10.レイシーの皇帝宮到着
ディアン子爵家からの返事には、わたしとの婚約を受けるという旨と、準備する期間を与えてほしいという旨が書かれていた。
レイシーを一刻も早く皇宮に迎えたかったが、レイシーも心の準備が必要だろう。レイシーが必要なものは皇宮で何でも揃えるつもりだったが、レイシーが使い慣れた道具や着慣れた服も必要だろう。
二十二年、耐えた。
レイシーの存在を知ってから、六年も待った。
これが数日増えたところで変わりはない。
そう思っているのに、そわそわとして落ち着かないわたしに、執務室で控えているユリウスとシリルとテオも落ち着かない様子だった。
幼いころに遊び相手として連れて来られたユリウスとシリルとテオは、わたしの幼馴染で、わたしに唯一声をかけられる相手ではあるのだが、執務はほとんどがわたしが担っているので、執務室でやることはほとんどない。
ユリウスは何度も自分たちにできることは振り分けてほしいと言っていたが、わたしはそれができなかった。
皇帝でいるためには執務をしていないといけない気がしていたし、全てのことを把握していないと気持ちが落ち着かなかった。
忙しくしていれば死なずに済む。
そう思って続けていた執務も、少しずつ変えていかなければいけないのかもしれないが、その機会をわたしは逃していた。
約束の日が近付いて、わたしはとうとう我慢ができなくなった。
「レイシーを迎えに行く」
「皇帝陛下が直々にですか!?」
「馬車を用意させろ」
執務室の机から立ち上がったわたしに、ユリウスが驚きの声を上げている。
皇帝として視察に出る以外は、わたしの世界は皇宮で完全に閉じていた。外に出たいとも思わなかった。
それがレイシーのためならば、ディアン子爵領まで迎えに行こうと思える。
早くレイシーに会いたい。
わたしの気持ちを感じ取ってくれたユリウスたちは、わたしのために馬車を用意させた。
皇帝のための巨大な馬車で、六頭の馬に引かせるそれは、中にテーブルと椅子が固定してあり、寝椅子も入っていた。
乗り心地もよく、ほとんど揺れることがないように設計されている。
レイシーを迎えに行くとディアン子爵家のものたちは驚いていた。
それもそうだろう、皇帝が直々に迎えに来たのだ。
馬車から降りたわたしに、レイシーの妹のソフィアが怒りを抑えたような声で言った。
「恐れながら申し上げます」
「発言を許そう。レイシーの妹として特別に」
「ありがとうございます。皇帝陛下が姉を特別扱いしていることがこれで国中に広まりました。姉の安全に関してどうお考えなのでしょう?」
「これはパフォーマンスの一環であるのだ。皇帝であるわたしがレイシーをどれだけ寵愛しているかを見せつければ、貴族たちも皇族もレイシーに重きを置くだろう」
わたしがレイシーを直々に迎えに行ったという噂が広まれば、レイシーを狙うものも出てくるだろうが、それ以上にずっと結婚を拒んでいたわたしの心を射止めた令嬢がいるということで歓迎されることになる。反対するものや、レイシーが子爵家の令嬢だからと軽んじるもの、レイシーを利用しようとする者は、レイシーに近付けなければいいのだ。
ソフィアの態度は不敬どころか、わたしに安心感を与えた。
レイシーが寵愛されることで、ディアン子爵家にもすり寄ってくる貴族や富裕層が増えるかもしれない。ソフィアの態度を見ていると、そういう相手を近寄せない気概があった。
「注目を集めることこそが姉の危険に繋がると言っているつもりなのですが。皇帝陛下の寵愛をただ一人受け止めるものなど、狙われて当然ではないですか」
「それはわたしがさせない。わたしの命を懸けてでも大切なレイシーを守ろう」
「具体的には?」
「わたしはレイシー以外と結婚することはないと国中に知らせる。レイシーがいなくなれば、わたしの命もない」
「それが思うつぼだと分からないのですか? 皇帝陛下のお力を削ごうとする輩が、姉をますます狙うではないですか!」
ソフィアのレイシーを心配する声が心地いい。
全く嫌ではないのが不思議だ。
レイシーが家族に愛されて、育ってきたという事実こそが、わたしにとっては何よりも尊かった。
わたしは不快になっていないのに、レイシーは青ざめた顔でソフィアを制し、わたしに頭を下げてくる。
「皇帝陛下、お迎えに来てくださりありがとうございます。微力ながら、皇帝陛下のお役に立てるよう努力してまいります」
怯えさせるつもりはなかったのだが、レイシーは妹のことを心配しているようだ。
「妹の非礼をお許しください」
「ソフィアの言葉はレイシーを思うがこそ出たものだろう。姉を思う妹の気持ちをわたしは尊く感じる。皇帝という身分を恐れずに発言したソフィアに恥じぬように、わたしはレイシーを守ろう」
ソフィアのことは全て許すとしたうえで、レイシーに手を差し出すと、レイシーがおずおずとわたしの手に手を重ねてくる。
セシルと手を繋いでいたときには、セシルの手を大きく感じたものだが、わたしの手に重なったレイシーの手は華奢で細かった。指の皮が所々厚くなっていて、縫物をしている働いている手だということが分かる。
セシルに取ってお針子になるのが夢だったように、レイシーも縫物をすることを大事に思っているのだろうか。
それならばレイシーからその喜びを奪いたくないとわたしは思っていた。
レイシーの荷物は驚くほど少なかった。小さなトランクケース一つで、それを護衛に来ていたテオが受け取り、馬車に積みこんだ。
「レイシー、荷物はそれだけか?」
「はい。皇宮に持って行けるものはほとんどありませんので」
レイシーに確認すると、荷物はそれだけだと答える。
それでは、レイシーを本格的に皇宮に連れ帰ることにする。
「これからレイシーに合ったものを誂えていけば問題ないだろう。ディアン子爵、子爵夫人、レイシーのことは今後わたしに任せてほしい。必ず幸せにする」
「どうかよろしくお願いいたします」
「レイシーのこと、気にかけてやってくださいませ」
レイシーに伝えつつも、ディアン子爵夫妻に告げると、ディアン子爵夫妻は頭を下げてレイシーを送り出していた。
馬車に乗り込むと、わたしはレイシーと楽しく話をしながらも、考えていた。
レイシーはわたしが皇宮で守るとしても、ディアン子爵家が狙われてはどうしようもない。ディアン子爵やソフィアを人質に取られて、レイシーに害をなすようなものは絶対に排除しなければいけない。
わたしは密やかにディアン子爵家の家族を守るものを派遣しようと決めていた。彼らは影として密やかにディアン子爵夫妻とソフィアを守ってくれるだろう。
ディアン子爵家の家族が害されたら、レイシーも悲しむに違いない。
わたしはレイシーと会話をしながら密やかにメモを取って、テオに指示していた。
皇宮に着くと、わたしはわたしの住居である皇帝宮にレイシーを案内した。
皇帝宮にはレイシーの部屋を用意させている。
「この宮殿は、わたしの住居となっていて、皇帝宮と呼ばれている。レイシーにも宮殿を与えたいとも思ったのだが、別の宮殿に住むとなるとわたしが訪ねるのが難しくなってしまう。それで、皇帝宮の中にレイシーの部屋を用意させた」
わたしの私的なスペースなので広くはないが、レイシーとわたしが暮らすには十分だろう。
レイシーのために用意させた部屋は、皇帝が皇后を呼ぶときに使う部屋で、皇后宮をレイシーに使わせる気はなかったので、宮殿一つ与えるのに比べれば手狭かもしれないが、我慢してもらうしかない。
「家具や内装はレイシーの好みに変えてもらって構わない。この部屋と、奥の部屋、その隣りの部屋がレイシーの部屋だ。少し狭いがバスルームもついている」
「部屋にバスルームが!?」
驚いているレイシーに微笑みながら、廊下の先にある部屋も案内する。
「わたしの部屋はこちらだ。何かあればいつでも訪ねて来てくれて構わない」
できればレイシーと同じ部屋に暮らしたかったのだが、それはわたしの理性がもたないので、諦めた。レイシーの嫌がることは絶対にしたくなかったし、結婚して、レイシーがわたしを愛して求めてくれるまでは、レイシーには絶対に手を出さないと決めていた。
セシルは結婚は女の墓場だと言っていた。
そのような思いをレイシーにさせたくない。
レイシーにはわたしと婚約したとしても好きなことをしていてほしかった。
時間が来たのでテオがわたしに告げる。
「皇帝陛下、そろそろお時間です」
「分かった。お前はレイシーに近付くな。レイシーに近付いていいのは教師たちと侍女とラヴァル夫人だけにせよ」
「心得ました」
侍女長に伝えると、侍女長は深く頭を下げて答えた。
離れがたかったが、わたしはレイシーの手を取って伝えた。
「レイシー、すまない。ずっとそばにいたいが、そういうわけにもいかない。レイシーのことはわたしの母の侍女も務めたことのある侯爵夫人のカトリーヌ・ラヴァルに一任している。分からないことがあれば彼女を頼ればいい。要望がある場合も彼女に伝えてくれればすぐにわたしに届くようにする」
カトリーヌ・ラヴァル夫人は、母の侍女も務めたことのある女性で、わたしに対しても遠慮なくものを言える相手である。レイシーの教育係を頼むときに、わたしはラヴァル夫人に伝えていた。
「これより皇帝宮に来るディアン子爵家令嬢のレイシーは、わたしのとって誰よりも大事な方なので、わたし自身よりも大事にしてほしい。レイシーが悩むようなことがあれば、わたしよりもその悩みを重要と考えてほしい。レイシーが口にしたどんな些細なこと、どんな細かいことでも、わたしに伝えてほしい。それが執務中であっても構わない」
それに対してラヴァル夫人は「心得ました。お引き受けします」と答えていた。
レイシーに取って皇帝宮での完璧な味方でいてくれる存在。皇帝よりもレイシーのことを重要視してくれる存在を作りたかったのだ。
ラヴァル夫人に後のことを任せて、わたしは執務に戻った。
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