18.婚約式の続き
婚約式の場でソフィアが皇帝陛下に不敬なことを言うはずがない。
わたくしはそうは思っていてもはらはらとしていた。ソフィアの菫色の瞳は怒りに燃えている気がする。
「皇帝陛下、わたしたちの娘を妃殿下として迎え入れてくださってありがとうございます」
「レイシー殿下、どうかお幸せに」
「ディアン子爵夫妻、レイシーのことはわたしが必ず守る。生涯大切にする。どうか、大事な娘をわたしに預けてほしい」
「どうかよろしくお願いいたします」
「レイシー殿下、皇帝陛下にしっかりとお仕えするのですよ」
「はい、お父様、お母様」
身分が違ってしまったので、両親もわたくしのことを「殿下」と呼ばなければいけないようになってしまった。それが仕方がないことだと分かっているのだが、少し寂しい。
わたくしの心を読んだかのようにアレクサンテリ陛下が、小声で両親に告げている。
「公の場ではレイシーは妃だが、私的な場ではディアン子爵家の娘。そのようにして構わない」
「ありがとうございます」
「皇帝陛下の恩情に感謝いたします」
つまり、アレクサンテリ陛下は、公の場ではわたくしを両親でも「殿下」と呼ばなければいけないが、私的な場では以前通りに「レイシー」と呼んで構わないと言ったのだ。
優しい心に感動していると、ソフィアがぎりぎりと奥歯を噛み締めているのが分かる。
「皇帝陛下、レイシー殿下はわたくしの大切な姉です。皇宮の闇に触れることのないように、大切にしてください」
「レイシーが傷付くことがないように努力すると誓おう。レイシーを傷付けるものはこの皇宮に近付けないし、レイシーを認めないものは皇宮に出入り禁止とする」
「レイシー殿下、どうか幸せになってください」
「ソフィアも幸せになってください」
「お姉様……」
菫色の瞳に涙を浮かべて思わずといった様子でわたくしを「お姉様」と呼んでしまったソフィアを誰も責めなかった。
その後も貴族たちの挨拶は続いたが、ラヴァル夫人が高位貴族の特徴を教えていてくれたので、わたくしは問題なく対応することができた。
ラヴァル夫人もわたくしに挨拶をしてくれた。
「レイシー殿下、皇帝陛下、今日のよき日に婚約が結ばれたこと、誠におめでとうございます」
「カトリーヌの夫です。レイシー殿下には妻がお世話になっていると聞いています」
「ラヴァル侯爵、わたくしの方がお世話になっております」
「ラヴァル侯爵、ラヴァル夫人、これからもレイシーを支えてやってほしい」
「わたくしのできることは全て致します」
「皇帝陛下と妃殿下の幸福のために力を尽くしましょう」
ラヴァル侯爵もラヴァル夫人の夫らしくとても雰囲気のいい方だった。
大量の貴族たちの挨拶を受けているだけで昼を過ぎてしまって、朝しっかりと食べていなければわたくしのお腹は鳴っていたかもしれない。婚約式でお腹を鳴らす妃など恥ずかしすぎるので、アレクサンテリ陛下の忠告通りにしておいてよかった。
わたくしたちが解放されたのは、お茶の時間に近いころだった。
そのまま皇帝宮に帰るかと思ったら、皇太后陛下とカイエタン宰相閣下にお茶に誘われた。
皇宮のお茶室に移動して、緊張しつつも席に着く。アレクサンテリ陛下がわたくしをエスコートするので、わたくしが最初に席について、アレクサンテリ陛下が席について、皇太后陛下とカイエタン宰相閣下が遅れて席に着いた。
「今日の婚約式は素晴らしかったですね。レイシー殿下もとても美しくて。そのドレス、レイシー殿下が縫われたのでしょう?」
「はい、わたくしが作らせていただきました。アレクサンテリ陛下が最高級の材料を集めてくださって、わたくしこんなに素晴らしいシルクを縫ったのは初めてです。レースもどれも細かくて美しくて」
縫物のことになると饒舌になってしまうわたくしに、アレクサンテリ陛下が促す。
「もうヴェールは外しても構わないよ、レイシー。お茶が飲めないからね」
「ありがとうございます、アレクサンテリ陛下。あの、この花冠はまだ着けていていいですか?」
「その花冠が気に入ったようだね。着けていて構わないよ。花冠を着ける機会などこれからないかもしれないから、その花冠はコサージュに加工してもらおうか?」
「その加工、わたくしにさせていただけませんか?」
「もちろん構わないよ」
貴族たちに向けていた冷たい表情と一転して、優しく穏やかな笑みを浮かべているアレクサンテリ陛下に、わたくしは安心する。花冠をコサージュに加工する許可も得たし、わたくしはとても満足だった。
「皇帝陛下は本当に妃殿下をご寵愛されているようですね。皇帝陛下がそのような表情を見せるのをわたしは初めて見ました」
「大切なレイシーを怖がらせるわけにはいかないでしょう。叔父上も更迭の宰相などと呼ばれているのに、叔母上には蕩けるような笑顔をみせるくせに」
「わたしは妻を愛していますからね。皇帝陛下も妃殿下を愛しているのでしょう」
「誰よりも大切に思っています」
カイエタン宰相閣下とアレクサンテリ陛下の会話を聞いて気付く。
アレクサンテリ陛下は避けるようにわたくしのことを「愛している」とは言わない。「大事」とか「大切」とかは言うのだが、頑なに「好き」も「愛している」も口にしていない。
やはりわたくしは仮初めの婚約者なのだろう。
分かっていることなのに気分が沈んできそうになって、わたくしは皇太后陛下に話しかけた。
「アレクサンテリ陛下のジャケットもわたくしが作らせていただいたのです」
「話は聞いていましたが、これほど立派なものとは思いませんでした。皇宮の仕立て職人の仕事がなくなりますね」
「そんなにわたくしたくさんは作れません」
「ふふっ、冗談ですよ」
笑みを見せる皇太后陛下に、わたくしはからかわれたのだと分かって、頬が熱くなる。
ヴェールは外しているので、わたくしの顔はしっかりと皇太后陛下にもカイエタン宰相閣下にも見えているはずだった。
カップに注がれた紅茶を一口飲んで、わたくしは喉を潤す。
季節は真夏なので、大広間もかなり暑かったし、朝から水分は控えていたので喉が乾いていた。
お腹も空いているが、ここで出された軽食やお茶菓子をがつがつ食べたらお行儀が悪いことは分かっているのでぐっと我慢する。
「レイシーの好きなキッシュがあるよ。取り分けてあげよう」
「アレクサンテリ陛下、わたくし、自分でできます」
「その美しい白い衣装が汚れてしまっては困るだろう」
お腹を空かせていることを気付かれてはいけないと思っているのに、アレクサンテリ陛下がキッシュを取り分けてくれて、わたくしの前のお皿にキッシュが乗ると我慢ができなかった。
フォークで切り分けていただくととても美味しい。ホウレンソウとベーコンの味がしっかりして、新鮮な卵が使ってある。
「遠慮しないでたくさん食べてください。婚約式のせいで昼食は食べられなかったでしょう?」
「妃殿下が遠慮されるので、わたしもいただきましょう」
皇太后陛下とカイエタン宰相閣下も軽食やお茶菓子を取り分け始めたので、わたくしは安心して食べることができた。
「ずっと結婚することを拒んでいた皇帝陛下が、二十二歳のときに、帝都で売られている刺繍の入ったハンカチを手に入れられて、それの出所を調べて、ディアン子爵家の令嬢に辿り着いたのですよ」
「わたくしの刺繍したハンカチを頼りに、わたくしを探してくださったのですか?」
カイエタン宰相閣下の言葉にわたくしは驚いてしまう。
アレクサンテリ陛下が二十二歳のころといえば、わたくしは帝都の学園に入学した十二歳のころである。そのころにわたくしは初めて自分の刺繍した小物や布を、帝都の店に売りに行った。
青い蔦模様の刺繍。
アレクサンテリ陛下はあの刺繍を幼いころに身に着けていたというようなことを仰っていたので、わたくしの刺繍を見て懐かしい気持ちになったのかもしれない。
「叔父上、その話はやめましょう」
「大事なことではないですか。ディアン子爵家の令嬢と分かってからも、皇帝陛下は顔を合わせることができなくて、妃殿下のデビュタントの日に初めて顔を合わせて、お声を聞いて、この方だとお決めになったようですよ」
「レイシー殿下には婚約者がおられたので、それは落胆されたようですが、無事に婚約者とも別れさせることができたようで」
「母上!」
んん?
今皇太后陛下は何と仰った?
わたくしの婚約者とわたくしをアレクサンテリ陛下が分かれさせた?
何か間違っている気がする。
レナン殿はエミリー嬢と恋に落ちて、わたくしとの婚約を破棄すると宣言したのだ。
皇太后陛下はなにか勘違いをされているのかもしれない。
「皇帝陛下が恐ろしいですわ。母に対して、そのように声を荒げることはないでしょう。レイシー殿下も怯えますよ?」
「レイシー、すまない。怖い思いをさせてしまったかな?」
「いいえ、平気です。アレクサンテリ陛下、このキッシュとても美味しかったです。ありがとうございます」
わたくしがお礼を言えば、アレクサンテリ陛下は安心したように微笑んだ。
やはり皇太后陛下はなにか勘違いされているのだ。アレクサンテリ陛下はわたくしの婚約に関して破棄されるようなことをしたわけがない。レナン殿が勝手にエミリー嬢に心奪われただけなのだ。
「堅苦しい衣装はもう脱いでしまいたいですね。これで失礼いたします、母上、叔父上」
「もっとレイシー殿下とお話ししたいですわ」
「独占欲が強すぎるのはどうかと思いますよ、皇帝陛下」
「レイシーは疲れているのです。それでは、失礼します」
わたくしの手を引いて立たせて、アレクサンテリ陛下がお茶室を出る。
長い廊下を歩いて、皇宮から出て、わたくしは皇帝宮に戻った。皇宮の外では国民たちがお祭り騒ぎになっているようだった。
「結婚式のときには、レイシーに国民に対して手を振ってもらうかもしれない」
「わたくし、妃として立派に務めます」
「わたしの妃は頼もしいな」
アレクサンテリ陛下が微笑むと、透けるように白い目元が朱鷺色に染まる。
それが美しくて、わたくしは見惚れてしまった。
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