95 逆光
「あれ?かすみん?」
正面から声をかけられて、顔を上げる。
その先には、紅葉ちゃんが立っていた。
「どしたの?もう帰ったんだと思ってた」
「あ、忘れ物しちゃって」
「忘れ物?」
軽やかな足取りで近づいてくる紅葉ちゃんの表情は、逆光のせいかよく見えない。
「宿題のプリント。机の中に入れたはずなんだけど、見つからなくって。今から職員室行くところ」
「あぁ、明日提出だって言ってたもんね」
「うん。どこに行っちゃったんだろ」
苦笑いしながらそう言うと、紅葉ちゃんが笑った気配がした。
相変わらず、表情が見えない。
そこで、ふいに違和感に気付いた。
いくら逆光とはいえ、これだけ近づいて表情が見えないというのは、なんだかおかしい。
それにこれは、逆光で見えないというよりも、なんだか霞が掛かっているようだ。
「……紅葉ちゃん?」
口元からこぼれた声には、震えが混じっていた。
紅葉ちゃんは黙ったまま、私に近づいてくる。
思わず後ずさったが、それ以上に距離が詰まる。
「私、知ってるよ」
紅葉ちゃんが目前まで迫ったところで、彼女が言った。
後ろ手に回されていた手が差し出され、そこにプリントが握られていることに気付いた。
プリントの記名欄には「霧山かすみ」と見慣れた文字が書かれている。
こんなに近くにいるのに、紅葉ちゃんの顔は相変わらずよく見えない。
ひゅっと喉の奥が鳴る。
動けずにいる私の腕を、紅葉ちゃんはそっと握った。
冷たい指先に、本能的な恐怖を覚える。
「つーかまーえた」
紅葉ちゃんがそう言うと、すがすがしいほどに目の前の霧が晴れた。
私を見上げる紅葉ちゃんは、いつものあどけない笑みではなく、息を呑むほど冷たい顔をしていた。
とっさに腕を振り払って逃げようと試みたが、ぐっと力の込められた手はほどけない。
握られているのは腕だけなのに、どうしてだか全身を締め付けられているような圧迫感だ。
「も、もみじ……ちゃ……」
すがるような声で言ったが、紅葉ちゃんは目を細めるだけだった。
そのとき、頭に衝撃が走った。
カッと体温が上がるような感覚のあとで、じんわりと痛みが広がっていく。
ああ、殴られたんだ。
そう気づいたときには、私の身体は崩れ落ちていた。
床に打ち付けられ、小さな呻き声がこぼれた。
頭が揺れて、満足に思考ができない。
ぐらぐらと意識が揺れて、今にも手放してしまいそうだった。
朦朧としつつも、なんとか現状を把握しようと視線をうろうろと動かす。
それでも、倒れこんで低くなった視界にうつるのは、複数人の足だけだった。
「さ、帰ろうね」
そう言って、紅葉ちゃんが私の頬を撫でる。
紅葉ちゃんのものとは違う腕に身体を抱えられるのを感じながら、私は意識を手放した。
その刹那、誰かの笑い声が聞こえたような気がした。




