8.ミシン
夕食はわたくしは皇帝陛下とご一緒することになった。
皇帝陛下が食堂に入ってくるまで立って待っていて、皇帝陛下が来たら膝を突いて挨拶をしようとしたのだが、手を引かれてしまってそれは許されなかった。
「レイシーがわたしに膝を突く必要はない。二人だけの食事だ。形式ばらなくてもいい」
皇帝陛下が椅子に座ったので、わたくしも椅子に座る。
長めの白銀の髪に柘榴のような真紅の目の整いすぎたお顔立ちの皇帝陛下を直視できず、わたくしは手元に視線を落とした。
食べることに集中しようと思う。
昼食のときも思ったのだが、この宮殿の食事はものすごく美味しい。緊張して味も分からないかと考えていたが、わたくしは存外図太かったようで、ラヴァル夫人と話しているときにも、皇帝陛下と対峙しているときにも、しっかりと口にするものの味が分かった。
丁寧に裏ごしされた滑らかなスープ、新鮮な野菜のサラダ、全く臭みのない白身魚のソテー、フォークで触れるとほろりと崩れる牛肉の煮込み。
どれも最高に美味しい。
「ラヴァル夫人はどうだった? なにか困ったことはなかったかな?」
「とても親切にしていただきました。教養のある方で話していて楽しかったです」
「楽しかったのか……。少し妬けるな。わたしと話すのも楽しいと思ってくれたらいいのだが」
「は、はい」
妬けるとは何なのだろう。
ラヴァル夫人は女性だし、既婚者なのだ。わたくしとラヴァル夫人との間に何かあるはずがない。
それに、皇帝陛下相手に楽しい話題など、ないことはないが、なかなか難しい。
「妃教育は忙しくなるだろうが、レイシーの趣味の時間も取れるように配慮する」
「ありがとうございます」
「レイシー、ずっとこうしてあなたと共に時間を過ごしたかった。わたしがどれだけ浮かれているか」
ずっとわたくしと共に時間を過ごしたかった?
よく意味が分からない。
皇帝陛下はわたくしが都合がよかったから側妃か妾妃に迎えようとしたのではないだろうか。
まるで、ずっとわたくしのことを待っていたようなことを仰っている。
よく意味が分からなかったのでスルーすると、皇帝陛下がわたくしにお願いしてきた。
「馬車の中でわたしのジャケットを縫ってほしいと言った件、本気だ。明日、布と寸法を届けさせるので、暇なときにでも縫い進めてほしい」
「その件ですが、わたくしは上質な絹糸を持っておりません。皇帝陛下の身に着けられるようなものが作れるか分かりません」
「それでは糸も準備させよう。他に必要なものはあるかな?」
必要なもの。
これは、思い切ってねだってみてもいいのだろうか。
わたくしは側妃だか妾妃だか分からないが、とりあえず妃にはなるのだ。高価なものをねだっていい立場なのかもしれない。
「み、ミシンを……」
憧れの足踏みミシン。
あれが欲しかったのだが、わたくしは手に入れることができなくてずっと手縫いで仕上げていた。手縫いも丁寧に縫えばミシンと変わりない仕上がりになるのは分かっているのだが、ミシンの方がずっと効率がいいという話は聞いたことがある。
わたくしが詩集や縫物やレース編みで稼いでいたお金は、家への仕送りと、ソフィアの教育費とわたくしたちの衣装の材料費に消えていたので、わたくしにはミシンを買うような余裕はなかった。
「ミシンを持っていなかったのか。それではすぐに購入させよう。明日にでも部屋に届くように手配する」
「よろしいのですか? ものすごく高価なのですよ?」
「わたしの妃は本当に欲がない。宝石の一つでもねだるかと思えば、わたしのジャケットを縫うためのミシンをねだるのだからな。ミシンが何台でも買えるような宝石も贈りたいのだが」
「それは遠慮いたします」
宝石などほしくない。
宝石よりもミシンをもらった方がずっと嬉しい。
「ミシンを買っていただけるとのこと、とても嬉しいです。ありがとうございます」
これで、わたくしの作れるものの幅が広がる。時間短縮にもなる。
ミシンがあったなら、ソフィアにももっとたくさんのドレスを作ってあげられただろうと思うと、ソフィアのことを思い出してわたくしはしんみりとしてしまった。
わたくしがディアン子爵家を継いで、ソフィアはいずれどこかの家に嫁ぐのだとは覚悟していた。別れの日が来ることは分かっていたけれど、できるだけ近い場所に嫁いでもらって、ソフィアのことはずっと見守っていたかった。
わたくしがソフィアのことを考えていると、皇帝陛下が「そういえば」と口を開いた。
「服は今日仕立て職人が来たようだが、靴はまだ揃えていないようだね。レイシーは踵の低い靴が好きなのかな?」
わたくしが唯一持っているパーティー用の靴が踵の低いものだったので、皇帝陛下はわたくしが踵の低い靴が好きなのだと誤解しているようだった。
そうではないのだとわたくしは口を開く。
「本当は踵の高い流行の靴を履きたかったのです。ですが、お値段が……。それにレナン殿がわたくしは背が高すぎるので、踵の高い靴は履かないでほしいと言っていたので」
レナン殿の名前を出した瞬間、和やかだった空気の温度が下がった気がした。皇帝陛下の美しい眉間にぴしりと皴が寄っている。
「あなたを捨てて他の女に目移りした見る目のない男のことか。そういえば、あの男は背が低かったな。わたしの前では遠慮することなく、レイシーの好きな靴を履くといい。踵が高すぎてレイシーが転びそうになるのはよくないが、レイシーのことを支えるくらいのことはわたしにもできる」
そうなのだ。
レナン殿はわたくしが少し踵の高い靴を履くと身長が変わらなくなってしまっていたのだが、皇帝陛下とわたくしが並ぶと、わたくしは皇帝陛下の胸くらいまでしか身長がない。それならばどれだけ踵の高い靴を履いても構わないだろう。
値段的にも手が出なかったし、レナン殿も嫌がるので履かなかった憧れの靴をわたくしは履くことができる。
「ありがとうございます、皇帝陛下」
仮初めの側妃か妾妃に過ぎないのに、皇帝陛下は本当にわたくしに優しくしてくれる。
デザートの巨峰のタルトを食べながら、わたくしは皇帝陛下に感謝していた。
この国では、婚前交渉は不道徳だとされているが、わたくしは即位されてから十年間も側妃も妾妃も一人も迎えなかった皇帝陛下の初めての妃なのである。
婚約期間であろうとも一刻も早い妊娠を望まれているのは理解している。
夕食の後で皇帝陛下が部屋まで送ってくださったときに、一瞬だけ警戒してしまった。
このまま皇帝陛下はわたくしの部屋に入るのか、それとも、わたくしが皇帝陛下の部屋に呼ばれるのか。
「今日は疲れただろう。ゆっくり休むといい、レイシー、おやすみ」
「おやすみなさいませ、皇帝陛下」
よし!
今日は何もないようだ。
なんとか今日という日をクリアできてわたくしは疲れを覚えながら部屋の中に入った。
歯磨きと着替えを終えて、寝る仕度をしてベッドに入ると、瞼が重くなってくる。
朝から皇帝陛下はディアン子爵家にやってくるし、同じ馬車で帝都まで移動するし、皇帝宮に連れて来られたらラヴァル夫人の教育が始まるし、わたくしは疲れ果てていた。
眠りに落ちていくのをわたくしは止められなかった。
夢の中では、わたくしは十六歳のセシルという女の子になっていた。
セシルはどことなく今のわたくしと姿が似ている。
刺繍好きなところも、縫物が好きなところも、レース編みが好きなところも同じだ。
セシルになったわたしは、家の食堂を手伝って、遅い昼の休憩に入っていた。
店の奥でガーネくんと一緒に昼食の賄いを食べていると、少しだけ残っている客から噂話が聞こえてくる。
「皇帝陛下が暗殺されたらしい」
「皇帝陛下を暗殺した属国の連中は厳しく処分されて、皇帝陛下の弟君が皇帝代理として立ったんだろう?」
「皇太子殿下はまだ幼いという話だし、このまま皇帝陛下の弟君が皇帝に即位してくださったらいいのに」
遠く離れた帝都は今、嵐が吹き荒れているようだ。
そんな中で国を支える皇帝陛下が不在というのは国民も心配なのだろう。
皇帝陛下がいなければまた反乱がおきるかもしれない。
「おねえちゃん、こわいお顔」
「え? そうだった?」
「お料理、からかった?」
「辛くないよ。美味しいよ」
皇帝陛下のことを考えていたのでわたしは難しい顔をしていたようだ。
ガーネくんに指摘されてしまった。
賄いのパスタを食べていると、パスタのソースが飛んでしまって、服に着いたガーネくんが涙目になっている。
「おねえちゃんの作ってくれた服、汚しちゃった……」
「洗えば平気よ」
「でも、落ちなかったらどうしよう」
「汚れが落ちなかったら、その上に刺繍をしてあげる」
ガーネくんは厄除けのために青い蔦模様の刺繍の入った服を着ていた。この地方では子どもが健康に育つように、青い蔦模様の刺繍を入れた服を着せるのだ。
「この服、お気に入りなのに」
「また作ってあげる」
「また作ってくれる?」
「うん、作ってあげる」
約束すると、やっと安心したようにガーネくんが食事を続ける。食べ終わったガーネくんは口の周りを拭いて、もじもじとしながらわたしにお願いしてきた。
「ぼくが、大きくなっても、おねえちゃんが服を作ってくれる?」
それに対してわたしはすぐには返事ができない。
ガーネくんは今のところは両親のことも分からないし、どこから来たのかも分からないので、我が家で預かっているが、いずれは両親や親戚の元に返さなくてはいけないだろう。必死になって両親も情報を集めてくれているが、ガーネくんは見つかったときに下着一枚で、靴すら履いていなくて、何も手掛かりがないので難航している。
「ガーネくんが大きくなって、そのときにわたしがそばにいたらね」
「おねえちゃん、いなくなっちゃうの?」
「いなくなっちゃうのはガーネくんかもしれないよ。ガーネくんのご両親や親戚の方が見つかったら、ガーネくんのことを心配してると思うから、お返ししなくちゃ」
言い聞かせるようにすると、ガーネくんは柘榴のような真紅の目に涙をいっぱいに溜めていた。
「ぼく、ずっとおねえちゃんと一緒にいたい」
それが叶えられない願いであることは、わたしはもう薄々勘付いていた。
銀色の髪に真紅の目。
こんなきれいな男の子が普通の平民であるはずがない。
きっと貴族の血を引いているのだろう。
いつか迎えに来るガーネくんのご家族に、ガーネくんを胸を張って返せるように。
それだけを願っていた。
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