6.皇帝になって
生きたまま死んだような生活だった。
皇帝としての職務は果たしつつ、わたしの心は渇いた砂漠のようで、なにも受け入れられず、誰にも心許すことができず、周囲はみんな敵に見えていた。
幼馴染で側近のユリウスとシリルとテオは、わたしの執務を手伝おうとしたが、わたしはそれを跳ね除けた。忙しくしていれば心が死んでいても体が動く。そうすれば何とか生きていける。
セシルを失ってから、わたしは何度もセシルのもとに行きたいと願ったことがある。
それが死を示すことを分かっていなくても、セシルがいないこの世界に興味などなかった。
それでも生きてきたのは、この命がセシルの救ってくれたもので、セシルがわたしが生きることを望んでくれたということだけだった。
人間、なかなか死ねるものではないということもこの十二年で理解した。
死のうと思って食事をしなかった時期もあったが、やせ細るわたしを見て母が泣き、食べ物を口に運んで食べさせようとするのを見ていると、死ねないと思ってしまう。
ナイフで首を掻っ切って死のうかと思ったこともあるが、セシルが真っ赤な血に染まって倒れていく姿を思い浮かべるたびに、それを思いとどまった。
セシルはわたしに「逃げて」と言った。
セシルはわたしに生きてほしいと思っていた。
セシルの作ってくれた青い蔦模様の刺繍の入った服。
それだけがわたしをこの世に結び留めていた。
青い刺繍に指を這わせるたびに、セシルが一針一針丁寧に刺繍してくれたのを思い出す。この刺繍にはセシルの思いが宿っている。
血の染みは消えなかったが、それはわたしが背負っていくべき罪なのだと理解していた。
わたしの存在がセシルの命を奪った。
母はわたしに「幸せになってほしい」などと言ったが、わたしは幸せになってはいけない人間なのだ。
わたしのせいで最愛のひとが死んでしまった。
わたしをかわいがり、わたしに愛を教え、わたしを愛しんでくれた最愛のセシル。
わたしがいなければセシルは死ぬことはなかった。わたしに出会わなければセシルは遠い国境の村で平和に暮らしていただろう。
全てわたしの罪だった。
夜眠ることのできないわたしのために、医者が睡眠薬を処方してくれている。
睡眠薬での眠りは意識が一気になくなって、いきなり覚醒するというとても安らげたものではなかったが、夢を見ない分わたしは救われていた。
夢を見ていたら、わたしは何度もセシルのことを見ていただろう。
微笑むセシル。わたしに話しかけるセシル。刺繍をしているセシルの真剣な横顔。縫物をしていても時々わたしの方を見てくれるセシル。
そして、属国の兵士の剣で切られて、血塗れになって倒れるセシル。
死んでいくセシルの映像を何度も見せられたら、わたしは気が狂っていたかもしれない。
睡眠薬を手放せないわたしを、母は心配しているようだったが、わたしは母とは距離を置いていた。
皇帝に即位する直前、わたしの部屋に薄着の女性が現れたのも、母の手引きだったのではないかと疑っているのだ。
皇帝宮のわたしの部屋は警備が非常に厳しい。そうでないとわたしの命を守ることはできない。その警備をかいくぐれるのは、母が手引きしたからとしか思えなかった。
皇宮にわたしの味方などいない。
信頼できる相手などいない。
わたしはただ一人、皇帝として孤独だった。
そんなわたしを周囲のものたちは恐れている様子だった。
わたしはそれでいいと思っていた。
誰かとなれ合うことなどしたくない。誰もわたしの心を救うことはできない。
そのころにわたしは一冊の本と出会っていた。
その本はこの国の教会が出したもののようで、検閲のためにわたしに一冊渡されたものだった。
その本には次のように書いてあった。
魂は輪廻する。
死んだ者の魂は、輪廻転生して、また新しい体へと宿る。
輪廻転生したものに前の記憶はなくて、新しい人生を歩むが、時折、前世の記憶があるものが生まれてくる。
いくつかある実例を交えての本だったが、わたしはその本が信じられなかった。
輪廻転生……いわゆる生まれ変わりなどあるはずがない。
あるとしたら、ひとの死とはなんなのだろう。ひとの人生とはなんなのだろう。
死の先にあるのは虚無だけだ。
ひとは死んだら無に還る。
それだけのことだ。
そうでなければ、セシルがどこかに生まれ変わっていることになる。
セシルの生まれ変わりを探すことなどわたしにはできないし、どんな顔でセシルに会えばいいのか分からない。
セシルはわたしを恨んでいるだろうか。死の原因となったわたしを憎んでいるだろうか。
わたしはセシルが恋しいと思うと共に、セシルに会えば断罪されるとも思っていた。
わたしが身分を明らかにして、自分の名前も隠さずに伝えていれば、わたしは見つかって殺されたかもしれないが、セシルは生きていたかもしれない。
わたしの存在がセシルを殺した。
何度考えてもその結論になってしまって、考えるたびにガラスの破片を飲み込むように喉から胸が痛く、心は凍り付いて行った。
セシルが目の前で死んだ瞬間以来、わたしは涙も流せなくなった。
セシルの命を奪った原因である私に、泣く権利などないと思ってしまったのだ。
息をするたびにただ苦しい。
食事は砂を噛んでいるように味がしない。
セシルの元へ行きたい。
その気持ちは日に日に強くなっていた。
ユリウスもシリルもテオも、わたしのことをとても心配していたが、わたしは口出しすることを許さなかった。話しかけられるのすら不快だった。
わたしは他人と交友をしていいような人間ではない。
わたしは罪びとなのだ。
罪を償うために皇帝としての責務を背負って生きている。
二度とセシルのように殺されるものが出ないように、それだけを考えていた。
セシルはお針子になりたいと言っていた。
わたしはセシルの夢を叶えてやりたかったが、皇帝がどのようにすればお針子になりたいと思っている国の少女たちの夢を叶えられるのか方法が分からなかった。
この国の女性はまだ地位が低く、成人するまでは家の手伝いをさせられて、成人したらすぐにでも結婚させられて、家庭に入り、家事をして子どもを産んで、結婚相手の仕事を支える。それが常識になっていた。
セシルは結婚などしたくないと言っていた。
セシルの村での夜、暑くて寝苦しくて起きたら、セシルの呟きが聞こえてきたことがあった。
「いつか、わたしが結婚して子どもを産むことがあったら……」
セシルが何を考えているか分からないけれど、結婚のことを考えているのかとわたしが耳を澄ましていると、セシルの口調が硬くなる。
「結婚なんてしない。結婚なんて女の墓場だわ」
セシルの言葉に、わたしは起き上がって問いかけていた。
「おねえちゃん、赤ちゃんがほしいの?」
「ガーネくん、起きてたの?」
わたしが目覚めていたことに驚くセシルの顔をじっと見つめて、返事を待っていると、セシルはため息をついて苦笑して話してくれた。
「赤ちゃんはかわいいと思うけど、自分が産むのは想像できないな。ガーネくんみたいなかわいい子だったらいいんだけど」
「ぼくとけっこんしたら、ぼくそっくりな赤ちゃんがうまれるかもしれないよ!」
「ガーネくんと結婚か。結婚できるまでに十二年もかかっちゃうね」
そのときにはよく分かっていなかったが、わたしは六歳で、セシルは十六歳。わたしが十八歳になって成人するときには、セシルは二十八歳だった。女性は成人してすぐに結婚させられるこの国において、二十八歳まで独身でいるということは、とても難しいことだと、当時のわたしはよく分かっていなかった。
女性には子どもを産める期間があるのだ。それを過ぎてしまうと、子どもが産めなくなってしまう。二十八歳は子どもを産むには少し年齢が高くなっているので、結婚相手を見つけるのは難しくなる年頃だということが、六歳のわたしには分からない。
「わたしは、一生結婚はしたくないかな」
「どうして?」
「結婚したら、自由じゃなくなっちゃうからね」
「どうしてけっこんすると自由じゃなくなっちゃうの?」
女性のこともよく分かっていなかったわたしが問いかけると、セシルは困ったように笑って答えてくれた。
「女のひとは結婚したら、子どもを産んで育てて、家庭に入らなきゃいけないの。夫に従わなきゃいけないし、夫の仕事を支えないといけない。わたしは夫の仕事を支えるんじゃなくて、自分で仕事をしたいんだ」
「女のひとはどうして、夫にしたがわないといけないの?」
「なんでだろうね。そういう社会だからかな」
当時のわたしよりも十歳年上のセシルもどうしてこんな社会なのか分かっていなかった。分からないが、それが理不尽で、結婚などしたくないと言っている。
わたしは将来皇帝になるので国のことは何でも変えられると信じていた。
「ぼくが変えるよ」
「え?」
「ぼくが、この国を変える。そしたら、おねえちゃんはぼくとけっこんしてくれる?」
この国を変える。
そのことを意識し始めたわたしの言葉を、セシルは本気にしてくれなかった。
「そんなことはいいから、寝ちゃおう。明日、起きれなくなるよ?」
「おねえちゃん、へんじして!」
「はいはい、そんなことがあったらね」
それでも、この国を変えたらセシルが結婚してくれるかもしれないという希望を持って、わたしは眠りについた。
今考えるとわたしは幼くて愚かだったのだ。
国を変えることなど皇帝ならば簡単だと思っていたが、皇帝がすることには全て議会が関わってくる。議会の承認なしには皇帝も簡単に国を動かしたりできない。
セシルの望んだ女性に自由のある社会を作ろうとしても、方法が分からないし、皇帝になってもわたしはあまりにも無力だった。
セシルとの約束を守りたい。
それがわたしにできる唯一の贖罪なのに、それすらもうまくいかない。
わたしは生きることの意味を見失っていた。
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