94 忘れ物
今日の迎えは、父の予定だ。
珍しく仕事を早上がりできるそうで、帰りに寄り道でもしていこうかと言った父は、どこか嬉しそうだった。
正直父親との外出なんて恥ずかしく思う年頃だが、私の心も浮足立っている。
仕方がないこととはいえ、家と学校だけを往復する日々に飽き始めていたのも事実だ。
「あ、やば」
上靴からローファーに履き替えようかというタイミングで、ふと思い出す。
明日提出する宿題のプリントを机に入れっぱなしだった。
私はすでに靴を履き替えていた雪成に「ちょっと待ってて」と言い残し、踵を返して早歩きで教室まで戻る。
教室内にはまだ少なくない数の生徒が残っていた。
私は手早くプリントを探しだそうと机に手を突っ込んだが、なかなかお目当てのものはみつからない。
「……霧山さん?どうしたの?」
おずおずと問いかけられ、私は顔を上げた。
前の席の藤堂さんが、怯えと緊張の混じった表情で私を見ている。
「ちょっと、プリントが見つからなくって」
居心地の悪さを感じながら答えると「そっか」と返事が返ってきた。
その後は、気まずい空気が漂う中、続く無言。
藤堂さんはもの言いたげな視線を向けていたが、口に出す気はないのか、出せないのか、何も言わないまま。
私は気にしないことにして、机の中身を出して、プリント探しに集中する。
すべての荷物を出しても、プリントは出てこなかった。
もしかしたら、気づかぬうちに鞄に入れていたのだろうか?
そう言って鞄の中も確認したが、やはりないものはない。
今日配られたプリントだから、家にある可能性もゼロだ。
気づかないうちに落としてしまったのかと、ため息をつく。
職員室へ行って、先生に新しいプリントをもらおう。
そう決めたところで、まだ藤堂さんの視線が自分に向けられていることに気付いた。
ちょっとしつこいな、と思いながらも、何も言わないのをいいことに気付かぬふりをする。
「あっ、あの……」
そのまま行ってしまおうと思っていたのに、予想外に声をかけられて肩が跳ねた。
「え……っと、何ですか?」
「あ……えっと、その……き、気を付けて?」
「あ、ありがとう……」
気まずそうにそれだけ言った藤堂さんを、疑問に思う。
それでも面倒ごとはごめんだし、雪成や父を待たせているし、追求せずに教室をあとにした。
背中にはまだ、もの言いたげな視線が突き刺さっている気がする。
私は頭を振って、職員室へと足を速めた。
訓練の甲斐あって、完全に消すことはできずとも、もやの量は格段に減った。
そのおかげか、すれ違う人にぎょっとされる機会も少なくなってきた。
普段よりも向けられる視線が少ない廊下を足早に進みながら、私は恭太さんのことを思い出していた。
恭太さんとも悠哉さんとも、あの日病院で話をしてから会っていない。
先日マスターに見せてもらった雑誌にうつる仏頂面の恭太さんを思い出し、少しだけ笑みがこぼれる。
落ち着いたら、また訓練に付き合ってもらえるのかな。
いつになったら落ち着くかなんて、見当もつかないけど。
前に会ったときは警戒心の方が強かったのに、今ではそんなことを思っている。
それだけ、恭太さんの存在が自分の中で大きくなっていたことに気付いて驚いた。
あのきれいな顔が柔らかく微笑むところがみたい。
頑張ったと褒めてもらいたい。
子どもみたいなことを考えている自分に苦笑する。
訓練なら、父といくらでもできるのに。
そう思いつつも、薄暗い喫茶店の奥の席で行われた訓練の時間が恋しい。
そこまで考えて、私は自分が心底恭太さんに懐いていたことに気付いた。
それは、初めて存在を知った自分と同じ性質を持つ相手だったからだろうか、どうしようもない憧れのせいだろうか。
階段の踊り場に、薄い夕日が満ちている。
穏やかな茜色に染まるそこを歩くころには、私の足はすっかりペースを落としていた。




