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そのご寵愛、理由が分かりません  作者: 秋月真鳥
アレクサンテリ視点
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61.レイシーの出産

 レイシーの妊娠期間は順調だった。

 春の始めに、レイシーは医者に相談していた。


「最近、足のむくみや、股関節の違和感に悩んでいるのですが、これは正常なのでしょうか?」


 医者は冷静に答える。


「妊娠中は大きくなった子宮が下半身を圧迫するので、どうしても足はむくんできますね。他にも顔のむくみや足の左右に違う感覚があったり、痛みや発熱を伴う場合にはいつでも呼んでください」

「分かりました」

「股関節の違和感は、出産準備のために骨盤周りの関節が緩んでくるので仕方がないですね」

「そうなのですね」

「何か異常があるというわけではないのだな?」

「皇后陛下は順調にお子も育っています。安心されてください」


 レイシーは健康でお腹の赤ん坊も順調に育っているということで一安心したが、わたしのレイシーに関する不安はまだ晴れていなかった。

 夜にはよく悪夢を見て目を覚ましたが、そのときにレイシーが目を覚ましていると、せっかく起きたのだからとレイシーの足をさする。足をさするとむくみが解消されるようで、レイシーはよく眠れるようだった。


「レイシー、わたしを置いて行かないでほしい」


 眠ってしまったレイシーに呟くと、わたしはレイシーを抱き締めて眠る。レイシーは万が一のことがあったら赤ん坊を選んでほしいと言ったが、わたしはまだその覚悟ができているとは言えなかった。


 万が一のことがなければないに越したことはないのだが、心配は胸に降り積もって、いつまでも溶けない雪のように体の芯を冷たくした。


 朝食を終えると、わたしは毎日レイシーと子ども部屋に行った。


「執務に行く前に赤ちゃんに絵本を読んであげたい」

「はい、子ども部屋に行きます」


 赤ん坊が気に入っている二冊は必ず読むのだが、それ以外の絵本も読み聞かせる。赤ちゃん用の簡単な絵本ばかりではなくて、長めの絵本も読むのだが、それは興味がないのか赤ん坊はレイシーのお腹でぽこぽこと活発に動いていた。


「絵本は絵がありますから、見えないと面白くないのかもしれません」

「やはり、音が面白いものを選んだ方がいいのか」


 絵本選びに真剣になるわたしに、レイシーは微笑んで赤ん坊と一緒に絵本を聞いていてくれた。

 赤ん坊のための乳母も選んだ。

 子爵家の夫人で、身分的にも皇帝と皇后の赤ん坊に相応しいし、レイシーを身分で馬鹿にすることがないような人格者を探させた。

 シルヤという乳母は、三十代後半で、子どもがいるが全員学園に通っていて手も離れているということなので、彼女に決めた。

 シルヤは母親の先輩としてもレイシーの相談相手になってくれていたようだった。


 お茶の時間に帰ってくると、レイシーから問いかけられた。


「わたくしが出産するときには、アレク様はどうされますか?」

「できればそばについておきたい」

「その……わたくしが苦しむ姿を見せたくないのです」


 レイシーが赤ん坊を産むときには、役に立たないかもしれないが、そばにいるのが父親としての義務だと思っていた。それをレイシーに否定されるとは思っていなかった。

 レイシーの手を握り締めて伝える。


「苦しむからこそ、それを見ておきたいのだ。レイシーがどれだけ苦しんで産んでくれた子どもなのかを知っていれば、わたしは子どもを一生愛することができる」


 なにより、とわたしは続けた。


「お産は命懸けと聞く。レイシーにもしものことがあったときに、わたしがそばにいないのはつらい」


 自分よりも赤ん坊の命を優先するように。

 レイシーの心はもう決まっている。

 そうだとすれば、万が一のことがあったときには、わたしはレイシーと別れなければいけなくなる。その最期の瞬間までわたしはレイシーのそばを離れたくなかった。

 その気持ちが通じたのか、レイシーが頷いてくれる。


「わたくしがどれだけ苦しんで、みっともない姿を見せても、嫌いにならないでくださいね」

「嫌いになるはずがない。レイシーほど愛しい相手はいない」

「そんなことはないと思いたいのですが、わたくしが死ぬようなことがあったら、赤ちゃんはアレク様が育ててくださいますね」

「約束する。子どものことはわたしが命を懸けて守り、育てる」


 これはレイシーとわたしの約束だった。

 レイシーになにがあろうとも、赤ん坊は成人まで立派に育てる。それがわたしにできるレイシーへの愛の証明だった。


 妊娠後期に入ってもレイシーは変わらずわたしの生誕祭の衣装を縫ってくれていたし、出産予定日が近くなってもとても元気だった。

 それでもわたしは心配せずにはいられない。

 出産というものが簡単なものではないというのはよく分かっていた。


「レイシーの体に異常はないのか?」

「とても順調で、いつ生まれてもおかしくはありません」

「レイシーは大丈夫なのか?」

「皇后陛下も安定されています」


 日に何度も医者に確認してしまうのも仕方がないだろう。


 生誕祭が近付いてきたころに、レイシーが産気付いたと知らせがあった。

 わたしは全身の血液が足元に落ちていくような感覚を味わった。

 ついにこのときが来てしまった。

 レイシーは無事なのだろうか。


「すまない、執務を抜けさせてもらう」


 ユリウスとシリルとテオに告げて、足早に皇帝宮に戻ると、レイシーはベッドに運ばれているところだった。

 ものすごく痛そうで見ていられないが、わたしにできることは何だろうと考える。

 レイシーが苦しまないように、何かできることがあるはずだ。


「喉は乾いていないか? 腰をさすろうか?」

「お願いします」


 吸い飲みで水を飲ませて、腰をさすっていると、多少は楽なのだろう、レイシーが息をつく。

 それからの時間がひたすらに長かった。


「あれく、さまっ……」

「レイシー! 手を握っている。レイシー、そばにいるよ」

「くっ……」


 苦しんでいるレイシーの手を握っていることくらいしかできない。

 レイシーはきつくわたしの手を握って、痣になるくらいだったが、それくらいレイシーも苦しいのだろう。


「これは正常なのか? レイシーは大丈夫なのか?」


 わたしは何度も医者に聞いた。


「皇后陛下は初産ですから、時間がかかるのです。順調にお子は降りてきていますし、子宮口も開いています」


 医者は冷静に返すが、わたしはとても冷静でいられなかった。

 こんなにもレイシーが苦しむなど尋常ではないことのように思えてしまう。


 夢の中の医者の声が聞こえる。


「皇帝陛下、ご決断を!」


 選ぶことなどできないとどれだけ泣いても、夢の中は残酷だった。

 もしかすると現実でもそんなことが起きるかもしれない。

 恐怖に震えるわたしに、レイシーが額に汗をかきながらわたしの名前を呼ぶ。


「アレク様! アレク様!」

「レイシー!」


 額の汗を拭いてやり、手を握ると、強い力で握り返される。

 レイシーは生きている。レイシーは大丈夫だ。

 心の中で唱えても、夢で見た光景が過ってしまう。


 永遠のような時間が過ぎて、夜明け前に赤ん坊が生まれた。

 産声が聞こえて、レイシーが長く息を吐き、涙を流している。


「レイシー、無事か?」

「はい、アレク様」


 弱弱しいがレイシーの声が聞こえて、わたしは心から安堵していた。

 産湯をつかわせてもらった赤ん坊は産着を着せられてレイシーの胸に乗せられる。

 医者が、わたしに告げる。


「おめでとうございます、皇帝陛下。母子ともに健康です。元気な女の子ですよ」

「レイシーも赤ん坊も健康なのか?」

「はい、問題なく」


 夢の中で告げられた冷酷な声とは全く違う温かな声で言われて、わたしは涙が滲んでくるのを感じていた。

 レイシーも赤ん坊も無事だった。

 レイシーは胸の上に乗せられた赤ん坊に乳をあげていた。


「レイシー、セシリアだよ」

「女の子だったのですね……なんてかわいい」


 黒髪がぽやぽやと生えているセシリアは、わたしと同じ真紅の瞳をしていた。間違いなく帝家の子どもである。


「なんて美しい赤ちゃん……」

「レイシー、頑張ってくれて本当にありがとう。ゆっくり休んでほしい」

「アレク様、セシリアを連れていかないでください。ベビーベッドをこの部屋においてください」


 レイシーを休ませるためにセシリアを子ども部屋に連れていってシルヤに任せようとしたが、レイシーはセシリアと離れるのが不安な様子だった。

 レイシーの願いに添うように、シルヤの方を寝室に連れて来て、ベビーベッドにセシリアを寝かせた。


「レイシーが眠っている間はシルヤがセシリアの面倒を見てくれるから、ゆっくり休んで」

「はい、アレク様」


 返事をするとレイシーはもう限界だったのか、そのまま眠ってしまった。

 わたしは医者に鋭く問いかける。


「出血が多かったとか、レイシーの体に異変があったとか、そういうことはないのだな?」

「ありません。初産にしてはとても安産でした」

「信じていいのだな?」

「皇帝陛下、ご安心ください。皇后陛下は無事です」


 その言葉を聞いて、わたしは両手で顔を覆う。

 涙が零れて止まらなかった。

 レイシーが無事で、赤ん坊も無事だった。

 そのことが奇跡のように嬉しい。


 しかし、レイシーはそれから一昼夜目を覚まさなかった。

 わたしは心配になってレイシーの様子を何度も見に行った。


「眠っているだけです。お疲れなのだと思います」

「本当にレイシーは無事なのか?」

「何も問題はありません」


 どれだけ医者が言っても、二度とレイシーが目を覚まさないのではないかという恐怖がわたしの胸の中にあった。

 レイシーを失う恐怖に怯えるわたしに、レイシーが目を覚ましたという報せが入ったのは、一昼夜経った朝のことだった。

 レイシーの安静のために自分の部屋で眠ろうとしたが、心配すぎて眠ることができなかったわたしは、知らせを聞いてすぐに夫婦の寝室に向かった。

 わたしが行けばレイシーはベッドで朝食の準備をしていた。侍女にわたしの分の朝食を持ってきてくれるように頼むと、レイシーがぽつりと呟いた。


「お肉が食べたい……」


 妊娠期間中、レイシーはずっと肉を食べていなかった。ベーコンやソーセージといった加工肉と、臭みのない白身魚だけ食べていた。

 レイシーが食べたいというものをすぐに用意させたい。

 わたしの食事のお盆を見れば、ローストビーフが乗っていたので、わたしはすぐにレイシーのお盆と取り換えた。

 レイシーは受け取ると、遠慮なくパンとサラダとローストビーフと魚のソテーをもりもりと食べていた。


 あぁ、レイシーは生きている。

 レイシーは大丈夫だ。


 食べる姿に妙に安心してしまって、わたしの顔に笑顔が戻る。


「食欲が戻ったんだね」

「なんだかすごくお腹が減りました」

「いっぱい食べるといいよ。体力を戻さないと」


 わたしのために用意されたかなり多い量の食事を、レイシーは全部完食した。

 その後で、レイシーはセシリアにお乳をあげていた。


 レイシーはもう大丈夫だ。

 それを実感してわたしは心から安堵したのだった。


 セシリアが生まれて三日後がわたしの生誕祭だったが、これだけは絶対にレイシーには休んでいてもらった。レイシーも出産後すぐなので、休むことを拒まなかった。


 レイシーは順調に回復していて、日中は子ども部屋で過ごして、夜はシルヤにセシリアを預けて眠るようになっていた。


「夜もセシリアと一緒に過ごしてはいけませんか?」

「レイシーがゆっくり休めないだろう。レイシーの体の回復を一番に考えてほしい」


 レイシーは夜もセシリアと過ごすことを望んでいたが、それもわたしが頼んで夜はゆっくりと休んでくれるようにしてもらった。

 生誕祭はわたし一人での出席だったが、わたしに初めての子どもが生まれたことは国中に知れ渡っていたので、祝いが殺到した。祝いの品は基本的に寄付することに決めていた。


 わたしは育児にも積極的に関わるようにしていた。

 セシリアのことは本当にかわいいと思っていたし、こんなに愛おしい存在ができるとは思っていなかった。


 レイシーと話し合ったときには、レイシーと赤ん坊を選ぶ場面が来たら赤ん坊を優先すると約束していたので、生まれてきた赤ん坊に複雑な思いを抱かないか心配だったが、セシリアはあまりにも愛おしく、尊かった。

 生きているだけでこんなにも心動かされる存在がいるのだと実感することができた。


 セシリアにお腹の中にいたころに読んでいた絵本を聞かせると、楽しそうに手足を動かしている気がする。


「セシリアはやっぱりあの二冊の絵本が好きなようだね」

「お腹の中にいたころに読んでもらっていたのを覚えているのですよ」


 セシリアが喜ぶので、わたしは何度もセシリアに絵本を読み聞かせた。


 セシリアが生まれてからレイシーに大きな変化があったようだった。

 それを聞かされたとき、わたしは驚いた。


「セシリアを産んでから、わたくしはセシルの夢を見なくなったのです」

「セシルのことは覚えている?」

「覚えていますが、夢の中ではセシルのことを自分だと思っていたのが、そういう感覚がなくなって、知り合いのような気持になっています」


 セシルの夢を見なくなったレイシー。

 このことには意味があるように感じていた。

 レイシーがセシルの夢を見ていたのは、セシルには果たせなかったことがたくさんあったからなのかもしれない。それがレイシーが少しずつ国を変えて、それにわたしが協力して、セシルの両親も工場の寮の食堂で働き出して、セシルの果たされなかったことが少しずつ果たされてきた。

 その集大成がセシリアの誕生だったのではないだろうか。


 結婚はしたくないとセシルは言っていたが、同時に「ガーネ」と似た子どもなら欲しいとも言っていた。

 レイシーが「ガーネ」であるわたしとよく似た赤ん坊を産んだことでセシルの願いが叶ったのかもしれない。


「セシルは満足したのかもしれないね」

「満足?」

「自分が生きたかった社会に、この国が変わっていって、『ガーネくん』には子どもが生まれた。セシルはそれを望んでいたのではないかな」


 そのことを口にすれば、レイシーも納得した様子だった。


「アレク様、セシルはわたくしとアレク様が幸せなのを見届けたのでしょうか」

「そうだったらいいと思うよ」

「わたくしの中にいるセシルは、このまま消えてしまうのでしょうか」


 レイシーの中にいたセシルがわたしとレイシーの幸せを見届けて、満足して消えていくのならば、それはそれで仕方がないことではないのだろうか。

 これからレイシーはセシルの記憶にとらわれず生きることを、セシルが望んだ結果なのかもしれない。


「アレク様と出会えたのだって、セシルの記憶があったからです」

「わたしは、これでよかったんじゃないかと思うんだ」

「アレク様?」

「セシルはわたしとレイシーの間を繋いでくれた。刺繍という形で、糸を結ぶようにわたしとレイシーの運命を結んでくれた。それがなかったら、わたしは一生誰も愛することはなかっただろうし、生きながらに死んでいるようなものだった」


 セシルが繋いでくれた縁を、わたしはしっかりと受け取ることができた。

 わたしが生きながら死んでいるような状態だったのは、セシルの望むところではなかったのだろう。セシルはもう一度わたしにひとを愛することを思い出させて、わたしが幸せになることを願ってくれていたのかもしれない。


「セシルは満足して天に召されたのでしょうか」

「そうかもしれないし、レイシーの魂と溶け合ったのかもしれない」


 レイシーの考えも、わたしの考えも、どちらが合っているかなど分からない。

 それでも、レイシーとわたしがセシルの残した記憶によって結ばれたことは間違いない。


「セシルのことを遠い知り合いのように思うようになっても、セシルが残した刺繍の図案も、技術も、わたくしの中にあります」

「そうだね、レイシー。レイシーにはずっと刺繍を続けてほしい」

「セシリアがもう少し大きくなったら、セシルのいた村に行きましょう。セシルの両親にセシリアを見せて、セシルのお墓にも報告しに行きましょう」

「わたしもそれを考えていた。そのころには、あの村の工場も立派に稼働しているだろう。その視察も兼ねて行きたいね」


 レイシーの体を抱き締めて口付けを落とすと、レイシーが頬を染めてわたしを見上げる。

 ベビーベッドでは青い蔦模様の刺繍の入った産着を着たセシリアが眠っている。

これで、「そのご寵愛、理由が分かりません」は完結です。

最後までお付き合いくださってありがとうございました。

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