24.初めての口付け
お茶会の会場に戻ったときには、アレクサンテリ陛下はいつも通りの顔で、泣いたような痕跡は全くなかった。わたくしのドレスの肩が少し湿っていなければ、アレクサンテリ陛下が涙を流したことなどなかったかのようだった。
お茶会が終わって、わたくしはアレクサンテリ陛下にエスコートされて皇帝宮に帰って、部屋で着替えて今日のことを考えていた。
アレクサンテリ陛下が想っていた相手は、夢の中のわたくし、セシルだった。
アレクサンテリ陛下はセシルが十六歳のときに出会った、ガーネくんと名前を付けた男の子だった。
六歳だったアレクサンテリ陛下はセシルのことを想っていて、目の前でセシルが自分を庇って死んでしまったことに深い絶望を受けて、結婚をすることもなく、残りの人生は皇帝としての義務を果たすためだけに生きようとしていた。
そんなときにわたくしが刺繍したセシルと同じ青い蔦模様のハンカチを手に入れて、セシルが生まれ変わっているのではないかと希望を持ったのだ。
正直なところ、わたくしは夢に見ただけなので、自分がセシルだという実感はあまりない。夢の中では自分はセシルなのだが、目覚めると自分のことはレイシー・ディアンだと思っているし、セシルと重なるのは似ている顔立ちくらいだった。
幼いころから夢に見ているので、セシルに影響されて縫物や刺繍を始めたし、レース編みもしていた。だからといって、わたくしがセシルの生まれ変わりだという確証はない。
それでも構わないとアレクサンテリ陛下は仰ったのだ。
わたくしはアレクサンテリ陛下の生きる希望になったのだと。
わたくしの肩に顔を埋めて、アレクサンテリ陛下は泣いていた。
六歳でセシルを失ってからも泣くこともできなかったと聞いているので、初めて涙を流したのかもしれない。
「わたくしは、セシル……ではないですよね」
わたくしはレイシー・ディアン。
セシルではない。
それでもアレクサンテリ陛下は構わないのだろうか。
わたくしはアレクサンテリ陛下に聞いてみたい気がしていた。
その日は一日アレクサンテリ陛下と一緒に過ごした。
お茶会の後はアレクサンテリ陛下はご自分の部屋で執務をされていたようだが、夕食は一緒に食べた。
夕食後に、わたくしはアレクサンテリ陛下に部屋に呼ばれた。
これはもしかすると、もしかするかもしれない。
妃候補としての義務を果たすときが来たのかもしれない。
わたくしは気合を入れて侍女にお風呂で磨き上げてもらって、できるだけ上品で簡素なドレスを着てアレクサンテリ陛下のお部屋に行った。
アレクサンテリ陛下はわたくしを部屋の中に招き入れ、ソファに座らせた。
「レイシーと一緒に過ごしたかった。昼間は驚かせてしまってすまなかった。急にあんなことを言われて困っただろう」
「いえ……ただ、わたくしはレイシー・ディアンであって、セシルではありません」
「それで構わない。セシルの記憶を持っているというだけでレイシーは尊いし、何より、レイシーと共に暮らすようになってわたしは毎日が楽しいのだ。レイシーがセシルでなくても、わたしはレイシーのことを大切に思っている」
肩を抱き寄せられてアレクサンテリ陛下の逞しい胸に抱きしめられる。
こういうとき、女性側としてはどういう反応をすればいいのだろうか。相手は皇帝陛下なのである。全部任せてしまうというのもよろしくないのかもしれない。
「あ、の、アレクサンテリ陛下」
「なにかな、レイシー?」
「どのように、すれば……」
貴族として閨教育をされていないわけではない。でも淑女の場合には、男性側に任せて、男性のいいように協力するというようなことしか教えられていない。
真っ赤になりながら、しどろもどろに問いかけると、アレクサンテリ陛下が片手で顔を覆った。
「レイシー、誤解をさせてしまったかもしれない。レイシーのことはとても魅力的だし、その、そういう関係にもなりたいとは思っている。思っているのだが、今はわたしたちは婚約者だ。結婚をするまではそういうことは考えなくていい」
「そ、そうですか」
ぎゃー!
恥ずかしい!
勝手に勘違いして、アレクサンテリ陛下がわたくしを抱くために呼んだのだと思い込んでしまった。
アレクサンテリ陛下は優しく紳士で穏やかな方だ。婚前交渉などするわけがなかった。
そうなのだ、アレクサンテリ陛下はかわいいガーネくんなのだ。ガーネくんがそんなことするはずがない。
混乱して妙なことを考え始めるわたくしに、アレクサンテリ陛下がグラスを用意して葡萄酒を注いでくれる。葡萄酒を少し飲むと、気分が落ち着いてきた。
「今日は話をしたかっただけだ。レイシー、本音を聞かせてほしい。わたしのことをどう思っている?」
「それは……敬愛しております」
「それだけ?」
尊敬しているし、敬愛しているのだが、それでは足りなかったようだ。眉を下げて問いかけられてわたくしは胸が締め付けられるような感覚に陥った。
かわいい。
ものすごく美麗な顔立ちで、わたくしよりもずっと身長も高く、逞しい体付きなのに、アレクサンテリ陛下がガーネくんだと分かってしまうと、かわいくてたまらなくなってしまう。
この抱き締めたいような気持をわたくしはどうすればいいのだろう。
「アレクサンテリ陛下は、ずるいです」
「わたしはずるいのか?」
「そんなにかわいい顔をして」
「わたしはかわいい?」
「ガーネくんは小さくてぷにぷにしていてとてもかわいかったです。アレクサンテリ陛下は大きくてとても美しくて、逞しいのに、なんでこんなにかわいいのでしょう」
話していると、葡萄酒が美味しくて、わたくしはいつの間にかグラス一杯飲み干していた。
どうやらわたくしは葡萄酒に酔ってしまったようだ。
自分でも何を言っているか分からない。
「レイシーの方がかわいい」
「アレクサンテリ陛下がかわいいのです」
わたくしが力説するとアレクサンテリ陛下が笑っているのが分かる。
「わたしはもう六歳の子どもではないよ」
「わたくしは今日、十九歳になりました」
「そうだったね。レイシーの誕生日だった。おめでとう」
「ありがとうございます」
話しているとどんどん饒舌になってしまう。
「アレクサンテリ陛下は、格好良すぎるのですよ。お顔が美しすぎるし、背は高いし、体は逞しいし。それでいて、時折見せる表情がかわいくて、わたくしはどうすればいいのでしょう」
「レイシーはわたしのことをそのように想ってくれているのだね」
「アレクサンテリ陛下がガーネくんだったことには驚きました。ガーネくんは大きくなっても華奢で小さくてかわいくて、わたくしよりも背が低くて、かわいい女の子を一生懸命ダンスに誘うのだと……」
「わたしがダンスに誘いたいのはレイシーだけだよ」
「そんな甘い言葉まで口にするようになってしまって」
かわいいガーネくんはなんて立派に大きくなったのだろう。
感慨深くなっていると、アレクサンテリ陛下が囁くように問いかけた。
「レイシー、口付けても構わないかな?」
「口付け? どーんとどうぞ!」
もう自分でも何が何だか分からない。
アレクサンテリ陛下に体を預けることまで考えてきたのだ。唇の一つや二つ、変わらないような気がする。
胸を叩いて宣言すると、アレクサンテリ陛下がくすりと笑って、わたくしの頬に手を置いた。
アレクサンテリ陛下が目を閉じると白銀の睫毛が長く頬に影を落とす。
アレクサンテリ陛下の唇がわたくしの唇に重なった。
口付けだ。
そう、口付け……。
「く、くちづけ!?」
触れただけで離れていった唇に、わたくしは正気を取り戻した。
アレクサンテリ陛下と口付けしてしまった。
かぁっと頭に血が上る。頬が燃えるように熱くなっているのが分かる。
「レイシー、部屋まで送っていこう」
「ふぁ、ふぁい!」
アレクサンテリ陛下に手を取られて、わたくしはソファから立ち上がった。酔って足元がおぼつかないわたくしを支えてアレクサンテリ陛下は部屋まで連れて行ってくれた。
寝室に入って、わたくしは熱い頬を押さえる。
わたくしの十九歳の誕生日。
この日は一生忘れられそうになかった。
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