レイシーが入れたのか?」

「はい。わたくし、ドレスを誂える余裕がありませんので、自分でドレスを仕立てました。この刺繍、ソフィアのものよりも簡素なのですが、ソフィアのドレスはもっと豪華に仕上げておりますよ。ソフィアのドレスをお見せしたい」


 問いかければレイシーが活き活きと語り出した。

 レイシーの様子にわたしは自然と微笑んでいた。感情も表情も凍り付いたと思っていたのに、レイシーの前では簡単に溶けてしまう。

 セシルと同じ刺繍、セシルと同じ玉留め。

 レイシーの声をもっと聞きたい。

 わたしはレイシーにさらに問いかけていた。


「このレースも、レイシーが編んだのか?」

「はい。レース編みは得意なのです。わたくしの名前も、レースのように繊細で美しい子になるようにと、レースが由来でレイシーと付けられました」

「レースが由来だったのか。それでこんな美しい名前なのだな」


 刺繍やレースのことになると饒舌になるレイシーに、微笑みながら聞いているとテオがわたしの楽しい時間を遮った。


「皇帝陛下、そろそろお戻りの時間です」


 離れがたかったが立ち上がり、わたしはレイシーに挨拶をした。


「すまない、レイシー。楽しい時間はここで終わりのようだ。今日は失礼する。後日、城から正式に使いを出すので待っていてくれ」

「考え直しませんか?」

「何をだ?」

「えっと……全てを?」


 考え直す気など全くない。

 レイシーは必ずわたしが手に入れる。

 そうでなければ生きて来た意味などない。


 強い感情が生まれたが、それをレイシーに見せると怯えられそうなので、わたしは飲み込んで笑顔で手を振り、皇宮に戻った。

 皇宮ではテオが知らせたのか、大変な騒ぎになっていた。


「皇帝陛下、ディアン子爵家の令嬢と婚約なさるのですか?」

「ついに結婚される気になられたのですか?」


 ユリウスとシリルがものすごい勢いでわたしに聞いてくる。


「ディアン子爵家のレイシーは婚約破棄を言い渡されていた。貴族同士の婚約が一人の意志で破棄できると思うドルベル男爵家の次男は愚かだが、わたしのためにも婚約は破棄させる手続きを取ってもらおう。そののち、わたしと婚約をする」


 貴族の婚約は家同士の約束なので、個人が何を言ったところで破棄されるようなことはないのだが、卒業パーティーで恥をかかせるようなことをして、堂々とエミリーをパートナーとして連れていたレナンはレイシーの婚約者から外されても文句は言えないだろう。

 むしろ、嬉々として婚約者から外れてくれるだろう。

 レナンに何かするつもりはなかった。ただレイシーから離れてくれればいい。

 ドルベル男爵家には、今日のことを報告して、ディアン子爵家との婚約を解消するように促せば、自分の息子に落ち度があるので拒まないだろう。


 ドルベル男爵家の使用人とモロー家の使用人に手を回して、二人の仲を深めるようにさせておいてよかったとわたしは胸の中で思う。


 次はわたしの結婚の申し込みだった。

 わたしが本気だと分かるように、使者は慎重に選ばなければいけない。

 けれど、レイシーに若い男は近付けたくない。


 ユリウスもシリルもテオもダメだ。

 テオは結婚しているが、ユリウスはわたしが結婚するまで結婚しないと婚約者を待たせているし、シリルは婚約者を病気で亡くした後婚約を拒んでいる。

 見目のいい若い男性であるテオも、結婚していないユリウスとシリルも、レイシーの元に行かせたくない。


「ディアン子爵家への使者は誰がいいのだろう」


 全てのことを自分で決めていたのに、珍しく悩んでしまって小さく呟くと、叔父のカイエタンが助言してくれた。


「皇帝陛下のお気持ちを伝えるのでしたら、騎士団長のグレゴール・クレメンはどうでしょう?」

「グレゴールか。騎士団長だったらわたしの本気が伝わるかもしれないな」


 グレゴールは四十代後半で、結婚して子どももいる。愛妻家で妻以外の女性に興味がないというのも聞いているので、レイシーに会わせても安心だろう。


「グレゴールを呼べ」


 わたしが命じると、グレゴールがすぐにわたしの執務室にやってきた。

 膝をついて礼をするのに、「許す」と言って立たせて、わたしが直筆で書いた求婚の手紙をグレゴールに渡す。


「これを明日、ディアン子爵家に届けるように。ディアン子爵家から何を言われようと、この手紙をディアン子爵が開封して、返事をもらうまでは戻ってこないように」

「心得ました」


 手紙を手渡せばグレゴールは恭しく受け取って、わたしに頭を下げる。

 下がってもいいと伝えて、わたしは執務室から出た。


 レイシーの手を握っていた手が、熱くなっているのを感じる。

 レイシーに触れた場所から、死んでいた体が蘇っていくような感覚に陥る。

 わたしは生きている。

 生きたまま死んでいたようなわたしの体が、確かに生き返ってきているのを感じる。


 夕食はやはり味がよく分からなかったが、砂を食べているような不快感は不思議となかった。レイシーと飲んだシャンパンの味が忘れられない。

 その夜、わたしは睡眠薬を飲まずにベッドに入った。

 睡眠薬を飲まなければ一睡もできなかったのに、わたしはその夜はレイシーと繋いだ手がぽかぽかと温かくて、短く浅い眠りだったが、睡眠薬なしで眠ることができた。


読んでいただきありがとうございました。

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