92 悩み事
違和感を飲み込んだまま、数日。
紅葉ちゃんの様子は変わらない。
川上くんも、あれ以来何も言わない。
むくむくと膨らんだ警戒心が緩んできたころ、紅葉ちゃんが途方に暮れたような顔をしているのが目に付いた。
「どうしたの?」
下がり切った眉に、思わず声をかける。
紅葉ちゃんはちょっとだけ泣きそうな顔で「ううん」と首を振った。
明らかに何もないという様子ではない。
踏み込んでほしくないのかもしれないと思いつつ、もう一度だけ、と食い下がる。
「悩み事でもあるの?」
紅葉ちゃんは少し目を見開いたあと、視線を左右へ動かす。
話そうか話すまいか、悩んでいるような仕草だ。
紅葉ちゃんは口元をきゅっと結んだあと、じわりと瞳を潤ませる。
「ご、ごめん!話したくないなら無理には……」
「ううん……。かすみん、心配してくれたんでしょ?ありがと……」
紅葉ちゃんの声はか細く、震えている。
私に向かって手を伸ばした紅葉ちゃんは、私の制服の袖をくいっと引いた。
「話、聞いてほしいけど……あんまり人に知られたい話じゃなくて……」
「あ……」
紅葉ちゃんの言わんとすることを理解する。
あと少ししたら、いつも通り雪成が教室へ来るだろう。
私は少し思案したあと、袖をつまんでいた紅葉ちゃんの手を取って立ち上がる。
そのまま手を引き、雪成の教室とは逆方向へ足を進めた。
すぐ戻ってくるから、ごめん。
心の中で、そう雪成に謝りながら。
人気のない空き教室の前まで来て、私は足を止めた。
周囲を見渡し、誰もいないことを確認してから「ここならどうかな?」と紅葉ちゃんを振り返る。
「ありがと。でも、よかったの?」
「あとで謝るから、大丈夫」
「……ごめんね」
しゅんとする紅葉ちゃんは、まるで叱られた子どもみたいだ。
何か声をかけたいのに、なんて言ったらいいのかわからずに黙り込む。
そんな私を知ってか知らずか、紅葉ちゃんはポツリポツリと語り始めた。
「あのね……今、ちょっとママとパパが喧嘩してて」
「……そうなんだ」
「ママが怒って、パパのこと追い出しちゃったの」
「そう……え?!追い出すって……」
「鍵取り上げて、締め出しちゃったの。このままパパが戻ってこなかったら、どうしよう……」
紅葉ちゃんの大きな瞳から、はらはらと涙が零れ落ちる。
私は慌ててポケットからハンドタオルを取り出して、紅葉ちゃんの目元にあてた。
「最近、ママも帰りが遅くって、一人でいる時間が長くて、いろいろ考えちゃって、不安で……」
「紅葉ちゃん……」
「ごめんね、こんな話」
「ううん」
違和感があったのは、こうして一人で抱え込んできたからだったのか。
すとんと腑に落ちたあと、襲ってきたのは罪悪感だった。
紅葉ちゃんがこんなに悩んでいたのに、何も気づけなかったこと。
それどころか、変に勘ぐって紅葉ちゃんを警戒してしまったこと。
「今日もお母さん、遅いの?」
「うん……多分。部活もないし……でも、ひとりぼっちの家に帰りたくない……」
ふるふると震えながら言う紅葉ちゃんに、胸が締め付けられた。
今すぐにでも、放課後はいっしょに過ごそうと言いたくなる。
でもそれを堪えられたのは、あの日の雪成の顔を思い出したから。
大切な人を巻き込みたくない。
もう誰かを巻き込んで、傷つけたくない。
ぐっと唇を噛んで、紅葉ちゃんの細い肩を抱きしめる。
「大変なときなのに、いっしょにいられなくてごめんね……」
絞り出すように言うと、紅葉ちゃんは小さく首を横に振った。




