58.レイシーの懐妊
一か月後のレイシーの誕生日のお茶会で、レイシーに異変が起きた。
朝食も昼食もあまり食べていないとは思っていたのだが、レイシーの好きなスイートポテトやモンブラン、カボチャのプリンやキッシュがあるというのに、レイシーは何も口にしなかった。
お茶だけ飲んで、それだけでも気分が悪そうにしていた。
レイシーの変化に気付いたわたしは、レイシーに問いかけた。
「レイシー、体調が悪いのかな?」
「いえ、そんなことはないです。元気ですが、今はお腹がいっぱいで食べられないだけです。お昼を食べすぎたのかもしれません」
「お昼もレイシーはそんなに食べていないよ」
「そうでしたか?」
レイシーには自覚がないようだが、これは一大事だ。
お茶会を切り上げることはできなかったので、終わるまでじりじりと焦れながら待って、わたしは貴族たちの挨拶も早々に切り上げさせてレイシーを皇帝宮に連れて帰った。
寝室にレイシーを運んで、パジャマに着替えさせてベッドに横にさせる。
「すぐに医者を呼ぶ。レイシー、体を休めていてくれ」
「大袈裟です、アレク様。ちょっと食欲がなかっただけです」
「わたしが心配なのだ。レイシーがわたしより先に死んでしまったら、わたしは今度こそ生きていけない」
レイシーが病気かもしれない。
食欲がないと言っているが、それが病気の始まりかもしれないのだ。
レイシーを失えばわたしはもう生きてはいられない。
恐怖に震えながら医者を待っていると、レイシーがベッドから身を起こそうとする。
「安静にしていてくれ」
「平気です」
「お願いだから、大人しくしていてくれ」
無様に膝をついてお願いしようとすると、レイシーは大人しくベッドに横になってくれた。
医者が来てレイシーを診察するが、悪いところは見つけられないようだ。
「悪いところがあるようには思えませんが」
「本当か? 見落としがあってレイシーに何かあればわたしは生きていけない」
「皇帝陛下、落ち着いてください。一つ、皇后陛下にお聞きしてよろしいですか?」
「診察に必要なことならば許そう」
「それでは失礼します」
静かに告げる医者に、わたしは許可を与えると、医者がレイシーに向き直った。
「皇后陛下、失礼ながら最後の月のものはいつでしたか?」
月のもの。
その単語にわたしは全身の血液が足元に落ちていくような感覚を覚えていた。
もしかして。
もしかすると。
「そろそろ二か月になるかもしれません。月のものが遅れていると思っていました」
「それでは、恐らく、ご懐妊でしょうね」
「ご、ご懐妊!?」
やはりそうだったのか。
恐れていた事態が起きてしまった。
レイシーは子どもを望んでいるから嬉しいのかもしれないが、わたしはレイシーが妊娠や出産で苦しむことは望んでいない。生死の境を彷徨えば自分でもどうなるか分からない。
「おめでとうございます、皇帝陛下、皇后陛下。皇后陛下はこれから、体を大切にしてください」
「間違いないのか?」
「二か月くらいだったら、月のものが遅れているだけの可能性もありますが、皇帝陛下と皇后陛下は仲睦まじい夫婦とお見受けします。ご懐妊されていても不思議はないかと思います」
「それでは、わたしはなにをすればいい?」
「皇后陛下のお体に負担をかけることがないようにしてください。夜の営みは避けてくださるとよいかと思います」
「他にできることは?」
「これから悪阻が出てくると思います。皇后陛下が食べられるものを食べられるときに食べる環境を作って差し上げてください」
呆然としながらも、レイシーを守るための方法を聞けば、医者は答えてくれる。
「おめでとうございます」と医者から言われて、わたしはこれが初めておめでたいことなのだと自覚した。
レイシーの体のことばかり考えていたが、子どもができることが嬉しくないわけがない。
それと同時に、わたしには複雑な気持ちがあるだけだ。
レイシーを安心させるために、微笑んでレイシーを抱き締める。
「レイシー、こんな嬉しいことはない。レイシーが無事に出産できるように、体制を整えていくつもりだ」
「アレクサンテリ陛下、わたくしに赤ちゃんを授けてくださってありがとうございます」
「礼を言うのはわたしの方だ。わたしの赤ん坊をお腹に宿してくれてありがとう」
医者が寝室を出ていった後で、わたしはレイシーに伝えていた。
「決して無理はしないこと。何かあれば医者をすぐに呼ぶこと。わたしが執務中であってもレイシーが心細いことがあれば呼んでいい」
「はい、ありがとうございます、アレク様」
嬉しそうにしているレイシーに、わたしは自分の不安は打ち明けられなかった。
レイシーを守らなくてはいけない。
レイシーには靴は踵の一番低いものだけを履くようにお願いして、歩くときもこけないように気を付けることや、食べられるものを食べられるときに食べることなどを徹底させたが、それでも不安は尽きなかった。
悪阻が出てきたレイシーは、フルーツとヨーグルトくらいしか食べられなくなっていたが、わたしはそれに合わせて同じものを食べるようにした。
「アレク様が倒れてしまいます。アレク様は普段通りのものを食べてください」
「同じ部屋で食事をしているのだから、わたしが普段通りのものを食べていたら、レイシーはその匂いで気分が悪くなってしまうだろう? 心配しなくていいよ。皇宮に行ってからもう少し食べるから」
「ですが……」
「レイシーは何も心配しないで。自分の食べられるものを食べて」
わたしの食べるものの匂いでレイシーが気分が悪くなってしまってはどうしようもない。
レイシーのためだけではなくて、お腹の子どものためにも、わたしはレイシーといるときにはレイシーと同じものを食べて、それ以外の場所でしっかりと栄養補給をするようにした。
レイシーの妊娠を公表すると、国中がお祭り騒ぎになった。
皇太后である母と宰相である叔父は、祝いに皇帝宮を訪ねて来てくれた。
「皇帝陛下の家族になってくれただけでなくて、皇帝陛下に新しい家族を授けてくれてありがとうございます」
「まだ生まれていません。気が早いです、皇太后陛下」
「皇帝陛下はずっと孤独のままに生きられるかと思っていました。皇帝陛下のお子はわたしにとっても孫のようなもの。皇后陛下、お体を大事にされてください」
「ありがとうございます、カイエタン宰相閣下」
泣いている二人を気にしつつ、レイシーと話が終わったところで、わたしは母と二人きりになって聞いてみた。
「母上はわたしを産むときに命を落としかけたのでしょう? 妊娠、出産が怖くはないのですか? わたしはレイシーを失うかもしれないと思って怖いのです」
こんな風に母に話しかけたことがあっただろうか。
これまで母のことは心のどこかで警戒していた。
それを上回る不安が、わたしに母に相談させていた。
「皇帝陛下、わたくしは命を落としても皇帝陛下を産むつもりでした」
「母上……」
「皇帝陛下の心配は分かります。ですが、皇后陛下はわたくしとは違います。女性は子どもを産むための機能を持って生まれます。女性は子どもを産める性別なのです。産めない性別の皇帝陛下が負担を全部皇后陛下にかけてしまうことに関して心配したり、恐怖を覚えたりするのは当然です」
「この恐怖は当然のものなのですか?」
「そうです。皇帝陛下、皇后陛下を信じて差し上げてください。皇后陛下にご自分の不安を話すのです。皇后陛下はわたくしとは違います」
母に言われると恐怖が少しだけ薄れていくような気がする。
母と子として触れ合った期間は短かったけれど、母は確かにわたしの母だった。
母と叔父が帰った日の夜、わたしはレイシーに向き合っていた。
妊娠してから眠くなることが多いレイシーも頑張って起きていてくれた。
「母に伝えたのだが、わたしはレイシーが妊娠していることが怖いのだ」
「アレク様?」
正直にレイシーに言うと、レイシーがわたしの顔を不思議そうに見つめる。
わたしは言わなければいけないと勇気を出した。
「母はわたしを産むときに生死の境をさまよった。レイシーがそうならないか怖くてたまらない」
わたしの声は震えて、表情は恐怖に塗りつぶされて、無様だっただろう。
そんなわたしをレイシーは優しく抱きしめてくれた。
「わたくしは絶対に大丈夫とは言えません。何が起きるか分からないのが人生です」
「レイシー……」
「アレク様を守って死んでいったセシルが後悔していなかったように、わたくしも後悔のない人生を送りたい。アレク様のお子を諦めれば、わたくしは絶対に後悔します」
「レイシーが危険になるかもしれない」
「アレク様、わたくしを信じてください。わたくしは、アレク様を残して死んだりしない。できる限り生きる道を探します」
わたしを抱きしめるレイシーの腕が暖かい。
わたしはレイシーに抱きしめられて涙を流していた。
まだ不安が完全に晴れたわけではない。それでも、レイシーに正直な気持ちを口にできたことで、一歩前に進んだ気分だった。
皇后の懐妊の報せを聞いて、国中の貴族や属国の王族や要人から祝いの品が届いたが、それらは全部寄付することにした。遠回しな受け取り拒否だが、こうすれば文句が出ないのをわたしは分かっている。
子どもの服はレイシーが作っているし、おもちゃもレイシーとわたしで選びたかったし、貴金属類は特に必要とは思わない。
レイシーが一つだけ欲しがったのは、ディアン伯爵家から送られてきた赤ん坊用のファーストシューズだった。歩くようになった赤ん坊が初めて履く靴を柔らかな革で作ってあるのだ。
「靴は作ることができませんし、わたくしの両親からですもの」
「レイシーのご両親からのものは大事にしておこうね」
「まだ生まれてきていないのに、歩くときのことまで考えるだなんて、両親も気が早いですが」
笑いながらレイシーが自分のまだ膨らみのないお腹を撫でているのに、わたしはそっと問いかける。
「レイシー、触れてもいい?」
「まだ動いたりしないし、お腹も膨れていませんよ?」
「それでも、触れたい」
お願いすると、レイシーは自分のお腹にわたしの手を導いてくれた。まだ動く気配もなかったが、わたしは赤ん坊に言い聞かせる。
「母上をあまり困らせるんじゃないよ」
「聞こえていませんよ」
「健康に生まれてくるんだよ。父上も母上も、待っているからね」
そして、どうかレイシーも無事でありますように。
レイシーと子どもが安全に生まれてくることだけをわたしは祈っていた。
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