5.モンレイユ夫人の音楽レッスン
モンレイユ夫人とラヴァル夫人の話し合いが終わって、わたくしは皇帝宮の音楽室に移ってモンレイユ夫人の授業を受けた。音楽室には立派なグランドピアノが置いてあって、わたくしはそれを弾いてみせる。
自己流だったので恥ずかしかったが、モンレイユ夫人はわたくしを馬鹿にするようなことはなかった。
「妃殿下のピアノは自分だけで習得したにしては素晴らしいものでした。これから基礎練習をしていけばますます上達すると思います」
「教えてください」
「まずは運指法からお教えしましょう」
一オクターブを弾くのに、どこで指を入れ替えるのかもわたくしはよく知らないままに弾いていた。基本の運指法を習って、指を入れ替える位置を確認して、指の場所に気を付けて弾いてみると同じ曲なのにかなり弾きやすいことが分かる。
基礎が重要だというのは本当のようだ。
「しばらくは練習曲を弾きましょう。それから少し難易度の高い曲に挑戦してみましょう」
「最終的にはどれくらい弾けるようになったらいいのですか?」
「楽譜を見たら初見である程度弾けるようになっておいた方がいいでしょうね。他の貴族や属国の要人が急に歌いたいと言った場合でも、対応できるようにしなければいけません」
わたくしはピアノ伴奏者になるつもりはないのだが、ある程度は技術を身に着けておかなければいけないようだった。学園時代にもう少し余裕があればピアノを専攻していたらよかったのだが、ピアノの基礎ができていないわたくしは、楽器がなくても手軽にできる声楽を選んでしまった。
「声楽のレッスンも致しましょう。どの曲を歌えますか?」
「この曲でしたら」
楽譜を見せられてモンレイユ夫人に歌える曲を示すと、モンレイユ夫人がピアノの椅子に座って弾き始めた。モンレイユ夫人の伴奏に合わせて歌い出すと、モンレイユ夫人が弾きながら聞いているのを感じる。
歌い終わると、モンレイユ夫人は僅かに微笑んだようだった。
「妃殿下はとても響きのある歌声をしています。歌い方も情感がこもっていて素晴らしいです。声楽のレッスンはもっと高度なものができそうですね」
「本当ですか? 声楽は学園で六年間習ってきました」
「その成果が出ていると思いますよ」
褒められて安堵するわたくしに、モンレイユ夫人は発声練習を教えて、声楽の前に行うストレッチも教えてくれた。
「練習は毎日一時間だけでも続けてください」
「ピアノが一時間、声楽が一時間ですか?」
「難しい場合には、合わせて一時間でも構いません」
アレクサンテリ陛下の結婚衣装も任されていたし、わたくしの結婚衣装も作っていかなければいけない。造花で花冠もブーケも作らなければいけなかったので、わたくしは忙しかった。
それでも毎日一時間くらいは時間を捻出できそうだ。
皇后になるために必要なことならば努力しよう。
決意してわたくしはモンレイユ夫人に言った。
「これから頑張りますので、しっかりと教えてください」
「そのつもりです」
心強いモンレイユ夫人の言葉に、わたくしはモンレイユ夫人も信頼できる方だと確信していた。
それにしてもモンレイユ夫人はピアノがとてもお上手だった。貴族教育として幼いころから学んでいるのだろう。
わたくしはもう十九歳なのだが、これからでも間に合うのだろうか。不安になるが、モンレイユ夫人の教えの通り、努力していくしかなかった。
お茶の時間にはモンレイユ夫人とラヴァル夫人は帰って、アレクサンテリ陛下が入れ違いに帰ってきてくださった。
アレクサンテリ陛下をお迎えする。
「おかえりなさいませ、アレクサンテリ陛下」
「ただいま、レイシー」
そのまま勢いで抱き締められて、わたくしは恥ずかしく思いながらも、アレクサンテリ陛下の香水の香りを胸に吸い込む。アレクサンテリ陛下は嫌味でないくらい近付くと微かに匂いを感じる香水をつけている。
爽やかだがどこか甘いその香りに浸っていると、アレクサンテリ陛下が体を離した。
「レイシーが愛しくてつい抱き締めてしまった。嫌ではなかったかな?」
「嬉しいですが、少し恥ずかしいです」
「レイシーは恥ずかしがり屋だな」
笑いながらアレクサンテリ陛下は自分の部屋に戻って、着替えてお茶室にやってきた。
お茶室で待っていたわたくしはアレクサンテリ陛下と一緒にソファに座る。
アレクサンテリ陛下はソファセットが置かれたお茶室が気に入っていて、二人掛けのソファにわたくしと横並びに座るのを好む。
お茶の用意がされて、ティーカップに紅茶が注がれると、侍女は部屋の隅に控える。
わたくしは箱に入れて用意していたラペルピンをアレクサンテリ陛下に見せた。
「これ、わたくしが初めて作った造花です。アレクサンテリ陛下とお揃いにしたくて、ラペルピンにしました」
「きれいなラベンダー色だ。レイシーの色だね。とても嬉しいよ」
受け取ってくれたアレクサンテリ陛下に、わたくしは自分の分の箱も開ける。そこには、同じ造花で作られたコサージュが入っていた。
「わたくしはコサージュ、アレクサンテリ陛下はラペルピンです」
「お揃いで身につけよう。レイシーが作ってくれたラペルピン。使うのがもったいないが、世界中に自慢したい気持ちだ」
「そんな、大袈裟です」
「大袈裟ではない。レイシーの作ってくれたものだから、みんなに見てほしい。いや、誰にも見せずに大事に保管してもおきたい」
真逆のことを口にして苦悩するアレクサンテリ陛下に、わたくしは笑ってしまった。
笑っているわたくしに、アレクサンテリ陛下も柔らかく微笑む。
「レイシーが進言してくれたように、執務を側近たちに振り分けることにした。わたしはなにを意固地になっていたのだろうね。わたし一人でしなければいけない、それが一番楽だと思い込んでいた」
「アレクサンテリ陛下……」
「任せたら、側近たちがこんなにも優秀だったことを知ったよ。何かがあってわたしが数日休んでも、皇宮内は問題なくなりそうだ。それで、レイシーに提案したい」
「なんでしょう?」
「帝都の外れに皇帝の別荘があるのだ。美しい湖の近くなのだが、そこに行かないか?」
皇帝宮に来てから三か月以上、わたくしは皇宮の敷地内から出たことがなかった。皇帝陛下の別荘というのだから、きっと立派なところなのだろう。美しい湖の近くというのも心惹かれる。
「行ってもいいのでしょうか?」
「レイシーは行きたくないのかな?」
「わたくし、妃教育もありますし、結婚式の衣装や造花作りもあります」
「それは数日休んでも構わないのではないかな。レイシーにも息抜きが必要だろう」
アレクサンテリ陛下に言われると、行きたい気持ちが募ってくる。
「なにより、わたしは皇帝になってから十年間、一度も休みを取っていない。愛するレイシーと共に休暇を取りたいと思っているのだが、レイシーは気乗りがしないかな?」
「そんなことないです! 行きたいです!」
そうだった。
アレクサンテリ陛下はずっと皇帝陛下としての執務に追われていて、休む暇もなかったのだ。皇宮の執務を全て引き受けていて、誰にも振り分けなかったのも、アレクサンテリ陛下がそれだけ周囲を信頼していなかったからだろう。
これからは執務も振り分けて、周囲との信頼関係も築いて、アレクサンテリ陛下は少しは楽になるはずだ。
「分かりました。行かせていただきます」
「ありがとう、レイシー。最高の休暇になりそうだよ」
わたくしが答えると、アレクサンテリ陛下は子どものように無邪気にわたくしを抱き締めてきた。最近アレクサンテリ陛下がわたくしに接触するのを躊躇わなくなった気がする。
気持ちが通じ合ったからかもしれないが、夢の中で小さなガーネくんをよく抱き締めていた思い出があるだけに、わたくしは懐かしいような、胸がときめくような複雑な感情を抱いていた。
「いつから旅行に行きますか? 何日くらいの予定ですか?」
「一週間後に出発予定だ。旅行は四泊五日。移動に半日かかるけれど、座り心地のいい馬車で行くのでそれほど疲れないと思うよ」
「別荘にはピアノはありますか?」
「あるよ。父上が母上のピアノを毎日聞きたがっていたからね」
それならば、わたくしは別荘でもピアノの練習ができそうだ。
刺繍は縫物セットさえ持って行けばどこででもできるし、わたくしは旅行中でも練習も刺繍も欠かさずにいられそうなので安心していた。
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