26.レイシーは皇后に
翌日、執務をしていると、来訪者が告げられた。
ラヴァル夫人だ。
今の時間ラヴァル夫人はレイシーの妃教育をしているはずだから、それを抜けてわたしに会いに来たということはよほどの用事があったに違いない。
わたしはユリウスとシリルとテオに視線を向けた。
「少し抜ける。その間のことは頼む」
「皇帝陛下は休みなく働きすぎです。少しは休憩なさってください」
「ゆっくりとお茶をしてくればよいのではないですか?」
「大事なお話なのでしょう?」
ユリウスとシリルとテオは、わたしが執務をすることでしか生きていけなかったことを知っている。そのときからの癖で、ずっと休みなく働いてしまうが、それをよしとは思っていないようだ。
分かっているが、わたしは自分の執務を放り出すことはできない。常々執務を振り分けるようには言われているのだが、全部把握しておかないと気持ちが悪いし、わたしにとって自分の価値とはそれしかないような気すらしていた。
ラヴァル夫人が通された応接室に向かうと、侍従がお茶を入れていてくれた。
皇帝宮はレイシーのために女性の使用人しか置いていないが、わたしは誘惑されるのが嫌だったので、皇宮本殿のわたしの周囲には男性の使用人しか置いていなかった。
お茶を一口飲んでから、ラヴァル夫人は大きなため息をついた。
「皇帝陛下はわたくしに仰いました。レイシー殿下を常に最重要として、皇帝陛下よりも大事にするようにと。ですので、不敬と言われようともわたくしは皇帝陛下に手紙を送らせていただいていました」
「今日は直接来たということは、それだけの理由があるということだね」
「その通りです」
ラヴァル夫人の表情はどこまでも真剣だった。
レイシーのことならばわたしも真剣に向かい合わなければいけない。
「レイシー殿下が仰っていました」
そこからラヴァル夫人の話す内容を聞いて、わたしは深く反省することになる。
レイシーはラヴァル夫人に問いかけたのだという。
「ラヴァル夫人、わたくしは側妃になるのでしょうか? 妾妃になるのでしょうか?」
「レイシー殿下、何を仰っているのですか?」
「わたくし、アレクサンテリ陛下のために尽くしたいのです。そのためにも、わたくしの正式な身分を聞いておきたいと思いまして」
当然、わたしはレイシーが皇后になるのだと思ってその下積みをしていたが、レイシーにそのことを話したわけではない。
皇后になるということはレイシーにとって荷が重いところもあるだろうし、まだ下準備が整っていないのにレイシーに聞かせるわけにはいかないと思っていたのだ。
それに関して、ラヴァル夫人が鋭く言ってきた。
「レイシー殿下は『好き』も『愛している』も伝えられなかったことで不安になっていました。それが、次は『自分は側妃か妾妃か』と聞いているのですよ。皇帝陛下は何をお考えなのですか」
「レイシーにはいずれ伝えるつもりだったが、まだレイシーが皇后となることに関して、周囲の納得を得られていない。ディアン子爵家を陞爵させて、レイシーの基盤が確立するまでは、告げないでいようと思っていた」
正直に話をすれば、ラヴァル夫人が沈痛な面持ちで額に手をやった。
その表情は苦み走っている。
皇帝に対しても遠慮なくものを言っていいと許したのはわたしだ。ラヴァル夫人の気持ちを聞きたかった。
「何も隠すことはない。なんでも言ってくれ」
「それでは恐れながら申し上げます。皇帝陛下は、順序を間違っています!」
はっきりと言われてわたしは驚きつつも、ラヴァル夫人の話の続きを聞く。
「レイシー殿下に皇后陛下になってほしいのでしたら、まず、レイシー殿下にそのことを伝えるべきでしょう。側妃や妾妃と結婚する際に婚約式など挙げないことも、レイシー殿下は御存じではない様子でした。周囲には薄々勘付かせて、ディアン子爵家を陞爵させて認めさせるおつもりなのは分かりました。ですが、レイシー殿下のお気持ちという一番大事なところを皇帝陛下はお忘れになっております」
その言葉は深くわたしの胸に突き刺さった。
レイシーに見せないようにどれだけ陰で画策していても、レイシーの気持ちをわたしは確かめたことがない。
皇后になってくれるのか、確認したことがない。
愛し合っているからいいと思うのは傲慢なことだった。
皇后になることに関しても、レイシーとはっきりと話し合うべきだったのだ。
「ラヴァル夫人の言うことは理解した。レイシーとは話し合いの場を作りたいと思う」
「そうなさってくださいませ。レイシー殿下をこれ以上不安にさせることがないようにしてください」
やはりラヴァル夫人はレイシーの教育係に適任だった。
レイシーが心を許して何でも話せる相手として味方になってくれているし、わたしにもこんなにもはっきりとレイシーの気持ちを伝えてくれる。直接はっきりと言われなければ、わたしは大事なことに気付けなかった。
「ラヴァル夫人、レイシーの気持ちを伝えてくれたこと、感謝する。これからもわたしに対する配慮などいらないから、ラヴァル夫人はレイシーの一番の味方でいてほしい。お願いする」
わたしが頭を下げて頼めば、ラヴァル夫人は「心得ております」と胸に手を当てて答えてくれたのだった。
執務室に戻ったわたしはユリウスとシリルとテオに伝えた。
「どうしても必要な用事ができた。わたしはこの後抜ける」
「後のことはお任せください」
「いつもわたしたちに仕事を振り分けてくださって構わないのですよ」
「皇帝陛下は働きすぎです」
わたしが執務をほとんどをこなしていることが、属国の不安を煽っていることは知っていた。
属国はわたしが独裁政治を行おうとしていると警戒しているのだ。
そうではなくて、ただ自分で把握していないのは不安だから、振り分けられないだけなのだが、誰もがそれを理解してくれるわけではない。
いずれは振り分けなければいけないと分かってはいても、わたしにはまだそこまで踏み込む勇気がなかった。
皇帝宮に帰ると、玄関ホールでレイシーが迎えてくれた。
わたしはレイシーに向き合う。
「おかえりなさいませ、アレクサンテリ陛下」
「ただいま、レイシー。茶室で待っていてくれ。すぐに着替えてくる」
「はい、お待ちしております」
一刻も早くレイシーに伝えたいことがあった。
急いで着替えを終えて、わたしはずっと鍵をかけていた箪笥の引き出しを開けた。そこには箱に入れられたセシルが作ってくれた服が入っている。
血の染みは取れなくて、わたしは七歳までそれを手放すことができなかったが、それ以後はセシルへの罪悪感で触れることができなくなっていた。
大事に箱を取り出すと、わたしはお茶室に向かった。
お茶室ではレイシーを促してソファに座らせて、その横にわたしも座った。
レイシーに持っていた箱を示す。
「レイシー、話より先に、これを見てほしい」
箱を開けたレイシーが息を飲んだのが分かった。茶色の染みがついているそれは、セシルが作ったわたしの六歳のときの服である。指先で刺繍を辿ると、セシルの思い出が頭を巡る。
息苦しくて、つらくて、触れることさえ許されないと罪悪感に苛まれていた気持ちが、今では軽くなっているのに気付く。
セシルの死を、わたしは受け入れていた。
「これは、ガーネくんの服ですね」
「そうだ。わたしが生きていくために必死に縋っていた大事な思い出だ。セシルが作ってくれた服。この一枚しか持って来られなかったが、この染みはセシルの血なのだ」
刺繍に触れるときには指が震えてしまうが、それでもレイシーに伝えたいことがあった。
「セシルは切られながらも、わたしの体を抱き締めて必死に庇ってくれた。その体から血が流れて命が零れ落ちていくのをわたしはこの手で感じ取っていた」
セシルの体が傾き倒れていくのをわたしは支えきれなかった。セシルの命が失われていくのを、止められなかった。
「わたしはセシルと離れたくなかったが、引き離されて、セシルの遺体は埋葬されてしまった」
「死んでいたのだから仕方がありません。わたくし、夢の中で何度も殺される瞬間を見ました。セシルは、ガーネくんを守れてよかったと思っていました」
「わたしのせいでセシルは死んでしまった。わたしはもう、何も失いたくないのだ」
血を吐くように告げれば、レイシーはセシルの代弁をするように優しく受け止めてくれる。
レイシーだけは失いたくない。
この気持ちは確かだった。
「だから、レイシー、あなたには皇后になってほしいと思っている」
「はい?」
一番大事な話を口にした瞬間、レイシーの紫色の目が真ん丸に見開かれた。
驚いているレイシーに、一応、初めて求婚したときに伝えたつもりだったが、やはり通じていなかったのかと実感する。
「わたくしが、皇后!?」
「そうだ、レイシー。わたしの隣に立つのは生涯レイシーだけ。たった一人の妃なのだ。皇后になるに決まっている」
「いやいやいや、無理です! わたくしにそんな皇后なんて無理です!」
驚き、否定してくるレイシーにわたしは納得してもらうつもりだった。
「わたくし、子爵家の娘ですよ?」
「それは関係ない。それに、ディアン子爵家といえば、数代前の皇帝のときに国の資金難を救ってくれた恩のある家だ。誰にも文句は言わせない」
レイシーは子爵家の娘だということを気にしているようだが、それも問題なくなるだろう。ディアン子爵家は陞爵に向けて下積みを続けている。
「わたくし、ずっと貧乏で、貴族というより庶民のような暮らしをしていたのですよ?」
「それも問題ない。そのようなレイシーが皇后になる方が、国民の支持は得やすいだろう」
国民が求めているのは経済観念のない身分だけ高いお飾りの皇后ではないと分かっているし、レイシーは庶民の暮らしを知っているからこそ、価値があると思っている。
「わたくし、縫物もするし、家庭菜園で野菜も育てますよ?」
「それは構わない。レイシーの好きなことをして、幸せそうにそばにいてくれるのがわたしの何よりの喜びだ」
一つ一つレイシーの不安を払拭していくと、レイシーは愕然としていたが、わたしはその方を抱き寄せて優しく囁く。
「ラヴァル夫人の話では、レイシーは妃教育も問題なく進んでいると聞いている。結婚式には立派な皇后になれるだろう」
皇后になってもらわなくては困る。
最終的にはわたしはレイシーに頼み込むしかなかった。
「わたくしが、皇后……」
「レイシーがなりたくないと言っても、これだけはなってもらわなくては困る。レイシーの地位をしっかりと確立させることが、皇宮に置いてレイシーの身の安全を守ることにもなる」
「わたくしが……」
「わたしが愛せるのはレイシーただ一人だ。お願いだ、レイシー。わたしと結婚して皇后になってほしい」
どうかわたしの皇后になると言ってほしい。
わたしの気持ちを受け取ってほしい。
レイシーが皇后にならなければ、わたしは皇后を迎えるように周囲から圧力をかけられる。レイシーしか愛していないし、レイシーもわたしを愛してくれているのならば、他の相手を迎えるのはあまりにも不実で、わたしにはできることではない。
懇願すればレイシーは少しずつ自分のことを考え始めたようだ。
「わたくしで、いいのでしょうか?」
「レイシーしかいない。レイシーが必要なのだ」
レイシーの問いかけに、力強く答えると、レイシーは覚悟を決めたようだった。
「自信はないですが、頑張ります」
「レイシー、ありがとう。愛している」
深くレイシーを抱き締めて、唇に触れるだけの口付けをすれば、レイシーは目を伏せて頬を染めている。
レイシーが誰にも後ろ指差されずに皇后になれるように、わたしは画策していかなければいけない。
これまで以上にわたしは努力していくつもりだった。
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