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98 説得

 雪成に肩を抱きかかえられながら、ゆっくりと立ち上がる。

 箱の中で折りたたまれていた足はジンジンと痺れていて、まっすぐ立っていることもままならない。

 この痺れがなくなるまでは、走って逃げることは難しいだろう。


 手の甲で涙をぬぐい、紅葉ちゃんをまっすぐ見据える。

 紅葉ちゃんも私に手を差しだしたまま、ゆっくりと立ち上がった。



「かすみんは、特別な存在なんだよ。こんなところにいたら、もったいないよ」


「……私は普通の人間だよ」


「そんなことない。そのきれいなもやが、立派な証拠」



 揺るぎのない瞳に、思わずたじろぐ。

 一歩後ずさると、硬い何かに触れた。

 スーツケースだ。

 どうしてこんなところに、と思って気づいた。

 さっきまで自分が閉じ込められていた箱はこれだったのだと。


 ダイヤ柄のスーツケースには、ところどころにガラスのような石がちりばめられている。

 そして私から滲み出ているもやが、その石に吸い込まれていく。

 前に病院でパニックになったとき、大量のもやを放出する私に恭太さんが渡してくれたあの石に似ている。

 だからもやが外に漏れなかったのだろうと、用意周到さに眉を寄せた。



「せっかく隠してたのに、どうして気づかれちゃったんだろ」



 紅葉ちゃんが悔しそうに言った。

 ここは、人気のない裏門。

 生徒の大多数が交通の便のいい正門を利用するから、裏門を使う人はほとんどいない。

 人知れず誰かを連れ去るのに、なんとも都合がいい。


 紅葉ちゃんの問いかけに、父は答えなかった。

 でも私にはわかった。

 GPSだ。

 さっき箱の中で身をよじっていたときに触れた硬い何か。

 それは父から必ず持ち歩くようにと言い聞かせられていたGPS付きのキーホルダーだと思い出したから。


 きっと父と雪成は、正門で私が来るのを待っていた。

 教室からプリントを取ってくるだけなら、大した時間はかからないと思ったはずだ。

 しかしプリントは見つからず、職員室へ向かう途中で私は連れ去られた。

 なかなか正門へ来ない私を心配して、父が位置情報を確認したのだろう。

 そして教室にいるはずの私が、裏門へ向かっていることに気付き、助けに来てくれたのだ。



「ね、かすみん」



 紅葉ちゃんの大きくて丸い目が、私に向けられる。



「かすみんは、どうしたらいっしょに来てくれるの?あそこはね、別に怖い場所じゃないよ?かすみんを変な目で見る意地悪な人もいないし、面倒くさい勉強も、仕事も、何もしなくていいの。ごはんだけじゃなくっておやつも用意されるし、本だっていくらでも読むことができる。かすみんはただ、そこにいてくれるだけでいいの」


「……いや、だよ」


「そっかぁ。……あ、もしかして寂しいとか?じゃあ、山倉くんも持ってっていいよ。ふたりとも仲良しだし、それなら寂しくないでしょ?もちろん、私もちょこちょこ顔出すよ?たくさんお話して、これからもっと仲よくなろ?」


「……そういう話じゃないよ……」


「えぇー?じゃあ、どういう話?……あ、もしかして足りない?あの美人さんとか、マスターもつけようか?もちろん、お父さんやお母さん、妹ちゃんもいっしょでいいよ」



 まったく話が通じない。

 ただでさえ冷え切っている背筋が、どんどん冷たくなっていく。


 紅葉ちゃんは、本当に不思議そうな顔をしていた。

 まるで、私があの場所にいくのが正しいことだと、心の底から信じているように。

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